第十七普請 海に、線を引く
第三章、いよいよ開幕です。
村の田を守るだけではなく――今度は、海そのものへ。
白瀬が見つけたのは、潮が引いた有明海の広大な干潟でした。
けれど、そこは決して「何もない土地」ではありません。
白瀬、澪、ガタ吉、そして村のみんなで。
まずは海を知るところから始めます。
元和七年、夏。
朝から、頭の中で鐘が鳴っていた。
ごおん。
ごおん。
「……死ぬ」
長吉の家の納屋。
藁の上に転がった白瀬湊一は、額を押さえた。
昨夜の宴である。
村が立ち直り始めた祝いだと言われ、断りきれずに飲まされ、最後にはなぜか縁談まで持ち込まれた。
「白瀬しゃん!」
納屋の戸が勢いよく開いた。
朝日が突き刺さる。
「ぐあっ!」
「もう朝たい!」
小春が満面の笑みで立っている。
「声を……小さく……」
「昨日、あがん元気に逃げよったとに?」
「何から」
「嫁さんから!」
「忘れろ!」
思わず起き上がった。
頭痛が倍になった。
「うぐっ……」
外から長吉の笑い声が飛んでくる。
「おいも見たばい! 白瀬しゃん、えらい速かった!」
「お前まで言うな!」
桶の中ではガタ吉が腕を組んでいる。
「わしは、あのまま捕まると思うておったぞ」
「何を期待してたんだ、お前は」
「つまらぬ男じゃのう」
そして。
納屋の柱にもたれていた澪が、涼しい顔で言った。
「往生際の悪い男であった」
「澪まで……」
「事実じゃ」
「少しくらい庇ってくれてもいいだろ」
「なぜ、わたしが?」
「いや……そう言われると困るけど」
澪が、ほんの少し笑った。
朝から散々だった。
けれど。
こんな朝も悪くない。
白瀬がそう思いかけた、そのとき。
「白瀬どん」
外から声がした。
声の調子が違った。
◇
やって来たのは、若い百姓たちだった。
昨日の宴にもいた顔だ。
だが、今日は誰も笑っていない。
「ちいっと、見てもらいたかもんのあるとです」
連れていかれたのは、村外れの田だった。
夏の日差しの下、青々とした稲が風に揺れている。
水害を乗り越えた田には、まだところどころ傷が残っていた。
それでも。
田は生きている。
白瀬にはそう見えた。
「ここがどうかしたんです?」
若い男が首を振った。
「ここじゃなかとです」
「え?」
男は田の向こうを見た。
「田が、なかとです」
白瀬は黙った。
「兄貴が継ぐ田はある。ばってん、おいが所帯ば持っても、分けてもらえる田はほとんどなか」
別の男も口を開く。
「子は育つ。働く手も増える。ばってん、耕す土地は増えん」
「山ば開くにも限りのある」
「石ばっかりん土地もある」
長吉の父が土を踏んだ。
「水ば守ってもろうた。田も守ってもろうた」
そして白瀬を見る。
「ばってん次は、田そのものが足らんとです」
白瀬は答えなかった。
答えられなかった。
現代なら農地整備、区画整理、土地利用計画。
いくらでも言葉はある。
だが、今ここに新しい土地はない。
ふと。
潮の匂いがした。
白瀬が顔を上げる。
遠く。
夏空の下に、有明海があった。
◇
「また、厄介な顔をしておるな」
声がした。
いつの間にか、澪が隣に立っていた。
「どんな顔だよ」
「面白そうなものを見つけた顔じゃ」
「……分かる?」
「そなたは分かりやすい」
澪の視線も、白瀬と同じ場所へ向いている。
有明海。
白瀬は少し笑った。
「見に行ってみるか」
「わたしに聞くまでもあるまい」
「そう?」
「もう足が海へ向いておる」
白瀬は自分の足を見た。
「……本当だ」
「ゆえに、分かりやすいと申しておる」
◇
「なんで、みんな付いてくるんだ」
「白瀬しゃんが海ば見に行くけんたい」
小春が答えた。
「おいも行く!」
長吉もいる。
ほかの子どもたちまでいる。
「散歩じゃないぞ」
「知っとる!」
「絶対知らないだろ」
その後ろからガタ吉。
「わしも付き合うてやろう」
「お前は単に暇なんだろ」
「失礼な」
やがて、視界が開けた。
海。
――ではない。
潮の引いた有明海だった。
どこまでも続く灰褐色の干潟。
強い日差しを受けた泥の表面が、ところどころ鈍く光っている。
その上を細い水の筋が幾重にも走っていた。
白瀬は立ち止まった。
