第7話「井戸の地図」
古い地図の井戸の下に、黒く細い線が引かれていた。
私は最初、それをひびだと思った。
紙が古くなると、折り目に沿って黒ずむ。
湿気を吸った紙は、そこから弱くなる。
だから私は、指でそっと押さえた。
線は折り目ではなかった。
井戸の印から、町の外れへ伸びている。
細く。
まっすぐではなく、土の下を迷うように曲がりながら。
その先に、皮なめし場があった。
オーレンの工房。
私は息を止めた。
記録庫は暗かった。
棚のすき間から入る光は細く、埃だけを白く見せている。
廊下の向こうでは、まだベルナールの声がした。
「粉を、井戸に入れたのか」
ジルの答えは聞こえない。
聞こえない答えより、目の前の線のほうが大きく見えた。
私は薬物台帳を脇に抱え、古い町図を両手で持った。
紙は乾いていた。
少し力を入れれば、裂けそうだった。
それでも持って行かなければならないと思った。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
その時の私は、本気でそう思った。
本気で思ったことほど、後で思い出すと痛い。
「ベルナール様」
私は聴取室の戸口で声を出した。
部屋の中の空気が、こちらを向いた。
ジルは椅子に座っていた。
顔色は悪い。
だが、目はまだ私を見た。
サラは壁際に立っている。
彼女の手は、薬草袋の紐を握りしめていた。
紐の跡が、指に白く残っている。
机の上には紙包みがあった。
小さい。
あまりにも小さい。
その小さなものに、町の恐怖が乗せられている。
「何だ」
ベルナールは筆を置かずに言った。
「古い町図です」
私は地図を広げた。
机の上の調書を避けるように置く。
調書は新しい紙だった。
地図は古い紙だった。
新しい紙のほうが、なぜか強く見えた。
「井戸の下に、線があります」
私は指を置いた。
「ここです。井戸から、町の外れへ」
ベルナールは見た。
サラも身を乗り出した。
ジルは椅子から立ち上がりかけ、衛兵に肩を押さえられた。
「座っていろ」
ジルは座った。
抵抗しなかった。
その無抵抗が、また部屋を冷たくする。
「これは何の線だ」
ベルナールが問う。
私は答えようとして、喉が詰まった。
地図には、名前がなかった。
ただ線があるだけだった。
「おそらく、古い排水路です」
私は言った。
おそらく。
その言葉を口にした瞬間、自分の足場が細くなったのが分かった。
「おそらく」
ベルナールが繰り返す。
彼は声を荒げなかった。
ただ、私の言葉から弱い部分だけを抜き出して、机の上に置いた。
「昔の井戸は、周囲の水を逃がすために地下へ溝を通すことがあると、記録で読んだことがあります」
私は早口になった。
「もしこの線が排水路なら、井戸の水に別の場所の水が混じる可能性があります」
「別の場所とは」
「町の外れです」
私は線をたどった。
指先が、皮なめし場の印で止まる。
「オーレンの工房の近くを通っています」
サラが息を吸った。
小さな音だったが、私は聞いた。
彼女も思い出したのだと思う。
皮を浸す桶の臭い。
灰を混ぜた水。
獣の脂と、古い薬液の匂い。
第2の日の朝、井戸端まで漂ってきたあの臭い。
私はそれを思い出した。
思い出したなら、書けると思った。
だが、思い出したことは証拠ではない。
「工房の排水が井戸へ入ったと言いたいのか」
ベルナールが問う。
「断定はできません」
私は答えた。
答えた瞬間、失敗したと分かった。
断定できません。
それは正しい言葉だった。
けれどこの部屋では、正しい言葉ほど弱く聞こえる。
ベルナールは地図を見下ろした。
「いつの地図だ」
「古いものです。年号は、端が欠けていて」
「誰が引いた線だ」
「分かりません」
「今も水が通っているのか」
「確認しなければ」
「確認していない」
「はい」
「では、確かではない」
彼はそう言った。
それだけだった。
怒りも、嘲りもない。
ただ扉を閉める時のように、言葉を置いた。
確かではない。
私はその言葉に、何も返せなかった。
サラが一歩前へ出た。
「でも、調べる価値はあります」
「調べている間に、町はどうなる」
ベルナールはサラを見た。
「井戸水を飲んだ者がいる。腹を押さえる者がいる。子どもを抱えて泣く母親がいる。町は答えを待っている」
「答えと犯人は違います」
サラの声は震えていた。
だが、言葉は逃げなかった。
私はその言葉を書きたかった。
答えと犯人は違います。
けれど誰も私に、今のを書けとは言わなかった。
だから私は書かなかった。
今なら分かる。
書けと言われなかったから書かないのは、書かない理由にはならない。
だがその時の私は、まだ命じられた言葉だけを紙へ運ぶ者だった。
「確かでないものは、町を静められない」
ベルナールは言った。
「確かなものから進める」
「確かなもの」
