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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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21/63

第二十一普請 海が、土地になった日

海へ引いた、最初の一本の線。


今日はその堤が、本当に潮を止められるのかを試します。


人と河童と村のみんなで挑む、初めての「海との勝負」。


そして夜には、思わぬ祝いの踊りまで……。


どうぞお楽しみください。

 朝の海は、妙に静かだった。


 風は弱い。


 空には薄い雲が流れ、沖の水面が朝日にきらきらと光っている。


 その海を前にして、白瀬湊一は腕を組んでいた。


「……条件は悪くない」


「また独り言か」


 隣に立つ澪が言った。


「独り言じゃない。確認」


「昨日も同じことを申しておったぞ」


「確認は何回やってもいいんだよ」


「そなたは心配性じゃな」


「水相手に楽観的な技術者は駄目なんだ」


 白瀬はそう返したものの――。


 自分でも分かっていた。


 今日は、少し緊張している。


 目の前には、皆で造った小さな堤。


 巨大な干拓堤防には程遠い。


 大人が歩けば、あっという間に端から端まで行ける程度の試験普請だ。


 それでも。


 白瀬にとっては、この時代で初めて海へ引いた一本の線だった。


「白瀬どん!」


 背後から声が飛んできた。


 振り返る。


 土俵を肩に担いだ若い男が歩いてきた。


 弥助だ。


 二十代の終わりほど。


 妻と幼い娘を持つ、村の普請人だった。


「そっち、あと三つでよかとか?」


「十分です。……弥助さん、無茶しないでくださいよ」


「なんば言いよっとか」


 弥助が笑う。


「昨日まで一番無茶しよったとは白瀬どんじゃろ」


 周囲から笑いが上がった。


「否定できないのが悔しい」


「父ちゃーん!」


 小さな女の子が駆けてくる。


 後ろから母親が握り飯を抱えていた。


「朝飯もろくに食わんで来たじゃろ」


「食ったたい」


「二口で食ったとは言わん」


 妻が呆れながら包みを押しつける。


 娘は試験地を指さした。


「父ちゃん。ここ、田んぼになると?」


 弥助が泥の向こうを見る。


「まだまだ先たい」


「米できる?」


「できるようになったら――」


 娘の頭を撫でた。


「お前にも腹いっぱい食わせちゃる」


「ほんと?」


「ほんとたい」


 白瀬は思わず笑った。


「そのためにも、今日は無茶禁止です」


「白瀬どんにだけは言われとうなかばい」


「だから否定できないんですよ」


     ◇


「白瀬しゃーん!」


 今度は小春たちが走ってきた。


 長吉を先頭に、子どもたちがぞろぞろ続いている。


「今日は海ば止めるとやろ!」


 小春が目を輝かせた。


「止めるって言い方はちょっと違う」


「じゃあ何すると?」


「海に、今日はここまでってお願いする」


「お願いで止まると?」


「止まらない」


「駄目やん!」


 子どもたちが一斉に笑った。


「だから堤を造ったんだよ!」


 白瀬も笑う。


 少し離れた海辺では、河童水工衆が集まっていた。


 その真ん中で、ガタ吉が腕を組んでいる。


「よいか! 今日は大事な普請じゃ!」


 いつになく張り切っている。


「海ん下は、おいらたちが見る!」


「若」


「なんじゃ!」


 年長の河童が口を挟んだ。


 岩蔵だった。


 ガタ吉の父の代から水工衆にいる古参である。


 体はガタ吉より二回りほど大きい。


 頭の皿には古い傷が一本走っていた。


「声ば張る前に、潮ば見なされ」


「見とる!」


「では、あちらは?」


「ん?」


 岩蔵が指す。


 水面に、わずかな筋が走っている。


 ガタ吉が目を細めた。


「……横に流れとる」


「満ち始めれば、もう少し強うなりますな」


「分かっとった!」


「今、気づいた顔でしたぞ」


「うるさい!」


 岩蔵がにやりと笑う。


「まだまだ親方には及びませぬな」


 ガタ吉がむっとした。


