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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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22/63

第二十二普請 海は、下から来た

昨日まで、皆が笑っていました。


海だった場所に土地が現れ、皿を鳴らし、未来の田んぼを語りました。


けれど。


水は、見えているところだけを流れるとは限りません。


第二十二普請。


成功の、その翌朝です。

 朝の浜に、一枚の小皿が落ちていた。


 白瀬湊一は、それを拾い上げた。


 昨夜。


 皆で鳴らし、踊った皿だ。


「……誰だよ。こんなところに置きっぱなしにしたの」


「そなたではないのか」


 背後から澪の声。


「俺じゃない」


「昨夜のそなたは、随分と楽しそうであったぞ」


「忘れてくれ」


「踊りながら転んだことか?」


「そこまで覚えてるなら、なおさら忘れてくれ」


 白瀬が顔をしかめる。


 その横から。


「白瀬しゃーん!」


 ガタ吉が駆けてきた。


「嫁は決まったか!」


「朝一番に聞くことじゃない!」


「昨日いっぱいおったぞ!」


「あれは候補ですらない!」


「澪でもよかではないか」


「お前まで言うな!」


「……ガタ吉」


 澪の声が低くなる。


「逃げろ!」


「なぜじゃ!」


「いいから!」


 ガタ吉が走り出す。


 澪は追わない。


 ただ。


 耳だけが少し赤かった。


「……朝から何をしておるのじゃ」


 白瀬が呟く。


 昨日と同じ海。


 昨日と同じ堤。


 そして。


 昨日まで海だった場所には。


 黒い泥地が広がっていた。


     ◇


「父ちゃーん!」


 弥助が振り向いた。


 娘が走ってくる。


 その後ろから妻。


「待たんね!」


「母ちゃん遅か!」


「お前が速すぎると!」


 娘は父親へ飛びついた。


「父ちゃん、今日もここで仕事すると?」


「そうたい」


「田んぼ作ると?」


「今日はまだ作らん」


「いつ作る?」


「うーん」


 弥助は泥地を見る。


「来年は無理じゃろうな」


「じゃあ再来年?」


「そいも分からんな」


「遅か!」


「田んぼは急いでできんとたい」


 白瀬が横から言った。


「まず水を抜いて、塩を抜いて、地面を乾かして、水路を――」


「白瀬どん」


「はい?」


「娘に説明しても分からんぞ」


「……確かに」


 弥助が笑った。


「まあ、よかたい」


 娘の頭へ手を置く。


「お前が嫁に行く頃までには、ここで米ば作れるようになっとればよか」


「うち、嫁に行かんもん!」


「なんで!」


「父ちゃんとおる!」


「おお!」


 弥助が嬉しそうに妻を見る。


「聞いたか!」


「今だけたい」


「そんなこと言うな!」


 娘が笑う。


 妻も笑う。


 白瀬も笑った。


 泥しかない場所だった。


 それでも。


 そこにはもう。


 未来の田んぼが見えているようだった。


     ◇


 少し離れた水際。


 岩蔵が道具をまとめていた。


「父ちゃん!」


 小さな河童が走ってくる。


 岩蔵の息子だった。


「おいも行く!」


「駄目じゃ」


「なんで!」


「まだ早い」


「おい、泳げるぞ!」


「泳げるだけなら魚でもできる」


「魚と一緒にするな!」


 その後ろから岩蔵の妻が来る。


「また若のお守りかえ」


「お守りではない」


「毎日、若、若と言うとるではないか」


「棟梁じゃからな」


 息子が胸を張った。


「おいも父ちゃんみたいな水工になる!」


「ほう」


