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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第二十六普請 水守には、水の道が見える

今回は、久しぶりに澪が主役級で大活躍します。


水と話し、水の流れを読み、水の行き先まで感じ取る――。


白瀬の知識とも、ガタ吉たちの技とも違う。


「水守様」と呼ばれる理由を、改めて感じていただければ嬉しいです。


そしてもちろん。


水守様には、供物も必要です。


……たぶん団子が。

 雨は、夜半から降り始めた。


 屋根を叩く音で、白瀬湊一は目を覚ました。


「……雨か」


 長吉の家の納屋。


 まだ暗い天井を見上げながら、白瀬はしばらく耳を澄ませた。


 ざあ、ざあ、と。


 途切れない。


 かなり降っている。


「よし」


 思わず口元が緩む。


 海から借りたばかりの土地には、まだ塩が残っている。


 雨が降れば、その塩を洗える。


 そう思ったのだが――。


「白瀬」


 暗がりから声がした。


「うわっ!」


 飛び起きる。


 入口に、澪が立っていた。


「驚かせるなよ」


「そなたが勝手に驚いたのであろう」


「こんな時間に何してるんだ」


 澪は答えず、外へ顔を向けた。


 雨を見る。


 いや。


 白瀬には、そう見えただけだった。


 澪は――。


 雨の向こうにいる何かの声を、聞いていた。


     ◇


「白瀬しゃーん!」


 翌朝。


 一番に飛んできたのは小春だった。


 裾を泥だらけにして、干拓地の端から手を振っている。


「雨んいっぱい降ったけん、塩ん流れたとやろ!」


「おいも見たぞ!」


 長吉も駆けてくる。


「昨日まで白かったとこが、もう白うなか!」


「待て待て。走るな!」


 白瀬が止めるより早く、子どもたちは泥へ踏み込んでいた。


 ぐちゃ。


「うわっ!」


「長吉、沈んどる!」


「笑うな!」


 朝から騒がしい。


 村人たちも集まってきた。


「白瀬どん、こいで田に近づいたとですか?」


「まあ、一歩は」


 白瀬はしゃがみ込み、泥を指ですくう。


 表面に浮いていた白い塩は消えている。


 雨水もたっぷり溜まっていた。


「思ったより早いかもな」


 そのときだった。


「違う」


 澪。


 皆が振り返った。


 澪は裸足だった。


 いつの間に草履を脱いだのか。


 そのまま泥の中へ入っていく。


「澪?」


 返事はない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 澪の足首が泥に沈む。


 目を閉じた。


 しばらく動かない。


 やがて。


「……苦しいか」


 ぽつり、と言った。


 白瀬が眉を寄せる。


「誰に言ってる?」


「水じゃ」


「……水?」


 澪は目を閉じたまま答えた。


「ここにおる水が申しておる」


 子どもたちまで静かになった。


 雨上がりの干拓地。


 風が一本、海から渡っていく。


「出たい、と」


 澪はゆっくり目を開けた。


「海へ帰りたいそうじゃ」


     ◇


「水が……帰りたい?」


 白瀬は泥を見た。


 雨は降った。


 塩は溶けた。


 だが。


「そうか」


 白瀬は立ち上がった。


「洗っただけじゃ駄目だ」


「なんでね?」


 小春が首を傾げる。


「塩が水に溶けただけなんだ。その水を外に出さなきゃ、また残る」


「また塩になっと?」


「なる」


「ええーっ!」


 子どもたちから一斉に不満の声が上がった。


「田んぼ、面倒くさか!」


「俺もそう思う」


 白瀬が苦笑する。


 だが問題は、それだけではなかった。


「排水路を作るとして……」


 白瀬は干拓地を見渡した。


 広い。


 しかもほとんど平らだ。


 ほんの少しの高低差を使って水を流さなければならない。


 測量すれば分かる。


 だが、時間がかかる。


 杭を打ち、縄を張り、高さを確かめ、また杭を移す。


「まず基準を取って――」


「白瀬」


「ん?」


「そこではない」


