第十五普請 忘れたら、また死ぬ
大水は去りました。
田も、家も、少しずつ元へ戻っていきます。
けれど――
「助かった」で終われば、次もまた同じことが起きる。
第十五普請は、水害そのものではなく、
水害を忘れないための普請です。
村人たちも、最初から一枚岩ではありません。
忘れたい者。
残したい者。
今を立て直したい者。
次を守りたい者。
それでも最後には、村一丸となって答えを出します。
朝から、村には威勢のいい声が飛び交っていた。
「そっちば持て! そっち!」
「重かって!」
「昨日は田んぼば守ったっちゃろ! こんくらいで泣くな!」
「誰が泣いとるか!」
泥まみれの長吉と健太が、壊れた戸板を抱えて走っていく。
その後ろを、小春が箒を振り回して追いかけた。
「こら長吉! 泥ばこっちに飛ばすな!」
「知らんたい!」
「うちの顔に飛んできたっちゃけど!」
「泥くらいで死なん!」
「なら長吉が全部かぶればよか!」
「なんで!?」
どっと笑いが起きた。
数日前まで、大水に呑まれかけていた村とは思えない。
倒れた柵はまだ残っている。
畦も完全には戻っていない。
軒下には、濡れた筵や農具がずらりと干されている。
それでも――人が笑っていた。
白瀬湊一は、その光景を少し離れたところから眺めた。
「……強いな」
「人は、いつまでも水に怯えてはおれぬ」
隣に立つ澪が答えた。
「生きるには、前を向かねばならぬからな」
「……そうだな」
「わしは最初から前向きじゃぞ」
筵の上で寝転がっていたガタ吉が言った。
白瀬が振り向く。
「お前は働いてないだけだろ」
「失礼な。河童にも休養というものが必要でな」
「昨日も休んでただろ」
「一昨日も休んでおったな」
澪が淡々と付け加えた。
「澪まで!?」
「働け」
「働け」
二人の声が重なった。
「おぬしら、最近ますます仲が良くなっとらんか!?」
◇
「白瀬しゃーん!」
小春の声が飛んできた。
「ここん泥も落としてよか?」
「いいぞ。柱の根元も――」
白瀬の足が止まった。
「……待った!」
「ひゃっ!」
小春が雑巾を握ったまま飛び上がった。
「なんね!?」
白瀬は駆け寄った。
小春が拭こうとしていた壁。
そこには、茶色い線が一本、くっきりと残っていた。
大人の胸ほどの高さ。
大水がここまで来た跡だ。
「そこは消さないでくれ」
「え?」
「その線だけは残そう」
小春が壁と白瀬を交互に見る。
「……泥ば?」
「ああ」
「白瀬しゃん、今度は泥ば集めると?」
「違う!」
その声を聞きつけ、長吉たちまで集まってきた。
「なんねなんね?」
「白瀬しゃんが泥ば大事にするって」
「せん!」
「じゃあ何すると?」
白瀬は泥の線へ指を当てた。
「これは、ただの汚れじゃない」
子どもたちが覗き込む。
「今回の水が、ここまで来たっていう証拠だ」
◇
昼前。
村の広場に、大人も子どもも集まった。
白瀬は地面に棒で簡単な村の形を描いた。
「今回、水がどこまで来たか」
一本の線を引く。
「どの道が通れなくなったか。どこなら逃げられたか」
別の線を引く。
「それを、残したいんです」
「残す?」
「はい」
白瀬は立ち上がった。
「石でも柱でもいい。水が来た高さを刻む。それから、高い場所へ逃げる道にも印をつける」
ざわざわと人々が顔を見合わせた。
最初に頷いたのは漁師だった。
「そいはよかかもしれん」
「潮も水も、油断したらいかんけんな」
だが。
「待ってくれ、白瀬殿」
一人の農民が声を上げた。
日に焼けた腕を組み、眉を寄せている。
「そん仕事、今せんばいかんとか?」
「今だから、やっておきたいんです」
「ばってん、田はどうすると?」
別の男も続いた。
「畦はまだ直っとらん」
「家もじゃ」
「石に線ば刻んでも、米は増えんばい」
「そいもそうじゃ」
あちこちから声が上がる。
すると漁師の一人が声を荒らげた。
「また水ん来たらどうすっとか!」
「そん時は、そん時たい!」
「昨日死にかけたばっかりやろうが!」
「じゃあ田ば放っとけっちゅうとか!」
「誰がそがんこと言うた!」
「言うとるようなもんたい!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