「いつから行ってよか?」


 岩蔵は少し考えた。


「水が怖いと思えるようになったらじゃ」


「怖くなか!」


「なら、まだ早い」


「なんでじゃ!」


 妻が笑った。


「父ちゃんの言うこと聞いとき」


「母ちゃんまで!」


 岩蔵は息子の頭の皿を軽く撫でた。


「水ば怖がるだけでは仕事にならん」


「うん」


「じゃが、怖くないと思うた時が一番危ない」


 息子は首を傾げる。


「分からん」


「そのうち分かる」


「いつ?」


「大きゅうなったらじゃ」


「またそれ!」


 岩蔵が笑う。


「さて」


 海を見る。


「若棟梁ば叩き起こしてくるか」


「もう起きとるぞ!」


 遠くからガタ吉の声がした。


「聞こえとるわ!」


「なら早う来い!」


「ほらな」


 妻が笑う。


「お守りじゃ」


「違うわ!」


     ◇


「昨日の漏れは?」


 白瀬が尋ねた。


 岩蔵が水から上がる。


「止まっとります」


「間違いない?」


「へい」


 ガタ吉も胸を張った。


「おいらも見たぞ!」


「よし」


 昨日。


 弥助と岩蔵が協力して塞いだ場所。


 そこには異常がなかった。


 白瀬は少し息を吐いた。


 試験干拓としては成功した。


 だが。


 成功したからこそ。


 今日は細かいところまで調べる。


「白瀬しゃん」


 ガタ吉が呼んだ。


「ん?」


「……ちょっと来てくれ」


 声が違った。


 白瀬が振り向く。


 ガタ吉の顔から。


 いつもの元気が消えている。


     ◇


 泥地の中央。


 ガタ吉がしゃがむ。


「ここじゃ」


「何が?」


「昨日……」


 少し言いよどむ。


「昨日の夜、泡が出とった」


 白瀬の動きが止まった。


「泡?」


「うむ」


「いつ?」


「宴の途中じゃ」


「なんで言わなかった」


 思わず声が強くなる。


 ガタ吉が小さくなる。


「……魚がなくなる言われて」


「ガタ吉!」


「白瀬」


 澪の声。


 白瀬は口を閉じた。


 ガタ吉はまだ幼い。


 そして。


 自分だって。


 昨日は成功に浮かれていた。


「……悪い」


 白瀬はしゃがむ。


「怒るのは後だ」


「おいら……」


「今は調べる」


 ガタ吉が頷いた。


 岩蔵が棒を持ってくる。


「この辺りでしたかな」


「もうちょい右じゃ」


 泥へ差す。


 ずぶり。


「柔らかいな」


 さらに押す。


 深い。


 岩蔵が棒を引き抜いた。


 その穴から。


 じわり。


 水が染み出した。


「……」


 白瀬が触る。


 指を舐める。


「塩辛い」


 新八も舐めた。


「海水たい」


「なんで……」


 白瀬は堤を見る。


 昨日漏れた場所とは。


 まったく違う。


 遠い。


「白瀬」


 澪が言った。


「何だ」


「水がおる」


「見れば分かる」


「違う」


 澪は足元を見る。


「もっと下じゃ」


 白瀬の背筋に。


 冷たいものが走った。


     ◇


 ぽた。


 最初は。


 その程度だった。


 穴から水が染みる。


 ただ、それだけ。


 だが。


 少し離れた泥が。


 ぶくっ。


「白瀬どん!」


 弥助が叫ぶ。


「こっちもじゃ!」


 白瀬が走る。


 そこにも泡。


 さらに。


 別の場所。


 ぶくっ。


「なんだ……これ」


 白瀬はしゃがむ。


 水が。


 増えている。


 ぽた。


 ちょろ。


 ちょろちょろ。


 そして。


 泥が。


 ぼこっ。


 盛り上がった。


「下がれ!」


 白瀬が立ち上がった。


「皆、そこから下がれ!」


「白瀬どん?」


