第二十八普請 海の底では、米は育たない
大漁の宴が終わり、今度は陸の番。
海から生まれた土地は、まだ田んぼではありません。
そして今回は、長吉をはじめとした子どもたちが、それぞれ自分の得意なことを見つけ始めます。
未来の村を作るのは、白瀬ひとりではありません。
第二十八普請、どうぞお楽しみください。
大漁の宴から、一夜が明けた。
「先生!」
どんどんどん、と納屋の戸が鳴る。
「先生、起きんね!」
「……あと五分」
「ごふんて、なんね!」
聞き慣れた声だった。
白瀬湊一は、藁布団の中で頭を抱えた。
昨夜は魚が大漁だった。
焼いた。
煮た。
食った。
笑った。
そして――。
『白瀬先生、うちん娘はどがんね?』
『いやいや、漁師の嫁なら魚には困らんぞ!』
『二十なら、まだ十分若か!』
農家だけでは飽き足らず、とうとう漁師からまで縁談を持ち込まれた。
「……夢であってほしかった」
「何ば言いよっと。開けるばい」
「待て待て待て!」
慌てて起き上がり、戸を開ける。
そこに立っていた長吉の顔を見て、白瀬の眠気が消えた。
笑っていない。
手には、小さな籠。
その中に入っていたのは――枯れかけた草だった。
「先生」
「……どうした?」
「来てくれんね」
◇
昨日まで、大勢の人間が笑っていた干拓地。
朝の光を受けたそこは、海だった頃とはまるで違う姿を見せていた。
広い。
とにかく広い。
白瀬は、ここを見るたび胸が高鳴った。
ここに田ができる。
稲が揺れる。
米が採れる。
村が豊かになる。
そんな未来を何度も思い描いた。
だが今日は、長吉がその夢の真ん中にしゃがみ込んでいた。
「こい」
指さした先に、小さな緑がある。
いや。
緑だったもの、だ。
葉先が黄色くなり、地面へ倒れている。
「古か田んぼん畦から、丈夫そうなんば持ってきて植えてみたと」
長吉が土を握った。
「こっちも」
少し離れた場所にも、枯れた苗。
「こっちも駄目やった」
「……」
「水ばやったとぞ」
「うん」
「なのに育たん」
長吉は顔を上げた。
「先生」
声が震えていた。
「やっぱい……ここん土じゃ、米は育たんと?」
白瀬は答えなかった。
しゃがみ込み、土を指で崩す。
湿っている。
だが、普通の畑の土とは違う。
手についた土を舐めようとして――。
「白瀬」
背後から冷たい声が飛んできた。
白瀬の指が止まった。
振り返る。
澪が立っていた。
「何をしようとしておる」
「いや、塩分を確かめようかな、と」
「土を舐めてか」
「昔の現場ではですね」
「やめよ」
「はい」
即答した。
その横で、小春が笑っている。
「白瀬しゃん、朝から土ば食うと?」
「食わない!」
白瀬は桶へ少量の土を入れ、水を加えてかき混ぜた。
上澄みをほんの少し指につけ、舌先で確かめる。
「……やっぱりだ」
かすかだが、塩気がある。
白瀬は干拓地を見渡した。
「海は出ていった」
誰も口を挟まない。
「でも――」
手の中の土を握る。
「土の中には、まだ海が残ってる」
◇
「なら、塩ば抜けばよかとやろ?」
長吉が言った。
「そうだ」
「どがんして?」
「真水を入れる」
「そいから?」
「土の中の塩を水に溶かして、外へ流す」
「そいで終わり?」
白瀬は首を横に振った。
「一回じゃ足りないと思う」
「何回?」
「……分からない」
長吉の眉が寄った。
「先生でも分からんと?」
「ああ」
「いつまでせんば?」
「それも、やってみないと――」
「また待つと!」
長吉の声が大きくなった。
小春たちが驚いて振り返る。
長吉が白瀬に食ってかかるのは、珍しかった。
「海ん水ば止めて、堤ば作って、やっと土地のできたとぞ!」
「ああ」
「田んぼのできたら、父ちゃんたちも楽になるって思うとった!」
