第三十三普請 先生も、知らないことがある
田植えも無事に終わり、少しずつ変わり始めた村。
今度は子どもたちが、それぞれ「やりたいこと」を見つけ始めます。
長吉は田んぼ。
健太は道具。
おたえは銭。
源太は海。
そして小春は――人と人。
ならば白瀬先生、出番です!
……のはずだったのですが。
先生だって、知らないことはあります(笑)
第三十三普請、どうぞお楽しみください。
田植えの宴から、一夜が明けた。
白瀬湊一は、長吉の家の納屋で目を覚ますなり、天井を見上げて深いため息をついた。
「……江戸時代って、独身男に厳しすぎない?」
昨夜のことを思い出す。
村人からの縁談攻撃だけなら、まだ慣れてきた。
問題は領主の奥方である。
侍女はどうか。
家中の娘はどうか。
しまいには、ならば我が娘でも――などと言い出す始末。
どう考えても、白瀬の反応を見て楽しんでいた。
「何が『選り取り見取りではないか』だよ……」
「白瀬どん」
「ん?」
枕元に、ガタ吉がちょこんと座っていた。
「澪しゃんがおるけん、嫁はいらんばい」
「お前、朝っぱらから何を――」
「ほう」
納屋の入口から声がした。
白瀬の動きが止まる。
澪が立っていた。
「わたしがおれば、嫁はいらぬのか?」
「聞いてた!?」
「さて。何のことやら」
澪は涼しい顔で納屋へ入ってくると、白瀬の前に小さな膳を置いた。
握り飯と、昨夜の残り物を温め直した汁。
「……これ、澪が?」
「余ったゆえ持ってきただけじゃ」
「へえ」
「何じゃ、その顔は」
「いや、別に」
ガタ吉が膳を覗き込んだ。
「おいの分は?」
「ない」
「なんでね!?」
白瀬が吹き出す。
「ふっ……」
「笑うでない」
「いや、ごめんごめん」
「まったく……」
澪はそっぽを向いた。
けれど、汁からはまだ湯気が立っている。
どう見ても、今しがた温めたものだった。
◇
田へ出ると、朝日に照らされた水面がきらきらと輝いていた。
植えたばかりの苗が、初夏の風に小さく揺れている。
「よし……」
白瀬は畦にしゃがみ、水面を眺めた。
ここから先も気は抜けない。
植えれば終わりではない。
水を見て、苗を見て、天気を見る。
だが――。
「長吉!」
少し離れた田から、男の声がした。
「こっちん田ば見てくれんね!」
「今行くばい!」
長吉が畦を駆けていく。
白瀬は思わず、その背中を目で追った。
男が長吉へ尋ねる。
「昨日から水ば増やしとらんばってん、どがんね?」
長吉はすぐには答えなかった。
しゃがんで水を見る。
苗に触れる。
土へ指を入れる。
それから言った。
「昨日より苗ん立っとる。今は水ば入れすぎん方がよかと思う」
「そうか」
「昼からもう一回、見に来るけん」
「頼むばい」
白瀬は何も言わなかった。
少し前まで、
――子どもの遊びじゃなか。
そう言われていた少年である。
その長吉へ、今は大人の方から意見を求めている。
「……もう俺が全部言わなくてもいいんだな」
隣にいた澪が答えた。
「それが、教えるということであろう」
「教える、か」
「そなたは何でも一人で背負おうとしすぎる」
「そうかな」
「そうじゃ」
即答だった。
「そなた一人が賢くなって、何になる」
「え?」
「皆が知ればよい。皆が考えればよい。そうすれば――」
澪は田を見渡した。
「そなたがおらぬ時でも、この村は生きてゆける」
白瀬は黙った。
その言葉が、妙に胸へ残った。
「……そうだな」
「うむ」
◇
ところが。
納屋へ戻った白瀬は、目を丸くした。
「何だ、これ……」
人がいる。
子どもがいる。
村のおばちゃんまでいる。
しかも全員、白瀬を待っていたらしい。
「白瀬しゃん!」
真っ先に健太が飛んできた。
手には、柄の傷んだ鍬。
「こい、もっと使いやすうできんね?」
「え?」
今度は、おたえ。
木札を何枚も抱えている。
「白瀬しゃん、魚ば売った銭ん計算が合わんと!」
「ちょっと待て」
源太が魚籠を突き出す。
「白瀬しゃん! 魚ばもっと長う持たせられんね? 昨日ん魚、もう傷みよる!」
「だから待てって!」
「白瀬しゃん!」
小春まで来た。
「今度は何!?」
「井戸んことで、おばちゃんたちが喧嘩しよる!」
「喧嘩!?」
「うちが先に汲む、いや、うちが先じゃって」
「それ俺の仕事!?」
全員が一斉にしゃべり始める。
鍬。
銭。
魚。
井戸。
「待て待て待て!」
白瀬は両手を上げた。
「……役所か、ここは!」
しん、と静まった。
