第十六普請 次の雨では、もう慌てない
第二章、最終話です。
大雨を経験した村が、今度は「誰かに助けてもらう」のではなく、自分たちで次の雨に備え始めます。
そして今回は少し賑やかに。
働いた後には、食べて、笑って、踊って――なぜか縁談まで?
第二章の締めくくりをお楽しみください。
朝から、空は憎らしいほど青かった。
雲ひとつない。
本明川も、先日の荒れようが嘘のように、朝日をきらきらと返している。
田では男たちが崩れた畦を直し、女たちが泥のついた道具を洗っていた。
その間を、子どもたちが走り回っている。
「小春! そっち踏むな!」
「踏んどらん!」
「踏んだばい!」
「そいは長吉ん足跡たい!」
「おいはこっちにおった!」
「なら誰んね!」
「知らん!」
朝から元気である。
白瀬は土手の上で、その光景を眺めていた。
少し前まで。
この村に、こんな声が戻るのだろうかと思っていた。
水が押し寄せ。
人が逃げ。
田が泥に沈み。
皆が、途方に暮れた。
それでも。
戻ってきた。
だからこそ――。
「よし」
白瀬は手にした棒を握り直した。
「始めよう」
隣にいた澪が、横目で見る。
「本当にやるのか」
「やる」
「これほど晴れておる日に?」
「晴れてる日だからいいんだよ」
「……そなたは時折、わざと人に嫌われようとしておるのかと思うぞ」
「俺もそんな気がしてきた」
「ならばやめればよかろう」
「それは駄目」
白瀬は笑って。
鐘を思い切り叩いた。
カン!
カン!
カン!
カン!
けたたましい音が、村じゅうへ響き渡った。
「なんじゃ!?」
「川か!?」
「水ん来たと!?」
大人たちが一斉に顔を上げる。
子どもたちも止まった。
そして。
一番最初に動いたのは、小春だった。
「逃げるばい!」
「おう!」
長吉が駆け出す。
「おい、婆ちゃんば呼んでくる!」
「うちは小さい子ば集める!」
「おいは米んとこ行く!」
子どもたちが散る。
それを見て、大人たちも動いた。
「爺さんとこ誰が行く!?」
「おいが行く!」
「牛ば上へ!」
「種籾は!?」
「高か納屋たい!」
「早うせんね!」
走る。
呼ぶ。
運ぶ。
だが。
「……待て」
一人の百姓が止まった。
空を見上げる。
「雨、降っとらんぞ」
別の男も本明川を覗く。
「川も増えとらん」
「山も晴れとる」
村人たちの動きが。
ぴたり。
止まった。
そして。
何十もの目が。
ゆっくりと白瀬へ向いた。
「…………」
白瀬はにこりと笑った。
「今日は避難の稽古です」
「…………」
「…………」
「…………」
「白瀬どん!!」
「はい!」
「先に言わんかあああ!」
「言ったら稽古にならないでしょう!」
「田ば放って走ったとぞ!」
「そこまで本気で動いてくれたのは嬉しいです!」
「褒めとらん!」
村じゅうから怒声が飛んだ。
澪が額に手を当てる。
「だから申したであろう」
「でも、ちゃんと動けた」
「そなたが殴られずに済めばよいがな」
「怖いこと言うなよ」
◇
当然。
誰もが納得したわけではない。
「白瀬どん」
年嵩の百姓が腕を組む。
「毎度こんげんことばせんばならんとか?」
「仕事にならんばい」
「この前ん雨が大きかったとは分かる。ばってん、雨ん降るたび逃げよったら田ぁどうするとや」
「そうたい」
「怖がってばっかりでも暮らせんぞ」
別の男も続ける。
「川ば見張るだけでよかろうもん」
すると漁師が口を挟んだ。
「川だけじゃ足らんばい」
「なんでね」
「潮たい。満ち潮ん時に水ん増えたら、川から海へ抜けにくうなる」
