第三十二普請 みんなで植えれば、田になる
いよいよ、村総出の田植えです。
白瀬の知識だけでも、長吉の工夫だけでもありません。
昔から田を守ってきた大人たちの経験も合わせて、ようやく一つの田になっていきます。
そして田植えの後は――もちろん宴。
ただし今回は、あのお方まで参戦します。
元和八年、初夏。
夜が明けきる前から、村は騒がしかった。
「苗ばこっちに持ってこんね!」
「縄はどこや!」
「そっちの田から始むっぞ!」
あちらこちらから声が飛ぶ。
いつもの朝とは、まるで違った。
男も女も、年寄りも若者もいる。
子どもたちは大人の間を駆け回り、河童水工衆まで水路の中から顔を出していた。
今日は――田植えの日だ。
「白瀬しゃん! 遅かばい!」
長吉の声がした。
「いや、まだ日の出前だぞ!」
納屋から出た白瀬湊一は、思わず言い返した。
すでに長吉は苗の束を抱えている。
その後ろでは母親が腰へ手を当てていた。
「長吉! そがん抱えたら苗ば落とすばい!」
「落とさんって!」
「昨日も落としたやろ!」
「昨日は昨日たい!」
「理屈になっとらん!」
白瀬は笑った。
すっかり、いつもの親子である。
「白瀬しゃーん!」
今度は小春が手を振った。
「うちも植ゆるばい!」
「おいも!」
健太が続く。
「おいも植える!」
源太まで胸を張る。
おたえだけは苗をじっと見ながら、
「曲がって植えたら、あとで分からんごとなるけんね」
と、妙に現実的だった。
「安心しろ。そのための縄だ」
白瀬が言う。
その足元で、泥の中から何かがぬっと出てきた。
「おいも植えるばい!」
「うわっ!」
ガタ吉だった。
頭の皿まで泥まみれになっている。
「お前、何してるんだ?」
「田に入ったら、足の届かんかった!」
「なんで泳いでるんだよ!」
「水のあるけん!」
「田んぼは泳ぐところじゃない!」
朝っぱらから、笑い声が上がった。
◇
田の脇には、白瀬が張った縄が何本も並んでいた。
植える間隔をなるべく揃える。
苗は深く差し込みすぎない。
株同士が混み合わないようにする。
水も深くしすぎない。
これまで白瀬と長吉たちが試してきたことを、一つずつ形にしていく。
「よし」
白瀬は田を見渡した。
「この線に沿って植えていきましょう」
「待たんね、白瀬どん」
声をかけたのは、年配の農民だった。
白瀬が振り返る。
「どうしました?」
男は田へ入ると、数歩進んだ。
そして足を止める。
「ここは、その通りには植えん方がよか」
「え?」
見た目には、何も変わらない。
同じ泥。
同じ水。
同じ田だ。
白瀬も足を入れてみる。
一歩。
二歩。
三歩。
「……あ」
沈み方が違った。
わずかだ。
だが確かに、こちらの方が深い。
「昨日までは、こんなに違わなかったはずなのに」
農民が笑った。
「田は毎日変わるたい」
「毎日?」
「雨ん降り方でも変わる。水ば入れた時間でも変わる。日の当たり方でも変わる」
男は泥をひと握りした。
「何十年も踏んどれば、足が覚えるとたい」
白瀬はその手を見た。
節くれ立った指。
爪の間に入り込んだ土。
この男がどれだけ長く田と向き合ってきたのか。
その手が、何より雄弁だった。
白瀬は素直に頭を下げた。
「教えてください」
男が目を瞬く。
「……白瀬どんが?」
「俺は、この田で米を作ったことはありませんから」
白瀬は笑った。
「知らないことは、教えてもらわないと」
少し離れたところで、長吉がそのやり取りを見ていた。
◇
「おいにも教えて」
長吉がやってきた。
年配の農民が振り返る。
「長吉にか?」
「うん」
少し前なら。
大人に何か言われれば、長吉は意地を張ったかもしれない。
自分が見つけたことを認めさせようとしたかもしれない。
けれど今日は違った。
長吉は田へしゃがみ込む。
「どこが違うと?」
「ここば握ってみろ」
農民が泥を渡す。
長吉も握る。
「……柔らかか」
「そうたい。じゃあ、こっちは?」
少し離れた土を握る。
「こっちは……粘る」
「そう。その違いたい」
長吉の顔つきが変わった。
「なんで?」
「水の抜け方が違うけん」
「じゃあ、同じように植えたら?」