ガタ吉だけが首を傾げる。
「役所ってなんね?」
「何でも相談されるところだよ!」
ガタ吉は納屋を見回した。
「なら、ここが役所たい」
「違う!」
どっと笑いが起こった。
白瀬も苦笑した。
だが――。
ふと気づく。
今まで自分は、水ばかり見ていた。
水を治める。
田を作る。
米を増やす。
もちろん大事だ。
だが、人の暮らしはそれだけではない。
農具がいる。
魚を獲る。
食べ物を保存する。
道を直す。
井戸を使う。
物を売る。
銭を数える。
そして時には、人と人が喧嘩する。
「……そっか」
「白瀬しゃん?」
小春が見上げた。
白瀬は納屋の外を見る。
その向こうには田がある。
さらに向こうには村がある。
「田んぼだけ作っても、国にはならないんだ」
ぽつりと漏らした。
後ろから声がした。
「ようやく気づいたか」
澪だった。
「……水守先生は厳しいな」
「誰が先生じゃ」
◇
「じゃあ、聞いてみるか」
白瀬は子どもたちを納屋へ集めた。
「お前たちは、何をやりたい?」
「やりたい?」
「俺が決めるんじゃない。自分でだ」
最初に答えたのは長吉だった。
「おいは田んぼばする」
迷いがない。
白瀬は笑った。
「だと思った」
次は健太。
「おいは道具ば作りたか!」
鍬を持ち上げる。
「白瀬しゃんが描く変な絵ば、本物にしてみたか!」
「変な絵は余計だ」
おたえは木札を抱きしめた。
「うちは銭んことば知りたか」
「銭?」
「どいば売ったら、どいだけ残るか。どいば買うたら損するか。知りたか」
「なるほど」
源太は胸を張る。
「おいは海たい!」
「即答だな」
「魚んことなら負けんばい!」
そして小春。
「うちは……」
少し考えた。
「みんなが喧嘩せんごと、話ばしたか」
白瀬は目を瞬いた。
「話?」
「どっちかが我慢するだけじゃ、また喧嘩するけん。みんなが納得する話ばしたか」
「……そっか」
まだ小春は知らない。
それが将来、村と村をつなぎ、人と人をつなぐ力になることを。
白瀬は炭を取った。
納屋の板壁へ大きく書く。
――田。
――道具。
――銭。
――海。
――人。
「何ね、これ?」
「お前たちが選んだものだよ」
五人が壁を見上げる。
「俺一人じゃ、百万石なんて絶対に無理だ」
すると長吉が笑った。
「なら、みんなですればよかたい」
「……簡単に言うなあ」
「白瀬しゃんが百万石って言い出したとばい」
「それを言われると弱い」
また笑いが起こる。
その時、健太が思い出したように言った。
「そういえば白瀬しゃん」
「ん?」
「前に『先生』って、知っとることば人に教える人って言うたよな?」
「ああ」
「なら、おいたちにも教えてくれんね?」
「何を?」
五人が顔を見合わせた。
「全部!」
「無茶言うな!」
◇
とはいえ。
白瀬も考えた。
農業も、道具も、商いも。
何を学ぶにしても、まず必要になるものがある。
「じゃあ……まず読み書きからだな」
「字?」
「そう。読めなきゃ記録も残せないし、計算を書き留めることもできない」
白瀬は以前、城から持ち帰った文書を取り出した。
「たとえば、こういう――」
開く。
「…………」
白瀬の口が止まった。
「白瀬しゃん?」
「…………」
長吉が覗き込む。
「どがんしたと?」
「いや」
読める字はある。
漢字だって知っている。
だが、四百年前の文書となれば話は違った。
崩された文字。
見慣れない字体。
言い回し。
書式。
知っている文字のはずなのに、文章になると途端に手強い。
「……読めそうで、読めない」
「え?」
「だから……全部は読めない」
「えええええっ!?」
納屋がひっくり返った。
「白瀬しゃん、先生じゃなかったと!?」
「先生でも知らないことはある!」
ガタ吉が感心したように頷く。
「白瀬どんにも知らんことのあるとね」
「そりゃあるよ!」
澪が口元を押さえている。
「先生が字を読めぬとは、面白いの」
「だから字は読める! こいつらが変身しすぎなんだよ!」
子どもたちの笑い声が納屋いっぱいに響いた。
◇
夕方。
皆が帰ったあとも、白瀬は文書とにらめっこしていた。
「……情けないな」
「何がじゃ」
「うわっ」
いつの間にか澪が入口に立っている。
「大学院まで出てさ。仕事でも図面や資料ばっかり読んでた。それなのに――」
白瀬は文書を指でつついた。
「ここじゃ、子どもたちに字一つまともに教えられない」
「ならば、習えばよい」
「簡単に言うなあ」
「簡単なことじゃ」
