↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/64

第二十四普請 海に勝つな、海から借りろ

海だった場所に、土地ができる。


たったそれだけのことが、どれほど大きな一歩なのか。


失敗も、犠牲も、全部抱えて――。


第三章「海に線を引く」、いよいよ最後の普請です。

 夜明け前の海は、妙に静かだった。


 潮の匂い。


 湿った泥。


 崩れた堤の跡。


 そして、その脇に立てられた二本の木札。


 ――弥助。


 ――岩蔵。


 白瀬湊一は、その二つの名をしばらく見つめていた。


 今日は、再び海へ挑む日だ。


 だが前のような声は出なかった。


「よし、やりましょう」


 そんな軽い言葉では始められなかった。


 村人たちも、漁師たちも、河童水工衆も、藩の者たちも黙っている。


 弥助と岩蔵の家族も来ていた。


 弥助の妻が、白瀬へ歩み寄った。


「白瀬どん」


「はい」


「今度は……誰も死なんようにしてください」


 胸の奥が詰まった。


 ――絶対に。


 そう答えかけて、白瀬はやめた。


 水を相手にする仕事で、絶対など簡単に口にしてはいけない。


「危なかったら、止めます」


 白瀬は答えた。


「完成しそうでも、あと少しでも……人を先にします」


 岩蔵の妻が小さく頷く。


「それでよかです」


 それから崩れた堤を見る。


「あん人らが死んだ場所ば――」


 声が少し震えた。


「誰も死なん場所にしてください」


 白瀬は深く頭を下げた。


「はい」


     ◇


 空が白み始めるころ。


 白瀬は皆の前に地図を広げた。


 前日までに何度も書き直した、海と泥と水の地図だった。


「前の堤は、海を全部止めようとしました」


 棒の先で、崩れた場所を示す。


「それが間違いでした」


「堤ちゅうとは、水ば止めるもんじゃなかとか?」


 農民の一人が首をひねった。


「止めます」


 白瀬は頷く。


「でも、水は止められたら別の道を探す」


 棒を横へ滑らせる。


「ここです」


 昔、潮が流れていた筋。


 村の老人たちの記憶。


 漁師たちの話。


 河童水工衆が水の下で確かめた地形。


 そして弥助と岩蔵を失った崩壊。


 全部を重ねて、ようやく見えた水の道だった。


「ここを全部埋めたから、水が堤の下へ潜った」


 白瀬は顔を上げた。


「だから今回は――海の道を残します」


「海ば通すと?」


「はい」


 ざわめきが起こった。


「せっかく堤ば造るとに?」


「水ば入れたら意味なかろうもん」


 白瀬は首を振った。


「好き勝手には入れません」


 木で作った簡単な模型を置く。


「木樋を入れます。水が逃げる道を、こっちで決めるんです」


 次に、地盤の模型を指す。


「柔らかいところへ、いきなり重い土を積まない。枝束と藁と木を敷いて、その上へ石と土を重ねる」


「ほう……」


「一気に造らない。一段造ったら、止める」


「止める?」


「沈むか。水が動くか。泡が出るか。全部見ます」


 白瀬は一同を見回した。


「完成することより、壊れる前に気づくことを優先します」


 澪が静かに海へ目を向けた。


「水にも道が要る」


 一同が澪を見る。


「閉じ込めれば、水は別の道を探す。それが水というものじゃ」


 ガタ吉が腕を組んだ。


「人間は何でも塞ぎたがるけんねえ」


 白瀬が振り返る。


「河童にだけは言われたくないな」


「なんでね」


「なんとなく」


 少しだけ、笑いが起こった。


 その笑いで、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


