第十四普請 田んぼを捨てるな
水は引いた。
家も、道も、少しずつ戻り始めた。
けれど――田んぼには、水害の爪痕が残っていました。
倒れた稲。崩れた畦。泥と砂。
そして村人たちの口から出たのは、
「もう、この田は捨てた方がよか」
という言葉。
第十四普請。
今度、白瀬たちが起こすのは――田んぼと、村人の心です。
雨は、もう降っていなかった。
水も引いた。
家々から泥を掻き出し、流された道具を拾い、倒れた柵を起こした。
村にはようやく、笑い声まで戻り始めていた。
だから白瀬は――少しだけ、安心していた。
昨日までは。
◇
「……こりゃ、いかん」
朝。
田の前で、長吉の父が呟いた。
白瀬は、その隣で言葉を失った。
水はない。
だが、水が残していったものがあった。
泥。
砂。
流木。
千切れた藁。
崩れた畦。
そして――。
倒れた稲。
昨日まで青々としていた田が、一面、泥色になっていた。
茎を折られたもの。
泥をかぶったもの。
根ごと流されたもの。
水に押し倒され、そのまま地面へ伏しているもの。
長吉も、小春も黙っている。
いつもなら真っ先に何か言う子どもたちが、今日は声を出さなかった。
「今年は……もう駄目じゃろ」
一人の百姓が言った。
別の男が、泥の中から稲を一本引き上げる。
「こっちも根の抜けとる」
「種籾ば残さんば」
「食う分も足りんぞ」
ぽつり。
ぽつり。
声が重なる。
やがて、年老いた百姓が低く言った。
「こん田は……もう捨てた方がよかかもしれん」
白瀬が振り向いた。
「捨てる?」
「低か場所たい」
老人は田を見たまま答えた。
「昔から水の来る。直しても、また流さるっ」
「でも――」
「白瀬どん」
長吉の父が遮った。
「命ば助けてもろうた」
そして、ほんの少し笑った。
「それだけで十分たい」
その笑顔が、白瀬には一番きつかった。
「また作って、また流されたら……」
最後までは言わなかった。
言わなくても分かった。
怖いのだ。
働くことが、ではない。
もう一度、全部を失うことが。
◇
「……まだ直せます」
白瀬は言った。
だが。
「何ば?」
百姓が尋ねた。
「え?」
「何ば直すとね」
男は泥の田を指した。
「畦か?」
別の男。
「田か?」
さらに老人が、折れた稲を持ち上げる。
「それとも、稲か?」
「…………」
白瀬は答えられなかった。
堤防なら考えられる。
水路なら考えられる。
水の流れも、土地の高さも、勾配も。
だが――。
目の前の百姓たちが見ているものは違う。
今年、食えるのか。
来年、植えられるのか。
家族を養えるのか。
「……そうか」
白瀬は呟いた。
田を直せば、それで終わりではない。
その田で暮らす人間まで見なければならない。
「白瀬?」
澪が横から見上げた。
「いや」
白瀬は袴の裾をまくった。
「ちょっと、教えてもらう」
そして田へ足を踏み入れた。
ずぼっ。
「うおっ!?」
膝近くまで沈んだ。
長吉が目を丸くする。
「白瀬しゃん! そがん入り方したらいかんばい!」
「先に言え!」
もう一歩。
ずぼっ。
足を抜こうとして――。
「うわっ!」
べちゃっ。
白瀬は盛大に尻から泥へ落ちた。
一瞬の静寂。
「…………」
「…………」
「…………」
長吉の頬が膨らむ。
「ぶっ」
小春も耐えきれない。
「白瀬しゃん、泥ん子みたーい!」
「笑うな!」
「わはははは!」
子どもたちが一斉に笑った。
ガタ吉に至っては腹を抱えている。
「ぎゃっはっは! 天下の河川水工が田んぼに負けよった!」
「誰が天下だ!」
「わしが言うた!」
「お前が勝手に言ったんだろ!」
澪が白瀬をじっと見る。
「……見事じゃ」
「何が!?」
「転び方が」
「褒めるところそこかよ!」
とうとう、大人たちからも笑いが漏れた。
ほんの少し。
だが確かに。
田の上に、笑い声が戻った。
◇
「これ、もう駄目ですか?」
泥まみれの白瀬が一本の稲を持ち上げた。
長吉の父がしゃがみ込む。
「いや」
根元を指で触る。
「これは生きとる」
「こっちは?」
「茎の折れとる。難しか」
「これは?」
「根ば見れ」
老人が白瀬の手から稲を取った。
「葉っぱだけ見ても分からん」
泥を軽く落とす。