 久右衛門が怪訝そうに見る。


「堤は何ともなかぞ!」


「堤じゃない!」


 白瀬は叫んだ。


「下だ!」


「下?」


「地面の下が……」


 言葉が止まる。


 白瀬にも。


 まだ確信はない。


 だが。


 嫌な予感だけは。


 確実にあった。


     ◇


「土俵ば持ってこい!」


 村人が叫ぶ。


「昨日みたいに塞ぐぞ!」


「待て!」


 白瀬が止める。


「入れるな!」


「なんでじゃ!」


「穴は出口だ!」


 白瀬は泥を指した。


「水がどこから入ってるか分からない!」


「塞がんでよかとか!」


「塞いだら別の場所から出るかもしれない!」


 村人たちが動きを止めた。


「じゃあどうする!」


「……」


 白瀬は答えられなかった。


 分からない。


 現代なら。


 測る道具がある。


 地盤を調べる。


 水位を測る。


 土質を調べる。


 だが。


 ここには何もない。


「おいらが見る!」


 ガタ吉が走る。


 海へ飛び込もうとする。


「若」


 岩蔵が肩を掴んだ。


「離せ!」


「今日は、わしが先に行きます」


「棟梁はおいらじゃ!」


「だからじゃ」


 ガタ吉が睨む。


 岩蔵は静かだった。


「棟梁が、一か所しか見えんようになってどうします」


「……」


「海も」


「堤も」


「人も」


「河童も」


「全部見るのが棟梁ですぞ」


 昨日と。


 同じ言葉だった。


 ガタ吉は拳を握った。


「……分かった」


「よろしい」


 岩蔵が笑う。


「では、ちょいと見てきます」


 どぼん。


 水へ消えた。


     ◇


 海の下。


 岩蔵は堤沿いに泳いだ。


 杭。


 石。


 土俵。


 目立った崩れはない。


 昨日補修した場所も。


 しっかり残っている。


「……違う」


 岩蔵は潜る。


 堤の下。


 泥へ手を伸ばす。


 細い水の流れ。


 触れる。


 泥が。


 手の中から逃げていく。


 砂。


 小石。


 水と一緒に。


 吸い出されている。


「……!」


 さらに手を入れる。


 奥へ。


 入る。


 入る。


 底がない。


 空いている。


 岩蔵の目が見開かれた。


     ◇


 ばしゃっ!


「若ぁ!」


 岩蔵が水面へ飛び出した。


「岩蔵!」


「下が!」


「何じゃ!」


「下が抜けとる!」


 白瀬が振り返る。


「何?」


「堤の下じゃ!」


 岩蔵が叫ぶ。


「泥が流れ出しとる!」


 白瀬の頭の中で。


 ばらばらだったものがつながった。


 泡。


 海水。


 泥。


 空洞。


「まずい……」


「白瀬?」


 澪が見る。


「堤が」


 白瀬は堤を見た。


「立ってるように見えてるだけかもしれない」


 直後。


 ず……。


 低い音。


 誰かが振り向いた。


「今……」


 ずず……。


 堤の一部が。


 わずかに沈んだ。


 白瀬が叫ぶ。


「全員離れろ!」


     ◇


「子どもを下げろ!」


 久右衛門が叫ぶ。


「女衆も!」


「道具は捨てろ!」


「縄も置け!」


 人が走る。


 河童も動く。


 ガタ吉が声を張る。


「二人一組じゃ!」


「勝手に潜るな!」


「おいらの合図なしで動くな!」


 若棟梁。


 昨日まで。


 誰より先に飛び込んでいたガタ吉が。


 皆を止めていた。


「ガタ吉!」


 白瀬が叫ぶ。


「河童衆、全員下げろ!」


「分かった!」


 その時。


 ずんっ。


 地面が。


 落ちた。


「きゃあっ!」


「走れ!」


 堤の一部が沈む。


 次の瞬間。


 ごおおおおっ!


