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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第十九普請 河童水工衆

第十九普請です。


今回は、いよいよ河童たちが本格参戦。


人間だけでは難しい海の普請に、水の中を知り尽くした河童衆が加わります。


でも――仲間になる前に、まずはひと悶着。


人と河童。


漁師と職人。


そして白瀬たちは、同じ海を見られるのでしょうか。


どうぞお楽しみください。

 夜明け前の有明海は、まだ青黒かった。


 潮の引いた干潟に、一本の杭が立っている。


 昨日、白瀬たちが泥まみれになりながら、ようやく打ち込んだ一本だ。


 白瀬は腕を組み、その杭を眺めていた。


「……立ってる」


「当たり前じゃ」


 隣で久右衛門が鼻を鳴らした。


「俺が打った杭ぞ。一晩くらいで倒れてたまるか」


「半分は、おいが舟から縄ば引いたけんたい」


 新八も負けじと言う。


「半分どころか、三分じゃ」


「なんば言いよっとか」


「朝から喧嘩するなって」


 白瀬が笑った、その時だった。


 杭の向こうで――。


 ぽこん。


 泥水から、何かが出た。


「ん?」


 皿だった。


 続いて、その横からもう一つ。


 ぽこん。


 さらに。


 ぽこん。


 ぽこん。


 ぽこん。


「…………」


 白瀬が瞬きをする。


 十。


 いや、もっといる。


 干潟の水溜まりから、皿を載せた頭が次々と現れた。


 久右衛門の口が開いた。


「な、なんじゃ……」


 新八も固まる。


「河童……?」


 その中心から、見慣れた一匹がぬっと姿を現した。


「遅かったな、白瀬」


「ガタ吉!?」


 白瀬が声を上げた。


「お前、何人連れてきたんだよ!」


「河童ば数える時、人て言うな」


「そこ!?」


 ガタ吉は胸を張った。


「連れてきたんじゃなか」


 そして、後ろの河童たちを親指で示す。


「おいらん仲間たい」


 河童たちの視線が、一斉に杭へ向いた。


 一匹が潜る。


 別の一匹も潜る。


 泥の中で何かを探るように、水面がぼこぼこと泡立った。


 やがて一匹が顔を出す。


「浅か」


 別の河童も出てくる。


「ちっと傾いとる」


「下ん泥ば噛んどらん」


「潮ん強うなったら、ぐらつくばい」


 久右衛門の眉間に、太い筋が浮かんだ。


「……おい」


 白瀬は嫌な予感がした。


「久右衛門さん?」


「誰の杭ば、下手くそ言うた」


 河童が首を傾げる。


「お前ん杭か?」


「そうじゃ!」


「なら、お前が下手くそたい」


「この皿頭ぁ――!」


「待て待て待て!」


 白瀬が久右衛門の腰へしがみついた。


 一方、河童たちもわらわらと前へ出る。


「なんや、人間!」


「やるとか!」


「皿割る気か!」


「割られたら困るなら前に出すな!」


「久右衛門さんも煽らない!」


「やかましか――!」


 突然、ガタ吉が怒鳴った。


 ぴたり。


 河童たちが黙った。


 白瀬も黙った。


 久右衛門まで黙った。


 ガタ吉は、いつものふざけた顔をしていなかった。


「今日は喧嘩しに来たんじゃなか」


 低い声だった。


 河童たちがガタ吉を見る。


「おいが話ば持ってきた」


 ガタ吉は杭を指した。


「人間と一緒に、海ん仕事ばする」


 ざわり。


 今度は河童側が騒ぎ始めた。


「人間んためにか?」


「海ば埋める手伝いすっとか!」


「冗談じゃなか!」


 一匹の老いた河童が、杖代わりの流木を泥へ突き立てた。


「ここは、おいらん海ぞ」


「……うん」


 白瀬が答えた。


 河童たちの目が集まる。


「人間から見たら、ここは泥の土地に見える」


 白瀬は干潟を見渡した。


「でも、お前たちには違うんだろ」


 老河童が鼻を鳴らした。


「当たり前たい」


 別の河童が言う。


「あそこには蟹のおる」


「あっちは魚ん入ってくる」


「潮ん道ば塞いだら、全部変わる」


 白瀬は黙って聞いた。