「こっちは倒れやすか」
長吉は何度もうなずく。
そこへ、もう一人の男がやってきた。
第三十普請で、
――子どもの遊びじゃ。
そう笑った男だった。
「長吉」
長吉の肩が、少しだけ固くなる。
「……なんね」
男は田の向こうを指した。
「そっちも見てみろ」
長吉は言われた通りに歩いた。
「何か分かるか?」
「……水ん浅か?」
「そうたい」
「なんで?」
「こっちは風の抜ける」
男が苗を一本取った。
「風ん強かところは、苗も倒れやすか。土の具合も変わる」
長吉は黙って聞いた。
そして。
「分かった」
そう言った。
男も、それ以上何も言わなかった。
ただ一本、長吉へ苗を渡す。
「植えてみろ」
「うん」
白瀬は、その光景を遠くから見ていた。
少しだけ、胸が熱くなった。
◇
「じゃあ、変えましょう」
白瀬が言った。
「変える?」
村人たちが集まってくる。
白瀬は田の脇へ棒で簡単な図を描いた。
「俺たちが試した植え方は使います。ただし全部を同じにする必要はない」
田の一角を指す。
「ここは深めに沈む。なら、皆さんが今までやってきた植え方を使う」
別の場所。
「ここは風が強い。植える深さを少し変える」
さらに水路側。
「こっちは水の出入りが早い。ガタ吉たちに水を見てもらう」
「任せんね!」
ガタ吉が胸を張った。
澪も水面を見ながら言う。
「わたしも見る。水は田ごとに癖が違う」
「頼む」
白瀬は長吉を見る。
「それから、長吉たちが試した間隔も使う」
長吉の目が輝いた。
「よかと?」
「いいところだけ、全部使おう」
「全部?」
「俺の知識も。みんなの経験も。長吉たちの工夫も」
白瀬は笑った。
「使えるものは全部使えばいい」
「欲張りたい」
長吉が言う。
「技術ってのは、だいたい欲張りなんだよ」
横から澪が口を挟んだ。
「そなたが一番欲張りであろう」
「……それは否定できない」
村人たちが笑った。
◇
「よーし!」
誰かが声を上げる。
「始むっぞー!」
「おおー!」
田へ人が入った。
大人たち。
子どもたち。
白瀬。
澪。
ガタ吉。
河童水工衆。
皆が同じ泥の中へ入る。
一本。
また一本。
緑の苗が田へ並んでいく。
「小春、そこ詰めすぎ!」
「分かっとる!」
「分かってないから言ってるんだ!」
「白瀬しゃん、うるさか!」
「先生に向かって何だ、その言い方!」
「先生って言い出したん、うちらやろ!」
「……そうだった」
その隣で。
「うわっ!」
ばしゃん!
健太が転んだ。
「あはははは!」
源太が笑う。
次の瞬間。
「うわっ!」
ばしゃん!
源太も転んだ。
「人ば笑うけんたい!」
おたえが呆れる。
「男ん子は、ほんと馬鹿たい」
「なんば!」
「なんね!」
その間をガタ吉がすいすい泳いでいく。
「ガタ吉!」
「なんね!」
「だから泳ぐな!」
「こっちん方が速か!」
「苗を倒すなー!」
ばしゃっ。
泥が大きく跳ねた。
そして。
澪の頬へ。
ぺちゃ。
全員が止まった。
「…………」
澪がゆっくり顔を上げる。
ガタ吉が固まった。
「……逃ぐっぞ」
「待て!」
白瀬が叫ぶ。
「俺を置いていくな!」
「そなたも同罪じゃ」
「俺は何もしてない!」
「止めなんだ」
「そんな理屈ある!?」
澪が泥をひとすくいした。
「うわ、ちょっ――」
ぺちゃ。
今度は白瀬の胸に命中した。
村人たちから大笑いが起こる。
澪は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「これで同罪じゃ」
「理不尽だ!」
◇
昼を過ぎ。
日が傾き始めても、田植えは続いた。
最初はばらばらだった列も、少しずつ揃っていく。
長吉の隣には、あの村人がいた。
二人とも黙々と苗を植えている。
しばらくして。
「長吉」
「なんね?」
「ちっと曲がっとるぞ」
長吉が顔を上げる。
「どこが?」
「ほら、そこ」
長吉は自分の列を見る。
少し曲がっている。
むっとした長吉は、男の列を見る。
「そっちも曲がっとるばい」
「何ば言いよる」
「ほら!」
男が見る。
本当に曲がっていた。
「…………」
「…………」
長吉が吹き出した。
「ははっ!」
「笑うな!」