 白瀬は息を吸う。


「始めましょう」


     ◇


 今度の普請は、前とは違った。


 誰か一人が号令をかけ、全員がただ土を運ぶ普請ではない。


 皆に役目があった。


「潮、まだ下がるばい!」


 漁師たちは潮を見る。


「ここはまだ柔らかか! 先に枝ば入れろ!」


 農民たちは土を見る。


「昔は、この辺から水ん入っとったぞ!」


 年寄りたちは昔の流れを教える。


 藩の者たちは資材を回す。


 河童水工衆は水中へ潜る。


 そしてガタ吉は、その先頭に立っていた。


「右はまだ沈む! そっちは石ば入れすぎるな!」


「分かった、若棟梁!」


 幼い声。


 だが河童たちは迷わず従った。


 岸では子供たちが板札を持っていた。


 ○。


 △。


 ×。


 危険な干潟へ子供を出すことはできない。


 だから見張りと伝令を任せたのだ。


「白瀬しゃーん!」


 小春が△の板を上げた。


「△たい!」


 白瀬が顔を上げる。


「何があった!」


 長吉が叫んだ。


「ガタ吉が屁ぇこいた!」


「それは報告せんでいい!」


「おいじゃなかぞ!」


 ガタ吉が水面から顔を出した。


「誰も疑ってない!」


 今度は大きな笑いが起こった。


 その笑いの中でも、手は止まらない。


 一段。


 止める。


 見る。


 また一段。


 止める。


 見る。


 澪が裸足で泥の上に立ち、目を閉じる。


「……まだよい」


 白瀬が聞く。


「水、怒ってません?」


「そなたは水を何だと思うておる」


「いや、澪が前にそういう言い方したから」


「今日はまだ怒っておらぬ」


「結局言うんだ」


     ◇


 日が高くなったころ。


 堤は、ゆっくりと海へ伸びていた。


 前より遅い。


 だが誰も急げとは言わない。


 弥助と岩蔵の名が、岸からこちらを見ている。


 そのときだった。


「棟梁!」


 河童の一人が叫んだ。


 ガタ吉の顔色が変わる。


「白瀬しゃん!」


 海面。


 ぷく。


 小さな泡が一つ。


 白瀬の背中を冷たいものが走った。


 ぷく。


 もう一つ。


 あの日も。


 同じだった。


「泡じゃ!」


「また出たぞ!」


 村人の間に動揺が走る。


「下がれ!」


 白瀬は反射的に堤へ向かおうとした。


 その腕を、強い力が掴んだ。


「白瀬」


 澪だった。


「離して! 下を見ないと!」


「そなた一人なら無理であろう」


「でも――」


「ゆえに、わたしがおる」


 白瀬が止まる。


 反対側からガタ吉が叫んだ。


「おいもおる!」


「俺らもおるぞ!」


「白瀬どん、何ばすればよか!」


 村人たちが続く。


 漁師も。


 農民も。


 藩の者も。


 誰も逃げなかった。


 白瀬は一度、目を閉じた。


 ――そうだ。


 もう、一人で考える普請じゃない。


 目を開く。


「ガタ吉! 泡の真下!」


「任せろ!」


 ガタ吉が潜る。


 数息後。


 水面から顔を出す。


「水が下から抜けようとしよる!」


 来た。


 白瀬は叫んだ。


「木樋を開けろ!」


 普請方が振り返る。


「なに!?」


「木樋です! 全部開けろ!」


「海水が入りますぞ!」


「入れていい!」


「しかし!」


「地下へ潜らせるよりいい!」


 白瀬は旧潮筋を指した。


「水の道を、こっちで作るんです!」


「開けろ!」


 領主の声だった。


 一同が動く。


 木栓が抜かれる。


 次の瞬間。


 ドッ――!