「長吉」
「なのに、また待たんばと!」
白瀬は黙って受け止めた。
長吉は農家の息子だ。
白瀬にとって干拓地は夢だった。
長吉にとっては――暮らしそのものなのだ。
「そうだな」
白瀬は答えた。
「待たなきゃならない」
長吉が唇を噛む。
「でもな」
白瀬は立ち上がった。
「ただ待つんじゃない」
「……?」
「待ってる間に、できることを全部やる」
長吉が顔を上げる。
「水を入れる」
白瀬は地面に線を引いた。
「塩を溶かす」
さらに線を伸ばす。
「そして、流す」
「また水ば入れる?」
「そうだ」
「また流す?」
「そう」
「何遍でも?」
白瀬は笑った。
「米が育つ土になるまで」
長吉が、ようやく少し笑った。
◇
澪が履物を脱いだ。
裸足で干拓地へ入っていく。
「澪?」
「静かにせよ」
目を閉じる。
風が吹いた。
乾き始めた泥の上を、澪がゆっくり歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
そして止まった。
「白瀬」
「うん」
「下に水がおる」
「地下水?」
「名は知らぬ」
澪は地面へ手を当てた。
「流れようとしておる。されど、行き場がない」
白瀬もしゃがむ。
「……排水が足りないのか」
「わたしが水を見る」
澪が白瀬を見る。
「そなたが道を決めよ」
白瀬は頷いた。
「頼む」
その瞬間。
少し離れた排水溝から――。
ざばっ!
「先生ぇ!」
「うわっ!」
泥まみれのガタ吉が飛び出した。
「やっぱい下に水ん溜まっとるばい!」
「ガタ吉、急に出てくるな!」
「そがん言うても、水ん中から来たらこうなるたい!」
そして。
ガタ吉の後ろから、もう一つ。
ぴょこん。
さらに一つ。
ぴょこん。
小さな河童が二匹、顔を出した。
白瀬は瞬いた。
「……増えた?」
「妹と弟たい!」
「なんで連れてきたの?」
「おいが連れてきたとじゃなか! 勝手についてきたと!」
妹河童が口を尖らせる。
「兄ちゃんだけ面白かことしよるけん」
弟河童も胸を張った。
「おいも普請する!」
「遊びじゃなかぞ!」
ガタ吉が腕を組む。
いつものガタ吉とは少し違った。
ちゃんと、兄の顔をしている。
「おいも水ん下、見てくる!」
弟が排水溝へ近づいた。
その瞬間だった。
「駄目たい!」
ガタ吉の声が響いた。
弟の足が止まる。
「兄ちゃん?」
「水ん下は、どこでも安全じゃなか」
短い言葉だった。
だが白瀬には、その言葉が妙に重く聞こえた。
父と兄を水で失った河童。
幼くても、ガタ吉は棟梁なのだ。
ガタ吉は弟の頭をぽんと叩いた。
「陸ん上でできることばせんね」
「……うん」
小春がすぐしゃがみ込む。
「なら、うちと一緒にせん?」
「何ば?」
「水ん流れ見ると!」
小春は小枝を一本拾って水へ落とした。
「ほら!」
小枝がゆっくり流れる。
妹河童の目が輝いた。
「動いた!」
「こっちん方が速かばい!」
弟も走り出す。
「おいが見る!」
「走って転ぶなよ!」
ガタ吉が慌てて追いかけた。
澪がそれを見て、ほんの少し笑った。
◇
白瀬は地面に大まかな排水路を書き始めた。
すると長吉が横から覗き込む。
「先生」
「ん?」
「父ちゃんにも聞いてみん?」
白瀬の手が止まった。
「長吉のお父さんに?」
「田んぼんことなら、父ちゃんたちの方が先生より知っとることもあるばい」
一瞬だけ、白瀬は黙った。
そして笑った。
「……その通りだ」
「やろ?」
「呼んできてくれる?」
「任せんね!」
◇
やがて集まってきた農民たちが、塩の残る土を囲んだ。
長吉の父もいる。
年寄りの農民が土を握った。
「塩ばかぶった田なら、昔もあったぞ」
「そのとき、どうしたんです?」
「雨ば待った」
「雨?」
