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告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

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第9話「痛みの言葉」

その日の調書には、空白がある。


文字と文字の間ではない。


行と行の間でもない。


紙の上では、そこは詰まっている。


被疑者、否認。


被疑者、沈黙。


被疑者、再度問われる。


被疑者、サラの名を口にする。


そう書かれている。


隙間などない。


だが私には、今でもそこが白く見える。


書かなかった声がある。


書けなかった息がある。


地下室の石壁に吸われて、公文書には入らなかったものがある。


あの日、扉が閉まったあと、町の音は消えた。


残ったのは、水の匂いと、火の小さな揺れと、ジルの手首を押さえる革の音だった。


ベルナールは、しばらく何も言わなかった。


沈黙も尋問になる。


相手が何かを言うまで待つ沈黙。


相手が自分の心の中で、自分を疑い始めるまで待つ沈黙。


ジルは言わなかった。


彼は椅子に座り、手首を固定されたまま、ただ前を見ていた。


私は筆先を紙につけたままだった。


小さな黒い点が、紙の上で少しずつ太っていく。


「もう一度聞く」


ベルナールが言った。


「粉を、井戸に入れたのだな」


「入れていません」


ジルは答えた。


声はまだ、ジルの声だった。


施療院の庭でルカに話しかけた時の低さが、かすかに残っていた。


「誰に頼まれた」


「誰にも」


「サラか」


「違います」


「サラから粉を受け取ったな」


「患者のためです」


「患者のために受け取った粉を、井戸に入れた」


「違います」


「では、なぜ寝床の下に隠した」


「隠していません」


「なぜ夜明け前に井戸へ行った」


「行っていません」


「なぜ証言がある」


「分かりません」


「分からない」


ベルナールは、その言葉だけを拾った。


私は書く。


被疑者、証言との食い違いについて不明と答える。


不明。


また不明。


ジルの知らないことが、ジルを囲む柵になっていく。


「手を」


ベルナールが言った。


衛兵が動いた。


私は紙を見た。


紙だけを見た。


見なければ、起きていないことになる。


そんなはずはないのに、私はその弱い考えにしがみついた。


木が軋む音がした。


革が締まる音がした。


ジルが息を吸った。


短く。


それだけだった。


「入れたのだな」


ベルナールが問う。


「入れていません」


さっきより少しだけ、声が薄かった。


私は書かなかった。


声が薄い、とは調書に書けない。


「サラに頼まれた」


「違います」


「薬草売りなら、粉の扱いを知っている」


「だからこそ、そんなことは」


ジルの言葉が途中で切れた。


切ったのは彼ではない。


痛みだった。


私は見ていない。


見ていないのに、分かった。


声が途中で折れる音は、人の体より先に耳へ来る。


「続けろ」


ベルナールが言った。


誰に言ったのか、一瞬分からなかった。


ジルにか。


衛兵にか。


私にか。


たぶん、全員にだった。


「そんなことは、何だ」


ベルナールが問う。


ジルは口を開いた。


少し遅れて、声が出た。


「しません」


短くなった。


言葉が短くなった。


私はその瞬間を覚えている。


長い説明が、短い否定へ変わる瞬間。


人が考えることをやめるのではない。


考えを声にする道が、狭くなるのだ。


「書け」


ベルナールが言った。


「被疑者、サラとの共謀を否認」


共謀。


私は筆を止めた。


「共謀、ですか」


「そうだ」


「まだ、その言葉は」


「サラより粉を受け取り、井戸への混入を否認している。関係を問うている」


「関係と、共謀は」


「書ける」


また、その言葉だった。


書ける。


書けることは、いつも書かれてしまう。


私は書いた。


被疑者、サラとの共謀を否認。


サラはそこにいなかった。


なのに、紙の上ではジルの隣に立たされた。


「水を」


ジルが言った。


前より小さかった。


「さっき飲ませた」


ベルナールは答えた。


「水を」


ジルはもう一度言った。


同じ言葉。


短い言葉。


そこには理由も説明もなかった。


ただ喉があった。


人の喉。


生きている者の喉。


衛兵が椀を近づけた。


ジルは水を見た。


今度は、すぐには飲まなかった。


「苦いか」


ベルナールが問う。


ジルは答えなかった。


「お前が苦くした水だ」


「違います」


「では飲める」


ジルは椀に口をつけた。


水を飲む音がした。


小さな音だった。


その小さな音が、地下室では大きかった。


「井戸に粉を入れたのだな」


「違います」


「サラに頼まれた」


「違います」


「サラから受け取った粉を使った」


「違います」


「サラは知っていた」


「違う」


敬語が消えた。


私は顔を上げた。


ジル自身も、気づいたようだった。


彼はすぐに言い直そうとした。


「違います」


遅かった。


ベルナールはそこを拾わなかった。


拾わないことが、かえって怖かった。


彼はもう、細かな乱れを記録する段階ではないのだ。


欲しい言葉だけを待っている。


「お前一人でやったのか」


「やっていません」


「なら、誰とやった」


「誰とも」


「サラか」


「違います」


「サラだな」


「違います」


「粉を渡したのはサラだ」


「患者の」