 海水が木樋へ吸い込まれた。


「うわっ!」


「堤ば造っとるとに、水ば入れよるぞ!」


 だが白瀬は木樋の先だけを見ていた。


 水が用意された水路を走る。


 地下へ潜ろうとしていた圧が逃げていく。


「泡は!?」


 ガタ吉が水面を見る。


 一つ。


 二つ。


 そして。


「……止まった!」


 歓声が上がりかける。


「まだ!」


 白瀬が止めた。


「まだ喜ばない!」


 地盤を見る。


 沈まない。


 木樋を見る。


 詰まらない。


 堤を見る。


 崩れない。


 十分に待つ。


 さらに待つ。


 白瀬がようやく腕を上げた。


「……進め!」


「おおおおおっ!」


     ◇


 夕方。


 堤はつながった。


 だが誰も飛び上がらなかった。


 白瀬が言ったからだ。


「満潮まで待ちます」


「まだ待つと?」


「はい」


 潮が上がる。


 波が堤へ当たる。


 一同は岸から見守った。


 前なら、誰かが確認のため走っていたかもしれない。


 今日は誰も行かない。


 危険区域には入らない。


 木樋から水が流れる。


 堤は立っている。


 潮が満ちる。


 まだ立っている。


 夜になる。


 まだ立っている。


 潮が引く。


 まだ――立っている。


     ◇


 翌朝。


 誰かが最初に気づいた。


「……おい」


「なんね?」


「あそこ」


 昨日まで海だった場所。


 そこに。


 泥の大地があった。


 波がない。


 水面もない。


 朝日に照らされた湿った土が、どこまでも――と言うにはまだ小さいが、確かに広がっている。


 誰も動かなかった。


 信じるのが怖いように。


 白瀬が棒を持って歩き出した。


 一歩。


 地盤を確かめる。


 もう一歩。


 また確認する。


 そして。


 昨日まで海だった場所の真ん中に立った。


 振り返る。


「……来られます」


 一瞬。


 静寂。


 次の瞬間。


「うおおおおおおおっ!」


 浜が揺れた。


「できた!」


「土地じゃ!」


「海ん中に土地のできたぞ!」


「白瀬しゃーん!」


 子供たちが走り出す。


「走るなあっ!」


 白瀬が慌てて叫ぶ。


「まだ地盤が柔らかい!」


「ずるかー!」


 小春が頬を膨らませる。


「白瀬しゃんだけ立っとる!」


「俺は確認してるの!」


 ガタ吉が横から、ぺたぺた泥を踏んで歩いてきた。


 胸を張る。


「ここ、昨日まで魚のおった場所ばい!」


 白瀬が周囲を見る。


「……そう言われると、すごいな」


 本当に。


 海だったのだ。


 昨日まで。


 そこに今、人が立っている。


     ◇


「ここに田んぼのできるとか?」


 農民の一人が泥を掴んだ。


「田だけじゃもったいなかばい」


「麦も作れる!」


「菜種も植えられる!」


「牛も増やせるぞ!」


 漁師が水路を見る。


「ここば残せば、舟も入れるばい」


「なら、荷ば運べる!」


 商人が食いついた。


「蔵も建てられる!」


「市も立つ!」


「宿も要るぞ!」


 大工が笑った。


「なら家ば建てんば!」


「橋もいる!」


「道も!」


 小春が手を挙げる。


「学校!」


 白瀬が振り返る。


「学校?」


「白瀬しゃんが教えると!」


「俺が!?」


 長吉も乗った。


「読み書きも、算術も、水んことも教えてくれんね!」


「おい、橋ば造れるようになりたか!」


「待って。俺、いつ先生になった?」


「先生!」


「まだ呼ぶな!」


 笑い声が弾ける。


 だが夢は止まらなかった。


「港もできるとじゃなか?」


 漁師が沖を指した。


「港?」


「深う掘れば、大きな船も着くかもしれんばい」


 商人の目が輝く。


「船が来れば米ば売れる!」


「長崎へ!」


「島原へ!」


「博多へ!」


「大坂へ!」


「江戸へ!」


「待って待って待って!」


 白瀬が両手を振る。