「水ば入れて、出す。そいば何遍もするとたい」
白瀬は目を細めた。
理屈は同じだ。
「四百年先でも、同じことをやります」
老人が白瀬を見る。
「また訳ん分からんことば言いよる」
どっと笑いが起きた。
長吉も笑う。
白瀬も笑った。
未来の知識だけでは駄目なのだ。
この土地を知る人間がいる。
海を知る漁師がいる。
水を知る河童がいる。
そして、水を見る澪がいる。
全部合わせればいい。
◇
「で、どこから掘ると?」
長吉が鍬を持った。
白瀬が指さす。
「まずここ」
「よし!」
長吉が真っ先に土を掘り始める。
その横で健太が、鍬と地面を交互に見ていた。
「先生」
「何?」
「こい、どんくらい掘ると?」
「ざっと……かなり」
「かなりって?」
「かなりだ」
健太は顔をしかめた。
「もっと楽に掘れる道具、作れんと?」
白瀬が止まった。
健太を見る。
健太も白瀬を見る。
「……作るか?」
「作ろう!」
二人の目が同時に輝いた。
長吉が呆れた。
「先に掘らんね!」
「はい」
「はい」
◇
少し離れたところでは、おたえが白瀬の地面の図をじっと見ていた。
「先生」
「どうした?」
「この三と、この五はなんね?」
「水路の長さ」
「なら、全部つないだら、どんくらいになると?」
白瀬は顔を上げた。
「知りたい?」
「うち、計算してみたか」
白瀬は小枝を渡した。
「じゃあ、ここから」
地面に数字を書く。
一つ。
二つ。
三つ。
おたえが指で追っていく。
「こいば足して……」
「そう」
「こっちも?」
「そう」
「……先生」
「ん?」
「数字って、面白かね」
白瀬は思わず笑った。
「だろ?」
◇
一方、源太は海へつながる排水口を見ていた。
「先生」
「今度は何だ?」
「そこに出したら駄目ばい」
「え?」
「潮ん上がったら、逆に入ってくっぞ」
白瀬が固まった。
干潮時だけ見ていた。
源太は鼻を鳴らした。
「海んことなら、おいが先生たい」
白瀬は素直に頭を下げた。
「源太先生。お願いします」
「任せんね!」
源太は胸を張った。
◇
「人手が足りないな」
白瀬が呟いた。
そのときだった。
「白瀬しゃーん!」
声がする。
振り返る。
小春が走ってきた。
その後ろには――。
農民。
漁師。
女衆。
子ども。
ぞろぞろぞろぞろ。
「……何、この人数」
「頼んできた!」
「誰に?」
「みんなに!」
「どうやって?」
小春は不思議そうに首を傾げた。
「田んぼのできたら、みんな楽になるけん、手伝ってって言うただけたい」
白瀬は集まった人々を見る。
「それだけで?」
「うん」
長吉が笑った。
「小春は昔からこがんたい」
白瀬は頭を掻いた。
鍬を持つ者。
籠を持つ者。
魚を獲る手で土を掘ろうとする漁師。
河童までいる。
「……よし!」
白瀬が声を張った。
「水路を掘ります!」
皆が動き出す。
「雨が降ったら水を入れる!」
「おう!」
「土の塩を溶かす!」
「おう!」
「それを海へ流す!」
「おう!」
白瀬は長吉を見る。
「一回で駄目なら?」
長吉が鍬を掲げた。
「もう一回たい!」
「それでも駄目なら?」
小春たちが声を揃える。
「もう一回!」
白瀬は笑った。
「よし!」
鍬が一斉に土へ入った。
「土の中の海を、洗い出すぞ!」
◇
日が傾く頃。
干拓地には、新しい細い水路が何本も走っていた。
長吉は全身泥だらけになっていた。
白瀬も似たようなものだ。
二人で並んで座る。
「先生」
「ん?」
「おい、もっと田んぼんこと知りたか」
白瀬が横を見る。
「父ちゃんの知っとることも」
「うん」
「先生の知っとることも」
長吉は土のついた手を握った。
「どっちも覚えたか」
白瀬はしばらく長吉を見ていた。
そして言った。
「じゃあ、明日から俺にも教えてくれ」
「先生に?」