「いつか父ちゃんば超えるぞ!」


「へいへい」


「絶対じゃ!」


 岩蔵は海を見たまま笑った。


「そいつは楽しみじゃ」


 白瀬はそのやり取りを少し離れた場所から見ていた。


 ガタ吉が若棟梁として立っていられるのは。


 きっと。


 こうした河童たちが、ずっと横にいてくれたからなのだろう。


「白瀬しゃん!」


 ガタ吉が胸を張った。


「海ん下は、おいらたちに任せろ!」


「頼んだぞ、若棟梁」


「うむ!」


「若」


「なんじゃ!」


「まず潜りますぞ」


「分かっとる!」


 また笑いが起こった。


     ◇


「樋、開けるぞ!」


 引き潮。


 白瀬の声に合わせ、木で組んだ排水樋が開かれた。


 どっと。


 堤の内側に残っていた水が海へ流れ始める。


「おおおっ!」


 村人たちから声が上がった。


「流れよる!」


「当たり前だ!」


 白瀬が叫ぶ。


「海の方が低くなってるんだから流れる! でも、まだ喜ぶな!」


「もう喜んどるぞ!」


 長吉が叫んだ。


「早い!」


 白瀬の手には三枚の板。


 丸。


 三角。


 そしてバツ。


 河童水工衆への合図だ。


 白瀬が丸を上げる。


 海面からガタ吉の皿がぴょこんと出た。


「丸じゃ!」


「見れば分かる!」


「確認じゃ!」


「お前まで確認か!」


 笑いが起こる。


 それでも作業は正確だった。


 河童たちは水中で石の沈み具合を確かめる。


 陸では久右衛門たちが杭を見回る。


 新八は潮の動きを読む。


 弥助たちは土俵を運ぶ。


 子どもたちは縄と目印を確認して回った。


 誰一人、ただ見ている者はいない。


 白瀬はそれを見て、ふと胸が熱くなった。


 最初は。


 自分ひとりが何とかしなければと思っていた。


 だが違う。


 自分が知らないことを、この村の人間は知っている。


 河童たちは、さらに自分には見えない水の中を知っている。


 そして今。


 皆で、一つのものを造っている。


「白瀬」


 澪の声。


 白瀬は我に返った。


「水が、なくなるぞ」


 堤の内側。


 さっきまで海だった場所から、水が引いていく。


 やがて。


 黒く濡れた泥が姿を現した。


「……おお」


 白瀬自身の口から、声が漏れた。


 小春が目を丸くする。


「海ん底って……こがんなっとると?」


「そうだな」


 白瀬はしゃがみ込む。


 目の前にあるのは泥だ。


 田でもない。


 畑でもない。


 土地と呼ぶにも早い。


 けれど。


 四百年後の諫早で、当たり前のように眺めていた干拓地。


 その最初の一歩が、今、自分の目の前にある。


「……すごいな」


「白瀬しゃんが言うと?」


 長吉が笑った。


「俺だって感動するんだよ」


     ◇


 やがて潮が戻り始めた。


 さっきまでの笑い声が消える。


 新八が沖を見つめる。


「来たばい」


 白瀬も立ち上がった。


 ここからだ。


 本当の勝負は。


 潮がゆっくりと堤へ近づいてくる。


 そして。


 ざぶん。


 第一波。


 堤は耐えた。


 ざぶん。


 第二波。


 耐える。


 白瀬は竹竿につけた水位の印を見る。


「まだ大丈夫」


 その時だった。


「白瀬どん!」


 弥助が叫んだ。


「右ん下じゃ!」


 白瀬が振り返る。


 堤の端。


 細い水が噴き出している。


「漏れた!」


 白瀬が走ろうとする。


 だが、その袖を澪がつかんだ。


「離してくれ!」


「そなたは、どこを見る者じゃ」


「え?」


「一つの穴か。それとも、この堤すべてか」


 白瀬は息を呑んだ。


 澪は海を見たまま言う。


「そこは、ガタ吉たちの場所じゃ」


     ◇


「漏れじゃ!」


 海面からガタ吉が顔を出した。


「おいらが行く!」


 潜ろうとする。


 その肩を岩蔵がつかんだ。


「若は中央を見なされ」


「でも!」


「ここは、わしが行きます」


「岩蔵!」


「棟梁が一か所しか見えなくなって、どうします」


 言うなり。


 岩蔵は水中へ消えた。


「縄ぁ!」


 弥助が叫ぶ。


「ここにある!」


