第十八普請 杭一本
海に線を引く。
その第一歩は、たった一本の杭でした。
今回は、白瀬どんが「一人で何とかする」から少し離れ、
陸の職人、海の男たちと一緒に動き始めます。
大きな普請も、最初は小さな一歩から。
第十八普請、どうぞお楽しみください。
朝の有明海は、昨日より静かだった。
潮の引いた浜に、一本の太い丸太が横たわっている。
白瀬湊一は、その前で腕を組んでいた。
「……まずは、これだな」
昨日、海に線を引くと言った。
けれど、堤は一日ではできない。
ましてや、いきなり何百本もの杭を打つわけにもいかない。
まず一本。
海がどんな顔をするのか、確かめる。
白瀬が縄へ手を伸ばした、その時だった。
「白瀬どん」
背後から、太い声がした。
振り返る。
二人の男が浜を歩いてきていた。
一人は、がっしりした体つきに無精髭。
日に焼けた顔には、いかにも現場で鍛えられた男らしい迫力がある。
もう一人は青い鉢巻を締め、白瀬を見るなり人懐っこそうに笑った。
「その杭、どこまで一人で持っていく気じゃ?」
「え?」
無精髭の男が丸太を軽く蹴る。
「中嶋久右衛門じゃ。普請奉行ば預かっとる」
「普請奉行……」
「橋ば架ける。道ば直す。土ば掘る。石ば積む。職人衆ばまとめるとも、おいの役目たい」
久右衛門は白瀬を見た。
「海に杭ば打つち聞いた」
「はい。まだ試しですけど」
「試しだからこそ呼ばんか」
白瀬が瞬きをする。
すると隣の男が笑った。
「おいは浜田新八。船頭衆ばまとめとる」
「船頭頭?」
「まあ、そげんもんたい」
新八は沖へ顎をしゃくった。
「船と潮と魚なら、少しは役に立つぞ」
「少しどころじゃなかじゃろ」
久右衛門が鼻を鳴らした。
「こいつは海ん上じゃ偉そうにする」
「陸じゃ久右衛門が偉そうにしよるけんな」
「誰が偉そうじゃ」
「今」
二人が睨み合う。
白瀬は思わず笑った。
「……仲いいんですね」
「「よくない!」」
声まで揃った。
◇
「で、白瀬どん」
新八が丸太へ腰を下ろした。
「どこに打つ?」
白瀬は浜の先を指した。
「まず、あの辺りを考えてます」
新八の笑顔が消えた。
「そこはいかん」
「え?」
「もう少ししたら潮が動く」
白瀬は海を見る。
水面は穏やかだった。
「でも、今はほとんど流れてません」
「今はな」
新八はしゃがみ込み、濡れた砂を指でなぞった。
「沖ば見てみろ」
白瀬が目を凝らす。
遠くの水面。
ほんのわずかに、色の違う筋が走っている。
「……あれですか?」
「そうたい」
新八は笑った。
「海は、動き出す前に顔ば変える」
「そんなものまで分かるんですか」
「毎日見よればな」
白瀬は感心して、もう一度沖を眺めた。
大学でも、役所でも、潮汐表や観測値を見ることはあった。
けれど新八が見ているのは、数字になる前の海だった。
「すごいですね」
「褒めても何も出らんぞ」
「いや、本当に」
新八が少し照れたように鼻を擦った。
その横で久右衛門が杭を調べている。
「白瀬どん」
「はい?」
「こい、誰が削った」
「俺ですけど」
「……そりゃいかん」
「え」
今度は白瀬が久右衛門を見る。
「何が駄目です?」
「先が甘か」
「甘い?」
「こんまま打てば、途中で逃げるぞ」
久右衛門は杭の先を撫でる。
「木は真っ直ぐ見えても、癖がある」
「癖……」
「節もあれば、硬かところもある。打てば分かる」
白瀬は杭を見る。
新八が海を読む。