 澪が指を差した。


 白瀬の手が止まる。


「何が?」


「水路じゃ」


「いや、まだ測ってないぞ」


「要らぬ」


「え?」


 澪は平然と言った。


「水が教えてくれる」


 白瀬は数秒黙った。


 そして思い出した。


 そうだった。


 こいつ。


 水守だった。


     ◇


 澪は歩いた。


「ここじゃ」


 白瀬が杭を打つ。


「次は?」


「あちら」


 また杭。


「そこは掘るな」


「なんで?」


「淀む」


 白瀬が半信半疑で測る。


「……本当だ」


 ごくわずかに窪んでいる。


「こっちは?」


「流れる」


 測る。


「……流れる」


 ガタ吉まで目を丸くした。


「澪、すごかね」


「今さらであろう」


「いや、おいも水ん中なら分かるばってん、地面ん下まで全部は分からんばい」


 ガタ吉がぺたぺたと泥を歩く。


「ここは?」


「右へ行きたがっておる」


「ほんとや!」


 白瀬は頭を抱えた。


「反則だろ……」


「何か申したか」


「いや」


 現代なら、測量器械を持ち込み、地形を取り、勾配を計算し、水の流れを予測する。


 澪は。


 歩くだけだった。


「澪」


「何じゃ」


「水って、そんなにはっきり喋るのか?」


「そなたらのようには申さぬ」


 澪は足元を見る。


「冷たい。重い。進みたい。止まりたい」


 少し間を置く。


「そういうものが、声になる」


「なるほど……」


「分かったか」


「全然」


「ならば黙って杭を打て」


「はい、水守様」


 澪がじろりと睨んだ。


     ◇


 その日の午後。


 村の男たちが集まり、水路を掘り始めた。


 ガタ吉たち河童水工衆も加わった。


「こっちたい!」


「もう半尺!」


「掘りすぎるなよ!」


 白瀬が叫ぶ。


「長吉、そこの土をこっちへ!」


「分かったばい!」


「小春は――」


「うちは何すっと!」


「走るな」


「仕事じゃなか!」


「それが一番大事な仕事だ!」


 ぶう、と頬を膨らませる。


 だが数分後には、子どもたちは板札を持って走り回っていた。


 ○。


 △。


 ×。


 水がよく流れる場所。


 溜まる場所。


 動かない場所。


 以前使った印を、白瀬がまた持ち出したのだ。


「白瀬先生ー!」


 小春が叫ぶ。


「こっち△たい!」


「分かった!」


 返事をしてから。


 白瀬は止まった。


「……先生」


 もう誰も説明を求めない。


 前に決まった呼び名が、子どもたちの間では自然に使われ始めている。


「先生! こっちは×!」


「はいはい!」


 少し離れたところで、澪が笑っている。


「何だよ」


「いや」


「笑っただろ」


「気のせいじゃ。白瀬先生」


「お前まで言うな」


     ◇


 やがて。


 水路が一本につながった。


「水ば入るっぞ!」


 村人が叫ぶ。


「待て!」


 白瀬が手を上げた。


 雨水だけでは足りない。


 田へ使わない余水も引き込む。


 だが。


「白瀬どん」


 一人の農夫が不安そうに言った。


「今ある田の水まで使うとは、やめてくれんですか」


「ああ」


 白瀬はすぐ頷いた。


「今の田を弱らせて、新しい田を作っても意味がない」


 農夫が、ほっとした顔をする。


「使うのは雨と、余って海へ流れてる水だけだ」


「そいならよか」


 白瀬が合図しようとした。


「よし。開け――」


「待て」


 澪。


 白瀬の腕が止まる。


「また?」


「まだじゃ」


 澪は海を見ていた。


「今なら水は入るぞ」


「入る」


「じゃあ」


「戻れぬ」


 澪は首を振った。


「今は海が押しておる」


「潮か」


「それだけではない」


 澪の目が細くなる。


「川も、海も、今は互いに押し合っておる」


 白瀬には分からない。


 海は穏やかに見える。


 水面も大して変わらない。


「……どれくらい待つ?」


「知らぬ」


「知らないの?」


「水に聞け」


「聞けないから聞いてるんだけど」


 澪が白瀬を見る。