 海水が。


 裂け目へ殺到した。


「来るぞ!」


「走れえええ!」


 昨日。


 海だった。


 そして昨日。


 土地になった。


 その場所へ。


 海が。


 戻ってきた。


     ◇


「おい!」


 一人の男が転んだ。


 足に縄が絡んでいる。


「動けん!」


「縄ば切れ!」


「刀!」


「なか!」


 水が迫る。


「くそっ!」


 弥助が振り返った。


「弥助!」


 久右衛門が叫ぶ。


「戻るな!」


「置いていけん!」


 弥助が走った。


「弥助さん!」


 白瀬も叫ぶ。


 弥助は転んだ男へ飛びつく。


 縄を引く。


 外れない。


「足ば上げろ!」


「無理じゃ!」


「なら――」


 弥助が石を拾う。


 縄を杭から外す。


「走れ!」


「弥助!」


「早よ行け!」


 男が立つ。


 走る。


 助かった。


 弥助も追おうとした。


 その瞬間。


 足元が。


 消えた。


「え?」


 ずぶっ。


 泥ではない。


 穴だった。


「弥助!」


 白瀬が走る。


 澪が腕を掴んだ。


「離せ!」


「行くな!」


「弥助さんが!」


「そなたまで落ちる!」


「でも!」


 澪が叫んだ。


「白瀬!」


 白瀬の動きが止まった。


 弥助が水へ落ちる。


 流される。


「弥助さん!」


     ◇


「おいらが行く!」


 ガタ吉が飛び込もうとする。


 だが。


 先に。


 岩蔵が飛んだ。


「岩蔵!」


 水中。


 弥助の腕。


 岩蔵が掴む。


 引く。


 浮上。


 ばしゃっ!


