第二十普請 潮止めの日
今回は、いよいよ海を相手にした本格的な普請です。
白瀬、澪、ガタ吉、河童水工衆、村人たち、そして子どもたち。
それぞれが自分の役目を持って、一つの潮口に挑みます。
そして今回は、ガタ吉がなぜ幼いながら河童水工衆の棟梁を務めているのか、その一端も明らかになります。
どうぞ最後までお楽しみください。
夜明け前。
空はまだ群青色だった。
干潟の向こうに残る海だけが、わずかに白く光っている。
浜には松明が並んでいた。
杭。
竹。
粗朶。
縄。
石を詰めた籠。
泥と土を詰めた俵。
昨日まで静かだった浜が、今朝はまるで戦支度のようになっている。
ただし――。
今日、相手にするのは人間ではない。
海だ。
「白瀬しゃん、遅かぞ!」
浜へ降りた白瀬湊一を、小さな影が出迎えた。
ガタ吉である。
腕を組み、胸を張っている。
その後ろには河童水工衆。
すでに全員、準備を終えていた。
「遅いって……まだ夜明け前だぞ」
「棟梁は一番に来るもんじゃ」
「お前、いつからそんな立派なこと言うようになった」
「最初からじゃ!」
河童たちがどっと笑う。
「棟梁、昨日は最後まで寝とったぞ」
「言うな!」
「起こしても起きんかった」
「言うなっち!」
白瀬も笑った。
だが、そのとき。
「兄ちゃん!」
岸の方から幼い声が飛んだ。
ガタ吉の肩が、ぴくりと動く。
そこにいたのは河童の親子だった。
母親らしい河童。
そして、ガタ吉よりさらに小さな妹と弟。
「兄ちゃん!」
「今日は海ば止むっと?」
弟が目を輝かせる。
ガタ吉は慌てて胸を張った。
「海全部は止めん!」
「じゃあ何すっと?」
妹も尋ねる。
ガタ吉は少し考え、それから海を指した。
「海ん通る道ば、ちょっと変えてもらうとさ」
白瀬は思わずガタ吉を見た。
自分がずっと言ってきたこと。
海を奪うのではない。
海と相談して、土地を借りる。
ガタ吉なりに、ちゃんと分かっている。
母親が近寄った。
何も言わず、ガタ吉の泥のついた頬を拭う。
「なんじゃ」
「……帰ってこんばよ」
一瞬。
ガタ吉の笑顔が止まった。
だが、すぐにいつもの顔へ戻る。
「当たり前じゃ!」
「ほんとか?」
「おいは棟梁じゃぞ!」
「棟梁でも帰ってこんば」
「分かっとる!」
母親は、それ以上言わなかった。
白瀬だけが、そのやり取りを少し不思議に思った。
◇
「皆さん、聞いてください!」
空が白み始める頃。
浜へ全員が集まった。
農民。
漁師。
普請に慣れた者。
河童水工衆。
そして子どもたち。
白瀬は棒で砂に図を描いた。
「今日、一日で全部を造るわけじゃありません」
村人たちが覗き込む。
「ここまでの普請で、左右から少しずつ堤を伸ばしてきました」
白瀬は二本の線を描いた。
中央だけを空ける。
「ここが最後の潮口です」
久右衛門が頷いた。
「今までは水ば通しよった場所たい」
「はい」
新八が海を見る。
「今日は、ここば閉じる」
「そうです」
村人の一人が唾を飲んだ。
「ほんに……海ば止むっとか」
白瀬は首を振った。
「止めるんじゃありません」
ガタ吉がにやりとする。
「道ば変えてもらうとじゃ」
「……ガタ吉に先に言われた」
「棟梁じゃけんな!」
「そういうことにしとく」
笑いが起こる。
白瀬は再び図を指した。
「ただし、今日一番大事なのは――」
砂に大きく一本の線を引いた。
「命です」
全員が静かになる。
「この線より海側は、決められた人間と河童だけ」
「えー!」
真っ先に声を上げたのは小春だった。
「うちも行く!」
「駄目」
「なんで!」
「危ないから」
「うちだって働ける!」
「だから働いてもらう」
小春が止まった。
「……へ?」
白瀬は笑う。
「みんなに仕事がある」
◇
最初に白瀬が呼んだのは長吉だった。
「長吉」
「おい!」
「杭と粗朶を運ぶ列をまとめてくれ」
「任せろ!」
長吉が胸を叩く。
「でも、あの線から先には行くな」
「分かっとる!」
次。
「健太」
「おい?」
「杭、籠、俵。何個使ったか全部数えてくれ」
「数えるだけ?」
