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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第二十九普請 糞も宝になる

海から借りた土地に、ようやく小さな芽が出ました。

ですが、塩を抜いただけでは田んぼにはなりません。

今度は――土そのものを育てます。

ただし。

白瀬が目をつけたのは、草と藁と灰と、そして。

少々、臭うものたちでした。

第二十九普請、始まります。

 芽が出た。


 たった一本。


 それでも、海だった場所から伸びた緑は、村の誰にとっても宝物のように見えた。


 翌朝も、その次の朝も。


 長吉たちは試し田へ顔を出した。


「まだ生きとる!」


「昨日より伸びとらん?」


「おいが見た感じ、指一本分くらい伸びとるばい!」


「源太、それ昨日も言いよったやろ」


 小春が呆れる。


「昨日より今日ん方が、おいの指の太うなったとかもしれん」


「そがん急に太うならん!」


 朝から賑やかな声が飛ぶ。


 白瀬は少し離れたところで、その様子を笑いながら見ていた。


 けれど。


 しゃがんで土を一握りすると、その表情が変わった。


 乾いた土が、指の間からさらさらと落ちる。


 まだ弱い。


 塩はずいぶん抜けた。


 水の道も作った。


 だが――それだけでは田にはならない。


「白瀬先生?」


 長吉が覗き込む。


 最近、子どもたちは時々そう呼ぶようになった。


 まだ「白瀬しゃん」と半々くらいだが、長吉は少し照れながら「先生」を使うことが増えている。


「こいなら、米ば作れると?」


「作れる」


 白瀬は答えた。


 子どもたちの顔が、ぱっと明るくなる。


「ただし――」


 すぐに沈んだ。


「このままじゃ、たくさんは取れない」


「なんでね?」


 小春が首を傾げる。


 白瀬は土を手のひらに載せた。


「腹が減ってるからだ」


「……誰ん?」


「土の」


 五人が黙った。


 ガタ吉まで黙った。


 やがて源太が真顔で聞く。


「土も飯ば食うと?」


「食う」


「口はどこね?」


「そういう意味じゃない」


 白瀬が笑った。


「稲を育てるには、土にも力がいる。人間だって働きっぱなしで飯を食わなきゃ倒れるだろ?」


「長吉は飯食うても働かん時あるばい」


 健太が言う。


「健太!」


「ほんとのことばい!」


「おいは働いとる!」


「昨日、昼寝しよった」


「あいは休憩たい!」


 喧嘩が始まる。


「はいはい」


 白瀬が手を叩いた。


「つまりだ。この土にも飯を食わせる」


 小春が目を丸くした。


「田んぼに握り飯ば埋めると?」


「それじゃ俺たちの飯がなくなるだろ」


「じゃあ、何ば食わせると?」


 白瀬は立ち上がった。


 そして、にやりと笑った。


「村にある」


     ◇


「これ」


 白瀬が指差した。


 刈った草。


「これも」


 落ち葉。


「これも」


 藁くず。


「こっちも」


 竈から出た灰。


 子どもたちは、白瀬のあとをぞろぞろついて回った。


「白瀬しゃん」


 小春が不審そうに言う。


「ちりやら藁くずやら集めよるだけに見ゆっとばってん」


「そこが大事なんだよ」


「くずが?」


「捨てるしかないと思ってるものが、本当にそうなのかを考える」


「……?」


 小春には、まだよく分からないらしい。


 白瀬は次に牛小屋へ向かった。


 牛が尾を振る。


 その後ろを指差した。


「これも」


 長吉が顔をしかめた。


「……糞たい」


「そう」


「糞ば田んぼに入るっと?」


「そう」


 子どもたちが一歩下がった。


 ガタ吉は二歩下がった。


「わし、水ん仕事に戻ってよか?」