百姓が鼻を鳴らす。
「海ん男に山ん水は分からんやろ」
「そっちこそ潮ん怖さば知らんたい」
「なんじゃと?」
「なんね?」
お。
まずい。
白瀬が口を挟もうとした、その時だった。
「それです!」
二人が白瀬を見る。
「……何がたい?」
「それが欲しかったんです」
「喧嘩が?」
「違います!」
白瀬は地面へしゃがんだ。
棒で土に線を引く。
本明川。
山。
田。
家。
道。
そして海。
「俺には、この土地の全部は分かりません」
百姓を見る。
「山の雨を知ってる人がいる」
漁師を見る。
「潮を知ってる人がいる」
老人を見る。
「昔の川や水の通り道を知ってる人がいる」
そして。
子どもたちを見る。
「村の細い道なら、こいつらの方が俺より詳しい」
小春がすぐに胸を張った。
「うち、どこでも知っとるよ!」
「おいも!」
「おいの方が知っとる!」
「いや、おい!」
「なんで競争になるんだよ」
笑いが漏れる。
白瀬は地面の図を指した。
「一人が全部知ってる必要なんてないんです」
山。
川。
海。
村。
「みんなの知ってることを、全部合わせればいい」
少し沈黙があった。
やがて漁師が言った。
「潮なら、おいらが見る」
百姓が続く。
「なら山はこっちで見ちゃる」
「川は?」
「おいがやるばい」
「鐘はどうすると?」
別の男が口を挟む。
白瀬が答える前に。
「一回なら気ぃつけろ、でよかろう」
「連打なら逃げるたい」
「それなら婆ちゃんにも分かる」
「誰が婆ちゃんじゃ!」
近くにいた老婆から拳が飛んできた。
「痛っ!」
「婆ちゃん元気たい!」
「逃げ足も心配なか!」
また笑いが起こる。
◇
そこからは早かった。
川沿いに杭を打った。
一つ目の印。
ここまで来たら注意。
二つ目の印。
ここまで来たら避難。
「子どもにも分かるようにしよう」
「なら傷ば深う付けんね」
「色は?」
「色塗るものがないな……」
「布ば巻くとは?」
「あ、それいいですね」
白瀬が感心すると、提案した女が笑った。
「白瀬どんより、うちん方が頭よかろ?」
「今日は負けを認めます」
「今日は?」
「痛っ!」
今度は背中を叩かれた。
家ごとに。
誰が老人を連れていくか。
誰が幼い子を集めるか。
誰が種籾を守るか。
誰が家畜を高い場所へ移すか。
それも決めた。
「種籾は一か所に置かん方がよか」
「なんで?」
「一か所が水に浸かったら全部終わるけん」
「なら半分はこっちたい」
「残りは高かところへ」
「そっちの方がよか」
白瀬は。
いつしか、ほとんど喋っていなかった。
皆が自分たちで話している。
自分たちで決めている。
横から澪が言った。
「暇そうじゃな、白瀬」
「……うん」
「よかったではないか」
「うん」
少しだけ。
寂しい。
でも。
それよりずっと。
嬉しかった。
◇
「白瀬どん」
老人の一人が呼んだ。
「その道は使わん方がよか」
「どうしてです?」
「昔、大水ん時に水ん走った」
白瀬はすぐに立ち上がった。
問題の道へ向かう。
一見すれば普通の道だ。
だが。
よく見ると低い。
草の間にも、わずかな窪みが続いている。
「……ここを?」
「ああ」
老人が頷く。
「普段は何もなか。ばってん、山ん水ん多か時だけ、ここば走る」
白瀬はしゃがんだ。
土を掴む。
地図にはない。
自分の知識だけでも分からない。
長年、その土地で生きた人間だけが知っている。
土地の記憶。
「爺さん」
「なんね」
「ほかにもあったら教えてください」
「わしも何でも知っとるわけじゃなかぞ」