「あとで一番大事になる」
健太の目が輝いた。
「ほんとか!」
「嘘ついてどうする」
「じゃあ、おいが全部覚える!」
「覚えるな。印をつけろ」
「……そっちか」
次。
「源太」
「おい」
「潮を見てくれ」
源太の顔が変わる。
「潮?」
「浜の印と、水の動き。お前、漁師の子だろ」
源太は海を見た。
「父ちゃんに習うとる」
「だったら頼む」
小さく頷いた。
「任せろ」
次。
「お紗」
「うち?」
「材料」
「材料?」
「あと何個残ってるか、全部数えて」
「そんなと簡単たい」
「簡単だから任せるんじゃない。なくなったら終わるから任せる」
お紗の顔が真剣になる。
「……分かった」
最後。
小春。
「うちは!」
「お前が一番大事」
「ほんと!」
「この板」
白瀬が三枚の板を渡した。
○。
×。
△。
「○は続けろ」
「うん!」
「×は全部止まれ」
「うん!」
「△は退け」
「うん!」
「俺か澪かガタ吉が言ったら、みんなに見えるように掲げてくれ」
小春が板を抱える。
「うちがみんな動かすと?」
「そうなるな」
にやあ。
「うち、いっちゃん偉かやん」
「調子に乗るな」
「もう乗った!」
「早い!」
子どもたちが笑う。
大人たちも笑った。
白瀬はそれを見て、少しだけ安心した。
怖がっていない。
でも。
怖さを知らないわけでもない。
それでいい。
◇
太陽が昇った。
潮は引き続けている。
沖へ向かって、ぬらぬらと干潟が広がっていく。
新八が叫んだ。
「今じゃ!」
白瀬が手を上げる。
「始めます!」
小春が掲げる。
○。
「行けぇ!」
浜が一斉に動いた。
「杭!」
「来た!」
「縄!」
「こっち!」
「粗朶三束!」
「持ってけ!」
「籠二つ!」
「今行くぞ!」
大人たちが走る。
長吉たちが材料を受け渡す。
「次、杭!」
「おい!」
「縄!」
「おい!」
「長吉、全部お前が返事すんな!」
「癖たい!」
そして海側。
「河童衆!」
ガタ吉が叫ぶ。
「入るぞ!」
「おう!」
バシャン!
バシャン!
バシャン!
河童たちが次々と水へ飛び込んだ。
人間なら腰まで沈む泥の中を、河童たちは泳ぐように進んでいく。
潜る。
浮く。
また潜る。
「そこ柔らかか!」
「杭一本右!」
「粗朶ば先に!」
「籠!」
岸から籠が送られる。
「行くぞ!」
「落とせ!」
ドボン!
「もっと右!」
「右ってどっちじゃ!」
「お前から見て右!」
「おいから見て右!」
「同じじゃ!」
「知らん!」
「棟梁!」
「なんじゃ!」
「ちゃんと指示せえ!」
「しとるわ!」
人間側まで笑い出す。
白瀬も声を張った。
「ガタ吉! 次は!」
「杭二本!」
「久右衛門さん!」
「聞こえとる!」
ドン!
ドン!
掛矢が杭を叩く。
泥が跳ねる。
息が上がる。
でも。
進んでいる。
確実に。
◇
「しかし……」
作業の途中。
村の男が呟いた。
「あれがほんに、河童衆の棟梁なんか?」
「ちっこすぎんか」
「まだ子どもじゃろ」
白瀬にも聞こえた。
正直、自分も最初は思った。
河童水工衆の棟梁。
そう名乗るには、ガタ吉はあまりにも幼い。
すると近くで縄をまとめていた年長の河童が言った。
「先代ん子じゃ」
「先代?」
河童の手が止まる。
「大水で死んだ」
白瀬が振り返る。
「……父親?」
「兄貴もじゃ」
それだけだった。
そのとき。
「何ばしゃべっとる!」
水面からガタ吉が顔を出した。
「昔話じゃ」
「いらん!」
ガタ吉が怒鳴る。
「今ん棟梁は、おいじゃ!」
年長河童が肩をすくめた。
「へいへい、若棟梁」
「若はいらん!」
河童衆が笑った。
村人も笑う。
だが白瀬は笑えなかった。
朝。
浜にいた三人。
母。
妹。
弟。
そして、
『帰ってこんばよ』
あの言葉。
隣にいた澪も静かにガタ吉を見ていた。
「そういうことであったか」
「何が?」
「あの者が水を恐れる理由」
澪は海を見る。
「そして、水から逃げぬ理由じゃ」
白瀬は何も言えなかった。
◇
「待て!」
久右衛門の声が飛んだ。
白瀬が振り返る。
杭。
掛矢を振り下ろす。
ドン!