「ああ」
「何ば?」
「この土地のこと」
長吉が目を丸くする。
「俺は未来のことは多少知ってる」
白瀬は干拓地を見た。
「でも、ここの農民じゃない」
長吉も同じ方向を見る。
「……よかばい」
「頼む」
「先生より厳しかぞ」
「お手柔らかにお願いします」
二人で笑った。
◇
雨が降った。
水を入れた。
流した。
また雨が降った。
また流した。
一度で劇的に変わるものなど、何もなかった。
だから毎朝、長吉は試しの区画を見に行った。
そして数日後。
「先生ぇぇぇぇぇ!」
納屋の外から絶叫が響いた。
白瀬が飛び起きた。
「今度は何だ!」
「来んね!」
「何があった!」
「早う!」
白瀬が走る。
澪も。
小春も。
健太も。
おたえも。
源太も。
ガタ吉と、その妹弟までついてくる。
長吉は干拓地の端にしゃがんでいた。
「こい」
指先の向こう。
茶色い土。
その隙間から――。
小さな緑が顔を出していた。
一本だけ。
たった一本。
誰も声を出さなかった。
長吉がそっと手を伸ばす。
だが、触れる寸前で止めた。
「……生きとる」
ガタ吉の弟が首を伸ばした。
「兄ちゃん」
「なんね?」
「これ、食えると?」
「まだ食うな!」
思わず皆が吹き出した。
妹河童が芽とガタ吉を見比べる。
「兄ちゃんより小さかね」
「比べるな!」
笑いが広がる。
その中で、澪は静かに芽を見つめた。
「小さくとも、生きておる」
そして白瀬を見る。
「海の底が、土になり始めたようじゃな」
白瀬は首を横に振った。
長吉を見る。
「違うよ」
「?」
「田んぼになり始めたんだ」
長吉の顔が、ぱっと明るくなった。
◇
「喜ぶには、まだ早かぞ」
年寄りの農民が言った。
皆が振り返る。
「塩の抜けても、こん土は痩せとる」
白瀬の笑顔が固まった。
「……ですよね」
「米ば作るなら、肥やさんば」
「はい」
白瀬は周囲を見渡した。
藁。
刈草。
落ち葉。
竈の灰。
牛馬。
漁の残り物。
使えるものはいくらでもある。
そのとき。
近くにつながれていた牛が尻尾を上げた。
ぼとっ。
全員の視線が、そこへ集まった。
沈黙。
健太が恐る恐る口を開く。
「先生」
「……何?」
「あいも使うと?」
白瀬は牛の糞を見た。
健太を見た。
そして――笑った。
「使う」
「ええええええっ!?」
子どもたちの声が干拓地に響いた。
「嫌ばーーーい!」
真っ先に逃げたのはガタ吉だった。
妹と弟も追いかける。
「兄ちゃん待ってー!」
「おいも嫌ばーい!」
澪は静かに鼻を押さえた。
「白瀬」
「はい」
「そなた、次は何を始める気じゃ」
白瀬は、まだ痩せた土を踏んだ。
海だった土地。
ようやく息をし始めた土地。
ここを、本当の田にする。
「土を太らせる」
澪が眉を上げる。
白瀬は笑った。
「次は――肥やしだ」
長吉の顔が引きつった。
「先生」
「ん?」
「まさか、あいば集めると?」
白瀬はにっこり笑った。
「集める」
「うそやろぉぉぉ!」
その日の干拓地には。
米の芽より先に、子どもたちの悲鳴が育った。
お読みいただき、ありがとうございます。
海を囲えば、すぐ田んぼになる――わけではありません。
塩を抜き、水を流し、土を育てる。
ここからは「土地を作る」だけでなく、その土地で暮らせるようにする普請が始まります。
そして今回から、子どもたちにも少しずつ役割が生まれてきました。
長吉は田を見て、
健太は道具を見て、
おたえは数字を見て、
源太は海を見て、
小春は人を見ています。
ガタ吉も、妹と弟の前ではちょっとだけ「兄ちゃん」の顔です。
さて次回。
白瀬が目をつけたのは、まさかの、あれ。
第二十九普請、糞も宝になる……かもしれません。
次回もよろしくお願いいたします。