「それでも、俺よりずっと知ってます」
老人は。
少し驚いたような顔をした。
それから、笑った。
「仕方なかのう」
その声音は。
少し嬉しそうだった。
◇
「よーし!」
昼過ぎ。
白瀬が手を叩いた。
「今度は避難路!」
「まだやると!?」
大人たちから悲鳴が上がる。
だが。
子どもたちだけは元気だった。
「走ると!?」
「走る!」
「競争たい!」
「違う!」
小春が飛び出す。
「うち一番!」
「おいが一番たい!」
「だから安全に逃げる道を覚えるんだって!」
「白瀬しゃん遅か!」
「待てえええ!」
結局、白瀬も走った。
そこへガタ吉も飛び込む。
「今度こそわしが勝つ!」
「何にだよ!」
「河童の誇りを見せる時じゃ!」
三歩。
五歩。
ずるっ。
べしゃ。
「…………」
ガタ吉が泥に突っ込んだ。
一拍置いて。
「ガタ吉、また転んだ!」
「弱か!」
「陸ん河童は駄目ばい!」
「やかましい!」
ガタ吉が泥だらけで立ち上がる。
白瀬も腹を抱えた。
最後尾を歩く澪が呟く。
「何の稽古であったか、もはや分からぬな」
そう言いながら。
その口元も。
少し笑っていた。
◇
夕方。
空の色が変わった。
最初に気づいたのは澪だった。
「白瀬」
「ん?」
「来るぞ」
白瀬が顔を上げる。
多良の山の向こう。
黒い雲。
ごろり。
遠くで雷が鳴った。
先ほどまで笑っていた村人たちも気づく。
だが。
誰も騒がなかった。
「山番!」
「見てくるばい!」
「川番!」
「まだ低か!」
「潮は!」
「まだ引いとる! 今なら水は抜ける!」
声が飛ぶ。
けれど。
混乱はない。
小春が幼い子の手を取った。
「こっちたい。まだ走らんでよかよ」
「うん!」
長吉も駆け出す。
「おい、婆ちゃんとこ見てくる!」
「頼む!」
白瀬は。
何も言わなかった。
言う必要がなかった。
ぽつ。
頬に雨粒。
ぽつ。
ぽつ。
やがて。
ざあああ――。
雨が村を包む。
本明川の水が少しずつ上がる。
一つ目の印。
カーン。
鐘が一度だけ鳴った。
村人たちが顔を上げる。
それだけだ。
逃げない。
慌てない。
家族を確認する。
種籾を確認する。
山を見る。
川を見る。
潮を見る。
そして。
待つ。
しばらくすると。
雨脚が弱まった。
川の水も、二つ目の印には届かない。
「……終わったか?」
「ああ」
「もう大丈夫ばい」
誰かが笑った。
「なんも起きんかったな」
「朝からあげん騒いだとに」
白瀬も笑う。
「それでいいんです」
「ん?」
「何も起きなかった」
川を見る。
「それが一番いい」
一瞬。
静かになった。
そして。
「白瀬どん」
「はい?」
「最初からそいば言わんね」
「言ってたでしょう!?」
「聞いとらん!」
「ひどい!」
村にまた笑い声が戻った。
◇
雨上がり。
西の空が赤く染まった。
水たまりを、子どもたちが跳ねている。
「白瀬しゃん!」
小春が走ってきた。
「次ん雨も大丈夫やろ?」
白瀬は少し考えた。
「絶対、大丈夫とは言えない」
「えー」
「もっと大きな雨も来るかもしれない。俺たちが知らないこともある」
小春の顔が曇る。
だから。
白瀬は笑った。
「でも」
村を見渡す。
「次の雨では、もう慌てない」
長吉が拳を上げた。
「そん次もたい!」
「そのまた次もじゃ」
老人が笑う。
漁師が続ける。
「そんために、忘れんとやろ」
「はい」
白瀬は頷いた。
忘れたら、また死ぬ。
だから。
忘れない。
けれど。
忘れないことと。
怯えて暮らすことは違う。