「そっちもたい!」
結局、男まで笑った。
その二人の間に、もう壁はなかった。
◇
田の外では、長吉の母が苗を渡していた。
ふと手を止める。
田の真ん中。
息子が大人たちに混じっている。
教えられ。
教え。
笑い。
泥だらけになっている。
「……大きゅうなったねえ」
小さな声だった。
近くにいた白瀬だけが聞いた。
「まだまだですよ」
母親が笑う。
「そいでよかとです」
「え?」
「まだまだでよか」
母は田の中の長吉を見る。
「まだ子どもでよかとです」
白瀬も同じ方を見る。
「……そうですね」
◇
夕方。
残った苗は、あとわずかになった。
「これで最後たい」
村人の一人が言う。
なぜか。
皆の視線が、長吉へ集まった。
「……なんね?」
長吉が戸惑う。
「なんで、おいを見ると?」
男が苗を差し出した。
「始めたもんが、最後までやれ」
「おいが?」
「ほかに誰のおる」
長吉は苗を受け取った。
だが白瀬が言った。
「長吉」
「なんね?」
「一人で植える必要はないぞ」
長吉が振り返る。
小春が田へ入った。
「うちも!」
「おいも!」
健太。
源太。
おたえ。
ガタ吉。
澪。
そして大人たちまで集まってくる。
「多すぎん?」
長吉が笑った。
「いいんだよ」
白瀬も田へ入る。
「今日くらいは」
最後に残った苗を、それぞれが手にする。
長吉が息を吸った。
「せーの!」
皆が苗を植えた。
泥の中へ。
小さな緑が立つ。
白瀬は田を見渡した。
まだ米ではない。
これから水を見なければならない。
草も生える。
虫も来る。
風も吹く。
雨も降る。
海から借りたこの土地で、本当に米が実るのか。
まだ誰にも分からない。
それでも。
田一面に並んだ苗は。
白瀬には、未来そのものに見えた。
「終わった……」
誰かがつぶやく。
次の瞬間。
「田植えが終わったぞー!」
「うおおおおお!」
歓声が上がった。
子どもたちが飛び跳ねる。
ガタ吉が田を泳ぎ回る。
「もういい!」
白瀬が笑った。
「今日だけは好きにしろ!」
「やったばーい!」
澪まで声を上げて笑った。
◇
夜。
村の広場には、大きな輪ができていた。
魚。
野菜。
汁物。
握り飯。
団子。
そして酒。
河童水工衆まで混じった、大宴会である。
「白瀬どん!」
「はい?」
「飲まんね!」
「いや、もう結構――」
「飲まんね!」
「断る余地がない!」
盃を押しつけられる。
別の村人がやってくる。
「白瀬どん、今日はよう働いた!」
「皆さんもでしょう!」
「そりゃそうたい!」
がはは、と笑う。
今夜は誰か一人の功績を祝う宴ではない。
田を作った者。
苗を育てた者。
水を引いた者。
土を踏んだ者。
子どもも。
大人も。
河童も。
皆の宴だった。
「白瀬どん」
「はい?」
今度は年配の女だった。
白瀬は嫌な予感がした。
「うちの姪っ子はどがんね?」
「……またですか!」
「器量よかぞ」
「そういう問題では!」
別の女が割り込む。
「なら、うちの妹は?」
「増えた!」
漁師までやってくる。
「浜にもよか娘のおるばい!」
「なんで田植えの宴が縁談会になるんですか!」
「白瀬、人気者たい」
ガタ吉が団子を食べながら言う。
「助けろ!」
「無理たい」
「即答するな!」
◇
少し離れたところ。
澪は黙って団子を食べていた。
小春が隣から顔を覗き込む。
「澪しゃん」
「なんじゃ」
「団子、潰れとるよ」
「……何?」
見ると。
澪の指の間で、団子が少し平たくなっていた。
「柔らかかっただけじゃ」
「ふーん」
「なんじゃ、その目は」
「別にー」
「小春」
「なんね?」
「その顔をやめよ」
小春はにやにやしている。
澪はますます団子を握った。
◇
「ずいぶん楽しそうではないか」
突然。
宴の端から声がした。
白瀬の背筋が伸びる。
「……まさか」
振り返る。
数人の侍女を連れた女が立っていた。
「奥方様!?」
諫早家の奥方である。
村人たちが一斉に慌てた。
「お、奥方様!」
「頭ば下げんね!」
「酒! 酒ば片づけ――」
「よいよい」
奥方は笑った。
「祝いの席であろう。わたくしが来たくらいで静かにするでない」