 長吉たちが縄を運ぶ。


 弥助が先を結び直す。


「岩蔵!」


 水面から皿が出た。


「ここじゃ!」


 弥助が縄を投げる。


「届いたか!」


 一瞬。


 岩蔵の手が水上へ出た。


「届いたぞ、人間!」


「人間じゃなか! 弥助じゃ!」


「なら覚えたぞ、弥助!」


「忘るんな!」


「そっちこそ!」


 弥助が縄を引く。


 水中の岩蔵が石を押し込む。


 久右衛門たちは土俵を運ぶ。


「ここば押さえろ!」


「もっと石!」


「持ってこい!」


 人間が上から。


 河童が下から。


 一つの穴へ、皆の手が集まる。


 白瀬は歯を食いしばりながら全体を見る。


「左!」


「異常なか!」


「中央!」


「持っとる!」


「樋!」


「閉じたばい!」


 そして。


 噴き出していた水が。


 細くなった。


 さらに。


 細く。


 最後に。


 ぽたり。


 水が止まった。


 弥助が縄を握ったまま笑った。


「止まったぞ!」


 直後。


 岩蔵が水面から顔を出した。


「こっちもじゃ!」


 ガタ吉が飛び跳ねる。


「岩蔵!」


「若。中央は?」


「異常なしじゃ!」


「なら上出来」


「おいら棟梁ぞ!」


「だから言うとる」


 緊張していた村人たちから、笑いが漏れた。


     ◇


 潮はさらに満ちた。


 堤の外。


 海。


 堤の内。


 泥。


 誰も喋らない。


 白瀬は竹竿を見る。


 水位は――。


 上がっていない。


 もう一度見る。


 間違いない。


「……止まった」


 久右衛門が聞き返す。


「何がじゃ?」


 白瀬はゆっくり海を指した。


「海です」


 一拍。


 そして。


「うおおおおおおおっ!」


 歓声が爆発した。


「止めたぞ!」


「海ば止めた!」


「やったばい!」


 弥助が両手を突き上げた。


 岩蔵まで水面を叩く。


 子どもたちが飛び跳ねる。


 小春が泥へ駆け出した。


「待てええええ!」


 白瀬が叫ぶ。


 全員が振り返る。


「まだ土地じゃない! 泥だ! 入るな!」


「水なかやん!」


「だからって歩けるとは限らない!」


 その横で。


「どれどれ」


 ガタ吉が一歩踏み出した。


 ずぶっ。


「お?」


 ずぶぶぶぶ。


 胸まで沈んだ。


「…………」


 皆が黙る。


 ガタ吉が白瀬を見る。


「白瀬しゃん」


「はい」


「先に言ってほしかったぞ」


「今言った!」


 澪が静かに言う。


「ガタ吉。今、申したであろう」


「聞こえなかったぞ!」


「飛び込んだからじゃ!」


 今度は笑い声が爆発した。


     ◇


 白瀬は泥を一握りした。


「いいか。これで終わりじゃない」


 村人たちが集まる。


「水を抜く。乾かす。塩を抜く。水路を造る。土を育てる」


「どれくらいかかる?」


 農民の一人が尋ねた。


「すぐ田んぼにはならない。何年もかかるかもしれない」


 喜びに満ちていた顔が、少し曇る。


「それでも」


 弥助が泥地を見た。


「いつか田にはなるとじゃろ?」


 白瀬は弥助を見る。


「なります」


「ほんとか?」


「ちゃんとやれば」


 弥助はしばらく泥を眺めた。


 それから。


「なら、よか」


 ただ、それだけ言った。


 白瀬は頷く。


「今日、一番大事なことが分かりました」


「何じゃ?」


 白瀬は海を見る。


「できるんです」


 静かになった。


「海から土地を借りることは、できる」


 農民が泥を見る。


 そこに田んぼを見た。


 漁師が水路を見る。


 そこに舟の道を見た。


 商人は。


 もっと先を見ていた。


 家。


 倉。


 道。


 町。


 まだ何もない泥の上に。


 皆が、それぞれの未来を見始めていた。


     ◇


「兄ちゃーん!」


 小さな声がした。


 ガタ吉が振り向く。


 二匹の小さな河童が走ってくる。


 その後ろには、柔らかな顔をした河童の女。


「おお!」


 弟がガタ吉へ飛びついた。


「兄ちゃん、海ば止めた!」


「おいらだけじゃないぞ」