「駄目」


「なんでじゃ!」


「仲間だろ」


「こがん時だけ仲間扱いすんな!」


 白瀬はさらに歩いた。


 そして――。


 厠の前で止まった。


 五人も止まる。


 ガタ吉も止まる。


 白瀬が振り返った。


 全員が首を横に振った。


「まだ何も言ってないぞ」


「顔で分かるばい!」


 長吉が叫ぶ。


「白瀬先生、その顔しとる時は、ろくなこと言わん!」


「失礼だな」


「今度は何ね!」


 白瀬は厠を指差した。


「これも、肥やしになる」


「そいは知っとる!」


 長吉が即座に返した。


「知ってるのかよ!」


「畑に使うことくらいあるばい!」


 今度は白瀬が驚く番だった。


 長吉の父が、後ろから苦笑する。


「白瀬どん。村ん者ば、何も知らんと思うとったらいかんぞ」


「あ……すみません」


「ばってん――」


 長吉の父は、白瀬が集めた草や藁を見た。


「そいを全部まとめて、わざわざ寝かすっちゅうのは聞いたことなか」


 白瀬の顔が明るくなる。


「そう。そこなんです」


     ◇


「そのまま田へ入れるんじゃないんです」


 白瀬は地面に棒で山を描いた。


「草、藁、糞、灰。それを重ねて、水気を見ながら寝かせる」


「寝かせる?」


「腐らせる、と言った方が分かりやすいかな」


 長吉の父が眉を寄せる。


「腐ったもんば田に入るっとか?」


「腐らせ方が大事なんです」


 白瀬は土を握った。


「草も藁も、そのままじゃ土がすぐには食べられない。時間をかけて、土に戻りやすい形にしてやる」


「土が飯ば食う話たいな」


「そうです」


 白瀬は笑った。


「まず、小さく試します」


 試し田の脇を指差す。


「全部の田でやるんじゃない。うまくいかなければ、やめればいい」


 長吉の父はしばらく考えた。


 やがて鼻を鳴らした。


「白瀬どんは、何でも小さく試すな」


「一度失敗したら、人が死ぬこともありますから」


 一瞬。


 空気が静まった。


 弥助と岩蔵。


 誰も名前を口にしなかった。


 けれど。


 その場にいた者は皆、同じ二人を思い浮かべていた。


 長吉の父がゆっくり頷く。


「……そうじゃったな」


「だから、今度は失敗しても戻れる大きさでやります」


「分かった」


 長吉の父が笑った。


「やってみい」


「よし!」


 白瀬が腕まくりした。


「糞集めるぞ!」


「言い方ぁ!」


 小春が叫んだ。


     ◇


 そこから数日。


 村では奇妙な光景が続いた。


「小春! そっちの藁、あと二束!」


「うち一人に持たせすぎたい!」


「長吉、草は?」


「まだ向こうにあるばい!」


「健太、囲いは?」


「もうちょい待て! 竹ん長さが合わん!」


 健太は竹と木で積み場の囲いを作る。


 おたえはその横で、地面に印をつけていた。


「藁が十二束。草が九籠。灰が三籠……」


「おたえ、また数えよっと?」


「数えとかんば、次に同じもん作られんやろ」


 白瀬が振り返った。


「正解」


 おたえの顔が、ぱっと明るくなる。


「ほら!」


「何が『ほら』ね」


 小春が笑う。


 そこへ源太が、大きな桶を抱えて走ってきた。


「白瀬先生!」


「おう」


「魚ん腹ん中とか、頭とかも肥やしになるとやろ?」


「なるけど――」


「持ってきたばい!」


 桶の蓋が開いた。


 むわっ。


「うわっ!」


 全員が後ずさった。


「源太!」


「なんね!」


「多すぎる!」


「大漁たい!」


「そうじゃなくて!」


 白瀬は鼻を押さえた。


「魚は少しでいい! それに海の物は塩がついてる! せっかく塩を抜いた田に、また大量に持ち込んでどうする!」


「あ」


「あ、じゃない!」


 後ろで澪が小さく息を吐いた。


