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告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

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8/17

「地下には、言葉を早める道具がある」

地下には、言葉を早める道具があった。


私はそれを、道具と呼びたくなかった。


けれど役所の帳簿には、そう書かれていた。


尋問用椅子。


拘束帯。


水桶。


拭き布。


油皿。


どれも、ただの物の名だった。


物の名は、使われ方を隠す。


人の名が罪を背負わされるように、物の名は罪から逃げる。


地下へ下りる階段は、役所の奥にあった。


普段は板戸で隠されている。


戸を開けると、冷たい空気が上がってきた。


井戸の底に顔を近づけた時のような匂いがした。


石。


湿り。


古い鉄。


それから、何度も洗ったはずなのに残る、人の息の匂い。


ジルは一段目で足を止めた。


「ここで話すのですか」


声は震えていなかった。


震えていないことが、かえって痛かった。


ベルナールは振り返らずに言った。


「話せばすぐに終わる」


すぐに。


終わる。


さっき地上で聞いた言葉が、形を変えて戻ってきた。


同じ言葉は、場所が変わると意味を変える。


地上では調書を閉じる言葉だった。


地下では、人を閉じる言葉になった。


私は記録板を抱えたまま、階段を下りた。


足音が石に当たる。


一つ。


また一つ。


上の町の音が、段を下りるごとに薄くなっていく。


井戸端のざわめきも。


施療院の咳も。


サラが扉の向こうで何かを言っていた声も。


全部、遠くなる。


遠くなれば、なかったことにしやすい。


地下室は広くなかった。


壁は石で、ところどころ黒ずんでいる。


床は濡れていた。


水をこぼしたばかりなのか、ずっと乾かないのか、分からない。


部屋の中央に椅子があった。


背もたれが高く、脚が太い。


椅子というより、逃げないための木だった。


その横に革紐が置かれていた。


乾いている。


乾いているのに、見ただけで湿った気持ちになった。


壁際には水桶があった。


私はそれを見て、井戸端の桶を思い出した。


水は、どこに置かれても同じではない。


施療院にあれば、誰かを助ける。


井戸端にあれば、町をつなぐ。


地下にあれば、言葉を変える。


ジルも水桶を見た。


何も言わなかった。


衛兵が彼を椅子の前へ立たせる。


「座れ」


ジルは座った。


まだ、縛られてはいなかった。


まだ、という言葉が私の中で何度も鳴った。


まだ。


まだ大丈夫。


まだ話だけだ。


まだ戻れる。


人は、戻れない場所に入ってからも、しばらくそう思う。


ベルナールは机を置かせた。


小さな机だった。


私のための机だ。


紙を置き、筆を置き、インクを置く。


地下にまで、書く場所は用意されていた。


書く場所があるなら、これは手続きなのだ。


そう自分に言い聞かせようとした。


けれど、手続きならなぜ床が濡れているのか。


なぜ革紐があるのか。


なぜ上の音が、ここまで届かないのか。


私は紙を広げた。


新しい紙だった。


白い。


白すぎる。


「始める」


ベルナールが言った。


私は筆を持った。


筆先が紙の上で止まる。


「被疑者ジル、地下聴取室にて再聴取」


ベルナールは私を見る。


私は書いた。


被疑者ジル、地下聴取室にて再聴取。


再聴取。


その言葉もまた、優しかった。


優しい言葉は、地下で一番よく響く。


「井戸に粉を入れたな」


ベルナールが問う。


「入れていません」


ジルは答えた。


早かった。


迷いがない。


嘘を作る間もない。


「粉はお前の寝床の下にあった」


「咳止めです」


「サラから受け取った」


「患者のためです」


「夜明け前、井戸のそばにいた」


「いません」


「証言がある」


「間違いです」


同じ言葉が、地上でも交わされた。


地下で繰り返されると、同じ言葉ではなくなる。


答えは薄くなる。


問いだけが濃くなる。


私は書こうとした。


被疑者、井戸への粉末混入を否認。


そこまでは書けた。


その先が続かなかった。


否認。


否認。


その言葉を何度も書くと、まるで否認すること自体が悪いことのように見えてくる。


「マティアス」


ベルナールの声がした。


「手を止めるな」


私は続きを書いた。


被疑者、井戸への粉末混入を否認。


ベルナールは、ジルへ視線を戻す。


「サラは、粉は害にもなると言った」


「薬は、使い方を間違えれば」


「お前は使い方を間違えた」


「違います」


「井戸に入れる使い方をした」


「していません」


「なら、なぜ井戸の水は苦い」


ジルは答えられなかった。


答えを知らないからだ。


知らないことは、無実の証にはならない。


この部屋では、知らないことも罪の側へ寄せられる。


「分かりません」


ジルは言った。


ベルナールは小さく頷いた。


「分からない、と」


私は書く。


被疑者、井戸水異変の理由について不明と答える。


不明。


それも正しい。


正しいのに、紙の上で弱くなる。


ジルは両手を膝の上に置いていた。


大きな手だった。


木馬を直した手。


桶を落とした時にも震えていなかった手。


今、その手の指先だけが、膝の布をわずかにつかんでいる。


私はそこを書きたかった。