 ガタ吉は胸を張る。


「みんなで止めたんじゃ!」


 妹も皿を輝かせる。


「兄ちゃん、すごか!」


「そうじゃろ、そうじゃろ!」


「調子に乗るでない」


 母がガタ吉の頭についた泥を拭う。


「まったく。父ちゃんに似て無茶ばかりして」


 ガタ吉の顔が、ほんの少し止まった。


 その横で。


 岩蔵が試験地を見る。


「……親方にも、兄貴にも」


 ぽつり。


「見せたかったですな」


 ガタ吉も海を見る。


 少しだけ黙った。


 だが。


 すぐに胸を張る。


「次は、おいらたちが造るぞ」


「ほう」


「もっとでっかいのを!」


 弟と妹が、


「おー!」


 と両手を上げた。


 岩蔵が笑う。


 そして。


 ほんの少しだけ頭を下げた。


「へい。若棟梁」


「な、なんじゃ急に」


「たまには棟梁らしいことを申すので」


「いつもじゃ!」


 白瀬も笑った。


「頼りにしてるぞ、若棟梁」


「任せろ!」


     ◇


 その日の夕方。


 村は宴になった。


 魚が焼かれた。


 握り飯が積まれた。


 煮物の鍋から湯気が上がる。


 酒も出た。


 河童たちの前には、魚と瓜。


 子どもたちは腹いっぱい食べたはずなのに、まだ走り回っている。


「父ちゃん」


 弥助の娘が、焼き魚を指さした。


「骨」


「待っとれ」


 弥助が箸で身をほぐす。


「ほれ」


「ありがと!」


「おいの分まで食うなよ」


「食べる!」


「おい!」


 妻が呆れた。


「子ども相手に本気にならんで」


「おいの魚ぞ」


「今日は祝いじゃろ」


「祝いでも魚は魚たい」


 その少し向こう。


 ガタ吉はすでに三匹目だった。


「今日は祝いじゃ!」


「お前、昼からそればっかりだな」


「祝いは何回してもよか!」


「誰に教わった、その理屈」


「若」


 岩蔵が魚を一匹取った。


「それ、わしのですぞ」


「早い者勝ちじゃ!」


「棟梁が部下の魚を取りますかな」


「棟梁じゃけんよか!」


「最悪の棟梁ですな」


「返せ!」


「もう食うた」


「岩蔵ー!」


 河童たちまで笑う。


     ◇


 その時だった。


 カチ。


 小さな音がした。


 白瀬が振り向く。


 宴の真ん中で、酒の入った農家の女が二枚の小皿を手にしていた。


「今日はめでたか日じゃ!」


 カチ、カチ。


 二枚の皿を調子よく打ち鳴らす。


「ほれ、踊らんね!」


 隣の女も笑って皿を取る。


 カチ。


 カチカチ。


 男たちが手拍子を打つ。


 誰かが立ち上がる。


 右へ一歩。


 左へ一歩。


 腰を落とす。


 また皿を鳴らす。


 決まった振りなどない。


 ただ楽しくて。


 ただ嬉しくて。


 皆が皿を鳴らしていた。


「…………」


 白瀬だけが動かなかった。


「白瀬?」


 澪が怪訝そうに見る。


「どうした」


「いや……」


 カチ、カチ。


 カチカチ。


 その音。


 皿を持った手。


 笑いながら踊る人々。


 白瀬の脳裏に。


 四百年後の諫早が、一瞬だけ重なった。


 祭りの夜。


 人、人、人。


 両手に持った小皿。


 町中に響く軽やかな音。


「……嘘だろ」


「何がじゃ」


 白瀬は思わず笑った。


「これ……のんのこじゃないか」


「のん……何じゃ?」


「あ」


 白瀬は口をつぐんだ。


 当然だ。


 この時代の人間が知るはずがない。


「いや。なんでもない」


「なんでもない顔ではないぞ」


「俺のいたところにも、よく似た踊りがあるんだよ」


 小春が食いついた。


「踊り!?」


「しまった」


「白瀬しゃん、踊って!」


「嫌だ」


「見たか!」


「嫌だ」


「見たか!」


「二回言っても嫌だ!」


 長吉まで寄ってくる。


「白瀬しゃん、できんと?」


「できるできないの問題じゃない!」


「できんとたい」


「その言い方やめろ!」


 周囲から笑いが起きる。


 ガタ吉まで両手を腰へ当てた。


「白瀬しゃん」


「何だ」


「海は止められても、踊りはできんのじゃな」


「……よし分かった」