 その横で澪も海を見ていた。


 やがて澪が白瀬へ顔を向ける。


「白瀬」


「うん」


「そなたは、どこまでを陸にするつもりじゃ」


「それは……」


「曖昧にするでない」


 澪の声は静かだった。


「人に土地が要るように、河童にも水が要る」


 白瀬は、小さく息を吐いた。


「そうだな」


 そしてしゃがみ込む。


 棒を一本拾い、干潟に線を引いた。


「今考えてるのは、ここから――ここまで」


「そこは潮ん通り道たい」


 新八がすぐに言った。


 白瀬は顔を上げる。


「塞いだら?」


「魚ん入りが悪うなる」


「じゃあ、ここを開ける」


 線を書き直す。


 河童が横から口を出した。


「そこ、おいらん寝床」


「えっ」


「おいら三匹、寝とる」


「ここ?」


「そこ」


 白瀬は線をずらす。


「じゃあ、こっち」


「そこも駄目たい」


「なんで!?」


「蟹がおる」


 久右衛門が頭を抱えた。


「それじゃ、どこにも造れんではないか!」


「じゃあ人間は、どこにでも造ってよかとか!」


「誰もそんなこと言うとらん!」


 また始まりそうになったところで。


「ふっ」


 澪が笑った。


 全員が見る。


「何がおかしか」


 ガタ吉が聞く。


 澪は海へ目を向けた。


「いや」


 口元に、まだ笑みが残っている。


「ようやく普請らしくなってきたと思うただけじゃ」


 白瀬も、思わず笑った。


「確かに」


 地面の線は、何度も消された。


 人間が言う。


 河童が言う。


 漁師が言う。


 澪が水を見る。


 白瀬が線を引き直す。


 やがて最初とは少し違う線が、干潟の上に残った。


 白瀬はその線を見つめた。


「これなら……どうだ?」


 老河童が腕を組む。


「全部よかとは言わん」


「うん」


「じゃが、話くらいは聞いてやる」


「十分だよ」


 白瀬が笑う。


 すると、大柄な河童が一歩前へ出た。


「で」


「ん?」


「銭はいくらや」


「…………え?」


 白瀬は固まった。


 久右衛門が吹き出す。


「河童が銭を使うとか!」


「働いたら腹ん減る!」


 河童が怒った。


「縄も要る!」


「桶も要る!」


「飯も食う!」


「皿も乾く!」


「最後のは知らないよ!」


 白瀬が思わず突っ込む。


 ガタ吉は真顔だった。


「白瀬」


「何」


「働かせるなら払え」


「お前まで!?」


「当たり前たい」


 白瀬は口を開きかけ――。


 閉じた。


 少しだけ考える。


「……そうだな」


 久右衛門が白瀬を見る。


 白瀬は河童たちへ向き直った。


「払う」


 河童たちが静かになる。


「銭だけじゃなくて、飯も道具も相談する。それから――河童が暮らしてる場所は、勝手に壊さない」


「ほんとか」


「約束する」


 老河童がじっと白瀬を見る。


「人間は約束ば破るぞ」


「破ったら?」


 白瀬はガタ吉を見た。


「こいつに殴られる」


「おう」


「そこは否定しろよ!」


 河童たちから笑いが漏れた。


 その時だった。


「白瀬しゃーん!」


 干潟の端から、小春たちが走ってくる。


「なんね! いっぱいおる!」


 小春の目が輝いた。


 長吉も口を開ける。


「河童の軍勢たい!」


「軍勢じゃなか!」


 ガタ吉が叫ぶ。


「水工衆たい!」


「すいこうしゅう?」


 白瀬が聞き返した。


 ガタ吉が胸を叩く。


「水ん中の普請なら、おいらに任せろ」


 白瀬は目を細めた。


「……いい名前じゃないか」


「白瀬しゃん!」


 小春が袖を引く。


「うちらにも仕事なかと?」


 白瀬は子どもたちを見る。


「ある」


「ほんと!?」


「しかも、一番大事な仕事だ」


 白瀬は納屋から持ってきた薄い板を三枚、地面へ並べた。


 墨を取り出す。


 一枚目に、大きな丸。


 ○。


 二枚目には、大きな罰印。


 ×。


 三枚目には、三角。


 △。


 小春が首を傾げた。


「白瀬しゃん、なんね、それ」


「合図」


 白瀬は丸を持ち上げた。