「さっきまで泥だったからね、ここ!」


 ガタ吉が真顔で言う。


「でも海は全部つながっとるばい」


「お前、こういうときだけ妙に正しいな!」


     ◇


「陸ばかり作ればよいものではない」


 澪だった。


 騒いでいた皆が振り向く。


 澪は新しくできた土地と、その脇を流れる水を見ていた。


「水路を残せ」


 一歩。


「池を作れ」


 もう一歩。


「水の逃げ道を作れ」


 そして白瀬を見る。


「人だけでなく、田も、魚も、水も生きられる土地にせよ」


 白瀬の中で何かがつながった。


「……水路を道代わりにする」


 皆が白瀬を見る。


「舟で荷物を運べる」


 ガタ吉が頷く。


「堤を道にする」


 農民が言う。


「なら田んぼにも行きやすか」


「洪水のときは、余った水を逃がす場所を作る」


 澪が薄く笑う。


「水を閉じ込めぬのじゃな」


「うん」


 白瀬は広がる泥を見た。


「水と喧嘩しない土地にする」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


     ◇


 やがて、小春が泥の上にしゃがんだ。


 棒で一本の線を引く。


「ここ、うちの田んぼ!」


「ずるか!」


 長吉も棒を拾う。


「なら、おいはこっち!」


「そこ、うちの隣!」


「なんでね!」


 子供たちが次々に線を引き始める。


 四角い田。


 曲がった道。


 大きすぎる家。


 橋。


 蔵。


 港。


 何に使うのか分からない丸。


「これは何?」


 白瀬が聞く。


「祭りするとこ!」


「広すぎない?」


「みんな来るけん!」


 白瀬は笑った。


 ただの落書きだ。


 だが彼の目には、違うものに見えた。


 ――土地ができれば、人が住む。


 人が住めば、道がいる。


 水がいる。


 米がいる。


 店がいる。


 学校がいる。


 舟が来る。


 橋が架かる。


 町になる。


 国になる。


「白瀬しゃん」


 小春が泥だらけの手でこちらを見る。


「百年たったら、ここ、どうなっとる?」


「百年?」


 白瀬は海を見た。


 自分が知っている未来。


 広い諫早の平野。


 水路。


 田畑。


 道。


 橋。


 町。


 だが、それをそのまま言うわけにはいかない。


「……田んぼが」


「うん」


「ずっと向こうまで続いてるかもしれない」


「どれくらい?」


「歩いても歩いても、なかなか終わらないくらい」


「うそ!」


「大きな道が通って」


「道?」


「橋が川を越えて」


「うん!」


「夜でも明かりがあって」


 子供たちの目が丸くなる。


「みんなが読み書きを習えて」


「うちも?」


「もちろん」


「おいも?」


「もちろん」


「病気になったら、ちゃんと診てもらえて」


 大人たちも聞いていた。


「遠くの町から物が来て、ここの物も遠くへ行って」


「そんなことのできるとか……」


 白瀬は新しい土地を見る。


「できるかもしれない」


     ◇


「河童は?」


 ガタ吉が言った。


「え?」


「百年後、河童はおると?」


 白瀬は少し驚いた。


 ガタ吉は珍しく真剣だった。


「河童ん住む場所も残してくれると?」


 白瀬は即答した。


「残す」


「おいらの子も?」


「住める」


「孫も?」


「住める」


「そのまた孫も?」


「しつこいな。住めるって」


 ガタ吉の顔がぱっと明るくなった。


「なら百年後も、河童水工衆がおるばい!」


 河童たちが一斉に歓声を上げた。


 白瀬はその姿を見て笑う。


 人だけの土地ではない。


 河童も。


 水守も。


 水も。


 土地神も。


 みんなが住める場所。


 そんな場所にできたら――。


     ◇


「十石くらい増えるとじゃなか?」


 誰かが言った。


 すぐに別の男が笑う。


「十石じゃ夢が小さか! 百石たい!」


「千石!」