「根の残っとるか。茎の折れとらんか。そこば見らんば」
「なるほど……」
白瀬は素直に頷いた。
老人が鼻を鳴らす。
「白瀬どんにも、知らんことのあるとね」
「ありますよ。山ほど」
「水のことは何でも知っとるごたったばってん」
「水は専門です」
白瀬は稲を指した。
「米は一年生です」
長吉が首を傾げた。
「一年生?」
「ああ……初心者ってことだ」
「最初からそがん言わんね」
「言葉って難しいな!」
また笑いが起きた。
だが白瀬は、本気だった。
ここでは百姓たちが先生だ。
水を読む白瀬。
水そのものを感じる澪。
水の中を知るガタ吉。
そして――。
田を知る百姓たち。
誰か一人では足りない。
「全部見ましょう」
白瀬が立ち上がる。
「全部?」
「はい。ただし――全部を直そうとはしません」
地面へ棒で線を引く。
「まだ生きている稲」
一つ。
「植え直せるところ」
二つ。
「畦だけ直せば来年も使える田」
三つ。
「今は手を出せないほど砂が入った田」
四つ。
「分けます」
百姓たちが顔を見合わせた。
「全部助けようとするから、無理に見えるんです」
白瀬は田を見渡した。
「救えるものから救いましょう」
◇
「うちらは!?」
真っ先に手を挙げたのは小春だった。
「うちらも何かする!」
「おいも!」
長吉も前へ出る。
白瀬は二人を見る。
「じゃあ小春たちは、流れてきた枝と藁を拾ってくれ。深い泥には入るなよ」
「任せんしゃい!」
「長吉」
「おう!」
「力仕事」
「よっしゃあ!」
横から小さな男の子まで手を挙げた。
「おいも力仕事する!」
「昨日、桶一つ持って転んだだろ」
「今日は強うなっとる!」
「一晩で!?」
「飯ばいっぱい食うたけん!」
「成長早すぎるだろ!」
「わははは!」
今度は大人たちも声を上げて笑った。
そして。
「やるぞ!」
「おう!」
田に、人が入った。
◇
倒れた稲を起こす。
泥をそっと落とす。
折れたものを分ける。
畦へ流れ着いた枝をどける。
砂の厚い場所には目印の竹を立てる。
「こっちは生きとるぞ!」
「こっちは駄目たい!」
「白瀬どん、ここはどうする!」
「俺じゃなくて、そっちの爺さんに聞いてください!」
「なんで白瀬しゃんが決めんと?」
小春が不思議そうに尋ねる。
「俺は米のことなら、お前たちより初心者なんだよ!」
「白瀬しゃん、何でもできると思っとった」
「俺を何だと思ってたんだ」
「変な人!」
「そこは最初から変わってないのか!」
田に笑い声が飛ぶ。
大人が働く。
子どもが走る。
ガタ吉は泥の中をするすると進み、
「ここは底の固かぞ!」
と、誰よりも便利なことを言う。
「だったら最初から働け!」
「わしは監督じゃ!」
「誰が決めた!」
澪は畦の上からじっと田を眺めていた。
「白瀬」
「どうした?」
「あそこじゃ」
指差した先。
泥をかぶった一角。
「まだ、水の気が死んでおらぬ」
「……稲も?」
「それは、わたしには分からぬ」
「そこは分からないのか」
「わたしは稲の神ではない」
「ごもっとも」
皆が、自分にできることをする。
できないことは、できる者へ聞く。
それだけだった。
それだけなのに――。
朝には死んだように見えた田が、少しずつ姿を変えていった。
◇
だが。
「……ここは、いかん」
長吉の父が言った。
一枚の田。
ほとんどの稲が折れ、砂まで厚く入っている。
老人も首を振る。
「ここは今年、諦めるしかなか」
白瀬も黙った。
何でも救えるわけではない。
努力すれば必ず報われる――そんな都合のいい世界ではない。
「種籾ば残そう」
長吉の父が言った。
「食う米も減る」
「なら山の畑も使わんば」
「冬まで持つか……」
また空気が重くなる。
そして老人が、例の低い田を見た。
「やっぱり、あそこは捨てるか」
白瀬が顔を上げた。
「……待ってください」
「白瀬どん?」
白瀬は泥の中を歩いた。
もう転ばない。
一歩。
また一歩。
老人の前まで来る。
「今年の稲を全部救えるとは言いません」
村人たちが白瀬を見る。
「収穫も減る」
「駄目になった田もある」
「今日一日で元通りにもならない」
そこで白瀬は、低い田へ目を向けた。
「でも――」
声を強くする。
「田んぼを捨てるな」