また笑うために。
備えるのだ。
◇
その夜。
白瀬が長吉の家の納屋へ戻ると。
入口に一人の男が立っていた。
「白瀬どん」
「ん?」
昼間、川番をしていた男だった。
手には包み。
「これ」
「何です?」
「握り飯たい」
「俺に?」
男は気まずそうに鼻を掻いた。
「この前ん大水も、今日んことも……世話になったけん」
「いや、俺だけじゃないですよ」
「分かっとる」
男はすぐに言った。
「ばってん、礼ぐらい言わせんね」
白瀬の手へ包みを押しつける。
「……ありがとうございます」
「こっちが言うとたい」
男が帰ろうとした。
その時。
「白瀬どーん!」
別の声。
女が鍋を抱えてやってくる。
「煮物ば持ってきたよ!」
「えっ」
「白瀬どん!」
今度は漁師。
「魚たい!」
「ちょっと待ってください」
「白瀬しゃん!」
小春まで走ってくる。
両手に芋。
「これ、うちん家から!」
「小春まで?」
「おいも!」
長吉も後ろから来た。
「父ちゃんが持っていけって!」
一人。
二人。
三人。
誰かが握り飯を置き。
誰かが魚を持ってきて。
誰かが芋を持ってきて。
誰かが鍋を持ってくる。
「酒もあるぞ!」
「それはいりません!」
「何ば言いよる!」
どっと笑い声が上がった。
「いや待ってください。こんなに俺一人で食べられませんって!」
「なら皆で食えばよかたい!」
「それ、もう俺へのお礼じゃなくなってません?」
「細かかこと言わん!」
誰かが敷物を持ってきた。
誰かが椀を並べる。
誰かが火を起こす。
そして。
「酒じゃと!?」
ガタ吉が飛び出してきた。
「お前、どこから湧いた!」
「酒あるところに河童ありじゃ!」
「そんな河童いない!」
いつの間にか。
納屋の前は。
小さな宴になっていた。
◇
「白瀬どん、飲まんね!」
「もう十分です!」
「まだ一杯目たい!」
「俺、酒弱いんです!」
「若かとに!」
隣ではガタ吉が徳利に手を伸ばす。
「ならわしが」
「お前は飲むな!」
「なぜじゃ!」
「酔った河童なんて誰が面倒見るんだよ!」
「澪がおる!」
「勝手にわたしへ押しつけるでない」
澪がぴしゃりと言う。
また笑いが起きる。
すると。
焚き火のそばにいた老人が、二枚の割竹を拾った。
カチ。
カチカチ。
乾いた音が響く。
「なんね、それ」
「飲むだけじゃつまらんたい」
カチ。
カチカチ。
隣の男が膝を叩いた。
ぱん。
ぱぱん。
「おっ、よかね!」
女たちが手拍子を始める。
誰かが適当な節をつけて歌い始めた。
水は引いた。
田も残った。
腹いっぱい食うて。
今夜は笑え――。
「なんだ、その歌!」
白瀬が笑う。
「今作った!」
「適当すぎる!」
「歌なんて楽しけりゃよかたい!」
「踊れ、小春!」
「うち!?」
「ほら!」
小春が輪へ飛び出す。
「なら長吉もたい!」
「なんでおいまで!」
「逃げるな!」
「うわっ!」
長吉も引っ張り込まれた。
カチ。
カチカチ。
ぱん。
ぱぱん。
子どもたちが跳ねる。
大人たちが手を叩く。
百姓も。
漁師も。
老人も。
女たちも。
今日まで何度も言い争った者たちが。
今は同じ拍子で笑っていた。
「ガタ吉!」
「待っておった!」
「待ってない!」
河童が輪の中へ飛び込んだ。
「河童水工衆秘伝の舞じゃ!」
「嘘つけ!」
妙な腰つきで踊り始める。
「ガタ吉、変たい!」
「変な踊り!」
「やかましい!」
くるり。
どん。
また転んだ。
村じゅうが爆笑する。
「床が悪い!」
「土ばい!」
「土のせいにするな!」
白瀬も笑った。