「ぷはっ!」


「岩蔵!」


「弥助!」


 二人の顔が出る。


 岸から縄。


「掴め!」


 岩蔵が取る。


 弥助へ渡す。


「ほれ!」


「岩蔵!」


「昨日の酒!」


「何!?」


「まだ返してもろうとらんぞ!」


 弥助が。


 ほんの一瞬。


 笑った。


「魚やったじゃろが!」


「足りん!」


「欲張り河童!」


「人間に言われとうない!」


 岸から。


 誰かが泣きながら笑った。


 ほんの。


 一瞬だけ。


     ◇


 ぐらっ。


 岩蔵の顔が変わる。


 水の下。


 何かが。


 動いた。


「若!」


 ガタ吉が叫ぶ。


「岩蔵!」


「下がれ!」


「縄ば掴め!」


「若!」


「早よ!」


 岩蔵は怒鳴った。


「棟梁じゃろうが!」


 ガタ吉の動きが止まる。


 その直後。


 轟音。


 杭。


 石。


 土俵。


 土砂。


 崩れた。


「岩蔵!」


「弥助さあああん!」


 水煙。


 泥。


 何も。


 見えなくなった。


     ◇


 どれくらい経ったのか。


 白瀬には分からなかった。


 ただ。


 水が流れていた。


 昨日まで泥だった場所を。


 海水が満たしていく。


 誰も喋らない。


 誰も動かない。


 昨日。


 ここで。


 皿を鳴らした。


 笑った。


 田んぼの話をした。


 家の話をした。


 未来の話をした。


 それが。


 水の下へ。


 消えていく。


「……探すぞ」


 久右衛門が言った。


 白瀬が顔を上げる。


「潮が落ちたら、探す」


「俺も」


「駄目じゃ」


「なんで!」


「おぬしは全体を見ろ」


 また。


 同じ言葉。


 白瀬は。


 返せなかった。


     ◇


「離せ!」


 ガタ吉が暴れる。


「岩蔵がおる!」


 河童たちが押さえる。


「若!」


「離せ!」


「まだ崩れとる!」


「岩蔵がおるんじゃ!」


「若!」


「岩蔵が!」


 声が。


 裏返る。


 いつもの若棟梁ではない。


 父を失い。


 兄を失い。


 今度は。


 ずっと自分を支えてくれた河童まで。


「岩蔵がおるんじゃ……!」


 ガタ吉は。


 泣いていた。


     ◇


「うちの人は?」


 声がした。


 白瀬の体が固まる。


 弥助の妻。


 その隣に。


 娘。


「……」


「白瀬どん」


 妻がもう一度聞いた。


「弥助は?」


 白瀬は。


 口を開いた。


 声が出ない。


 娘が海を見る。


「父ちゃん、泳ぎよると?」


「……」


「父ちゃん?」


 誰も答えない。


 妻が娘の肩を抱いた。


「父ちゃん、どこ?」


 その声が。


 白瀬には。


 海の音より大きく聞こえた。


     ◇


「若」


 別の声。


 ガタ吉が振り返る。


 岩蔵の妻。


 その横に。


 息子。


 妻は河童たちを見る。


 一匹。


 二匹。


 三匹。


 数える。


 そして。


「……岩蔵は?」


 ガタ吉が俯く。


「……」


「若」


「……すまん」


「何を謝っとる」


「おいらが……」


「岩蔵は」


 妻が海を見る。


「若ば置いて勝手に死ぬような河童ではなか」


 ガタ吉が顔を上げる。


「じゃから」


 妻は静かに言った。


「探しておいで」


 責められなかった。


 それが。


 ガタ吉には。


 何より苦しかった。


「……うん」


 ガタ吉は泣きながら頷いた。


     ◇


 潮が落ち始めた。


 人が探した。


 河童が潜った。


 新八が流れを読んだ。


 澪が水を見る。


 白瀬も歩いた。


 何度も。


 何度も。


 名前を呼んだ。


「弥助さーん!」


「岩蔵!」


「弥助!」


「岩蔵ー!」


 返事は。


 なかった。


 そして。


 夕方近く。


 一匹の河童が。


 水面へ顔を出した。


「若……」


 ガタ吉が走る。


「おったか!」


 河童は。


 何も言わなかった。


 ただ。


 俯いた。


     ◇


 二人は。


 一緒だった。


 岩蔵の腕が。


 弥助を掴んでいた。


 最後まで。


 離さなかったのだろう。


「……」


 誰も。


 何も言えなかった。


 弥助の妻が。


 ゆっくり近づく。


「あなた」


 返事はない。


 娘も来る。


「父ちゃん」


 妻が。


 一瞬。


 娘を止めようとした。


 けれど。


 手を離した。


 娘が。


 父のそばへしゃがむ。