ジルが初めて口を開いた。
声は低かった。
「私が、井戸に入れていないことは、確かです」
部屋の空気が止まった。
短い沈黙。
長く感じる沈黙。
ベルナールはジルを見た。
「それを確かにするために、話を聞いている」
「話しています」
「足りない」
「何を言えば、足りますか」
ジルの問いは静かだった。
静かだからこそ、痛かった。
ベルナールは答えなかった。
机の上の紙包みを見た。
それから、調書を見た。
見た順番だけで、答えは決まっていた。
「粉はお前の寝床の下にあった」
「咳止めです」
「サラから受け取った」
「患者のためです」
「夜明け前、井戸の傍らでお前を見たという証言がある」
「私ではありません」
「町の水は苦い」
「知っています」
「なら、話せ」
ジルは目を伏せた。
話している。
ずっと話している。
けれどベルナールが求めているのは、話ではなかった。
終わりだった。
町へ持って行ける、形のある終わり。
私は地図を見た。
黒い線。
井戸から外れへ伸びる線。
その線には、まだ誰の名前も結びついていない。
だから弱かった。
人の名がある紙包みより、名前のない線は弱い。
理不尽なことだ。
けれど役所の机の上では、そうだった。
「この地図を、調書に添えますか」
私は聞いた。
聞きながら、声が小さくなるのを感じた。
ベルナールは地図を半分閉じた。
古い紙が、乾いた音を立てた。
「保留だ」
「保留」
「事件に関係するか未確認。調書本体には不要」
不要。
その二文字が、地図の上に落ちた。
私は地図を抱え直した。
紙は軽かった。
軽すぎた。
人一人の命と比べるには、あまりにも軽かった。
「マティアス」
ベルナールが私を呼んだ。
「はい」
「余白に書け。被疑者、粉末の井戸混入を否認。なお弁明に曖昧な点あり」
私は筆を持った。
余白。
余った場所。
そこに人の言葉を押し込める。
ジルの否認も。
サラの説明も。
地図の線も。
全部、余白に追いやられていく。
「曖昧な点」
私は小さく復唱した。
「何が曖昧なのでしょうか」
言ってから、背中に汗が流れた。
ベルナールの目が、ゆっくり私へ向く。
「お前が今、確かだと言えなかったことだ」
私は黙った。
その通りだった。
確かだと言えなかった。
だから、彼の言葉に抵抗できなかった。
私は書いた。
被疑者、粉末の井戸混入を否認。なお弁明に曖昧な点あり。
私が書いたその一文で、ジルの「入れていません」は、弱い言葉になった。
何も変えていない。
嘘は書いていない。
それなのに、意味は変わっていた。
サラが私を見た。
責める目ではなかった。
責めるほうが、まだ楽だった。
彼女の目には、失望の前の疲れがあった。
ジルは何も言わなかった。
何も言わないことまで、また紙の上では不利になるのだろう。
私は地図を丸めた。
紐で結ぶ手が震えた。
「その地図は記録庫へ戻せ」
ベルナールが言った。
「後で確認する」
後で。
その言葉を、私は信じようとした。
人は、信じたい言葉から順に信じる。
後で確認する。
後で調べる。
後で正しくなる。
だが町の外では、もう今が進んでいた。
井戸端には人が集まっているはずだった。
ジルが連れて行かれたこと。
粉が見つかったこと。
サラの名が出たこと。
それらは、地図より早く町を走る。
線は紙の上でしか進まない。
噂は足を持っている。
私は記録庫へ戻った。
地図を筒に戻す。
棚の奥へ差し込む。
奥へ入れるほど、見えなくなる。
見えなくなれば、なかったことに似てくる。
私の指には、古い紙の粉がついた。
白く、乾いた粉。
さっきの紙包みの粉とは違う。
だが、私はその違いも書かなかった。
聴取室へ戻ると、空気が変わっていた。
ジルは椅子に座っている。
サラは部屋の外へ出されていた。
扉の向こうで、彼女が何かを言う声がした。
衛兵がそれを遮る。
ベルナールは調書を読み返していた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
静かな場所で、人は次の大きな音を準備する。
「上では足りないな」
ベルナールが言った。
私は意味が分からなかった。
分かりたくなかったのかもしれない。
「地下へ移せ」
衛兵が動いた。
ジルが顔を上げる。
「地下、ですか」
「話を続けるだけだ」
ベルナールは言った。
「早く終わらせよう」
早く。
終わらせる。
その言葉が、調書の上を滑った。
私は筆を持ったまま立っていた。
地図の線は、まだ私の目の奥に残っている。
井戸から外れへ伸びる、黒く細い線。
けれどジルは、その線とは反対のほうへ連れて行かれた。
下へ。
役所の地下へ。
扉が開く。
冷たい空気が上がってくる。
私はその時、初めて思った。
紙は、人を救うものではないのかもしれない。
書く者が弱ければ、紙はただ、人を閉じ込める。




