第二十五普請 海の底は、まだ田んぼじゃない
第二十五普請です。
海を止めて、ついに土地が現れました。
――が。
海の底だった場所が、一晩で田んぼになるわけではありません。
今回は少し肩の力を抜いて、泥だらけになったり、田んぼの場所取りを始めたりしながら、白瀬たちは次の一歩へ進みます。
そして、あの呼び名も少しだけ芽を出します。
どうぞお楽しみください。
元和七年、秋。
朝の潮が引いていく。
白瀬湊一は、堤の上に立って、その光景を黙って見ていた。
昨日まで。
そこには確かに海があった。
波が寄せ、潮が満ち、魚が泳いでいた場所だ。
それが今朝は――。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
堤の向こうに広がっていたのは、海ではない。
どこまでも続く、黒く濡れた泥だった。
空を映す水たまり。
小さな潮だまり。
ところどころに残された貝殻。
その向こうまで。
ずっと。
土地が続いている。
「白瀬しゃーん!」
後ろから声がした。
振り向く間もなく、子どもたちが堤を駆け下りていく。
「待て!」
白瀬が叫んだ。
遅かった。
長吉が両手を広げた。
「土地ばーい!」
小春も飛び跳ねる。
「海のなくなっとる!」
「昨日も見ただろ!」
「昨日は暗かったもん!」
「そいもそうか!」
白瀬まで笑ってしまった。
長吉が泥の上へ飛び降りる。
「おい、一番乗り!」
「長吉、待てって――」
ずぼっ。
「…………」
長吉の身体が止まった。
膝まで泥に沈んでいる。
「白瀬しゃん」
「なんだ」
「抜けん」
小春が腹を抱えた。
「あはははは! 長吉、田んぼに食われよる!」
「笑うな! 助けんか!」
「うちが助けちゃる!」
小春が勇ましく踏み込んだ。
ずぼっ。
「…………」
「小春?」
「白瀬しゃん」
「なんだ」
「うちも抜けん」
「何しに行ったんだ、お前は!」
子どもたちが大笑いした。
その横から、小さな影がひょいと飛び込む。
「任せんしゃい!」
ガタ吉だった。
「おい、待て――」
ばしゃっ。
泥が盛大に跳ねた。
そして。
「…………」
「ガタ吉?」
「白瀬しゃん」
「お前もか」
「尻まで埋まったばい」
「河童だろ、お前!」
「河童でも泥は泥たい!」
笑い声が秋の干潟へ広がった。
◇
結局。
縄を使って三人を引き抜く羽目になった。
長吉は片方の草履を失い。
小春は両足とも泥だらけ。
ガタ吉に至っては、どこから見ても泥人形である。
「土地じゃなかったと?」
小春が不満そうに言った。
「土地だよ」
「なら、なんで沈むと?」
「昨日まで海だったからだ」
白瀬はしゃがんだ。
泥を指ですくう。
指先でこねる。
柔らかい。
水をたっぷり含んでいる。
そして――。
少しだけ舐めた。
「…………」
子どもたちが固まった。
小春が恐る恐る聞いた。
「白瀬しゃん」
「なんだ」
「腹、減っとると?」
「違う!」
白瀬は慌てて泥を吐き出した。
「塩だよ」
「塩?」
「まだ、塩が残ってる」
白瀬は泥を見た。
「そりゃそうだよな」
昨日まで海の底だったのだ。
堤を造った。
海水は止めた。
だからといって、一晩で田んぼになるわけではない。
「このまま稲を植えても、まともには育たない」
いつの間にか集まってきた農民たちが、顔を見合わせた。
一人の老人が腰を下ろした。
泥を握る。
「塩ば噛んどる土じゃな」
白瀬が老人を見る。
「分かるんですか?」
「昔、大潮で田に潮ん入ったことのある。そん年は、ろくに実らんかった」
別の農民もうなずいた。
「水ん抜けん田も駄目たい。根ぇ腐る」
白瀬は思わず笑った。
「ですよね」
現代の知識だけではない。
この土地で米を作ってきた者には、この土地で得た知恵がある。
「じゃあ白瀬どん」
若い農民が聞いた。
「いつから田にできると?」
「それを今から考えます」
「春には植えらるっとじゃろ?」
「できれば」
「なら、ここは俺ん田にしたか!」
「は?」
突然、別の男が声を上げた。
「待て待て。そこはおいが先に目ぇつけとったぞ」
「いつ目ぇつけた!」
「昨日たい!」
「昨日はまだ海じゃったろうが!」
「海ん時から見よった!」
「そがん屁理屈あるか!」
「ここは日当たりん良かぞ!」
「海の底に日当たりも何もあるか!」
白瀬は目を丸くした。