 白瀬が立った。


「そこまで言われたらやってやる」


「おおっ!」


 歓声。


「皿、貸して」


 二枚の小皿を受け取る。


 白瀬は一度だけ深呼吸した。


「細かいところは忘れてるからな」


「早う!」


「うるさい!」


 そして。


 カチ。


 カチカチ。


 白瀬の手が動いた。


 右。


 左。


 小皿を返す。


 足を運ぶ。


 祭りで何度も見た動きを、記憶を頼りに真似していく。


「おおおっ!」


「白瀬しゃん、できるやん!」


「できるって言っただろ!」


 小春が皿を取った。


「うちも!」


「皿をこう返して――そう!」


「こう?」


「そうそう!」


 長吉も飛び込む。


「おいも!」


 ガタ吉も続く。


「おいらも!」


「お前は自分の皿を叩くなよ!」


「叩かんわ!」


 いつの間にか。


 白瀬の周りに輪ができていた。


 カチ、カチ。


 カチカチ。


     ◇


「父ちゃんも!」


 弥助の娘が袖を引く。


「おいはよか」


「踊って!」


「父ちゃん、踊りは苦手たい」


「逃げよる!」


「逃げとらん!」


 娘が強引に手を引いた。


「ほら!」


「分かった分かった!」


 弥助が立つ。


 右へ。


 一歩。


 皆が左へ。


「逆!」


「知らん!」


 娘が腹を抱えて笑った。


「父ちゃん、下手!」


「うるさか!」


 一方。


 岩蔵は少し離れたところで腕を組んでいる。


 ガタ吉が見つけた。


「岩蔵!」


「何ですかな」


「逃げよるな!」


「年寄りに踊れとは酷ですぞ」


「できんとじゃ!」


 岩蔵の眉がぴくりと動いた。


「若」


「なんじゃ」


「今、何と?」


「できんとじゃ!」


「……皿を貸されよ」


「お?」


 岩蔵が輪へ入った。


 カチ。


 カチカチ。


 腰を落とす。


 皿を返す。


 一歩。


 二歩。


 妙にうまい。


 白瀬が思わず止まった。


「なんで岩蔵さん、俺よりうまいんです?」


「白瀬どん」


「はい」


「腰が高い」


「駄目出しされた!」


「皿だけ見ておりますな」


「なんで指導されてるんだよ!」


 弥助が笑う。


「白瀬どん、海では先生でも踊りじゃ岩蔵に負けたな!」


「弥助さんも下手でしょう!」


「おいは認めとる!」


「強い!」


 笑いが広がった。


     ◇


「澪!」


 白瀬が手招きする。


「来いよ!」


「断る」


「即答するな!」


「わたしは水守じゃ。踊り手ではない」


「関係ないだろ!」


「そなた一人で十分面白い」


「見世物にするな!」


 澪はそう言いながら。


 ほんの少しだけ手拍子を打った。


「ほら。参加してるじゃないか」


「しておらぬ」


「してる」


「しておらぬ」


「して――」


「しつこいぞ」


「はい」


 また笑い。


     ◇


 宴の端。


 地味な着物を着た女が一人。


 侍女と並んで座り、その様子を楽しそうに見ていた。


 ただの町人の女――。


 に見える。


 だが。


「奥方様」


 侍女が小声で囁く。


「声が大きい」


「そもそも、このような所へお忍びで来られるなど」


「面白そうだったのでな」


「理由になっておりませぬ」


 領主の正室。


 その人だった。


 奥方は白瀬の踊りをじっと見る。


「面白いのう」


「まさか、おやりになるおつもりでは」


「何を申す」


 奥方は涼しい顔をした。


 一拍。


「……皿を二枚、持ってくるがよい」


「奥方様!?」


     ◇


 しばらくして。


 カチ。


 カチカチ。


 白瀬が振り返った。


「ん?」


 輪の外。


 さっきまで座っていた婦人が。


 実に楽しそうに皿を鳴らしている。


「うまい!」


 白瀬が声を上げた。


「あなた、筋がいいですね!」


「そうか?」


「初めてにしては!」


 侍女が真っ青になった。


「奥――」


「ん?」


「なんでもございません!」


 婦人は愉快そうに笑った。


 誰が始めたのか。


 誰が教えたのか。


 もう分からない。