「ならば」


 一歩近づいた。


「わたしを信じよ」


 白瀬は黙った。


 そして。


「分かった」


 それ以上は聞かなかった。


     ◇


 半刻ほど経った。


 澪が急に立ち上がる。


「今じゃ」


 白瀬も立った。


「開けろ!」


「おう!」


 板が外れる。


 どっと水が走った。


「来たぞ!」


「水ん来た!」


 子どもたちが追いかける。


「走るなって!」


 白瀬の声など聞いていない。


 真水が、澪の示した道を走っていく。


「右じゃ!」


 澪が叫ぶ。


「そちらを塞げ!」


「ガタ吉!」


「任せろ!」


 河童たちが水へ飛び込む。


「三番ば開けろ!」


「こっちか!」


「違う! そっちはまだじゃ!」


 澪が次々に指示を出す。


 白瀬も従う。


 村人も従う。


 ガタ吉も従う。


 いつの間にか。


 誰も「本当に大丈夫か」とは聞かなくなっていた。


 水が。


 澪の言った通りに動くからだ。


     ◇


 夕方。


 今度は海へ出す時が来た。


 塩を含んだ水が、排水路へ集まっている。


 だが外は海。


 開ける時間を間違えれば、逆に潮が入ってくる。


 澪は樋門の前に立った。


 目を閉じる。


「まだじゃ」


 皆が待つ。


 しばらくして。


「まだ」


 さらに待つ。


 村人の一人が呟いた。


「もうよか潮じゃなかですか?」


 白瀬も同じことを思っていた。


 だが口には出さない。


 やがて。


 澪が目を開けた。


「……海が引いた」


 白瀬が息を吸う。


 澪が振り返る。


「白瀬」


「ああ」


「今なら、海が受け取る」


「開門!」


 樋門が上がった。


 ごおっ。


 濁った水が一気に海へ落ちていく。


「流れた!」


「塩ん水が出よる!」


 歓声が上がった。


 澪はただ、その流れを見ていた。


 白瀬が隣へ並ぶ。


「塩を捨てる、か」


「違う」


 澪が言う。


「返すのじゃ」


「海に?」


「うむ」


 白瀬も海を見る。


「……そうだな」


 ここは海から借りた土地。


 ならば。


 塩は、海へ返す。


     ◇


 それからの日々は、驚くほど速かった。


 雨が降れば、水を集めた。


 澪が道を示した。


 白瀬が水路の形にした。


 ガタ吉たちが掘った。


 村人が堰を作った。


 干潮を澪が読む。


 樋門を開く。


 塩水を海へ返す。


 一日。


 三日。


 七日。


 十日。


 雨が降るたび。


 潮が引くたび。


 土地の色が、少しずつ変わった。


 白かった筋が減った。


 水溜まりが消えた。


 臭いも変わった。


「先生!」


 子どもたちは毎日のように走ってきた。


「今日は○ん増えたぞ!」


「こっちはもう△じゃなか!」


「おいが最初に見つけた!」


「うちたい!」


「喧嘩するな!」


 白瀬が怒鳴る。


 その横で澪は。


「白瀬」


「ん?」


「団子が来た」


「……また?」


     ◇


 最初は三つだった。


 次の日は五つ。


 その次は皿ごと。


 納屋の前に、供物が置かれるようになった。


 団子。


 栗。


 芋。


 魚。


 野菜。


 そして。


 団子。


「団子率、高くない?」


「水守様は団子がお好きじゃけん」


 老婆が笑った。


「誰が教えたんだ、それ」


 ガタ吉が目を逸らした。


「お前か」


「知らんばい」


 澪は腕を組んでいる。


「困ったものじゃ」


 そう言いながら。


 団子を一つ取った。


 白瀬が見る。


「困ってる?」


「供物を粗末にすれば、持ってきた者に失礼であろう」


「すごく便利な理屈だな、水守様」


「何を申しておる」


 一口。


 澪の表情が、ほんの少し緩んだ。


「……うまい」


「やっぱり食べたかっただけだろ」


「黙れ」


     ◇


 澪の噂は、あっという間に広がった。


 水の通る道を言い当てる。


 潮の変わる時を知る。


 澪が「ここを掘れ」と言えば水が流れる。