「……広い」
長吉が首をかしげる。
「そりゃ海たい」
「今は海じゃない」
「は?」
白瀬はしゃがみ込んだ。
泥を手に取る。
握る。
指の間からゆっくり落ちる。
「潮が引けば地面が出る」
「当たり前たい」
「潮が満ちれば海になる」
「そいも当たり前たい」
「その当たり前が――面白いんだよ」
長吉が小春を見る。
小春が長吉を見る。
「また始まったばい」
「白瀬しゃんの変な顔たい」
「聞こえてるぞ」
白瀬は棒を一本拾った。
泥に線を引く。
ざあっ。
「ここに堤を築く」
もう一本。
「水を抜く」
さらに囲う。
「塩を抜いて、土を作る」
小春の目が丸くなる。
「そしたら?」
「田んぼになるかもしれない」
一瞬。
沈黙。
次の瞬間。
「田んぼ!?」
「海に!?」
「米ば作れると!?」
子どもたちが一斉に騒いだ。
「まだ『かもしれない』だ!」
だが。
その中で一人だけ。
澪は笑っていなかった。
「白瀬」
「ん?」
「そなた、今――何を見ておる」
「何って、干潟だよ」
「違う」
澪は沖へ目を向けた。
「ここも海じゃ」
白瀬は言葉を止めた。
「でも今は――」
「水が引いたからとて、海でなくなるわけではない」
澪は足元の泥を見る。
「水が去り、水が戻る。その間だけ姿を見せておるにすぎぬ」
「……」
「白瀬」
澪が白瀬を見る。
「そなたは海が嫌いか」
「なんでそうなる」
「陸へ変えようとしておる」
白瀬は少し考えた。
「嫌いじゃない」
「ならば」
澪は静かに言った。
「奪うな」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
「じゃあ、どうすればいい」
澪は海へ視線を戻した。
「借りればよい」
「海から?」
「そなたが本当に必要なだけをな」
白瀬は何も言わなかった。
そのときだった。
「白瀬どん」
背後から低い声がした。
◇
漁師が三人立っていた。
年嵩の男が、白瀬の引いた線を見る。
「そこは、田にする場所じゃなか」
子どもたちが静かになった。
白瀬は立ち上がる。
「漁場だからですか?」
「それもある」
老人が沖を指した。
「見えるね」
白瀬が目を凝らす。
「何がです?」
「舟道たい」
「……え?」
何もない。
ただの泥にしか見えない。
「潮ん満ちたら、あそこば舟の通る」
別の漁師が少し右を指す。
「あっちは貝ば採る場所たい」
さらに向こう。
「あそこは潮ん走る」
老人が今度は足元より少し先を指した。
「そん辺は踏むな」
「なぜです?」
「沈む」
「どれくらい?」
「腰まで」
子どもたちの顔が固まった。
白瀬はもう一度、干潟を見る。
平らに見える。
何もないように見える。
だが違う。
ここには道がある。
水路がある。
漁場がある。
底質の違いがある。
潮の癖がある。
自分には何一つ見えていない。
白瀬は澪を見る。
澪もこちらを見ていた。
「……澪の言った通りだな」
「珍しく素直じゃな」
「俺だって間違えたら認めるよ」
「ならば覚えておけ」
「ああ」
白瀬は漁師へ向き直った。
「教えてください」
「何ば?」
「この海を」
老人は少し考えてから笑った。
「口で聞いたっちゃ分からんばい」
「じゃあ、どうすれば」
「歩けばよか」
「……え?」
◇
最初のうちは、楽しかった。
「カニ!」
小春が叫ぶ。
「おった!」
長吉が泥の上を走る。
「待て待て! 勝手に離れるな!」
白瀬が呼び戻す。
ガタ吉が泥から顔を出した。
「ほれ、こっちにも――」
「河童!」
「わしを捕まえるでない!」
子どもたちが笑う。
白瀬は細い木杭を持ってきていた。
数十歩ごとに打つ。
一。
二。
三。
泥の硬さ。
水筋。
岸からの距離。
簡単な印を板へ書く。
「これで明日また来れば、潮がどこまで上がったか分かる」
小春が覗き込んだ。
「うちも書きたか!」
「じゃあ次から手伝ってくれ」
「ほんと!?」
「ああ」
ぱっと笑った。
「任せて!」
その横で長吉。
「おいは?」
「杭運び」
「なんでおいだけ力仕事!」
「適材適所だ」
「ずるか!」
澪が白瀬の隣で呟く。
「楽しそうじゃな」
「こういうの好きなんだよ」
「知っておる」
「また分かるの?」