誰も動かなかった。
「また水が来るぞ」
老人が言う。
「はい」
「また流されるぞ」
「そうかもしれません」
「なら――」
「だからです」
白瀬は田を指した。
「同じ田に戻すんじゃない」
百姓たちが眉を寄せる。
「水に負けたなら――」
白瀬は笑った。
「次は、水に負けにくい田に変えればいい」
「田ば……変える?」
「畦も」
「水の通り道も」
「田の高さも」
「全部、一度にじゃない」
白瀬は拳を握る。
「一枚ずつです」
「一つずつ強くする」
「今年より来年」
「来年より、その次」
長吉が目を輝かせた。
「そしたら、いつか水に勝てると!?」
白瀬は少し考えてから答えた。
「勝つ、じゃないな」
「?」
「水とは喧嘩しない方がいい」
横で澪が、ふっと笑った。
「ようやく分かったか」
「最初から分かってたよ!」
「怪しいものじゃ」
「澪まで!」
小春が笑う。
大人たちも笑った。
だが。
さっきまで田を捨てると言っていた老人だけは、しばらく黙っていた。
やがて。
「……明日」
「はい?」
「明日も、ここば見るぞ」
長吉の父が笑う。
「当たり前たい」
「おいも来る!」
長吉。
「うちも!」
小春。
「わしは?」
ガタ吉。
「当然来る」
「聞くんじゃなかった!」
◇
夕暮れ。
一日の作業が終わった。
すべてが戻ったわけではない。
泥も残っている。
砂もある。
倒れたままの稲もある。
それでも。
朝には地面へ伏していた稲が、
一株。
二株。
十株。
百株。
再び空へ向かって立っている。
風が吹いた。
小さな葉が揺れた。
「白瀬しゃん!」
小春が嬉しそうに指差した。
「田んぼ、立っとる!」
「田んぼじゃない。稲だ」
「同じたい!」
「違うって!」
「白瀬しゃん、細かか!」
「そこ大事だぞ!?」
笑い声が夕方の田へ広がる。
白瀬も笑った。
だが――。
ふと、その笑顔が消えた。
直した畦。
低い田。
その向こうの水路。
さらに、その先の川。
「……長吉のお父さん」
「なんね?」
「次に、今回くらいの雨が降ったら」
白瀬は尋ねた。
「この田はどうなります?」
男は即答した。
「また水の来るたい」
白瀬は黙った。
やはり。
今日、稲を起こした。
田も捨てずに済んだ。
だが――。
何も変えなければ、また同じことが起こる。
澪が白瀬を見る。
「そなた。また妙な顔をしておるぞ」
「妙な顔?」
「何かを作ろうとしておる顔じゃ」
ガタ吉が嫌そうに後ずさった。
「待て。わし、その顔知っとるぞ」
「奇遇だな」
白瀬は泥だらけの田を見渡した。
そして、その先へ目を向ける。
水はどこから来た。
どこを通った。
なぜ、ここに集まった。
なぜ、この田だけ被害が大きかった。
――ならば。
「同じ場所が、何度もやられるなら……」
白瀬は呟いた。
「土地と水の通り道、そのものを変える」
「白瀬」
「次は――」
夕陽の中。
白瀬の目が、再び土木屋の目になった。
「田を直すんじゃない」
「田を、強くする」
ガタ吉が頭を抱えた。
「やっぱり始まったぁぁぁ!」
子どもたちの笑い声が、泥だらけの田に響いた。
そしてその足元では――。
起こされた稲が、夕風に静かに揺れていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第十四普請は、災害のあとに残る「農地」を描きました。
堤防を直せば終わりでも、水が引けば終わりでもありません。
今年の米はどうするのか。
来年は植えられるのか。
そして、また同じ雨が来たらどうするのか。
白瀬もここで初めて、
「水を治めること」と「人の暮らしを守ること」は同じではないと、もう一段深く知ることになります。
そして今回、白瀬に田のことを教えたのは村の百姓たちでした。
白瀬の現代知識。
澪の水を見る力。
ガタ吉の水中での働き。
そして、この土地で生きてきた人々の知恵。
誰か一人が国を作るのではなく、みんなの力が少しずつ重なっていきます。
ただし――。
稲を起こしても、根本の問題は残ったまま。
「また同じ雨が降れば、また同じ田が沈む」
ならば白瀬は、何を変えるのか。
次の普請では、いよいよ「元に戻す」だけではない仕事へ進んでいきます。