「そなたらは、毎日よく騒げるものよ」


「澪、ちょうどいい」


「……何じゃ」


「手伝って」


「嫌な予感しかしないのだが」


     ◇


 草。


 藁。


 糞。


 少量の灰。


 薄く土。


 それを重ねる。


 乾きすぎれば、水を加える。


 濡れすぎれば、草を足す。


「澪」


「何じゃ」


「中の水気、分かる?」


 澪が黙った。


「……そなた」


「はい」


「わたしを誰と思うておる」


「水守」


「ならば――」


「だから水を見てほしい」


 澪の眉が、ぴくりと動いた。


 ガタ吉が後ろを向いて、肩を震わせている。


「最高の適任だと思う」


「褒めておるつもりか」


「もちろん」


 澪は無言で白瀬を睨んだ。


 やがて諦めたように、積み上げた草の山へ手をかざす。


 しばらく目を閉じた。


「……下に水が溜まりすぎておる」


「やっぱり」


「上は乾いておる。水が偏っておるぞ」


「助かる」


 白瀬が嬉しそうに笑う。


「さすが水守先生」


「また妙な呼び方をしおって」


 小春がぱっと振り返る。


「白瀬しゃんが先生なら、澪さまも先生たい!」


「そうたい!」


 長吉まで乗ってきた。


「水守先生!」


「やめよ」


「澪先生!」


「やめぬか!」


「先生! 先生!」


「そなたら――!」


 子どもたちが笑う。


 ガタ吉まで腹を抱えた。


 澪は本当に白瀬を水路へ蹴り込みそうな顔をしていた。


     ◇


 三日後。


 事件は起きた。


「白瀬しゃぁぁぁん!」


 朝。


 小春の絶叫が響いた。


 白瀬は納屋から飛び出した。


「どうした!」


「糞ん山から煙の出よる!」


「何ぃ!?」


 試し田の脇には、すでに村人が集まっていた。


 積み上げた草の山から、白いものが立ち上っている。


「燃えよるぞ!」


「水!」


「桶ば持ってこい!」


「待って!」


 白瀬が割って入った。


 手を突っ込む。


「白瀬先生!」


「危なか!」


 長吉が叫ぶ。


 白瀬はそのまま、中へ手を入れた。


「……あったかい」


「は?」


 長吉も恐る恐る触る。


「ほんとたい」


 小春も指先で触れる。


「ぬっか!」


 煙ではない。


 湯気だった。


 白瀬の顔がほころぶ。


「成功だ」


「何が成功ね!」


 小春が怒鳴った。


「うちら火事かと思うたとよ!」


「中で草や糞が変わり始めてるんだ」


 白瀬は一握り取った。


 まだ形は残っている。


 けれど、最初とは匂いも手触りも違った。


「こいつらが、少しずつ土に戻っていく」


 長吉がじっと見つめる。


「糞が?」


「糞も」


「草も?」


「草も」


「藁も?」


「全部」


 白瀬は笑った。


「今まで邪魔だと思ってたものが、次の米を育てる力になる」


 誰かが、小さく呟いた。


「……宝たい」


 白瀬が振り返る。


 長吉の父だった。


「今までは、邪魔もんと思うとったものが、田ば太らせるなら」


 老人が続ける。


「こいも、村ん宝になるとやな」


 白瀬は頷いた。


「はい」


     ◇


 ただし。


 問題が一つあった。


「白瀬どん!」


 翌朝。


 村の老婆が怒鳴り込んできた。


「はい?」


「くさか!」


「……はい」


「村中くさか!」


「あー……」


 風向きが変わったのだ。


 積み場の匂いが、見事に村へ流れている。


「百万石ば作る前に、村人みんな逃げ出すばい!」


「場所、変えます」


「今すぐたい!」


「はい!」


 白瀬が走る。


 後ろで小春たちが大笑いしていた。


「白瀬先生、怒られよる!」


「笑ってないで手伝え!」


「嫌たい!」


「仲間だろ!」