ズブッ。
「……なんじゃ?」
もう一度。
ドン!
ズブズブ。
杭が泥へ吸い込まれていく。
「止まらんぞ!」
久右衛門が叫ぶ。
もう一本。
同じ。
白瀬が駆け寄った。
「地盤が柔らかすぎる……」
「杭ば増やすか!」
「そうしま――」
「駄目じゃ!」
水面からガタ吉。
泥へ手を突っ込む。
掴む。
指の間から落とす。
そのまま潜った。
「ガタ吉!」
返事なし。
しばらくして。
バシャッ!
「ここに打っても、みんな沈む!」
白瀬が近寄る。
「じゃあどうする」
ガタ吉は粗朶を指した。
「先に寝かせる」
「粗朶を?」
「広うじゃ」
ガタ吉は手を広げる。
「泥ん上に広う敷く。そん上に籠ば置く。そいから杭じゃ」
久右衛門が泥を見る。
「面で受けるか」
白瀬も分かった。
杭一本。
点。
それでは泥に沈む。
なら。
まず荷重を広く逃がす。
「……なるほど」
白瀬がガタ吉を見る。
「それ、お父さんから?」
ガタ吉は一瞬黙った。
「昔、教えてもろうた」
それだけ。
すぐに叫ぶ。
「粗朶持ってこい!」
「おう!」
河童たちが動く。
白瀬も叫んだ。
「ガタ吉のやり方で行きます!」
久右衛門が笑う。
「白瀬どんより河童ん方が詳しかな」
「今日はそうみたいです!」
「今日は?」
「そこは流してください!」
再び作業が動く。
粗朶を敷く。
籠。
杭。
ドン!
ドン!
今度は。
止まった。
「入った!」
歓声。
ガタ吉が鼻を鳴らす。
「見たか!」
「見た見た!」
「もっと褒めろ!」
「仕事してからな!」
「しとる!」
◇
「白瀬」
澪の声。
低い。
白瀬はすぐ振り返った。
澪は水際にしゃがんでいた。
指を水へ入れる。
少し歩く。
また触れる。
「どうした?」
「水の筋が変わった」
「どっちへ?」
澪が潮口を見る。
「狭まったぶん、残った口へ水が集まり始めておる」
白瀬も見る。
確かに。
流れが速い。
「流速が上がってる……」
「その言葉は知らぬ」
澪が立つ。
「だが、水が怒っておる」
そこへガタ吉。
潜る。
すぐ上がる。
「澪ん言う通りじゃ!」
白瀬は考えた。
一気に閉じれば。
残った流れがさらに強くなる。
「左右から少しずつ狭めます」
ガタ吉。
「最後まで水ん逃げ道ば残すんじゃな」
「そう」
澪。
「よかろう」
白瀬。
「三人で決めたことにします」
ガタ吉。
「おいが一番最初に気づいた!」
「澪が先だろ」
「……じゃあ二番」
澪がわずかに笑った。
◇
作業は再び進んだ。
そのときだった。
「縄!」
「引け!」
新八の船から石籠を下ろす。
重い。
水中の河童たちが位置を合わせる。
「もう少し!」
「右!」
「そのまま!」
ぐっ。
縄が張った。
次の瞬間。
ギギッ――!
「ん?」
水中に埋まっていた古い流木。
縄が引っかかった。
「待て!」
遅い。
船が振られる。
石籠が傾く。
「危ない!」
ドボン!