澪は白瀬の前から文書を取り上げた。
「知らぬことを恥じる暇があるなら、知る者に頭を下げよ」
「……」
「そなたは、そうしてここまで来たのであろう?」
白瀬は顔を上げた。
水の流れは澪に聞いた。
海の底はガタ吉たちに教わった。
潮の癖は漁師に聞いた。
田のことは農民たちと一緒に考えた。
未来の知識だけで、ここまで来たわけではない。
「……そうだったな」
「うむ」
「じゃあ、誰に習うかな」
「決まっておろう」
澪は即答した。
「丸山殿じゃ」
◇
家老、丸山石見守。
諫早家中の政務を預かる、堅実で慎重な男である。
華々しく前へ出る男ではない。
文書に目を通し、村々から上がる訴えを確かめ、銭や米の動きにも目を配り、領主・直孝の判断を支える。
新しいことには慎重だ。
白瀬の突拍子もない策にも、何度となく眉をひそめた。
だが、理があると認めれば支える。
白瀬が百年先を見て走ろうとする男なら、丸山は今日の諫早を間違いなく明日へ渡す男だった。
「確かに、石見守殿なら……」
「明朝は城におる」
「え?」
「朝のうちは用も少なかろう」
「……何で知ってるの?」
「聞いておいた」
「いつ?」
「たまたまじゃ」
澪はぷいっと横を向いた。
白瀬はじっと見る。
「澪」
「何じゃ」
「もしかして俺が困ると思って――」
「たまたまじゃと言うておる!」
「はいはい」
「二度言わせるでない」
澪は納屋を出ていった。
白瀬は、その背中を見送った。
俺が知らないことを、あいつは笑う。
けれど。
笑ったあとには、いつも次へ進む道を置いていく。
「……敵わないな」
小さく笑った。
◇
翌朝。
「白瀬」
城へ向かおうとしたところで、澪に呼び止められた。
「これを持ってゆけ」
小さな包みが飛んでくる。
「何?」
「昨日の残りじゃ」
開いてみる。
握り飯が二つ。
「城まで腹を空かせて歩かれては、みっともない」
「……ありがとう」
「礼などいらぬ」
その時。
ガタ吉が余計なことを言った。
「澪しゃん、朝から握っとった――」
「ガタ吉」
「はい」
「黙れ」
「はい」
白瀬は笑いを堪えながら、握り飯を懐へ入れた。
「行ってくる」
「うむ」
少し歩いてから、白瀬は振り返った。
澪はもうこちらを見ていない。
納屋の前で、子どもたちと何やら話している。
白瀬は前を向いた。
◇
「白瀬殿?」
丸山石見守は、明らかに困惑していた。
朝から城へ現れた白瀬が、
「お願いがあります」
と言って、自分の前へ座ったからである。
「また堤でも造られるのでござるか」
「いえ」
「水路を?」
「違います」
「では、今度は何を」
白瀬は持参した文書を丸山の前へ置いた。
「これを」
「……文書でござるな」
「はい」
「それが何か?」
白瀬は一度息を吸った。
知らないことは、知らない。
できないことは、できない。
ならば、知っている人に教えてもらえばいい。
子どもたちにそうさせるなら、まず自分がやらなければならない。
白瀬は頭を下げた。
「石見守殿」
「はっ」
「俺に、この時代の字を教えてください」
「…………」
丸山が固まった。
白瀬は頭を上げる。
「読み書きも、文書の書き方も。俺が知らないことを、教えてほしいんです」
「白瀬殿が……拙者から?」
「はい」
そして、もう一度頭を下げた。
「できれば――弟子にしてください」
「…………」
長い沈黙。
やがて丸山は、ようやく口を開いた。
「…………は?」
未来から来た先生は。
四百年前で――弟子になった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
白瀬先生、まさかの弟子入りです(笑)
未来から来たからといって、何でも知っているわけではありません。
この時代には、この時代を生きてきた人たちの知識があります。
農民から農を。
漁師から海を。
丸山から文字や政務を。
そして、いずれは勘定を知る者から銭のことも。
白瀬が一方的に四百年先の知識を教えるのではなく、皆が先生になり、皆が生徒になる。
そんな形で、この納屋を少しずつ「学びの場」に育てていければと思っています。
そして今回、何気に一番働いていたのは澪かもしれません。
朝餉を持ってくる。
丸山殿の予定を調べておく。
握り飯まで用意する。
なのに全部、
「たまたまじゃ」
……だそうです(笑)
さて、四百年前で弟子になった白瀬。
果たしてちゃんと字を覚えられるのでしょうか。
次回もよろしくお願いいたします!




