表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/15

第7話「井戸の地図」

古い地図の井戸の下に、黒く細い線が引かれていた。


私は最初、それをひびだと思った。


紙が古くなると、折り目に沿って黒ずむ。


湿気を吸った紙は、そこから弱くなる。


だから私は、指でそっと押さえた。


線は折り目ではなかった。


井戸の印から、町の外れへ伸びている。


細く。


まっすぐではなく、土の下を迷うように曲がりながら。


その先に、皮なめし場があった。


オーレンの工房。


私は息を止めた。


記録庫は暗かった。


棚のすき間から入る光は細く、埃だけを白く見せている。


廊下の向こうでは、まだベルナールの声がした。


「粉を、井戸に入れたのか」


ジルの答えは聞こえない。


聞こえない答えより、目の前の線のほうが大きく見えた。


私は薬物台帳を脇に抱え、古い町図を両手で持った。


紙は乾いていた。


少し力を入れれば、裂けそうだった。


それでも持って行かなければならないと思った。


今なら、まだ間に合うかもしれない。


その時の私は、本気でそう思った。


本気で思ったことほど、後で思い出すと痛い。


「ベルナール様」


私は聴取室の戸口で声を出した。


部屋の中の空気が、こちらを向いた。


ジルは椅子に座っていた。


顔色は悪い。


だが、目はまだ私を見た。


サラは壁際に立っている。


彼女の手は、薬草袋の紐を握りしめていた。


紐の跡が、指に白く残っている。


机の上には紙包みがあった。


小さい。


あまりにも小さい。


その小さなものに、町の恐怖が乗せられている。


「何だ」


ベルナールは筆を置かずに言った。


「古い町図です」


私は地図を広げた。


机の上の調書を避けるように置く。


調書は新しい紙だった。


地図は古い紙だった。


新しい紙のほうが、なぜか強く見えた。


「井戸の下に、線があります」


私は指を置いた。


「ここです。井戸から、町の外れへ」


ベルナールは見た。


サラも身を乗り出した。


ジルは椅子から立ち上がりかけ、衛兵に肩を押さえられた。


「座っていろ」


ジルは座った。


抵抗しなかった。


その無抵抗が、また部屋を冷たくする。


「これは何の線だ」


ベルナールが問う。


私は答えようとして、喉が詰まった。


地図には、名前がなかった。


ただ線があるだけだった。


「おそらく、古い排水路です」


私は言った。


おそらく。


その言葉を口にした瞬間、自分の足場が細くなったのが分かった。


「おそらく」


ベルナールが繰り返す。


彼は声を荒げなかった。


ただ、私の言葉から弱い部分だけを抜き出して、机の上に置いた。


「昔の井戸は、周囲の水を逃がすために地下へ溝を通すことがあると、記録で読んだことがあります」


私は早口になった。


「もしこの線が排水路なら、井戸の水に別の場所の水が混じる可能性があります」


「別の場所とは」


「町の外れです」


私は線をたどった。


指先が、皮なめし場の印で止まる。


「オーレンの工房の近くを通っています」


サラが息を吸った。


小さな音だったが、私は聞いた。


彼女も思い出したのだと思う。


皮を浸す桶の臭い。


灰を混ぜた水。


獣の脂と、古い薬液の匂い。


第2の日の朝、井戸端まで漂ってきたあの臭い。


私はそれを思い出した。


思い出したなら、書けると思った。


だが、思い出したことは証拠ではない。


「工房の排水が井戸へ入ったと言いたいのか」


ベルナールが問う。


「断定はできません」


私は答えた。


答えた瞬間、失敗したと分かった。


断定できません。


それは正しい言葉だった。


けれどこの部屋では、正しい言葉ほど弱く聞こえる。


ベルナールは地図を見下ろした。


「いつの地図だ」


「古いものです。年号は、端が欠けていて」


「誰が引いた線だ」


「分かりません」


「今も水が通っているのか」


「確認しなければ」


「確認していない」


「はい」


「では、確かではない」


彼はそう言った。


それだけだった。


怒りも、嘲りもない。


ただ扉を閉める時のように、言葉を置いた。


確かではない。


私はその言葉に、何も返せなかった。


サラが一歩前へ出た。


「でも、調べる価値はあります」


「調べている間に、町はどうなる」


ベルナールはサラを見た。


「井戸水を飲んだ者がいる。腹を押さえる者がいる。子どもを抱えて泣く母親がいる。町は答えを待っている」


「答えと犯人は違います」


サラの声は震えていた。


だが、言葉は逃げなかった。


私はその言葉を書きたかった。


答えと犯人は違います。


けれど誰も私に、今のを書けとは言わなかった。


だから私は書かなかった。


今なら分かる。


書けと言われなかったから書かないのは、書かない理由にはならない。


だがその時の私は、まだ命じられた言葉だけを紙へ運ぶ者だった。


「確かでないものは、町を静められない」


ベルナールは言った。


「確かなものから進める」


「確かなもの」


ジルが初めて口を開いた。