「こがん時だけ仲間にすんな!」


 ガタ吉が、以前とまったく同じ台詞を叫んだ。


 澪が呆れた顔でその光景を見る。


 だが。


 その口元は、少しだけ笑っていた。


     ◇


 さらに日が過ぎた。


 積み直し。


 混ぜ直し。


 水を調整する。


 草と藁は少しずつ崩れ、色を変えていった。


 長吉が出来かけの肥やしを手ですくう。


「最初と全然違うばい」


「まだ出来上がりじゃないけどな」


「こいが田んぼの飯になるとやろ?」


「ああ」


 長吉は、手のひらの黒い塊をしばらく見つめた。


「草も、藁も、糞も……」


「うん」


「捨てるもんなんか、あんまりなかとやな」


 白瀬は少し驚いて、長吉を見た。


 それから笑う。


「そうかもしれない」


 海から土地を借りる。


 水を無理やり押さえ込まず、道を作る。


 そして。


 役目を終えたと思っていたものを、次の命へ返す。


 国を豊かにするとは、新しい物をどこかから持ってくることだけではない。


 今あるものの価値に気づくこと。


 それもまた、普請なのかもしれない。


「白瀬先生」


「ん?」


「百万石って、こがんことの積み重ねなん?」


 白瀬はしばらく考えた。


「たぶんな」


 長吉が笑った。


「地味たい」


「言うな」


     ◇


 夕暮れ。


 長吉が一つの小さな俵を抱えてやってきた。


「白瀬先生」


「何だ?」


「父ちゃんが、種籾ば持ってけって」


 白瀬は受け取った。


 中から一握り。


 籾を掌に広げる。


 太った籾。


 細い籾。


 軽そうな籾。


 形の悪い籾。


 いろいろ混ざっている。


 白瀬の目が細くなった。


「……長吉」


「なんね?」


「桶、持ってきて」


「よかよ」


「あと、水」


「うん」


 長吉が立ち上がる。


 白瀬は続けた。


「それから――塩」


 長吉が止まった。


「……なんて?」


「塩」


 小春も止まった。


 健太も。


 おたえも。


 源太も。


 ガタ吉も。


 澪まで白瀬を見た。


 長吉がゆっくり振り返る。


「白瀬先生」


「はい」


「おいたち、何ヶ月かけて塩ば抜いたと?」


「……結構かかったな」


「海ん土から、塩ば抜いて」


「うん」


「水入れて」


「うん」


「また抜いて」


「うん」


「そいで今度は――」


 長吉の頬が引きつった。


「塩ば入るっと!?」


「入れる」


「なんでねぇぇぇぇぇっ!」


 夕暮れの干拓地に、叫び声が響いた。


 ガタ吉が頭を抱える。


「やっぱりこいつ、おかしか!」


 澪は深々とため息をついた。


「今度は何を始める気じゃ、そなたは」


 白瀬は掌の籾を見つめた。


 そして、笑った。


「次は――」


 夕日に、籾が金色に光った。


「種を選ぶ」


 海から借りた土地に。


 どの命を託すのか。


 次の普請は、もう始まっていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

今回は「土にも飯を食わせる」がテーマでした。

刈った草や藁、落ち葉、灰、家畜の糞などを肥料として利用する考え方は、昔の農村でも大切な知恵のひとつです。

白瀬が持ち込むのは、何もかも未来の技術ではありません。

昔からある知恵を拾い上げ、少し整理し、試して、村のみんなで使える形にしていく。

この積み重ねが、やがて「百万石」につながっていきます。

そして最後。

せっかく何ヶ月もかけて塩を抜いたのに――

「塩を持ってこい」

次回、白瀬が選ぶのは土ではありません。

種です。

第三十普請も、よろしくお願いいたします。

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