久右衛門が木を見る。
自分とは、見ているものが違う。
「……面白いな」
「何がじゃ?」
「いや」
白瀬は笑った。
「俺一人じゃ、たぶん一本目から失敗してました」
久右衛門が口元を上げた。
「たぶんじゃなか」
「そこは濁してくださいよ」
◇
気づけば、浜には人が増えていた。
「白瀬しゃーん!」
小春が駆けてくる。
その後ろから長吉たちも続く。
「今日、杭ば打つと?」
「ああ」
「うちも手伝う!」
「おいも!」
「今日は見るだけだ。危ないからな」
「えーっ!」
子どもたちが一斉に不満の声を上げる。
さらに農民や漁師まで集まってきた。
「白瀬どん、始めるとか?」
「声かけてくれりゃよかったとに」
「まだ一本ですよ?」
白瀬が言うと、年配の農民が笑った。
「一本目じゃろうが」
その言葉に、白瀬は少し黙った。
一本目。
そうだ。
これはただの試験杭ではない。
昨日まで海だった場所に、人の手で最初に立てる一本なのだ。
◇
潮がさらに引いた。
新八が海を見て言う。
「今ならよか」
「行きましょう」
久右衛門が職人たちへ声を飛ばす。
「持て!」
「おう!」
男たちが杭を担ぎ上げた。
白瀬も肩を入れる。
「白瀬どん」
「はい?」
「指ば挟むなよ」
「そんな子ども扱いしなくても」
「普請場じゃ素人じゃろ」
「……否定できない」
久右衛門が笑った。
泥の中を進む。
足が沈む。
一歩ごとに、ずるりと足元が逃げた。
「うわっ」
「白瀬しゃん、危なか!」
「大丈夫!」
浜から子どもたちの笑い声が飛ぶ。
澪は少し離れた水際を歩いていた。
静かに海を見つめている。
「澪」
「なんじゃ」
「水は?」
澪は目を細めた。
「まだ静かじゃ」
少し間を置く。
「されど、長くはない」
「分かった」
白瀬は頷いた。
そして久右衛門を見る。
「ここでどうです?」
久右衛門は地面を踏みしめる。
「悪くなか」
新八も周囲を見る。
「潮も今ならよか」
白瀬は息を吸った。
「じゃあ――ここにしましょう」
◇
杭を立てる。
久右衛門が掛矢を構えた。
「最初は軽くじゃ」
「はい」
「傾きを見ろ」
「分かりました」
白瀬は杭の脇へ回る。
久右衛門が振り上げた。
――ドン。
低い音が浜へ響いた。
杭が少し沈む。
子どもたちから歓声が上がった。
「入った!」
「まだじゃ」
久右衛門は杭を見る。
「もう一つ」
――ドン。
さらに沈む。
だが。
「待ってください」
白瀬が手を上げた。
杭が、ごくわずかに傾いていた。
「右に逃げてる」
「言うたろ」
久右衛門は笑った。
「木にも癖がある」
「どうします?」
白瀬は素直に聞いた。
久右衛門が一瞬、白瀬を見る。
「おいに聞くとか?」
「普請奉行でしょう」
「……ようやく分かったか」
久右衛門は職人へ指示を出す。
「綱ばそっちへ張れ。二人つけ」
「おう!」
白瀬も綱を持とうとする。
「白瀬どんは杭ば見とれ」
「でも」
「皆でやるとじゃろ」
その一言に、白瀬は手を止めた。
「……はい」
新八が沖を見た。
「ちょい待て」
全員が止まる。
風が変わる。
水面の筋が、ゆっくりと向きを変えた。
新八が片手を上げる。
「まだ」
誰も動かない。
白瀬も海を見る。
ほんの少し。
流れが弱まる。
新八の手が下りた。
> 「今たい」
「久右衛門さん!」
「分かっとる!」
久右衛門が掛矢を振り上げた。
「行くぞ!」
――ドンッ!
杭が沈む。
「もう一つ!」
――ドンッ!