 澪が「待て」と言えば、しばらくして潮が変わる。


 村人たちは、また彼女を呼び始めた。


「水守様」


「水守様のおかげたい」


「ありがたや」


 ある日。


 一人の老人が、澪の前で膝をついた。


「水守様がおられれば、もう水の心配はなか」


 澪の顔から笑みが消えた。


「違う」


 静かな声だった。


 老人が顔を上げる。


「わたし一人では何もできぬ」


 澪は水路を見る。


「白瀬が道を形にした」


 ガタ吉を見る。


「河童衆が水を通した」


 村人たちを見る。


「そなたらが掘った」


 そして。


 自分の胸に手を置いた。


「わたしは、水の声を聞いただけじゃ」


 老人はしばらく黙っていた。


 やがて。


「……それば、聞ける者がおらんとです」


 澪が困った顔になる。


 白瀬は少し笑った。


「一本取られたな」


「そなたは黙っておれ」


     ◇


 秋が深まり始めた頃。


 干拓地から、白い塩の跡はほとんど消えていた。


 白瀬は土を握る。


「だいぶ変わった」


「もう田んぼ?」


 小春が聞く。


「まだ」


「またぁ!?」


 子どもたちが一斉に叫んだ。


「今度は土だ」


「土ならここにあるたい!」


「これはまだ、田んぼの土じゃないんだよ」


 ガタ吉がため息をついた。


「田んぼって、どんだけ面倒くさかとね」


「俺も最近そう思ってる」


 白瀬が笑う。


 澪は少し離れたところで海を見ていた。


「澪」


「何じゃ」


「今日は静かだな」


「水も休みたい時がある」


「へえ」


 白瀬が隣へ並ぶ。


「それにしても、お前、本当に便利だよな」


「便利?」


「いや……言い方悪かった」


 澪が白瀬を見る。


「そなたにも、わたしには見えぬものが見えておる」


「俺に?」


「ああ」


 澪は干拓地を見る。


「皆にはまだ泥しか見えておらぬ」


 白瀬も見る。


「そなたには――」


 澪が少し笑った。


「田が見えておるのであろう?」


 白瀬は答えなかった。


 ただ。


 笑った。


     ◇


 その日の夕方。


 長吉宅の前に、見知らぬ男たちが現れた。


 三人。


 どれも泥だらけだった。


 着物も傷み、草鞋もぼろぼろだ。


「白瀬どんは、ここにおらすか!」


 長吉の父が出てくる。


「おるばってん……どちらさんね?」


「隣村から来ました」


 男たちは白瀬を見つけると駆け寄った。


「白瀬どん!」


「どうした?」


 男は答えず。


 その後ろにいた澪を見た。


 顔色が変わった。


「……水守様」


 次の瞬間。


 三人そろって膝をついた。


 澪が眉を寄せる。


「何をしておる。立て」


 だが男は顔を上げなかった。


「お願いです」


 声が震えている。


「村ば……助けてくだされ」


 白瀬の表情が変わる。


「何があった?」


 男は、土を握り締めた。


「水が――」


 一度、言葉を詰まらせる。


 そして。


「水が、来んとです」


 澪が顔を上げた。


 遠く。


 山の方を見る。


 その目から。


 さっきまでの柔らかな色が消えた。


「……白瀬」


「ああ」


 澪は静かに言った。


「水が、泣いておる」


 新しい普請が、始まろうとしていた。


お読みいただきありがとうございます。


第二十六普請は、澪の「水守」としての力をしっかり描く回となりました。


白瀬には白瀬にしか見えない未来があり、

澪には澪にしか見えない水の道がある。


どちらか一人では足りない。


そんな二人の関係も、少しずつ形になってきた気がします。


そして久しぶりの供物。


やはり水守様には団子が似合います。


さて。


ようやく塩との戦いが前へ進み始めたところで――


今度は、


「水が来ない村」


から助けを求める者たちが現れました。


次の普請は、これまでとは少し違う場所へ向かいます。


次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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