白瀬が間へ入ろうとした。
その袖を、澪が掴んだ。
「待て、白瀬」
「でも――」
「そなたが決めることではない」
澪は言い争う村人たちを見た。
「この村で生きる者らが決める。聞いておれ」
白瀬は口を閉じた。
――そうだ。
ここは俺の工事現場じゃない。
命令を出して、人を動かして、それで終わる仕事でもない。
ここで暮らすのは、この人たちだ。
◇
「白瀬殿」
先ほどの農民が白瀬を見る。
「一つ言わせてもらう」
「はい」
「わしらだって、水が怖かことくらい知っとる」
白瀬は黙って聞いた。
「川ば見て、田ば作って生きてきた」
男は泥の残る田を指す。
「水がなけりゃ稲は育たん。多すぎりゃ、全部持っていく」
「……はい」
「そいば、あんたに教えてもらわんでも知っとる」
もっともだった。
白瀬は頭を下げる。
「その通りです」
男は少し驚いた顔をした。
「でも、今は田ば直したか」
「はい」
「家族ば食わせんばいかん」
「分かります」
「なら――」
「お前」
低い声が割って入った。
村の老人だった。
「昔ん大水んこと、覚えとるか?」
「昔?」
「わしが子どもの頃たい。爺さまが言うとった」
老人は村外れを指した。
「昔も、あそこまで水が来た。低か道には逃げるな。川ん音が変わったら、高かところへ行けってな」
農民が眉をひそめた。
「そがん話、聞いたことなかぞ」
「……じゃろうな」
老人は俯いた。
「わしが言わんかったけん」
広場が静かになった。
「爺さまから、何遍も聞かされた」
老人は苦く笑う。
「ばってん子どもの頃は、また昔話ばしよる、くらいに思っとった」
誰も口を挟まない。
「そんうち、爺さまは死んだ」
老人の視線が、壁に残った泥の線へ向く。
「わしも……忘れた」
◇
白瀬は子どもたちへ向き直った。
「長吉」
「なんね?」
「大水が来たら、どこへ逃げる?」
「そりゃ、高かところたい!」
「どこ?」
「……」
長吉が辺りを見回す。
「あっち?」
「いや、こっちやろ」
健太が反対側を指した。
「おい、この前こっち走ったばい」
「ばってん途中、泥だらけやったろ!」
「うちは澪についていく!」
小春が元気よく手を挙げた。
澪は小春を見る。
「わたしがおらぬ時はどうする」
「えっ」
小春が固まった。
「なら、ガタ吉!」
「わしは嫌じゃ!」
「まだ何も頼んどらん!」
「どうせ背負えと言うつもりじゃろ!」
子どもたちが笑った。
白瀬も一度だけ笑う。
それから聞いた。
「じゃあ――俺がいなかったら?」
笑いが消えた。
「……」
長吉が口を開きかける。
けれど、答えは出ない。
小春も。
健太も。
お紗も。
大人たちまで黙ってしまった。
◇
「……残したくなか」
誰かが言った。
先ほど反対した農民だった。
白瀬が振り向く。
「大水の跡を、ですか?」
「そうたい」
男は壁の泥を睨んだ。
「怖かったけん」
その声には、苛立ちが滲んでいた。
「あん夜、家ん中まで水が来た」
「……」
「女房が泣いとった」
男の拳が固く握られる。
「子どもば抱えて、田も家も、全部なくなると思った」
男は白瀬を見た。
「やっと終わったとぞ」
声が震えた。
「やっと田ば直して、家ば直して、前ば向こうとしよる」
壁を指差す。
「そいなのに、毎日大水の跡ば見て暮らせっちゅうとか!」
白瀬は何も言えなかった。
忘れたい。
それは、臆病だからではない。
怖かったからだ。
家族を失いたくなかったからだ。
「わしもじゃ」
別の男が言った。
「もう水ん話はよか」
「今は田たい」
「ああ。今、生きる方が先じゃ」
反対側から声が飛ぶ。
「ばってん、また来たらどうする!」
「そいば言うたら何もできん!」
「何もせんとは言うとらん!」
「なら今じゃなくてもよかろう!」
再び声がぶつかる。
残したい者。
忘れたい者。
だが、そのどちらも。
この村を守りたいのだ。
白瀬はしばらく黙った。
そして頭を下げた。
「……分かりました」
「白瀬殿?」
「今日は印を作りません」
今度は賛成していた者たちがざわめいた。
「ばってん白瀬殿!」
「ただし」
白瀬は顔を上げる。
「一つだけ、付き合ってください」
◇
カァン!