竹。
縄。
泥。
濁った水が跳ねる。
「一人消えたぞ!」
白瀬が叫んだ。
「×!」
だが。
その声より早く。
「止まれぇっ!」
ガタ吉の絶叫。
小春が反射的に掲げる。
×。
「全部止まれ!」
作業が止まる。
水面を見る。
一秒。
二秒。
三秒。
出てこない。
「……」
ガタ吉が固まった。
白瀬には分かった。
顔が。
さっきまでの顔ではない。
濁った水。
誰かの腕。
遠くの声。
ガタ吉の瞳が、今を見ていない。
「ガタ吉!」
白瀬が叫んだ。
「ガタ吉!」
びくり。
戻る。
ガタ吉は飛び込もうとした。
だが。
止まった。
拳を握る。
「二人一組!」
河童衆が見る。
「一人で入るな!」
「おう!」
「新八! 縄!」
「任せろ!」
「澪!」
澪は水面を凝視していた。
「そのまま入るな!」
「どこじゃ!」
「右!」
澪が指す。
「水が巻いておる! 右から回れ!」
「聞いたか!」
「おう!」
河童たちが飛び込む。
白瀬も一歩出た。
「俺も――」
腕を掴まれた。
「どこへ行く」
澪。
「手が足りない!」
「そなたは泳ぎが達者ではなかろう」
「今それ言う!?」
「今だから言う!」
「でも――」
澪が白瀬を真っすぐ見る。
「そなたが流されれば、誰が全体を見る」
「……」
「皆に役目を与えたのは、そなたであろう」
白瀬は歯を食いしばった。
「……分かった」
振り向く。
「新八さん! 縄もう一本!」
「おう!」
「久右衛門さん! 引き上げ組!」
「任せろ!」
「長吉!」
「おい!」
「道を空けろ!」
「みんな退けぇ!」
小春が×を掲げ続ける。
「止まれー! 全部止まれー!」
◇
「いた!」
水面から声。
ガタ吉だ。
「見つけた!」
「どこ!」
「竹に足が挟まっとる!」
河童が二人。
泥の中。
竹。
持ち上げようとする。
「動かん!」
新八。
「縄ば掛けろ!」
「掛けた!」
「引け!」
久右衛門。
「せーの!」
「おおおおお!」
動かない。
澪が水を見る。
「まだじゃ!」
「何!」
「今は押しておる!」
数呼吸。
「待て!」
ガタ吉が潜る。
白瀬の手に汗。
澪。
「今じゃ!」
「引けぇ!」
「おおおおおお!」
竹が浮く。
「抜けた!」
バシャッ!
若い河童が水面へ出た。
「出たぞ!」
歓声。
岸へ。
咳。
「げほっ!」
「生きとる!」
「馬鹿野郎!」
「死ぬかと思ったぞ!」
河童衆が怒鳴りながら、その若い河童を叩く。
ガタ吉は少し離れたところに座っていた。
泥だらけの手。
震えていた。
◇
白瀬は隣へ座った。
何も言わない。
しばらくして。
ガタ吉が口を開く。
「……父ちゃんも」
「うん」
「兄ちゃんも」
海を見る。
「水ん中で、帰ってこんかった」
白瀬は黙っていた。
「おい、あん時……何もできんかった」
遠く。
安全な場所に母親がいた。
妹。
弟。
三人とも、こちらを見ている。
「父ちゃんがおらんようになって」
ガタ吉の声が小さくなる。
「兄ちゃんもおらんようになって」
拳を握る。
「おいが棟梁になった」
白瀬は聞いた。
「なりたかった?」
ガタ吉が白瀬を見る。
困ったような顔。
「……知らん」
それは棟梁の顔ではなかった。
ただの子どもだった。
「誰も聞いてくれんかった」
白瀬は海を見る。
「じゃあ」
ガタ吉を見る。
「今、聞く」
「……」
「続けるか?」
ガタ吉が目を見開いた。
河童衆。
村人。
海。
母。
妹。
弟。
そして。
さっき助かった若い河童。
長い沈黙。
「……やる」
白瀬は頷いた。
「分かった」
「ただし」
ガタ吉が立った。
小さな体。
泥だらけ。
でも。
声は震えていない。
「今から、おいの合図なしで水に入るな」
河童衆が静かになる。
年長の河童が一歩出た。
そして。
頭を下げた。
「承知した」
間。
「棟梁」
ガタ吉が何も言わない。
ただ。
一度だけ頷いた。
◇
「小春!」
「なん!」
「○じゃ!」
小春の顔がぱっと明るくなる。
「分かった!」
○!