ジルの声が止まる。


今度は、息が先に乱れた。


私は指先に力を入れた。


筆の軸が、汗で滑る。


「患者の、何だ」


ベルナールが問う。


「ため」


それだけだった。


患者のため。


その言葉すら、もう二つに割れていた。


「誰のために井戸へ入れた」


「入れてない」


「誰のためだ」


「入れてない」


「サラを庇っているな。……ヴァルデンブルクの者か」


「違う」


「サラもヴァルデンブルクと繋がっているのだろう」


「違う」


ロシュフォールから北東へ半日。


国境の黒森を越えた先に、敵国の城塞都市ヴァルデンブルクがある。


高い城壁と鉄の門を持ち、隣国の兵が常に駐屯している。


「なら、名を言え。誰とやった」


「違う」


違う。


違う。


違う。


言葉が一つになった。


否定ではなく、祈りのようになった。


「名を言え」


ベルナールの声は変わらない。


「井戸に入れる粉を渡した者の名を言え」


「違う」


「サラだな」


「違う」


「サラから受け取った粉だな」


「違う」


「では、井戸に入れるための粉を渡したのは誰だ」


ジルの口が動いた。


声は出なかった。


私は紙を見ていた。


空白があった。


何も書かれていない場所。


けれど、そこは無事な場所ではなかった。


ベルナールの問いが落ちるたびに、空白は少しずつ形を持っていった。


サラ。


まだ書かれていないのに、もうその名がそこにあるように見えた。


ジルも、同じものを見ていたのかもしれない。


「サラ」


私は筆を止めた。


地下室のすべてが止まったように感じた。


火も。


水も。


ベルナールの息も。


私の心臓だけが、遅れて大きく鳴った。


「もう一度」


ベルナールが言った。


ジルは顔を上げた。


自分が何を言ったのか、まだ分かっていない目だった。


「今、誰の名を言った」


ジルの唇が震えた。


「サラ」


今度は、少しだけはっきり聞こえた。


「その粉を、井戸に入れるためだったのだな」


「違」


声が壊れた。


「違う、のだな」


ベルナールは静かに言った。


「では、なぜサラの名を言った」


ジルの目が、ようやく焦点を取り戻した。


彼は私を見た。


次に、紙を見た。


それから、何もない壁を見た。


自分の言葉が、どこへ行ったのかを探しているようだった。


「違う」


彼は言った。


「今のは」


「書け」


ベルナールが言った。


私は動けなかった。


「書け、マティアス」


私の名前が呼ばれた。


私は筆を動かした。


手が、私の手ではないようだった。


被疑者、井戸混入の粉末につき、サラの名を供述。


そこまで書いた。


ベルナールが続ける。


「サラより受領した粉末について、井戸混入との関係を認める旨を示唆」


私は息を止めた。


「示唆」


声が漏れた。


「本人が名を出した」


「でも、入れるためとは」


「書け」


書け。


その一語が、地下室で一番硬かった。


私は書いた。


サラより受領した粉末について、井戸混入との関係を認める旨を示唆。


嘘ではない。


そう思おうとした。


ジルはサラの名を言った。


サラから粉を受け取ったことも、前から認めていた。


だから嘘ではない。


けれど真実でもなかった。


真実ではないものを、嘘ではない形で書くことができる。


私はその日、それを覚えた。


ジルが口を開いた。


「違う」


声がかすれていた。


「サラは、薬を」


「薬を渡した」


ベルナールが引き取る。


「はい」


「その薬が毒物の疑いとなった」


「違う」


「粉を渡した」


「患者に」


「お前に」


「患者に」


「お前に」


ジルの目が揺れた。


言葉の出口が、どんどん塞がれていく。


「もう一度聞く」


ベルナールは言った。


「サラから受け取った粉を、井戸に入れたのだな」


ジルは長く黙った。


長い沈黙だった。


その沈黙の間、私は紙を見ていた。


さっき書いたばかりの一文が、乾いていく。


井戸混入との関係を認める旨を示唆。


墨が乾く。


乾けば、消しにくくなる。


「違う」


ジルは言った。


だがその声は、もう最初の「違います」と同じではなかった。


短く、薄く、どこか遠い。


「地下聴取、継続」


ベルナールが言った。


私は書かなかった。


書けなかった。


紙の上には、空白ができた。


本当はそこに、ジルの声が変わっていく時間があった。


水を飲めずに、唇を濡らすだけの時間があった。


ベルナールが同じ問いを、違う順番で置き直す時間があった。


衛兵が目をそらす時間があった。


私が筆を持ったまま、何も救えないと知る時間があった。


「あああああっ」


ジルの声が、地下室の石にぶつかった。


言葉ではなかった。


名でも、否認でも、祈りでもなかった。


私はその声を書かなかった。


書けなかった。


だが調書の空白は、あとから見ればただの余白だった。


何も書かれていない場所は、何もなかった場所に見える。


それが一番恐ろしい。


やがて、上の方で何かが鳴った。


扉の外ではない。


もっと上。


役所の床の向こう。


町の側。


小さな声がした。


子どもの声だった。


「今の、おじさんの声?」


その声が、本当に地下まで届いたのか。


それとも、私が後からそう思い込んだのか。


今でも分からない。


ただ、その瞬間、ジルがわずかに顔を上げた。


木馬を直した時の、あの手を思い出したような顔だった。


そして私は、調書の空白を見つめたまま、何も書かなかった。

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