「先ほどから子どもより目が輝いておる」
「……そんなに?」
「そんなにじゃ」
その直後。
ずぶっ。
「ん?」
白瀬の右脚が沈んだ。
「うおっ!」
膝まで。
左脚を出す。
ずぼっ。
「待て待て待て!」
今度は腿まで沈んだ。
「白瀬しゃん、海に食われよる!」
子どもたちが爆笑する。
「笑ってないで助けろ!」
長吉が棒を差し出す。
「白瀬しゃん、掴まんね!」
「助かる!」
どうにか這い出す。
澪が白瀬を見る。
「楽しそうじゃな?」
「今それ言う!?」
澪が笑った。
老人は呆れた顔で言った。
「干潟ば甘う見たらいかん」
その言葉を。
白瀬はまだ、半分しか理解していなかった。
◇
「戻るぞ」
しばらくして、老人が言った。
ほぼ同時だった。
「白瀬」
澪も呼んだ。
「どうした?」
「戻るぞ」
「漁師さんも同じことを――」
「違う」
澪が足元を見る。
先ほどまでほとんど動いていなかった水が、わずかに震えている。
「水が、帰りたがっておる」
白瀬の表情が変わった。
沖を見る。
さっきまで細かった水筋。
太くなっている。
「満ち始めた?」
老人が頷いた。
「始めた」
「まだ時間は――」
「海は、お前さんの時間通りには来ん」
「全員、戻るぞ!」
子どもたちを集める。
岸へ向かう。
まだ岸は見える。
まだ余裕はある。
そう思った。
「白瀬しゃん!」
小春が叫んだ。
右側から水が来ている。
「え?」
海は沖から岸へ真っすぐ満ちてくる。
無意識にそう考えていた。
違う。
低いところ。
古い水筋。
溝。
あらゆる場所から水が回り込む。
「後ろも!」
長吉が叫ぶ。
先ほど歩いた泥の道に、細い川が生まれていた。
「澪!」
「見えておる」
澪の顔から、先ほどまでの笑みが消えた。
「右から来るぞ。そなたの思うより速い」
「全員、岸へ!」
今度は急いだ。
だが。
走れない。
泥が足を取る。
照りつける夏の日差し。
潮の湿気。
汗が目に入る。
足を抜くたび、体力を奪われていく。
「長吉! 後ろの子を見ろ!」
「分かった!」
「小春は――」
白瀬が振り返る。
「小春?」
いない。
「小春!」
「白瀬しゃん!」
遠く。
杭のそば。
小春が立っていた。
白瀬の記録板を抱えている。
「何やってる!」
「板ば落としたけん!」
「捨てろ!」
「ばってん、白瀬しゃんが大事に――」
ざあっ。
水が横切った。
細かった流れが、一気に幅を広げる。
小春と白瀬たちの間。
さっきまで道だった場所が消えた。
「小春! 動くな!」
白瀬が飛び出そうとした。
袖を掴まれた。
「離せ、澪!」
「嫌じゃ」
「小春が!」
「そなたまで失えば、誰があの子を帰す!」
白瀬が澪を見る。
「でも――」
「白瀬」
澪が真正面から白瀬を見た。
「わたしを見よ」
白瀬の動きが止まる。
「わたしが水を見る」
澪が白瀬の袖から手を離した。
「そなたが道を決めよ」
一瞬だけ。
二人の目が合う。
「……分かった」
白瀬は息を整えた。
「ガタ吉!」
「おう!」
「底を見てくれ!」
「任せい!」
河童が水へ飛び込む。
漁師の老人が叫ぶ。
「三本目の杭ん方たい! あそこならまだ硬か!」
澪が水を見る。
「待て!」
全員が止まる。
一筋の潮が横切った。
「……今じゃ!」
「長吉!」
「おう!」
「三本目まで行け!」
長吉が泥を蹴った。
ガタ吉が水から顔を出す。
「その先は浅いぞ!」
白瀬の頭の中で情報が繋がる。
漁師の経験。
ガタ吉が見た底。
澪が読む水。
自分たちが打った杭。
「小春!」
「うん!」
「俺を見ろ!」
小春が顔を上げる。
「右へ三歩!」
「右?」
「お前の右!」
「こっち?」
「そう!」
一歩。
泥。
二歩。
足が沈む。
「白瀬しゃん!」
「止まるな! あと一歩!」
三歩。
足場が変わった。
「そこじゃ!」
澪が叫んだ。
長吉が手を伸ばす。
「小春!」
「長吉!」
ぎりぎり届かない。
「もう一歩!」
「怖か!」
「おいが掴むけん!」
小春が踏み出す。
ずるっ。
「きゃっ!」
「小春!」
長吉が腹ばいになった。
腕を掴む。
「離すな!」
「離さん!」
白瀬と漁師が駆け寄る。
小春の身体を引き上げた。
直後。
ざああっ!