「一万石!」


 どんどん増える。


 重臣が思わず口を挟む。


「一万石ともなれば、もはや一つの領国に等しいぞ」


「なら十万石!」


「おい!」


 領主が吹き出した。


「おぬしら、昨日まで海だった泥を見て何を申しておる」


 すると正室が、何でもないことのように言った。


「では、百万石にいたしましょう」


 浜が静まり返った。


「……はい?」


 白瀬が聞き返す。


「百万石です」


 正室は微笑んだ。


 領主が額を押さえる。


「おぬしは加減というものを知らぬのか」


「夢に加減が要ります?」


「いや、それは……」


 領主が詰まった。


 白瀬は慌てる。


「百万石なんて無理ですよ!」


「なんで?」


 小春が聞いた。


「なんでって……」


 白瀬は泥を指した。


「今あるの、これだけだよ?」


 小春も泥を見る。


 そして首を傾げた。


「でも、泥はあるとやろ?」


 白瀬は言葉を失った。


 昨日までは。


 なかった。


 海だった。


 何もなかった場所に。


 今は。


 泥がある。


 立てる土地がある。


 ゼロではない。


 白瀬は海の向こうを見た。


 この一枚が十枚になったら。


 百枚になったら。


 堤が伸びる。


 水路が走る。


 田が広がる。


 村が生まれる。


 市が立つ。


 港ができる。


 舟が集まる。


 人が増える。


 学ぶ場所ができる。


 子供たちが大人になる。


 その子供たちが、また次の土地を作る。


 百年。


 二百年。


 もっと先へ。


「……百万石」


 気づけば、口から漏れていた。


「白瀬しゃん、言うた!」


 小春が叫ぶ。


「言ってない!」


「言うた!」


 長吉も笑う。


「おいも聞いた!」


「俺も!」


「わしも聞いたぞ」


 領主まで乗ってくる。


「殿まで!」


 正室が満足そうに頷いた。


「では決まりですね」


「何も決まってません!」


 ガタ吉が両手を上げる。


「百万石!」


 子供たちも続く。


「百万石!」


 村人たちが笑いながら声を重ねた。


「百万石!」


「百万石!」


 正室が領主を見る。


「殿も」


「わしもか!?」


「殿だけ言わないのですか?」


 領主は周囲を見た。


 泥だらけの村人。


 笑う子供。


 河童たち。


 澪。


 そして白瀬。


 領主も、ついに笑った。


「……百万石!」


「百万石ぅぅぅぅ!」


 声が海へ響いた。


 白瀬は腹を抱える。


「絶対無理だからな!」


 隣で澪が言う。


「顔が笑っておるぞ」


「……まあ」


 白瀬は海を見た。


「夢を見るだけなら、ただですからね」


     ◇


 少し離れたところで。


 弥助の妻が笑い声を聞いていた。


「……あん人も、こういう話ば好きやった」


 岩蔵の妻も目を細める。


「きっと一万石じゃ足らんて言うとるよ」


「十万石って言うかもしれんねえ」


 二人は笑った。


 その目には涙があった。


 白瀬はゆっくりと二本の木札の前へ歩いた。


「いつか」


 皆が静かになる。


 白瀬は新しい土地を見た。


「ここで米が採れたら」


 領主も耳を傾ける。


「最初の米は、殿様じゃなくて」


 白瀬は二つの名を見る。


「弥助さんと、岩蔵さんへ供えましょう」


 誰も異を唱えなかった。


 領主が静かに頷いた。


「うむ」


 弥助の妻が顔を伏せた。


 岩蔵の妻が、その肩を抱く。


 潮風だけが通り過ぎた。


     ◇


 その夜。


 村では、誰が言い出したのか祝宴が始まった。


「干拓祝いじゃ!」


「まだ米一粒も採れとらんぞ!」


「土地はできたろうが!」


「なら祝いじゃ!」


 魚が並ぶ。


 芋が並ぶ。


 酒が回る。


 皿を手に踊り出す者までいた。


「百万石!」


「百万石!」


「もうやめて!」


 子供たちは面白がって、さらに声を張る。


「百万石殿ー!」