ジルの手は震えていなかった。


ジルは膝の布をつかんでいた。


怖がっているが、嘘を探してはいない。


書きたかった。


だが調書にそんな場所はない。


「椅子に固定しろ」


ベルナールが言った。


私は筆を落としそうになった。


ジルが顔を上げる。


「なぜですか」


「暴れないためだ」


「暴れません」


「暴れない者ほど、急に暴れる」


それは理屈ではなかった。


けれど理屈の形をしていた。


衛兵がジルの手首に革紐をかけた。


私は見ないようにした。


見ないようにしても、音は聞こえる。


革が擦れる音。


木が軋む音。


ジルが息を吸う音。


そのどれもが、紙には入らない。


「痛いか」


ベルナールが問う。


「いいえ」


ジルは答えた。


「なら、続けられるな」


私はその時、ベルナールが何をしているのかを少しだけ理解した。


彼は痛みを始めているのではなかった。


痛みの前に、言葉の逃げ道を閉じていた。


痛いと言えば、弱い。


痛くないと言えば、続けられる。


何を答えても、次の段へ進む。


「井戸に粉を入れたのだな」


「入れていません」


「サラから受け取った粉を」


「患者のために受け取りました」


「患者とは町民だ」


「はい」


「町民を害した」


「違います」


「町民のためと言いながら、町民を害した」


「違います」


問いは、すでに答えを持っていた。


それなら問いではない。


それは、穴だった。


同じ形の穴へ、ジルの言葉を何度も落としているだけだった。


「書け」


ベルナールが言う。


「被疑者、サラより受け取った粉末を患者用と主張。井戸混入は否認」


私は書いた。


主張。


否認。


弁明。


曖昧。


この数日の間に、ジルの言葉の周りには、そういう枠が増えていた。


最初はただの説明だった。


今はもう、疑いを前提にした言葉でしか書けない。


「水を」


ジルが小さく言った。


私は顔を上げた。


「喉が」


ベルナールは水桶を見た。


「飲ませろ」


衛兵が木の椀に水を入れた。


地下の水だった。


井戸の水かどうか、私には分からない。


椀がジルの口元へ近づけられる。


ジルは一瞬、動きを止めた。


水を見ていた。


町が苦いと言った水。


自分が汚したと言われている水。


彼は口をつけなかった。


「飲まないのか」


ベルナールが問う。


「井戸の水ですか」


「水だ」


「施療院の者が、まだ」


「今はお前の話だ」


ジルは目を閉じた。


それから、ほんの少しだけ水を飲んだ。


喉が動く。


その動きだけで、人がまだ生きていると分かる。


私は見てしまった。


見たものを書かなかった。


「続ける」


ベルナールが言った。


「粉を入れたのだな」


「入れていません」


「サラに頼まれたのか」


ジルの顔が変わった。


初めてだった。


今まで、自分のためには大きく動かなかった顔が、サラの名で動いた。


「違います」


「サラから粉を受け取った」


「患者のためです」


「頼まれた」


「違います」


「サラは薬と毒の境を知っている」


「薬草売りですから」


「だから頼んだ」


「違います」


言葉が狭くなっていく。


ジルの答えは、違います、ばかりになった。


違います。


違います。


違います。


違うと言うたび、違うことを証明しろと迫られる。


証明できなければ、違うという言葉だけが薄くなる。


「マティアス」


ベルナールが言った。


私は筆を握った。


「被疑者、サラとの関与を否認」


私は書いた。


被疑者、サラとの関与を否認。


サラ。


その名が、とうとう地下の紙に入った。


紙に入ると、人は部屋にいなくても捕まる。


サラは今、地上にいる。


それなのに、紙の上ではもう地下に降ろされていた。


ジルが私を見た。


その目に、頼みがあった。


声にはしなかった。


書かないでくれ。


そう言われた気がした。


だが私は、もう書いていた。


「まだ足りない」


ベルナールが静かに言った。


衛兵が椅子の横に立つ。


部屋の隅にあった油皿へ、火が移された。


小さな火だった。


暖を取るには弱く、闇を払うには足りない。


けれど、人の目をそこへ向けるには十分だった。


私は喉の奥が乾くのを感じた。


これは、まだ何も始まっていない。


そう思いたかった。


だが、始まりとは、最初の痛みのことではない。


痛みを待たせることも、もう始まりだった。


「ここで話すのですか」


ジルが、階段の上で言った言葉をもう一度呟いた。


誰に向けたのか分からない声だった。


ベルナールは答えた。


「ここでなら、早く話せる」


私は筆先を紙につけた。


黒い点ができた。


その点から先へ、手が動かなかった。


紙の白さが、急に広くなった。


書くべき言葉は、いくつもあるはずだった。


地下聴取継続。


被疑者、否認を続ける。


サラとの関与を否認。


だが、どれを書いても、次に起きることを止められない。


止められない紙に、何の意味があるのか。


階段の上から、遠く町の音がした。


誰かが戸を閉める音。


誰かが名を呼ぶ声。


水桶が石に当たる音。


それらが一瞬だけ聞こえた。


それから衛兵が地下室の扉を閉めた。


音が消えた。


町が消えた。


残ったのは、石の湿りと、火の小さな揺れと、革紐に固定されたジルの手首だけだった。


私は筆先を紙につけたまま、動けなかった。

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