白瀬は杭から目を離さない。
「真っ直ぐです!」
「なら、もう一丁!」
――ドンッ!
杭は、立っていた。
真っ直ぐに。
海の中へ。
一瞬、誰も何も言わなかった。
それから。
「立ったあっ!」
小春の声が響いた。
「やった!」
「白瀬しゃん!」
子どもたちが跳び跳ねる。
大人たちからも笑い声が起こった。
白瀬は海に立つ一本の杭を見上げた。
本当に一本だけだ。
堤でもない。
土地が増えたわけでもない。
けれど。
昨日まで何もなかったところに、確かに一本、立っている。
「白瀬どん」
久右衛門が隣へ来た。
「はい」
「どうじゃ?」
「……嬉しいですね」
「一本ぞ」
「だからです」
白瀬は笑った。
「最初の一本ですから」
新八も並んだ。
「まだ海は何も許しとらんぞ」
「分かってます」
「ならよか」
新八も笑う。
◇
夕方。
満ち始めた潮が、杭の周りを静かに回っていた。
白瀬はその様子を眺めていた。
久右衛門が隣へ立つ。
「白瀬どん」
「はい」
久右衛門は一本の杭を指した。
> 「次は、どこに打つ?」
白瀬は振り返った。
「……次?」
「一本で終わる気か」
新八も笑う。
「海ば取る気はなかとじゃろ?」
「取るんじゃありません」
白瀬は海を見た。
「借りるんです」
「なら、海にも聞かんばな」
「ですね」
白瀬は少し考えてから言った。
> 「次は、一緒に決めましょう」
久右衛門が頷く。
「そいがよか」
新八も、
「賛成たい」
と笑った。
昨日までは、白瀬の夢だった。
今日。
その夢の中に、大人たちが一歩入ってきた。
◇
夜。
月明かりの下。
海に立つ一本の杭。
その周りで――。
ぽこん。
水面に何かが浮いた。
ぽこん。
もう一つ。
ぽこん。
さらに一つ。
「……ガタ吉」
「なんじゃ」
白瀬は目を細めた。
「何かいるぞ」
水面から、小さな頭が次々と現れる。
一つ。
二つ。
三つ。
五つ。
「河童……?」
白瀬が呟く。
ガタ吉の顔が引きつった。
「……来おったか」
「知り合い?」
「まあの」
一匹の河童が、杭へ泳いでいく。
ぺたぺた。
杭を触る。
ぐるりと回る。
最後に、こん、と軽く叩いた。
そして白瀬を見た。
「……なんだよ」
河童が一言。
> 「下手くそ」
「は?」
水面のあちこちから笑い声が上がった。
「ちょっと待て!」
白瀬が一歩前へ出る。
「今、誰が下手くそって言った!」
ガタ吉は額を押さえた。
「白瀬」
「何だよ」
ガタ吉は水面に並ぶ河童たちを見回した。
> 「河童水工衆じゃ」
白瀬は、もう一度海を見る。
河童たちはまだ笑っていた。
「……よし」
白瀬が袖をまくる。
「明日、話を聞こうじゃないか」
一本の杭。
それはまだ、海に引いた線ですらない。
だが、その一本を目印にして。
人が集まり。
知恵が集まり。
そして今。
水の底からも、新しい仲間が姿を現そうとしていた。
海から百万石。
その途方もない普請は。
ようやく、本当の意味で動き始めた。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、普請奉行・中嶋久右衛門と、船頭頭・浜田新八が本格的に登場しました。
白瀬の現代知識だけでは、海に杭一本すら満足に打てません。
木を見る職人。
潮を見る船頭。
水を見る澪。
水底を見るガタ吉。
そして、それらをつなぐ白瀬。
少しずつですが、
「白瀬が村を助ける物語」から、
みんなで一緒に国を造る物語
へ変わってきました。
そして最後に現れた、妙に偉そうな河童たち。
次回、第十九普請「河童水工衆」
水の底にも、どうやら腕自慢がいるようです。