「誰が百万石殿だ!」


 正室まで扇で口元を隠しながら、


「なかなかよい名ではありませんか、百万石殿」


「奥方様までやめてください!」


 領主は酒を吹いた。


 澪も珍しく肩を震わせて笑っている。


 白瀬は頭を抱えながら――。


 やはり笑っていた。


     ◇


 少しだけ宴を抜け出した。


 海辺に立つ。


 月明かりの下。


 新しい堤が伸びている。


 その向こうに、今日生まれた土地がある。


 澪が隣へ来た。


「そなたは、本当に百万石を考えておるのか」


「まさか」


 白瀬は笑った。


「無理ですよ」


「そうか」


「……たぶん」


 澪がこちらを見る。


「たぶん、か」


「ゼロとは言ってません」


 澪は海へ目を戻した。


「ならば十分じゃ」


 しばらく二人で波を見る。


 やがて澪が言った。


「わたしが水を見る」


 白瀬は黙って聞いた。


「そなたが道を決めよ」


「俺一人じゃ無理ですよ」


「知っておる」


 澪は少し笑った。


「ゆえに、皆がおる」


 遠くから声が飛んできた。


「白瀬しゃーん!」


「百万石殿ー!」


 白瀬は振り返る。


「だからその呼び方やめろー!」


     ◇


 翌朝。


 白瀬は一人、新しい土地に立っていた。


 昨夜は夢を見た。


 田んぼ。


 水路。


 橋。


 町。


 港。


 学校。


 百年後。


 百万石。


 全部、まだ存在しない。


 白瀬はしゃがみこんだ。


 泥を指で取る。


 揉む。


 匂いを嗅ぐ。


 そして少しだけ舐めた。


「……しょっぱ」


 もう一度。


「……やっぱり、しょっぱい」


「何しよっと?」


 後ろから声がした。


 ガタ吉だった。


「現実を確認してる」


「泥ば食うて?」


「食ってない」


 澪もやってくる。


「どうなのじゃ」


 白瀬は泥を落とした。


 広がる土地を見る。


 昨日まで、海だった土地。


 みんなが百万石を夢見た土地。


 そして言った。


「土地はできました」


 ガタ吉が頷く。


「おう」


「でも――」


 白瀬はため息をついた。


「このままじゃ、米は育たない」


「え?」


 ちょうど走ってきた小春たちが止まった。


「田んぼは?」


「百万石は?」


 白瀬は泥を指差す。


「塩」


「しお?」


「塩だらけ」


 子供たちが顔を見合わせる。


 白瀬は昨日の夢の大地を見渡した。


「百万石の最初の仕事が――」


 苦笑する。


「塩抜きか……」


 小春がぽつりと言った。


「百万石って、大変ね」


「今さら気づいた?」


 朝の海に。


 皆の笑い声が響いた。


 夢は大きい。


 だが。


 その夢へ続く仕事は――。


 どうやら、途方もなく地道らしい。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第三章、ここまでたどり着きました。


昨日まで海だった場所に、ほんの小さな土地ができた。


まだ米も採れません。


町もありません。


港も、学校もありません。


それでも――。


田んぼを作ろう。


道を作ろう。


橋を架けよう。


港を作ろう。


百年先まで続く町を作ろう。


そして、いつか百万石へ。


今は完全な大風呂敷です(笑)


でも、何もなかった海の上に、最初の「泥」ができました。


夢というのは、案外そんなところから始まるのかもしれません。


そして、最初に採れた米は領主ではなく、弥助と岩蔵へ。


二人の死を「悲しい出来事」で終わらせず、これからの普請へ残していきます。


さて。


みんなで百万石を夢見た翌朝――。


現実は、しょっぱかった。


次の敵は「塩」です。


ここから物語は、海を干す話から、


「できた土地を、本当に人が暮らせる土地へ変える話」


へ進んでいきます。


次の普請も、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。