 昔からあった祝いの皿鳴らしに。


 四百年先の諫早から。


 ほんの少しだけ、新しい振りが混ざった。


 それが後の何かにつながったのか。


 ただ、この夜限りの戯れだったのか。


 白瀬にも分からない。


 ただ。


 海から初めて土地を借りた日。


 人と河童は。


 皿を鳴らして。


 笑って。


 踊った。


     ◇


「白瀬どん」


 踊りからようやく解放された白瀬の隣へ、農家の婆さまがすっと座った。


「はい?」


「うちん姪じゃがな」


「……はい?」


「十八でな」


 白瀬の箸が止まった。


 反対側から別のおかみが座る。


「うちん娘は働き者ばい」


「いや、ちょっと待って」


「魚も捌ける」


「待ってください」


 さらに男が入ってくる。


「わしん妹も器量よかぞ!」


「なんで増えてるんですか!」


 宴がどっと沸いた。


「白瀬しゃん、また嫁ば勧められよる!」


 小春が笑う。


「今度こそ決めんば!」


 長吉も囃す。


「お前ら面白がってるだろ!」


 ガタ吉が魚をくわえたまま聞いた。


「白瀬しゃん。嫁って何人までよかと?」


「一人だよ!」


 澪が杯を置く。


「ほう」


「何」


「一人ならよいのか」


「そこ拾わなくていい!」


 また笑い。


 澪は澄ました顔で酒を一口飲んだ。


     ◇


 奥方は、そんな白瀬を少し離れた場所から眺めていた。


「あれが白瀬か」


 侍女が目を丸くする。


「先ほど一緒に踊っておられたではありませぬか」


「近くで見るのと、眺めるのは違う」


「そういうものでございますか」


「思ったより普通の男ではないか」


 その瞬間。


「逃がすな!」


「待て! 本気で捕まえるな!」


 白瀬が長吉につかまり。


 足を滑らせた。


 べしゃっ。


 泥。


 ガタ吉が腹を抱える。


 澪が額を押さえる。


 奥方はしばらく黙り。


「……前言を撤回しよう」


「はい?」


「面白い男じゃ」


 侍女は深くため息をついた。


     ◇


「白瀬どんには、どがんな嫁がよかろうな」


 婆さまたちの会議が始まっている。


 奥方が興味津々で尋ねた。


「その白瀬殿という者には、どのような女子が合うのじゃ?」


 事情を知る村役人が凍りついた。


 だが正体を知らない婆さまは普通に答える。


「そりゃあ、あん人ば止められる女子じゃろ」


「なるほど」


 奥方は白瀬を見る。


 次に。


 澪を見る。


「……ほう」


「奥方様」


「何も申しておらぬ」


 奥方は少し考え。


「では、あの水守の娘など、どうじゃ?」


「ああ、澪様!」


 婆さまの声が大きくなる。


 遠くにいた白瀬が振り返った。


「今、澪って聞こえませんでした!?」


 小春が立ち上がる。


「白瀬しゃん! 澪しゃんでよかやん!」


「お前まで!」


 ガタ吉も手を上げた。


「おいらもよかと思うぞ!」


「お前もか!」


 皆の目が。


 澪へ集まった。


「…………」


 澪は白瀬を見る。


 白瀬も澪を見る。


「いや、その……」


 先に目を逸らしたのは澪だった。


「……わたしは知らぬ」


 杯を持ち上げる。


 その耳が。


 ほんの少しだけ赤い。


 白瀬は気づかなかった。


 小春は気づいた。


 奥方も。


 気づいた。


「……ほう」


「奥方様」


「何も申しておらぬと言うておろう」


     ◇


 白瀬はついに逃げた。


「もう駄目だ……」


 宴の端へ避難する。


 そこに。


 先ほど一緒に皿を鳴らしていた婦人が座っていた。


「すみません。ちょっとここ、隠れさせてもらっていいですか」


「構わぬ」


「助かります」


 白瀬は息を吐いた。


「ここの人たち、油断するとすぐ嫁を押しつけてくるんですよ」


「嫌なのか?」


「嫌というか……」


 白瀬は試験地を見る。


「今、それどころじゃないでしょう」


「ほう」


「堤も、水路も、田んぼも、まだ何もできてない。今日できたのなんて、ほんの小さな泥地です」


「されど」


 婦人も海を見る。


「あれを見た者は、皆、先を見ておるぞ」