「これが出たら――進め」


「進め!」


 子どもたちが声を揃える。


 次に×。


「これは?」


 長吉が叫んだ。


「止まれ!」


「正解」


 最後に△。


「これは危ない時だ。仕事を放り出してでも岸へ戻る」


 子どもたちの表情が少し引き締まった。


 小春が聞く。


「河童しゃんたちも?」


「ああ」


 白瀬は頷いた。


「人間も河童も同じ」


 ガタ吉が板を覗き込む。


「字の読めん奴でも分かるな」


「だから印にした」


 ガタ吉が○の板を取り上げた。


「これは?」


「進め」


「これは?」


 ×


「止まれ」


「これは?」


 △。


「逃げろ」


 ガタ吉は感心したように頷いた。


 そして○の板を頭へ載せる。


「皿ん予備にもなるばい」


「ならない」


 小春たちが腹を抱えて笑った。


     ◇


「じゃあ――一本、やってみよう」


 白瀬の声に、空気が変わった。


 久右衛門が杭を抱える。


「今度は文句言わせんぞ」


「おいらが下から見る」


 さっき杭をけなした河童が応じる。


 新八たちは舟へ乗った。


 縄を張る。


 子どもたちは岸辺に並ぶ。


 小春の手には○の板。


 澪が裸足で浅瀬へ入った。


 目を閉じる。


 潮が足首を撫でる。


「……まだじゃ」


 白瀬は杭へ手を添える。


 水面の下では、河童たちが待つ。


「澪?」


「待て」


 波が一本、過ぎた。


 二本。


 三本。


 澪が目を開く。


「今じゃ、白瀬」


「丸!」


 小春が板を高く掲げた。


「○――っ! 進めーっ!」


「行くぞ!」


 久右衛門が槌を振り上げる。


 ドン!


 杭が沈む。


 水中から河童たちが支える。


「もう一度!」


 ドン!


 新八たちが縄を引く。


「右ば少し!」


「こっちか!」


「違う! そっちは左たい!」


「ややこしか!」


 ドン!


 水面の下で河童が泥を掻く。


 固い地盤を探す。


 別の河童が石を押し込む。


 粗朶を杭の根元へ潜らせる。


 白瀬は杭の傾きを見る。


「そのまま!」


 ドン!


 杭がさらに深く入った。


 さっきの河童が水面から顔を出す。


「止めろ!」


「×!」


 小春が×の板を上げた。


「止まれーっ!」


 全員の手が止まる。


 河童が潜る。


 しばらくして、また顔を出した。


「よか」


 久右衛門が眉を上げる。


「よか、だけか?」


「まあまあたい」


「貴様……!」


 だが、河童はにやりと笑った。


「次は、あと一尺深う打て。下に固か泥んある」


 久右衛門も、にやりとした。


「なら、お前がそこまで案内せい」


「よかぞ」


 二人は次の杭へ向かった。


 白瀬は、その背中を見て笑った。


「……早いな」


「何がじゃ」


 澪が隣へ来る。


「昨日は一本だった」


 白瀬は海を見る。


「今日は、もう三本目だ」


「河童がおるからか?」


「それだけじゃない」


 白瀬は首を振った。


「人間が海の上をやる。河童が海の下をやる。漁師が潮を読む。澪が水を見る」


「そして、そなたが道を決める」


 澪が言った。


 白瀬は苦笑する。


「責任重いな」


「今さら何を申しておる」


「ですよね」


 その時――。


 水面が、不自然に揺れた。


 白瀬の笑顔が消える。


「……ん?」


 一本の縄が強く張った。


 水の中から泡が上がる。


 ガタ吉が振り返った。


「誰か潜っとるぞ!」


 白瀬の背筋が凍った。


 河童の一匹が、足を縄へ絡ませていた。


 潮が動き始める。


「小春!」


 白瀬が叫ぶ。


 だが、小春はもう△の板を掴んでいた。


「△――っ!」


 小さな身体いっぱいに板を掲げる。


「みんな岸へ戻れーっ!」


「全員止めろ!」


 久右衛門が槌を捨てる。


 新八も縄を緩めた。


 ガタ吉が水へ飛び込む。


「待っとれ!」


 河童たちが一斉に潜った。


 数息。


 長い。


 白瀬は水面を睨んだ。


「ガタ吉……!」


 ぼこっ!