さらに別の農民まで入ってくる。
「おいは堤ん近くがよか」
「なんで?」
「家から近か!」
「まだ道もなかぞ!」
「道は白瀬どんが作ってくるっちゃろ?」
「勝手に俺の仕事を増やすな!」
今度は子どもたちまで始まった。
「うちはここ!」
小春が泥へ棒を刺した。
「小春、何をしてる」
「うちん田んぼ!」
「お前の田んぼじゃない!」
長吉も負けじと、少し離れた場所へ棒を刺す。
「じゃあ、おいはここ!」
「長吉まで!」
「おいが一番最初に沈んだけん、ここはおいん場所たい!」
「そんな土地の取り方があるか!」
「ならガタ吉は?」
「おいは水路!」
「なんで土地じゃないんだよ!」
「河童やけん!」
「妙なところだけ筋が通ってるな!」
村人たちから笑いが起きた。
昨日まで。
ここは海だった。
誰の田でもなかった。
誰も米が作れるなどと思っていなかった。
それなのに今。
人々は、
ここで何を植えるか。
どこを自分の田にするか。
そんなことで喧嘩している。
白瀬は、その騒ぎを見ながら笑った。
悪くない。
いや。
たぶんこれは、とてもいい喧嘩なのだ。
未来のない土地では、土地の取り合いなど起きない。
「はいはい!」
白瀬は手を叩いた。
「場所取りは中止!」
「なんでたい!」
「まだ田んぼじゃないから!」
あちこちから不満の声が上がった。
「まず水を抜く!」
白瀬は泥を指差す。
「次に塩を抜く!」
今度は海を指差した。
「それから高さを測る。水路を決める。土を作る」
農民たちが静かになる。
「その後です。田んぼの話は」
老人が笑った。
「まだ先は長かねえ」
「はい」
白瀬も笑った。
「でも――」
振り返る。
広大な泥の土地。
「もう、海の底じゃありません」
◇
白瀬は泥の上へ簡単な図を描いた。
「問題は、これです」
一本の線。
それが堤。
内側へ小さな溝を描く。
「雨が降ります」
小春が覗き込む。
「降るね」
「山からも水が来ます」
長吉がうなずく。
「来るたい」
「で、この堤がある」
白瀬は線を指した。
「海から水が入らない代わりに――」
そこで止めた。
小春が首を傾げる。
「代わりに?」
「中の水も、出ていかない」
子どもたちが黙った。
ガタ吉が先に気づいた。
「水ん逃げ道がなか!」
「そういうこと」
「なら穴ば開ければよか!」
長吉が言う。
「ずっと開けたら海水が入る」
「じゃあ閉める!」
「雨が溜まる」
「開ける!」
「海が入る」
「閉める!」
「雨が溜まる」
「開ける!」
「海が――」
「いつまでやっておる」
静かな声がした。
澪だった。
腕を組んでいる。
「白瀬まで童になってどうする」
「俺じゃない!」
子どもたちが笑った。
澪は泥の上へ降りた。
裸足で、ゆっくり歩く。
一歩。
二歩。
そして止まった。
目を閉じる。
風が澪の髪を揺らした。
やがて。
「白瀬」
「うん?」
「こちらの水は動いておらぬ」
白瀬が近づく。
浅い水たまりがある。
一見すれば何でもない。
だが。
確かに水が淀んでいる。
白瀬は周囲を見る。
海側。
山側。
堤。
泥。
「あ……」
「分かったか」
「排水だ」
白瀬は立ち上がった。
「堤を造って終わりじゃない」
地面へ線を引く。
「中に水路を作る。細い水路から、もっと大きな水路へ集める」
さらに線を伸ばす。
「潮が低い時だけ、外へ出す」
長吉が首を傾げた。
「海に手伝わせると?」
「そうだ」
白瀬は笑った。
「海に勝つ必要なんかない」
澪を見る。
「低い潮の時だけ、仕事を手伝ってもらう」
澪がわずかに口元を緩めた。
「ようやく、そなたも水に逆らわぬことを覚えたか」
「水守先生のおかげでね」
澪の眉が動いた。
「……先生?」
その言葉に。
小春が食いついた。
「白瀬しゃん」
「ん?」
「先生って、なんね?」
「あ」
しまった。
白瀬は頭をかいた。
「先生っていうのは……そうだな」
少し考える。
「何かを知っていて、それを人に教えてくれる人かな」
「なら白瀬しゃんも先生たい」
長吉が即答した。
「なんでそうなる」
「水んことば、いっつも教えてくるやん」
小春の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとたい!」
「いや、待て」
「じゃあ、こいから白瀬先生!」
「待て待て」
「白瀬せんせー!」