板を叩く音が村中に響いた。
「大水だ!」
白瀬が叫ぶ。
「みんな、逃げて!」
「な、なんじゃ!?」
「水!?」
「どこからじゃ!」
「晴れとるぞ!」
「逃げる稽古です!」
白瀬が叫び返した。
「本当に水が来てから試すんじゃ遅いでしょう!」
村人たちが顔を見合わせる。
「一回だけです!」
「……しゃあなか!」
「やってみるばい!」
「子どもらは勝手に走るなよ!」
「分かった!」
その直後。
「おいが一番たい!」
長吉が飛び出した。
「こら長吉ぃ!」
「早う逃げた方がよかやろ!」
「一人だけ助かってどうする!」
「あっ」
長吉が急停止した。
後ろから健太がぶつかる。
「痛っ!」
「なんで止まると!」
「白瀬しゃんが止まれって!」
「言ってない!」
「婆ちゃん、こっちたい!」
小春は老婆の手を取った。
「うちが連れていくけん!」
「ありがとねぇ」
「任せんね!」
ところが十歩も進まないうちに。
「うわっ!」
ずるっ。
「きゃあ!」
二人そろって泥へ足を取られた。
「小春、そっちは駄目!」
「先に言って!」
「おい、こっちが近か!」
健太が細い道へ走り込もうとする。
「そっちはいかん!」
漁師が怒鳴った。
「なんで!」
「水ん出たら、そこから先に回る!」
「そうなん!?」
「潮ん高か時なら抜けられんぞ!」
「ならこっち!」
「そこは牛車が通らん!」
今度は農民が叫んだ。
「幼か子ば抱いとったら、そん坂は登れん!」
母親からも声が飛ぶ。
「わしら年寄りは走れんぞ!」
「牛はどうする!」
「荷車は捨てろ!」
「米は!?」
「命が先たい!」
「なら位牌はどうする!」
「あれもこれも持って行けるか!」
村中が騒然となった。
あっち。
いや、こっち。
この道は水に弱い。
ここは泥濘む。
ここは老人にはきつい。
こっちは幼子を抱えた女には危ない。
白瀬は途中から指示を出すのをやめた。
ひたすら聞く。
漁師が知っている水。
農民が知っている土地。
母親が知っている子どもの歩幅。
老人が知っている昔の道。
子どもたちが知っている抜け道。
「……これだ」
白瀬は呟いた。
俺だけじゃ分からない。
澪だけでも。
ガタ吉だけでも。
この土地で生きる皆が必要なんだ。
◇
「着いたぞー!」
長吉が高台へ飛び込んだ。
「おい、一番!」
「だから競走じゃない!」
白瀬も息を切らせて上がってきた。
「全員いますか!」
「おるぞ!」
「こっちも!」
「子どもは?」
「おる!」
その脇で、お紗が指を折っていた。
「一、二、三……」
首を傾げる。
もう一度。
「一、二、三……」
顔色が変わった。
「白瀬しゃん」
「どうした?」
「一人足りん」
空気が凍った。
「誰だ!?」
大人たちが一斉に辺りを見回した。
「あそこん爺ちゃんがおらん!」
「さっきまでおったぞ!」
「誰か見たか!」
「家ん方に戻りよった!」
「探せ!」
誰より早く走り出したのは――
あれほど白瀬の案に反対していた農民だった。
「爺さん!」
「おーい!」
白瀬たちも続く。
ほどなく、老人は自宅の前で見つかった。
「何しよると!」
農民が怒鳴る。
「位牌たい」
老人は竹籠を抱えていた。
「置いて逃げらるっか」
「馬鹿!」
男は老人の前へしゃがみ込む。
「乗れ!」
「ばってん――」
「早うせんか!」
老人を背負い上げる。
「死んだら位牌も何もなかやろうが!」
老人は黙った。
男の背に、ぎゅっとしがみついた。
◇
高台へ戻った時には、皆が汗だくだった。
晴れている。
川も静かだ。
本物の水など、一滴も迫ってはいない。
それなのに。
誰も笑っていなかった。
農民が老人を下ろした。
膝へ手をつき、荒い息を整える。
「……白瀬殿」
「はい」
「これが、本当の大水やったら」
男は村を振り返った。
家々。
田。
さっき走ってきた道。
「間に合わんかったな」
白瀬は答えなかった。
答える必要はなかった。
◇
「田は直さんば」
しばらくして、誰かが言った。
「そいは変わらん」
「ああ」
「ばってん、逃げ道も要る」
「一日中やる必要はなか」
「皆でやりゃ早か」
「石なら河原にある」
「潮ん高か時に危なか道も印ば付けよう」