小春が立っていた場所へ海水が流れ込んだ。
誰も笑わなかった。
◇
「戻るぞ」
白瀬は小春の肩を抱いた。
「歩けるか?」
「うん」
「板は捨てろ」
「……ばってん」
「捨てろ」
小春が黙った。
岸へ向かう。
潮はどんどん広がっていく。
足元の泥が重い。
濡れた着物が脚にまとわりつく。
陽射しは容赦なく照りつける。
しばらくして。
澪が小春の手を取った。
そのまま、顔を見る。
「白瀬」
「どうした?」
「この子、もう足に力が入っておらぬ」
「……!」
白瀬も小春の顔を見る。
さっきまで騒いでいたのに。
妙に静かだ。
「小春?」
「……うん」
「気分悪いか?」
「ちょっと……きつか」
汗。
暑さ。
泥の抵抗。
恐怖。
濡れた着物の重さ。
子どもの身体には負担が大きすぎる。
「休ませたい。でも、ここじゃ駄目だ」
長吉が振り返る。
「岸までもうちょっとたい!」
「その『もうちょっと』を歩かせる方が危ない」
白瀬がしゃがんだ。
「乗れ」
「歩ける」
「いいから」
小春を背負う。
「白瀬しゃん……」
「なんだ」
「板……」
「もう板の話するな」
「ばってん……大事な――」
「記録なんか、また書けばいい」
「……」
「お前がおらんかったら」
白瀬は立ち上がった。
「次の記録を誰が書くんだ」
小春が黙る。
少しして。
「……うちが書く」
「ああ」
「いっぱい?」
「嫌になるくらいな」
「……なら、帰る」
「ああ。帰るぞ」
歩き出す。
その横へ澪が来た。
「白瀬」
「今度はなんだ」
「そなたもふらついておる」
「俺は大丈夫」
「嘘を申すな」
「小春ほどじゃない」
「比べる話ではない」
澪が白瀬の腕を掴んだ。
「人を背負い、泥を歩き、朝からまともに水も飲んでおらぬ」
「……よく見てるな」
「見ておる」
澪は当然のように言った。
「そなたは放っておくと、すぐ自分を数に入れぬ」
白瀬は返す言葉を失った。
「小春ばかり見て、自分を忘れるな」
澪の手に少し力が入る。
「そなたも、生きて帰るのじゃ」
白瀬は一瞬だけ澪を見る。
それから、小さく頷いた。
「ああ」
「約したぞ」
「分かったよ」
澪はようやく手を離した。
「ならばよい」
◇
岸へ着いた頃には、全員が泥だらけだった。
まず日陰へ移った。
水を少しずつ飲ませる。
小春を座らせ、濡れて重くなった上衣を緩める。
長吉も地面へへたり込んだ。
ほかの子どもたちも、もう騒がない。
沖を見る。
さっきまで歩いていた場所。
そこには、もう海がある。
大波が来たわけではない。
嵐でもない。
夏の穏やかな有明海。
それでも、一歩間違えば帰れなかった。
白瀬は子どもたちを見る。
「今日のこと、覚えておけ」
皆が顔を上げる。
「道具より命」
一つ。
「記録より命」
二つ。
「一人で行くな」
三つ。
「帰る時間を、行く前に決める」
四つ。
「暑さも、疲れも、根性で何とかしようとするな」
長吉が唇を噛んだ。
「おい……役に立たんかった」
「違う」
白瀬は首を振る。
「小春の手を掴んだろ」
「ばってん……」
「役に立つ奴ほど、生きて帰れ」
長吉を見る。
小春を見る。
ほかの子どもたちも見る。
「死んだら、次の普請ができない」
小春が小さく頷いた。
「うち、もう勝手に戻らん」
「ああ」
「板も捨てる」
「そうしてくれ」
ガタ吉が腕を組む。
「白瀬が『根性で何とかするな』と言うても説得力がないの」
「うるさい」
澪が横から言った。
「まことにな」
「澪まで!?」
子どもたちが少しだけ笑った。
そのとき。
沖で。
ばきっ。
音がした。
一本目の杭が倒れた。
「あっ」
小春が立ち上がりかける。
「座ってろ」
「でも杭!」
ばきっ。
二本目。
三本目も傾いた。
長吉が呟く。
「全部なくなる……」
白瀬は黙って海を見た。
干拓どころではない。
測量以前だ。