「再開じゃ!」
「おう!」
一気に浜が動いた。
「粗朶!」
「三束!」
「籠!」
「二つ!」
「右!」
「もっと右!」
「杭!」
「打て!」
ドン!
ドン!
ドン!
ガタ吉は水。
久右衛門は杭。
新八は船。
澪は水の流れ。
白瀬は全体。
子どもたちは後ろ。
「杭、四十三!」
健太。
「四十三?」
白瀬。
「三十九じゃなかった?」
「四十三!」
久右衛門が叫ぶ。
「四十三じゃ!」
「健太が合ってる!」
「白瀬しゃん負けた!」
「今それ言う!?」
笑い。
その瞬間。
源太の顔が変わった。
「白瀬しゃん!」
「何!」
「潮ん返した!」
白瀬が海を見る。
まだ遠い。
「ほんとか?」
「ほんとたい!」
新八も見る。
表情が変わる。
「……返しよる」
「早い」
白瀬の心臓が跳ねる。
「残り!」
健太。
「杭九本!」
「材料!」
お紗。
「土俵二十三!」
「二十三しかない?」
「しかなか!」
「予備!」
「もう使った!」
小春。
「どがんすっと!」
白瀬は潮口を見る。
残り。
距離。
材料。
時間。
「俺が向こうへ――」
「白瀬」
澪。
「時間がない!」
「だからこそじゃ」
澪が周囲を見る。
「そなたは、また一人で何とかしようとしておる」
「……」
「何のために」
澪は河童を見る。
職人。
漁師。
農民。
子どもたち。
「これだけおる」
白瀬は全員を見た。
そして。
笑った。
「……そうだった」
息を吸う。
「皆さん!」
「おう!」
「作戦変えます!」
◇
潮口が狭くなる。
そのぶん。
流れが速くなる。
ゴオオオオ――。
「来るぞ!」
新八が叫ぶ。
「河童衆!」
ガタ吉。
「入るぞ!」
「おう!」
「二人一組!」
白瀬。
「分かっとる!」
「確認しただけ!」
「うるさい!」
飛び込む。
水の中。
ガタ吉。
泥を探る。
「ここじゃ!」
「杭!」
久右衛門。
「来い!」
長吉たち。
「行くぞ!」
ドン!
「右!」
「どっちじゃ!」
「一尺右!」
「棟梁、偉そうじゃな!」
「棟梁じゃぞ!」
「なら仕方ねえ!」
ドン!
村人たちが笑う。
河童も笑う。
白瀬も笑う。
誰が人間で。
誰が河童か。
そんなことを気にする者は、もういなかった。
「土俵!」
お紗。
「あと十七!」
「入れろ!」
「十二!」
「もっと!」
「八!」
ガタ吉が水面から叫ぶ。
「全部入れるな!」
「何?」
「四つ残せ!」
久右衛門。
「なんでじゃ!」
「潮が来たら、弱かとこが必ず出る!」
白瀬がはっとする。
「補修用か」
「そうじゃ!」
「四つ残します!」
お紗。
「分かった!」
ガタ吉。
「残り四つは誰も触るな!」
「おう!」
白瀬は笑った。
もう。
血筋だけの棟梁ではない。
◇
最後の杭。
流れが強い。
「駄目じゃ!」
久右衛門が叫ぶ。
「入らん!」
新八。
「船も寄せられん!」
白瀬。
「ガタ吉!」
返事がない。
「ガタ吉!」
水中。
小さな影。
流れに逆らう。
泥。
石。
さらに泥。
手。
触れる。
ガタ吉の目が開く。
――ここ。
水面へ。
バシャッ!
「白瀬しゃん!」
「どうだ!」
「ここじゃ!」
腕を上げる。
「一尺右!」
「久右衛門さん!」
「おう!」
杭をずらす。
「そこ!」
ドン!
ズブッ。
ドン!
ズブッ。
「まだ!」
ドン!
――止まる。
一瞬。
ガタ吉。
「入った!」
「よし!」
歓声。
しかし。
「まだじゃ!」
ガタ吉が怒鳴る。
「最後の籠!」
新八。
「行くぞ!」
石籠。
船から下ろす。
ところが。
潮。
ゴオッ!