 水面が割れた。


 ガタ吉が仲間を抱えて浮かび上がる。


「引け!」


 人間たちが手を伸ばす。


 河童を岸へ引き上げた。


「大丈夫か!」


「げほっ……」


 河童が咳き込み、やがて顔を上げた。


「……死ぬかと思うた」


 皆が一斉に息を吐いた。


 その時、村人の一人がぽつりと言った。


「河童なら、水ん中は平気と思うとった」


 白瀬が振り向いた。


「違います」


 声が、思ったより強く出た。


 皆が白瀬を見る。


「河童だろうが、人間だろうが」


 白瀬は濡れた河童を見た。


「水の中だからって、命の値段は変わらない」


 静かになった。


 ガタ吉が白瀬を見る。


 老河童も見る。


 久右衛門がゆっくり頷いた。


「……そうじゃな」


 新八も言う。


「なら、△が出たら全員戻る。人も河童も関係なか」


「うん」


 白瀬は小春を見る。


「ちゃんと見てたな」


 小春は胸を張った。


「うち、一番大事な仕事やろ?」


「ああ」


 白瀬は笑った。


「助かったよ」


 小春の顔が、一気にほころんだ。


     ◇


 夕方。


 潮が戻り始めていた。


 昨日まで一本しかなかった杭が、海の中へ何本も伸びている。


 まだ堤ではない。


 もちろん、土地でもない。


 ただの杭だ。


 それでも白瀬には見えた。


 その先に続く、未来の線が。


「海ん上は、おいらが見る」


 新八が言った。


「海ん下は、おいらが見る」


 ガタ吉が胸を叩く。


「杭は俺が立てる」


 久右衛門が続く。


 白瀬は笑った。


「じゃあ俺は?」


「いっぱい考える係たい!」


 小春が即答した。


「雑!」


 笑い声が干潟へ広がった。


 ガタ吉が白瀬の横へ立つ。


「白瀬」


「ん?」


「これで、おいらも仲間たい」


 白瀬は横目で見る。


「今さら?」


「なんやと」


「だって最初から一緒だっただろ」


 ガタ吉はしばらく黙った。


 やがて鼻をこすった。


「……そがんこと、さらっと言うな」


「なんで?」


「うるさか」


 澪が二人の後ろで小さく笑った。


「ようやく、人も河童も同じ方を見たか」


 その時。


 新八の顔から笑みが消えた。


「白瀬どん」


「はい?」


 新八は沖を見ていた。


 夕陽の下で、有明海がゆっくりと満ちてくる。


「明後日の朝じゃ」


「何がです?」


「潮が一番引く」


 久右衛門が杭の列を見る。


 ガタ吉も海を見る。


 澪は目を閉じた。


 風が吹く。


 やがて澪が静かに言った。


「白瀬」


「うん」


「次は、杭一本では済まぬぞ」


 白瀬は、海の中へ伸びた杭の列を見つめた。


 人。


 河童。


 水守。


 漁師。


 農民。


 そして子どもたち。


 昨日まで別々だった者たちが、今は同じ海を見ている。


 白瀬はゆっくり息を吸った。


「……やりますか」


「何ば?」


 長吉が聞く。


 白瀬は有明海を指した。


「潮止めだ」


 笑い声が消えた。


 誰もが海を見る。


 次に挑むのは、一本の杭ではない。


 海そのものだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


ついに「河童水工衆」登場です。


河童だから何でもできる、ではなく、


人は人にできること。


河童は河童にできること。


澪は水を見る。


白瀬は道を決める。


それぞれが役割を持って、一つの普請に挑む形にしました。


そして次はいよいよ――


「潮止め」


一本の杭どころではありません。


人も河童も、みんなまとめて有明海へ挑みます。


次回、第二十普請。

どうぞお楽しみに。

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