腹の底から。
この時代へ来て。
こんなふうに笑ったのは。
初めてかもしれなかった。
「白瀬どん!」
「はい?」
女たちが白瀬の腕を掴む。
「次は白瀬どんたい!」
「え!?」
「踊らんね!」
「俺は踊れません!」
「誰も上手に踊れとは言うとらん!」
「ちょっ……澪!」
白瀬が助けを求める。
「助けてくれ!」
澪は。
一瞬だけ。
目を丸くした。
それから。
「行ってこい」
「即答!?」
どっと笑いが起こる。
白瀬まで輪の中へ押し出された。
「待って、これどう動くんです!?」
「適当たい!」
「適当なの!?」
カチ。
カチカチ。
ぱん。
ぱぱん。
「白瀬しゃん、変!」
「小春! 笑うな!」
「白瀬しゃん、ガタ吉より下手ばい!」
「そこまで!?」
澪は輪の外から眺めていた。
「……騒がしいのう」
そう呟きながら。
その足先が。
ほんの少し。
拍子を取っている。
ガタ吉が気づいた。
「澪」
「なんじゃ」
「そなたも踊りたいのでは――」
「黙れ」
「はい」
◇
ひとしきり騒いで。
白瀬は息を切らしながら座り込んだ。
「疲れた……」
「白瀬どん」
「はい?」
年配の女が隣へ座る。
「ところで」
「はい」
「嫁はおると?」
「…………はい?」
白瀬の手が止まった。
周りの女たちの耳が。
ぴくり。
動いた。
「いや……いませんけど」
「ほんなら、ちょうどよか!」
「何がです!?」
「うちん姪たい!」
「待たんね! うちん娘ん方が働き者ばい!」
「うちん孫は飯ばよう作るぞ!」
「白瀬どんは百姓ん娘がよか!」
「漁師ん娘なら魚に困らんぞ!」
「なんで村じゅうで俺の嫁を決めるんですか!」
「白瀬どん、この村におるとやろ?」
「まあ、今は!」
「なら嫁ばもらわんば!」
「家も要るぞ!」
「田ぁ分けちゃろうか!」
「子は何人欲しか?」
「話が十年先まで進んでる!!」
ガタ吉は。
腹を抱えて転がっていた。
「はっはっはっ! 人気者じゃのう、白瀬!」
「助けろ!」
「人の縁談に河童が口を出してはいかん」
「こんな時だけ常識人になるな!」
白瀬は辺りを見回した。
「澪!」
「なんじゃ」
「なんとかしてくれ!」
「わたしが?」
「お前しかいないだろ!」
澪の目が。
ほんの少しだけ。
見開かれた。
胸の奥に。
先ほどから妙なものがあった。
誰かが白瀬へ娘を薦めるたび。
水面に小石を落とされたように。
ざわり。
ざわり。
波紋が広がる。
理由は。
分からない。
いや。
分かろうとしなかった。
「……よいではないか」
「え?」
「そなたも二十七であろう」
「澪!?」
「嫁を娶り、家を持ち、子を成す。人の世では珍しくもあるまい」
「ものすごく正論で追い詰めるな!」
「そうたい!」
「澪しゃんの言う通り!」
「味方がいない!」
そこへ。
女たちに押されるように。
一人の若い娘が白瀬の前へ出た。
頬を赤らめている。
「白瀬どん……」
「は、はい」
「今度、うちん家にも……」
澪の視線が。
娘へ向いた。
白瀬へ向いた。
そして。
また娘へ戻る。
胸の奥が。
なぜか。
面白くない。
「白瀬しゃん」
小春が言った。
「嫁さん、もらうと?」
「もらわない!」
白瀬が即答した。
その瞬間。
澪の口元が。
ほんの少しだけ緩んだ。
ガタ吉が見逃さなかった。
「……ほう」
「なんじゃ」
「いや?」
「何を見ておる」
「何も見ておらんぞ」
「ならば笑うな」
小春まで澪を見上げる。
「澪しゃん」
「なんじゃ」
「白瀬しゃんが嫁さんもろうても、よかと?」