 白瀬は宴を見る。


 笑う村人。


 騒ぐ子ども。


 魚を食う河童。


 皿を鳴らす者たち。


 そして澪。


「国を作る方が先、ということか」


 婦人が言った。


「国なんて大げさですよ」


「そうかのう」


 白瀬は首を傾げた。


「……なんか、あなた、喋り方が誰かに似てますね」


「気のせいじゃ」


「そうですか?」


「そうじゃ」


 婦人は涼しい顔。


 侍女だけが必死に笑いを堪えていた。


     ◇


 少し離れた場所では。


 弥助と岩蔵が並んで座っていた。


 昼間、一緒に漏れを止めた二人だ。


「岩蔵」


「なんじゃ、弥助」


 弥助が酒の入った椀を差し出す。


「河童は酒、飲むとか?」


「飲めんことはないが」


 岩蔵は鼻を動かした。


「魚の方がよい」


「そいなら交換じゃ」


 弥助が皿の魚を一匹渡す。


 代わりに酒を受け取った。


「こいでよし」


「おぬし、得しただけでは?」


「細かかこと言うな」


 岩蔵が魚にかぶりつく。


 二人の前には。


 昼間、海だった泥地が広がっている。


 弥助がそこを見つめた。


「なあ」


「何じゃ」


「来年は、ここで米ば作れるかのう」


「来年は気が早かろう」


「やっぱり?」


「じゃが」


 岩蔵も泥地を見る。


「若が諦めねば、いつかは」


 弥助が笑う。


「白瀬どんも諦めんぞ」


「……なら」


 岩蔵も笑った。


「できそうじゃな」


「じゃろ?」


 二人はそれ以上何も言わなかった。


 ただ。


 海だった場所を見ながら。


 魚を食べ。


 酒を飲んだ。


     ◇


 日が沈む。


 潮の匂い。


 酒の匂い。


 焼いた魚の匂い。


 遠くから聞こえる皿と手拍子の音。


 カチ。


 カチカチ。


「ガタ吉ー!」


 白瀬が叫ぶ。


「魚なくなるぞ!」


「それはいかん!」


 ガタ吉が走ろうとして。


 止まった。


「……?」


 試験地の泥。


 その表面で。


 小さな泡が弾けた。


 ぶくっ。


 ガタ吉がしゃがむ。


 指で泥を触る。


 もう一つ。


 ぶくっ。


「……なんじゃ?」


「若?」


 少し離れたところから岩蔵が声をかけた。


 ガタ吉が振り返る。


「なんでもないぞ!」


「魚がなくなりますぞ」


「今行く!」


 ガタ吉は立ち上がった。


 一度だけ。


 泥を振り返る。


 ぶくっ。


 もう一つ。


 小さな泡。


 だが。


 宴では誰かが叫んだ。


「白瀬どんが、また嫁から逃げよるぞ!」


「違う!」


 笑い声が爆発する。


 ガタ吉も笑った。


 そして。


 岩蔵と一緒に宴へ戻っていった。


 カチ、カチ。


 カチカチ。


 皿の音が鳴っている。


 弥助の娘が父の膝へ座り。


 ガタ吉の弟と妹が魚を奪い合い。


 澪が呆れた顔で白瀬を見て。


 お忍びの奥方が、楽しそうに笑っていた。


 その夜。


 人も。


 河童も。


 皆が笑っていた。


 海から、初めて土地を借りられた日を祝って。


 皿を鳴らし。


 踊り。


 未来の田を語り。


 未来の村を語った。


 だから。


 誰もまだ知らなかった。


 海は――。


 堤を越えなくても。


 こちら側へ来られるということを。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、第三章に入ってから初めて大きく「やった!」と思える回にしました。


まだ田んぼでも畑でもない、小さな泥地。


それでも白瀬たちにとっては、


「海から土地を借りることはできる」


と分かった、大きな一歩です。


祝宴では、諫早の皿踊りを思わせる遊びも入れてみました。

もちろん、この時代に現在の「のんのこ節」がそのまま存在したわけではありませんので、村人たちの素朴な皿鳴らしに、白瀬が未来の記憶から少しだけ振りを混ぜた形にしています。


そして――。


最後にガタ吉が見つけた、小さな泡。


次回。

海は、堤を越えなくてもやって来ます。

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