「流される!」
「右!」
「左!」
「縄張れ!」
河童衆が水中で押す。
「白瀬!」
澪。
「分かってる!」
小春が△へ手を伸ばす。
「まだ!」
白瀬が叫ぶ。
澪は海を見る。
一呼吸。
二呼吸。
「……まだじゃ」
ガタ吉。
「もうちょい!」
石籠がずれる。
「入れぇぇぇ!」
河童衆。
「おおおおお!」
ドンッ!
杭と杭の間。
石籠が収まった。
ゴオオオオ――。
水音。
細くなる。
ゴオオ……。
ザー……。
チョロ……。
誰も喋らなかった。
最後の粗朶。
泥。
俵。
詰める。
ガタ吉が潜る。
「……」
長い。
白瀬。
「ガタ吉?」
出ない。
「ガタ吉!」
澪が手を上げた。
「待て」
「でも――」
「待て」
数呼吸。
そして。
バシャッ!
ガタ吉が水面へ飛び出した。
「ぷはっ!」
泥だらけ。
息を切らしている。
白瀬を見る。
にっ。
笑った。
「締まったぞ」
一瞬。
静寂。
そして。
「うおおおおおお!」
浜が揺れた。
「やったぁ!」
小春が飛び跳ねる。
「海ば止めたぞ!」
長吉。
「ほんとに止まっとる!」
健太。
お紗。
「土俵四つ残っとる!」
白瀬。
「今それ言う!?」
「大事やろ!」
「大事だけど!」
笑い。
「棟梁!」
河童たちがガタ吉を担ぐ。
「やめろ!」
「棟梁!」
「降ろせ!」
「わっしょい!」
「誰がわっしょいじゃ!」
ガタ吉が宙を舞う。
白瀬も笑った。
村人も。
子どもも。
河童も。
みんな。
そのとき。
「白瀬」
澪。
声だけで。
白瀬の笑顔が消えた。
澪は沖を見ている。
「どうした?」
「……来る」
ガタ吉も笑うのをやめた。
水面を見る。
「……潮じゃ」
源太。
「返しよる!」
新八。
「全員、堤から下がれ!」
ガタ吉が叫ぶ。
「河童衆! 点検組だけ残れ! ほかは上がれ!」
白瀬。
「子どもたちは後ろ!」
長吉。
「でも――」
「役目は終わった!」
白瀬が強く言う。
「今度は帰るのが仕事だ!」
「……分かった!」
子どもたちが走る。
小春が△を掲げる。
「退けー!」
全員。
安全な位置へ。
◇
そして。
海が戻ってきた。
ザアアアアア――。
さっきまで遠かった海が。
ゆっくり。
だが確実に。
自分たちの築いた堤へ迫ってくる。
笑う者はいない。
ガタ吉が堤を見る。
白瀬が隣へ立つ。
「……持つと思う?」
「知らん」
「棟梁だろ」
「棟梁でも分からんもんは分からん」
白瀬は少し笑った。
「そりゃそうだ」
ガタ吉も少し笑う。
だが。
すぐに真顔になった。
「でもな、白瀬しゃん」
「うん」
「父ちゃんが言いよった」
波音。
近づく。
「堤ば造った時が終わりじゃなか」
ガタ吉は真っすぐ海を見た。
「水が来て」
波が。
杭へ迫る。
「そいでも立っとった時が――」
澪が呟いた。
「来るぞ」
ガタ吉。
「おう」
ドンッ――!
潮が。
新しい堤へぶつかった。
杭が震える。
ミシッ。
誰も息をしない。
ガタ吉が叫んだ。
「まだ喜ぶな!」
全員が若い棟梁を見る。
泥だらけの小さな体。
その背中は。
もう。
小さく見えなかった。
「今から――」
ガタ吉が海を睨む。
「海に試されるぞ!」
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は第三章前半でも特に大きな作業回となりました。
白瀬の知識だけではなく、澪の水を見る力、ガタ吉と河童水工衆の経験、村人たちの知恵、そして子どもたちの役割。
みんなで一つの普請を作り上げる回にしたかったので、ガタ吉にも大きくスポットを当てています。
幼い棟梁には、幼いなりに背負ってきたものがあります。
けれど、堤を造っただけではまだ終わりません。
戻ってきた潮に、その堤は耐えられるのか。
次回、第二十一普請。
いよいよ「海との本当の勝負」です。