声は低かった。


「私が、井戸に入れていないことは、確かです」


部屋の空気が止まった。


短い沈黙。


長く感じる沈黙。


ベルナールはジルを見た。


「それを確かにするために、話を聞いている」


「話しています」


「足りない」


「何を言えば、足りますか」


ジルの問いは静かだった。


静かだからこそ、痛かった。


ベルナールは答えなかった。


机の上の紙包みを見た。


それから、調書を見た。


見た順番だけで、答えは決まっていた。


「粉はお前の寝床の下にあった」


「咳止めです」


「サラから受け取った」


「患者のためです」


「夜明け前、井戸の傍らでお前を見たという証言がある」


「私ではありません」


「町の水は苦い」


「知っています」


「なら、話せ」


ジルは目を伏せた。


話している。


ずっと話している。


けれどベルナールが求めているのは、話ではなかった。


終わりだった。


町へ持って行ける、形のある終わり。


私は地図を見た。


黒い線。


井戸から外れへ伸びる線。


その線には、まだ誰の名前も結びついていない。


だから弱かった。


人の名がある紙包みより、名前のない線は弱い。


理不尽なことだ。


けれど役所の机の上では、そうだった。


「この地図を、調書に添えますか」


私は聞いた。


聞きながら、声が小さくなるのを感じた。


ベルナールは地図を半分閉じた。


古い紙が、乾いた音を立てた。


「保留だ」


「保留」


「事件に関係するか未確認。調書本体には不要」


不要。


その二文字が、地図の上に落ちた。


私は地図を抱え直した。


紙は軽かった。


軽すぎた。


人一人の命と比べるには、あまりにも軽かった。


「マティアス」


ベルナールが私を呼んだ。


「はい」


「余白に書け。被疑者、粉末の井戸混入を否認。なお弁明に曖昧な点あり」


私は筆を持った。


余白。


余った場所。


そこに人の言葉を押し込める。


ジルの否認も。


サラの説明も。


地図の線も。


全部、余白に追いやられていく。


「曖昧な点」


私は小さく復唱した。


「何が曖昧なのでしょうか」


言ってから、背中に汗が流れた。


ベルナールの目が、ゆっくり私へ向く。


「お前が今、確かだと言えなかったことだ」


私は黙った。


その通りだった。


確かだと言えなかった。


だから、彼の言葉に抵抗できなかった。


私は書いた。


被疑者、粉末の井戸混入を否認。なお弁明に曖昧な点あり。


私が書いたその一文で、ジルの「入れていません」は、弱い言葉になった。


何も変えていない。


嘘は書いていない。


それなのに、意味は変わっていた。


サラが私を見た。


責める目ではなかった。


責めるほうが、まだ楽だった。


彼女の目には、失望の前の疲れがあった。


ジルは何も言わなかった。


何も言わないことまで、また紙の上では不利になるのだろう。


私は地図を丸めた。


紐で結ぶ手が震えた。


「その地図は記録庫へ戻せ」


ベルナールが言った。


「後で確認する」


後で。


その言葉を、私は信じようとした。


人は、信じたい言葉から順に信じる。


後で確認する。


後で調べる。


後で正しくなる。


だが町の外では、もう今が進んでいた。


井戸端には人が集まっているはずだった。


ジルが連れて行かれたこと。


粉が見つかったこと。


サラの名が出たこと。


それらは、地図より早く町を走る。


線は紙の上でしか進まない。


噂は足を持っている。


私は記録庫へ戻った。


地図を筒に戻す。


棚の奥へ差し込む。


奥へ入れるほど、見えなくなる。


見えなくなれば、なかったことに似てくる。


私の指には、古い紙の粉がついた。


白く、乾いた粉。


さっきの紙包みの粉とは違う。


だが、私はその違いも書かなかった。


聴取室へ戻ると、空気が変わっていた。


ジルは椅子に座っている。


サラは部屋の外へ出されていた。


扉の向こうで、彼女が何かを言う声がした。


衛兵がそれを遮る。


ベルナールは調書を読み返していた。


静かだった。


あまりにも静かだった。


静かな場所で、人は次の大きな音を準備する。


「上では足りないな」


ベルナールが言った。


私は意味が分からなかった。


分かりたくなかったのかもしれない。


「地下へ移せ」


衛兵が動いた。


ジルが顔を上げる。


「地下、ですか」


「話を続けるだけだ」


ベルナールは言った。


「早く終わらせよう」


早く。


終わらせる。


その言葉が、調書の上を滑った。


私は筆を持ったまま立っていた。


地図の線は、まだ私の目の奥に残っている。


井戸から外れへ伸びる、黒く細い線。


けれどジルは、その線とは反対のほうへ連れて行かれた。


下へ。


役所の地下へ。


扉が開く。


冷たい空気が上がってくる。


私はその時、初めて思った。


紙は、人を救うものではないのかもしれない。


書く者が弱ければ、紙はただ、人を閉じ込める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