「父ちゃん」


 返事はない。


「父ちゃん」


 小さな手が。


 父の手へ触れる。


「田んぼ作るって言うたやん」


 それだけだった。


「うちが嫁に行くまでにって」


 妻が。


 娘を抱いた。


 声は。


 出さなかった。


 ただ。


 肩が。


 震えていた。


 白瀬は。


 見ることができなかった。


     ◇


 岩蔵の息子が。


 父のそばへ来た。


「父ちゃん」


 頭の皿。


 そこにある。


 古い傷。


 いつも見ていた傷。


 息子が。


 そっと触れた。


「……父ちゃん」


 そして。


 ガタ吉を見る。


「若」


 ガタ吉の肩が震える。


「父ちゃん」


 息子は聞いた。


「若ば守ったと?」


「……違う」


 ガタ吉が首を振る。


「違う!」


「おいらが……!」


「違わん」


 岩蔵の妻が言った。


 ガタ吉が振り向く。


「あの人は水工じゃ」


「……」


「水工が」


 岩蔵の妻は。


 夫を見る。


「人ば助けて死んだ」


 それだけじゃ。


 ガタ吉が。


 唇を噛む。


「じゃが」


 妻が。


 ガタ吉を見る。


「若」


「……うん」


「同じ死に方は」


 一拍。


「二度とさせるな」


 ガタ吉は。


 泣きながら。


 頭を下げた。


「……うん」


「聞こえん」


「二度とさせん!」


 ガタ吉の声が。


 浜に響いた。


     ◇


「白瀬どん」


 弥助の妻だった。


 白瀬は立ち上がる。


「……すみません」


「やめて」


 白瀬が止まる。


 妻は。


 娘の手を握っていた。


「俺が……」


「今は、謝らんで」


「でも」


「謝られたら」


 妻は。


 白瀬を見る。


「うちは『よかですよ』って言わんばいかんようになる」


 白瀬は。


 何も言えない。


「今は」


 妻は海を見る。


「許せるかどうかも分からん」


「……」


「腹も立っとる」


「はい」


「悲しか」


「……はい」


「なんで弥助がって思うとる」


「……」


「じゃから」


 妻は。


 娘を連れて歩き出す。


「今は、何も言わんで」


 白瀬は。


 頭を下げることしかできなかった。


     ◇


「白瀬どんが」


 村人の一人が呟いた。


「できるって言うたけんじゃろ」


 空気が凍る。


「何ば言いよっとか!」


 別の男が立つ。


「白瀬どんだけのせいじゃなか!」


「でも弥助は死んだ!」


「じゃからって!」


「やめんか!」


 久右衛門の声。


 全員が止まる。


「死んだ者の前で」


 久右衛門が睨む。


「誰が悪いか喧嘩して何になる」


 誰も答えない。


「白瀬どん」


「……はい」


「覚えとるか」


「何を……」


「おぬしが言うたことじゃ」


 白瀬は久右衛門を見る。


「水害ん記録ば作った時」


 胸が。


 痛んだ。


 久右衛門は言った。


「忘れたら」


 一拍。


「また死ぬ」


 白瀬が。


 目を閉じる。


「……はい」


     ◇


 その夜。


 白瀬は一人。


 壊れた堤を見ていた。


 手には。


 朝拾った小皿。


 昨夜。


 これを鳴らしていた。


 皆で。


 笑っていた。


「俺は……」


「何じゃ」


 澪がいた。


「いつから?」


「今来た」


「嘘だ」


「水守に嘘などない」


「あるだろ」


「あるな」


「あるのかよ」


 笑えなかった。


 白瀬は海を見る。


「俺は知ってた」


 澪は黙っている。


「ここが海の底だったことも」


「地盤が軟らかいことも」


「漏れが出たことも」


「……」


「それなのに」


 白瀬は皿を握った。


「成功したって思いたかった」


 昨日の歓声。


 泥。


 皿。


 踊り。


 弥助。


 岩蔵。


「止めてれば」


 声が震える。


「昨日」


「もっと調べていれば」


「二人は」


「死ななかったかもしれない」


 澪は。


 すぐには答えなかった。


 やがて。


「分かるのか」


「何が」


「昨日止めておれば、二人は死ななかったと」


「……分からない」


「ならば」


 澪は白瀬を見る。


「分からぬまま己を裁くな」


「でも」


「二人は戻らぬ」


 はっきり言った。


 慰めではない。


 事実だった。


「ゆえに」


 澪が続ける。


「せめて」


 海を見る。


「なぜ死んだのかを残せ」


 白瀬が顔を上げる。


「忘れるな」


「……」


「そなたが皆へ教えたことであろう」