「こっちの田ん中には、高か場所があるぞ」
「年寄りは誰が連れて行く?」
「隣同士で決めればよか」
「幼か子のおる家もじゃ」
「字ば読めん者でも分かる印がよかぞ」
小春が勢いよく手を上げた。
「矢印!」
「おい、でっかく描く!」
長吉も負けじと声を上げる。
「なら、河童の顔も描こうではないか」
ガタ吉が胸を張った。
「いらん!」
大人も子どもも声を揃えた。
「なんでじゃ!」
どっと笑いが起こる。
今度の笑いは、少し違った。
怖かったことを無理に消すための笑いではない。
怖かったことを皆で抱えて、それでも進むための笑いだった。
◇
午後。
河原から大きな石が運ばれてきた。
「せーの!」
「持ち上げろ!」
「そっち下げすぎ!」
「長吉、手ぇ入れるな!」
「分かっとる!」
白瀬が縄を掛けようとすると。
「貸せ」
声を掛けられた。
振り返る。
先ほどまで強く反対していた農民だった。
「俺がやります」
「いや」
男は白瀬から縄を取った。
「わしが運ぶ」
「……いいんですか?」
男は石を見た。
「忘れたかとは、今も変わらん」
「はい」
「大水ん跡なんぞ、見たかとは思わん」
そこで男の視線が動く。
長吉。
小春。
健太。
お紗。
泥だらけになって、石の周りを走り回っている。
「ばってん」
男は縄を肩へ掛けた。
「こいつらまで、忘れさせたらいかん」
老人も隣へ来た。
「わしが伝えんかったぶんまで、残そう」
白瀬はゆっくり頷いた。
「はい」
◇
石に一本の線が刻まれた。
今回、水が来た高さ。
別の石には、逃げる方角。
村人たちは次々に決めていった。
大水の時、誰が知らせるか。
誰が年寄りを見るか。
誰が幼子のいる家へ行くか。
誰が最後に人数を数えるか。
「お紗がよか!」
小春が言った。
「うち?」
「今日、一人おらんて最初に気づいたやろ!」
「ばってん、うち毎回?」
「頼んだ!」
「おいも頼む!」
「もう……」
口では困ったように言いながら、お紗は少しだけ胸を張った。
白瀬は地面へ村の図を描く。
「昔、水が来た場所を知ってる人はいませんか?」
「ここたい」
老人がすぐ指した。
「昔は、こっちにも小さか流れがあった」
「ここは雨ん降れば水ん溜まるぞ」
「この道は潮ん高か時はいかん」
「こっちに古か水路の跡がある」
「待ってください、一つずつ!」
白瀬は慌てて地面へ書き込んでいく。
現代の地図には載っていない。
測量だけでも分からない。
この土地で暮らしてきた者たちだけが持っている――土地の記憶だった。
「白瀬しゃん!」
長吉が叫ぶ。
「次、どこに石ば置く?」
白瀬は顔を上げた。
少し考える。
そして笑った。
「俺に聞くな」
「え?」
「皆で決めろ」
長吉がきょとんとした。
すぐに笑う。
「おう!」
子どもたちが大人たちの輪へ飛び込んでいった。
◇
夕暮れ。
最初の水の印が完成した。
小春が石の前へしゃがみ込む。
「これ、ずっと残ると?」
「残せるだけ、残す」
白瀬が答えた。
「うちが婆ちゃんになっても?」
「ああ」
「おいは爺ちゃんになっても走れるぞ!」
長吉が胸を張る。
「絶対無理たい」
「なんで!」
「腰曲がっとるって!」
「曲がらん!」
「わしはその頃も若いぞ」
ガタ吉が割り込んだ。
「河童ずるか!」
また笑い声が上がる。
澪が静かに石の前へ進んだ。
指先で、刻まれた水位の線をなぞる。
「水は忘れぬ」
皆が澪を見る。
「かつて流れた場所も、低き土地も覚えておる」
澪は村人たちを見渡した。
「ゆえに、人も忘れねばよい」
しばらく誰も何も言わなかった。
やがて。
反対していた農民がぽつりと言う。
「……忘れたら、また死ぬっちゅうことか」
「はい」
白瀬が答えた。
男は石の線をじっと見る。
そして、首を振った。
「いや」
「え?」
男の目が、子どもたちへ向く。
「逆たい」
少し笑う。
「忘れんかったら――助けられるっちゅうことじゃろ」
白瀬も笑った。
「……はい」
「なら、残そう」
男が石を叩く。
「この村で」
「ああ」
「皆で残そう」
今度は、何人もの声が重なった。
◇
翌朝。
「白瀬しゃーん!」
ドンドンドン!