海に杭一本残すことさえ難しい。
「……俺には」
白瀬が呟く。
「この海が全然見えてなかった」
「ならば、見ればよい」
澪だった。
「簡単に言うなよ」
「簡単ではない」
澪は白瀬の隣に立った。
二人の前には、有明海。
「山には山の理がある」
澪が言う。
「川には川の理がある。そして――」
海を見る。
「海にも、海の理がある」
「海の理……」
「そなたが土地を欲するなら、まず海の言い分を聞け」
白瀬はしばらく黙った。
朝。
自分は干潟を見て、土地にできると思った。
漁師には舟道が見えていた。
漁場が見えていた。
澪には海が見えていた。
自分だけが。
そこにまだ存在しない田んぼを見ていた。
「そうだな」
白瀬は笑った。
「海を奪うんじゃない」
澪を見る。
「海と相談して、土地を借りる」
澪が小さく頷いた。
「それならばよい」
「手伝ってくれる?」
「今さら何を申しておる」
澪が呆れたように白瀬を見る。
「そなた一人なら、無理であろうな」
「ひどいな」
「事実じゃ」
「今日二回目だぞ、それ」
澪は少し笑った。
「ゆえに――」
白瀬を見る。
「わたしがおる」
白瀬は一瞬、言葉を失った。
潮の匂いを含んだ夏風が、二人の間を抜けていった。
「……そっか」
「何じゃ、その返事は」
「いや」
白瀬も笑った。
「頼りにしてる」
「うむ」
「わしもおるぞ!」
突然、下から声。
ガタ吉だった。
白瀬が振り返る。
「お前、どこから聞いてた?」
「『そなた一人なら』の辺りからじゃ」
「ほぼ全部じゃないか!」
「わしがおらねば水中は誰が見る!」
「分かった、分かった。頼りにしてるよ」
「扱いが違わぬか!?」
小春たちが笑った。
ようやく、いつもの空気が戻った。
そのとき。
「白瀬」
澪が海を見たまま言った。
「なんだ?」
「あれを見よ」
沖。
白瀬が目を凝らす。
ほとんどの杭は倒れている。
だが。
一本だけ。
潮に洗われながらも、残っていた。
傾いている。
それでも倒れていない。
「……残ってる」
漁師の老人も気づいた。
「あの場所だけたい」
白瀬の顔から疲れが消えた。
「なんでだ?」
澪がほんの少し笑う。
「海も、すべて拒んではおらぬようじゃな」
「そう思う?」
「さてな」
「おい」
「それを確かめるのが、そなたの普請であろう?」
ガタ吉が海を見る。
「明日、わしが潜ってやろうか?」
白瀬は即答した。
「頼んだ」
「やはり、わしだけ扱いが雑ではないか!?」
また笑い声が上がった。
白瀬はもう一度、海を見る。
一本だけ残った杭。
まだ線ではない。
土地でもない。
ただの一本の杭だ。
けれど。
その一本の向こうに。
白瀬には、まだ誰にも見えない未来が見えた。
そして今度は。
その未来を一人で見ているのではなかった。
隣には澪がいる。
足元にはガタ吉がいる。
振り返れば、子どもたちと村の人々がいる。
海から土地を奪うのではない。
海の言い分を聞く。
潮を知る。
泥を知る。
人の暮らしを知る。
そのうえで――。
海から、少しだけ土地を借りる。
白瀬は一本の杭を見つめた。
海へ引く最初の線は。
そこから始まろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第三章「海に線を引く」が始まりました。
干潟を見れば、白瀬には「土地になるかもしれない場所」に見える。
けれど漁師には舟道や漁場が見え、澪には「まだ海である場所」に見える。
同じ景色でも、立場が違えば見えるものも違います。
そして今回、白瀬がたどり着いた答えは、
「海を奪うのではなく、海と相談して土地を借りる」
でした。
一本だけ残った杭には、いったい何があるのか。
次の普請では、ガタ吉が海の下を調べます。
引き続き、白瀬たちの国づくりを見守っていただければ嬉しいです。