 白瀬は。


 小皿を見る。


 そして。


 握っていた指を。


 ゆっくり開いた。


     ◇


「おいらもやる」


 暗闇から。


 ガタ吉が出てきた。


「ガタ吉」


「岩蔵が何ば見たか」


 目が。


 真っ赤だった。


「どこに潜ったか」


「どこで泡が出たか」


「昨日どこを直したか」


 一つずつ。


 言う。


「全部覚えとる」


 白瀬は黙って聞いた。


「つらいぞ」


「分かっとる」


「本当に?」


「分からん」


 ガタ吉が。


 鼻をすすった。


「でも」


 一拍。


「忘れる方が嫌じゃ」


 白瀬が。


 小さく頷く。


「……俺もだ」


     ◇


 翌朝。


 誰も。


 土俵を持ってこなかった。


 石も。


 杭打ちの槌も。


 工事の道具は。


 持ってこなかった。


 代わりに。


 縄。


 細い杭。


 墨。


 紙。


 白瀬。


 澪。


 ガタ吉。


 久右衛門。


 新八。


 村人。


 河童水工衆。


 皆が。


 壊れた堤へ戻ってきた。


「ここじゃ」


 ガタ吉が指す。


「昨日、最初に泡ば見た」


 白瀬が杭を打つ。


 一本。


「次は?」


「こっち」


 二本。


「その次は?」


「ここじゃ」


 三本。


 新八が言う。


「潮が一番高うなったとは、この頃たい」


 久右衛門。


「最初に沈んだとは、あそこじゃ」


 白瀬が。


 一つずつ。


 書く。


 残す。


 誰も。


 堤を直そうとは言わない。


 まず。


 知る。


 何が起きたか。


 なぜ起きたか。


     ◇


 少し離れた場所。


 弥助の妻と娘がいた。


 娘が海を見る。


「母ちゃん」


「何ね」


「田んぼ……なくなったと?」


 妻はしばらく答えなかった。


「今は、な」


「父ちゃんの田んぼは?」


 妻が。


 娘の手を握る。


「まだじゃ」


 娘が。


 白瀬を見る。


「また作るとかな」


「……さあね」


 妻も。


 白瀬を見る。


「でも」


 小さく。


「逃げんごたる」


     ◇


 反対側。


 岩蔵の妻と息子。


「母ちゃん」


「なんじゃ」


「若、また海んとこおる」


「ああ」


「また堤ば作ると?」


「さあのう」


「作るかな」


 妻が。


 ガタ吉を見る。


 泥だらけで。


 杭の位置を白瀬へ伝えている。


「じゃが」


 少しだけ。


 笑った。


「あの若は」


「うん」


「逃げんじゃろ」


     ◇


 白瀬は。


 泥の上へ。


 一本の線を引いた。


「昨日」


 皆が見る。


「俺たちは、ここに堤を造った」


 誰も喋らない。


「海が壊したと思った」


 白瀬は首を振る。


「違う」


 ガタ吉が見る。


 澪も。


「俺たちが」


 白瀬は。


 泥を見る。


「海を分かってなかったんだ」


 沈黙。


 澪が聞く。


「ならば」


 白瀬を見る。


「どうする」


 白瀬は。


 壊れた堤を見た。


 海を見た。


 弥助の娘。


 岩蔵の息子。


 ガタ吉。


 村の皆。


 そして。


 澪。


「調べる」


 静かに言った。


「全部」


「水がどこから来たのか」


「なぜ堤の下が抜けたのか」


「なぜ俺たちは気づかなかったのか」


 白瀬は。


 線の先へ。


 杭を一本打った。


「分かるまで」


 一拍。


「造らない」


 その時だった。


 少し離れた泥が。


 小さく膨らんだ。


 ぶくっ。


 白瀬。


 ガタ吉。


 澪。


 全員が。


 同時に振り向いた。


 昨日なら。


 見逃した。


 だが。


 今日は。


 誰も。


 目を逸らさなかった。


 海は。


 何も言わない。


 ただ。


 足元で。


 もう一度。


 ぶくっ。


 と。


 泡を吐いた。

お読みいただき、ありがとうございます。


今回は、第三章の中でもかなり重い回となりました。


弥助と岩蔵。


二人とも、昨日まで未来の話をしていた仲間です。


だからこそ、この事故を「悲しい出来事」で終わらせず、白瀬たちは向き合います。


誰か一人を悪者にするのではなく、


何が起きたのか。


なぜ見抜けなかったのか。


どうすれば、同じ死を繰り返さずに済むのか。


次の普請では、壊れた堤を直す前に――


まず、「失敗」を調べます。


第二十三普請。

見えない水の道を追います。

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