「起きろー!」
「うわっ!?」
納屋の戸を叩く音に、白瀬は飛び起きた。
「何だ!? 水か!?」
慌てて外へ飛び出す。
「違う!」
長吉が笑っていた。
「石たい!」
「……石?」
白瀬は目を瞬いた。
村では、もう人々が動き始めている。
「あそこにも印ば付けるぞ!」
「婆さまん家からなら、こっちの道が近か!」
「子どもら、一回歩いて覚えろ!」
「分かった!」
「牛ば逃がす場所も決めんば!」
「こっちが空いとる!」
「おーい! 縄ば持ってこい!」
白瀬は呆然とした。
「……俺、まだ何も言ってない」
澪が隣へ立つ。
「それでよい」
「……いいのか?」
「そなた一人の村ではなかろう」
白瀬は村を見る。
「……そうだな」
「わしもそう思うぞ」
ガタ吉が腕を組んだ。
「お前は働け」
「なぜわしだけ!?」
その時。
「白瀬殿はおるか!」
村の入口から声が響いた。
白瀬が振り向く。
見知らぬ農民が立っていた。
その後ろにも二人。
「俺です」
白瀬が近づく。
「何か?」
男は村の石を見た。
「昨日ん話ば聞いた」
「話?」
「水ん来た高さば、石に残したって」
「はい」
男は少し迷った。
そして言った。
「……うちん村にも来てくれんか」
「え?」
後ろの男も一歩出た。
「うちん村もじゃ」
「昔、大水があったらしか」
白瀬の表情が変わった。
――らしい。
また、その言葉だ。
昔、あった。
誰かが知っていた。
誰かが聞いていた。
しかし今は。
もう、はっきりとは分からない。
白瀬は本明川へ目を向けた。
流れは静かだった。
だが川は、一つの村だけを流れているわけではない。
上にも村がある。
下にも村がある。
田がある。
町がある。
人がいる。
一つの村だけ守っても――
水は、そこで止まらない。
「……村だけじゃ、足りないな」
白瀬が呟いた。
「何じゃ?」
ガタ吉が首を傾げる。
「もっと大きく考えないといけない」
澪が本明川を見る。
「そなたにも、ようやく見えたか」
「何が?」
澪は短く答えた。
「水は、村境では止まらぬ」
白瀬は息を呑んだ。
そしてもう一度、川の先を見る。
昨日、一つの村で刻まれた、たった一本の線。
それはまだ、小さな印にすぎない。
けれど。
人が忘れそうになるたび。
水が再び牙を剥くたび。
その印は、きっと問いかける。
――ここまで、水が来た。
――次は、お前たちが誰かを守れ。
忘れたら、また死ぬ。
ならば。
忘れなければ、助けられる。
白瀬は、村人たちの声が響く中で、一歩を踏み出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回の題は、「忘れたら、また死ぬ」
少し強い言葉ですが、第十五普請の大切な芯です。
災害の記憶は、時間が経つほど薄れていきます。
だからこそ、言葉だけでなく、石や印、道、決まりごととして残していく。
そして今回は、白瀬が一方的に教えるのではなく、
漁師が知る水。
農民が知る土地。
老人が知る昔。
母親が知る子どもの歩幅。
子どもたちが知る抜け道。
それらを持ち寄って、村全体で答えを作る話にしました。
「忘れたら、また死ぬ」
でも、それだけではありません。
忘れなければ、助けられる。
この一本の水の印が、これからどこまで広がっていくのか。
次の普請から、白瀬たちが見る「国」の大きさも、少しずつ変わっていきます。