「やめろ!」
「白瀬先生!」
長吉まで続く。
「お前まで乗るな!」
「白瀬先生!」
ガタ吉だった。
「河童まで言うな!」
子どもたちは大笑いだ。
白瀬は頭を抱えた。
横を見る。
澪がこちらを見ている。
嫌な予感がした。
「……何だよ」
澪は澄ました顔で言った。
「よかったではないか」
一拍。
「先生殿」
「澪!」
今度は大人たちまで笑った。
◇
昼を過ぎ。
最初の排水溝を掘り始めた。
派手な仕事ではない。
鍬で掘る。
泥を上げる。
縄を張る。
杭を打つ。
それだけだ。
だが。
「白瀬どん、こっちは昔から潮ん溜まりやすかったぞ」
「本当ですか?」
「大潮ん時は、あっちから先に水ん来よった」
「じゃあ線を少し変えましょう」
漁師の記憶。
「ここは水ん抜けにくか」
農民の経験。
「この下、水ん道のあるばい!」
泥へ潜った河童たちの知識。
「もうちょい右!」
ガタ吉が若棟梁として声を張る。
「右たい、右!」
「ガタ吉、そっちはお前から見た右か!」
「あ」
「逆じゃないか!」
「ごめん!」
「棟梁!」
笑いが起きる。
澪が水を見る。
白瀬が線を決める。
村人が掘る。
子どもたちが杭を運ぶ。
もう。
白瀬一人が何かを作っているのではなかった。
この土地を。
皆で育て始めていた。
◇
夕刻。
細い溝に、水が入った。
「来たぞ!」
誰かが叫ぶ。
小春たちが駆け寄る。
水はゆっくり動いた。
「流れよる!」
「白瀬先生、流れよるばい!」
「先生はやめろ!」
「じゃあ白瀬しゃん!」
「急に戻すな!」
笑い声。
だが。
水は。
途中で止まった。
「……ん?」
白瀬がしゃがむ。
水面を見る。
動かない。
「なんでだ?」
予定では海側へ流れるはずだった。
「ガタ吉」
「分かった!」
ガタ吉が水路へ飛び込む。
泥をかき分け。
少し先まで進む。
やがて、ひょこっと顔を出した。
「白瀬しゃん!」
「どうした?」
ガタ吉が泥を指差す。
「こっちん方が――」
首を傾げる。
「高かぞ」
「え?」
白瀬は立ち上がった。
目で見る。
分からない。
ほとんど平らに見える。
だが。
水は嘘をつかない。
流れないということは。
こちらが低い。
「……なるほど」
白瀬は額に手を当てた。
「海の底って、平らじゃないのか」
澪が隣に立つ。
「当たり前であろう」
「ですよねえ……」
長吉が恐る恐る聞く。
「白瀬しゃん」
「なんだ」
「どうすると?」
白瀬は広大な干拓地を見渡した。
「測る」
「どこば?」
「全部」
長吉が固まった。
小春が指差す。
「あそこまで?」
「そこまで」
「向こうも?」
「向こうも」
「ぜーんぶ?」
「全部」
沈黙。
ガタ吉が聞いた。
「何日かかると?」
「聞くな」
白瀬は遠い目をした。
その横で澪が平然と言う。
「そなたが言い出した百万石であろう」
「まだ百万石なんて言ってない!」
「顔に書いてある」
「どんな顔だよ!」
子どもたちが、また笑った。
白瀬はため息をつき。
一本の杭を手に取った。
泥へ立てる。
木槌を振り下ろした。
コン。
乾いた音が。
秋の空へ響く。
昨日。
彼らは海に線を引いた。
今日。
その内側へ、最初の杭を打った。
海を止めた次に待っていた敵は――。
大波でも。
嵐でもない。
目ではほとんど分からない。
わずかな土地の高さだった。
白瀬は木槌を肩へ担ぐ。
「さて」
泥だらけの仲間たちを振り返った。
「田んぼを作ろうか」
「おおーっ!」
子どもたちの声が響く。
小春がすぐに付け加えた。
「白瀬先生!」
「だから、それはまだ早い!」
笑い声が。
今度こそ土地となった海の上を、遠くまで走っていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ようやく海の向こうに「土地」が現れました。
ですが、ここからが本当の干拓の始まりです。
排水、塩抜き、水路、土地の高さ、土づくり。
米が実るまでには、まだまだやることがあります。
そして今回、子どもたちの間で少しだけ生まれた「白瀬先生」という呼び名。
まだ定着はしません。
これから白瀬が本当に“教える人”になっていく中で、少しずつ意味を持たせていく予定です。
次回は、広大な土地を相手に――
まずは「高さ」を測ります。
田んぼへの道は、まだ始まったばかりです。