そう言うと、田植えの様子を聞き始めた。
長吉たちの工夫。
村人たちの知恵。
河童たちの働き。
最後には全員で苗を植えたこと。
奥方は感心したようにうなずいた。
「よい田になりそうじゃな」
「まだ、これからです」
白瀬が答える。
「ここからが本番です」
「相変わらず慎重な男じゃ」
奥方が笑う。
そして。
その笑みが、少しだけ悪戯っぽくなった。
「ところで白瀬」
「……はい」
白瀬は警戒した。
なぜか嫌な予感がする。
「嫁を探しておるそうではないか」
「探してません!」
即答だった。
宴がどっと沸く。
「白瀬どん、また逃げよる!」
「逃げてません!」
「ならば、ちょうどよい」
奥方が後ろを振り返った。
数人の若い侍女がいる。
「うちの侍女など、どうじゃ?」
「どうじゃって!」
「皆、気立てもよいぞ」
侍女たちが困ったように顔を伏せる。
だが、何人かは笑いを堪えている。
「奥方様まで何を言い出すんですか!」
「不服か?」
「不服とかではありません!」
奥方は、白瀬を見ていた。
――ように見えた。
だが。
その視線が一瞬だけ、白瀬の向こうへ流れる。
澪へ。
団子を持ったまま。
ぴたりと手を止めた澪へ。
奥方の口元が、わずかに上がった。
「……なるほど」
「何がです?」
「いや、何でもない」
「絶対、何かありますよね?」
奥方は澪から視線を戻した。
「では、侍女では不服ということか」
「だから違います!」
「贅沢な男じゃのう」
「話を聞いてください!」
奥方はわざとらしく考え込む。
「それならば――」
そして。
再び。
ちらり。
澪を見る。
白瀬は気づかない。
だが小春は気づいた。
おたえも気づいた。
澪本人も、おそらく気づいている。
奥方は楽しそうに言った。
「うちの娘なら、どうじゃ?」
宴が止まった。
「…………はい?」
白瀬の口が開いたままになる。
ガタ吉の口から団子が落ちた。
「白瀬しゃん!」
小春が叫ぶ。
「殿様になると!?」
「ならない!」
「白瀬先生、出世たい!」
健太まで目を輝かせる。
「違う!」
「めでたかー!」
村人から声が飛ぶ。
「めでたくない!」
白瀬は必死に手を振った。
「奥方様! 冗談ですよね!?」
「さて、どうであろうな」
奥方は笑っている。
だが。
また澪を見る。
澪は静かに盃を置いた。
「……ほう」
白瀬が振り返る。
「澪、その『ほう』って何だ」
「別に」
「いや絶対何かあるだろ!」
「そなたの縁談であろう。わたしには関係ない」
「そうだけど!」
澪の前に置かれた盃。
その水面が。
ぴちゃん。
小さく揺れた。
奥方は見逃さなかった。
「……ほう」
今度は奥方が言う。
澪が目を細める。
「何じゃ」
「いや」
奥方は実に楽しそうだった。
「何でもない」
その顔を見た小春が、口元を押さえる。
おたえまで笑いを堪えている。
白瀬だけが分かっていない。
「なんなんだよ、今日は!」
また宴が爆笑に包まれた。
◇
少し離れた田では。
植えたばかりの苗が、月明かりの下で揺れていた。
明日から。
水を見る。
土を見る。
草を取る。
虫を見る。
空を見る。
収穫までは、まだ遠い。
けれど今夜だけは。
誰もが笑っていた。
「白瀬!」
宴の方から奥方の声が飛ぶ。
「娘の話じゃが!」
「まだ続くんですかあああっ!」
元和八年、初夏。
村の田植えは、こうして無事に終わった。
――白瀬の嫁だけは、まだ決まらなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回で、農業編前半の大きな節目となる田植えまでたどり着きました。
長吉も「大人に認められる子」から、大人の経験を素直に受け取り、一緒に田を育てる仲間へ、もう一歩成長しています。
そして奥方様。
どうやら白瀬の縁談そのものより、白瀬と澪の反応を見る方が楽しくなってきたようです。
侍女で駄目なら娘まで出す始末。
白瀬本人だけが、まだ何も分かっていません。
さて、苗は無事に植わりました。
ですが米作りは、植えれば終わりではありません。
水、草、虫、天候――。
本当の勝負は、ここからです。
次の普請も、よろしくお願いいたします。