「…………」
澪が止まった。
「わたしには関わりなきことじゃ」
「ふーん」
「なんじゃ、その顔は」
「なんでもなかよ?」
小春がにやにやする。
ガタ吉もにやにやする。
「そなたら……」
澪の眉間に皺が寄った。
その時。
「白瀬どん!」
「一度話すだけでよかけん!」
「待たんね!」
「うわああああ!」
白瀬が立ち上がった。
逃げた。
「逃げたばい!」
「追え!」
「うちも行く!」
「おいも!」
「なんで子どもまで追ってくるんだ!」
ガタ吉も飛び出した。
「逃げろ白瀬!」
「お前はどっちの味方なんだ!」
「面白い方じゃ!」
「最悪だ!」
村じゅうに笑い声が響く。
澪は。
呆れたように立ち上がった。
「まったく……何をしておるのじゃ」
だが。
走っていく白瀬の背を見る。
その足は。
いつもより。
ほんの少しだけ速かった。
◇
「白瀬どーん!」
「待たんねー!」
「待ちません!」
白瀬は土手を全力で走る。
「災害より怖い!」
「聞こえとるぞー!」
「すみません!」
後ろからガタ吉。
「白瀬! 嫁は逃げても追ってくるぞ!」
「縁起でもないこと言うな!」
小春たちの笑い声も追ってくる。
その時だった。
遠くから。
蹄の音。
白瀬が足を止める。
一騎の馬が、こちらへ駆けてくる。
「白瀬殿!」
藩の使者だった。
追いついてきた村人たちも。
次第に静まる。
「殿がお呼びである」
「……俺を?」
「うむ」
使者は息を整え。
有明の方角へ目を向けた。
「今度は――」
一拍。
「この村だけの話ではない」
白瀬の表情が変わった。
澪も。
ガタ吉も。
海を見る。
夕暮れの有明海。
ちょうど潮が引き始めていた。
水の向こうから。
広い。
広い。
干潟が姿を現していく。
「白瀬」
澪が問う。
「何を見ておる」
白瀬は答えなかった。
目の前にあるのは。
海。
干潟。
その向こうに続く水平線。
「……土地」
ようやく言った。
澪が眉をひそめる。
「海じゃ」
「今はね」
「……何?」
ガタ吉の顔が引きつった。
「おい、白瀬」
「ん?」
「わし、嫌な予感がするぞ」
白瀬は笑った。
この村を守った。
次の雨にも備えた。
でも。
ここで終わりではない。
一人で造るのでもない。
あの百姓と。
あの漁師と。
老人たちと。
子どもたちと。
澪と。
ガタ吉と。
もっと先へ行ける。
「村一つで終わらせる気はないからな」
「やっぱり嫌な予感じゃ!」
その背後から。
「白瀬どーん!」
女衆の声が飛んだ。
「縁談ん返事はー!」
「まだ続いてたんですか!?」
村じゅうに。
最後の笑いが弾ける。
その笑い声を背中に受けながら。
白瀬はもう一度。
有明海を見た。
潮は引いていく。
水の下から。
まだ誰の田でもない大地が現れていく。
白瀬の口元が。
ゆっくり上がった。
――海なら。
土地にできる。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
「忘れたら、また死ぬ」。
けれど、災害を忘れないことは、毎日怯えて暮らすことではありません。
また笑うために備える。
その答えを、第十六普請では村のみんなに出してもらいました。
そして白瀬も、いつの間にか「よそ者」から、嫁まで世話されるほど村の一員になったようです。
……本人は全力で逃げましたが。
次章から、白瀬たちの視線はいよいよ村の外へ。
目の前に広がる有明海。
海から土地を。土地から実りを。
『海から百万石』の物語が、ここからさらに大きく動き始めます。




