第6話「粉の名前」
紙包みは、寝床の下から出てきた。
それだけなら、何も珍しくはなかった。
施療院の寝床の下には、たいてい何かがある。
替えの布。
欠けた匙。
割れた薬瓶。
熱が下がった者のために残しておいた硬いパン。
貧しい場所では、隠すためではなく、失くさないために物を下へ入れる。
だがその日、衛兵はそう見なかった。
「あったぞ」
短い声が、施療院の薄い壁を震わせた。
私はその場にいた。
本当なら、役所の奥の部屋でジルの聴取を書き取るはずだった。
けれどベルナールは、私に命じた。
「見つかった物を書け」
人が話す前に、物が話すこともある。
私はそう教えられていた。
だが物の声は、いつも小さい。
その小さな声を、誰の言葉で大きくするのか。
私はまだ、それを知らなかった。
施療院は静かだった。
静かすぎた。
咳をしていた老人まで、布団の中で息を殺している。
桶の水が足りず、薬草を煮る鍋は火から下ろされていた。
湿った布の匂い。
古い藁の匂い。
薬草の苦み。
それらが混ざり、部屋の空気は重かった。
衛兵が、ジルの寝床の藁を乱暴に払った。
その下から、小さな紙包みが転がった。
白っぽい紙だった。
角が何度も折られて、柔らかくなっている。
「開けろ」
ベルナールが言った。
衛兵は紙包みを開いた。
中には、白に近い灰色の粉があった。
ほんの少し。
指先でつまめば消えてしまいそうな量だった。
「毒か」
誰かが言った。
声は小さかった。
だが、施療院の中では十分すぎるほど響いた。
「まだ分からない」
私は思わず言った。
自分でも驚いた。
筆を持つ手が、少し汗ばんでいた。
ベルナールが私を見た。
怒ってはいない。
ただ、余計な線を引いた紙を見るような目だった。
「分からないものを、分からないまま置くために調べている」
彼は静かに言った。
「書け。ジルの寝床下より、白色粉末入り紙包みを発見」
私は書いた。
ジルの寝床下より、白色粉末入り紙包みを発見。
その一文は、まだ事実だった。
まだ。
奥の部屋から、かすかに椅子のきしむ音がした。
ジルがいる部屋だ。
ここからは見えない。
だが、見えないことがかえって、彼を遠くした。
人は、いない者についてなら、いくらでも話せる。
「これは何だ」
ベルナールは紙包みをつまみ上げた。
衛兵が、施療院の棚を探っていた。
瓶を並べる。
乾いた葉を入れた袋を開ける。
小さな木箱のふたを外す。
病人のために置かれた物が、一つずつ疑いの形に変わっていった。
「咳止めに混ぜる粉です」
答えたのは、ジルではなかった。
戸口に立っていたサラだった。
彼女は呼ばれて来たばかりだった。
外套の留め具もまだ片方しか掛かっていない。
急いで来たのだと分かった。
それなのに、顔だけは必死に整えていた。
薬草売りは、怖がった顔を見せてはいけない。
怖がれば、薬まで怖がられる。
「お前が調合したものか」
ベルナールが問う。
「私が渡したものです」
サラは答えた。
「施療院には咳のひどい方が多いので」
「粉だな」
「はい」
「井戸に入れればどうなる」
サラの眉が動いた。
「井戸に入れるものではありません」
「入れればどうなる」
同じ問いだった。
問いは同じでも、二度目は少し硬くなる。
サラは唇を結んだ。
答えない時間が長くなるほど、部屋の者たちは答えを先に作っていく。
私はそれが分かった。
分かったのに、止められなかった。
「量によります」
サラは言った。
「使い方にもよります。薬にも、害にもなるものはあります」
「害にもなる」
ベルナールはそこだけを拾った。
「そう書け」
私は筆を止めた。
「今のは、そういう意味では」
「サラ本人が言った。害にもなる、と」
ベルナールの声は低かった。
怒鳴らない。
怒鳴らない声ほど、部屋の隅まで届くことがある。
サラは一歩前へ出た。
「違います。薬は、量を間違えれば何でも」
「つまり量を間違えれば人を害する」
「そうではなく」
「違うのか」
「違いません。けれど」
「なら、書ける」
なら、書ける。
その言葉は、私の胸の奥へ落ちた。
書けることと、書いてよいことは違う。
違うはずだった。
私はそう思った。
思っただけで、紙の上にはまだ何も起きない。
「粉末は薬用のもの。ただし分量、用法により人体へ害をなす可能性あり」
私はそう書いた。
できるだけ、サラの言葉に近づけたつもりだった。
近づけたつもりの文ほど、後で遠くなることを、その時の私は知らなかった。
「毒物の疑い、と添えろ」
ベルナールが言った。
「まだ、毒とは」
「疑いだ」
私は息を止めた。
疑い。
その言葉は便利だった。
断定ではない。
だから誰も傷つけていないように見える。
だが疑いと書かれた紙は、読む者の中で勝手に育つ。
私は、行の端に書いた。
毒物の疑いあり。
紙包みは、小さかった。
その小ささが、かえって嫌だった。
本当に町を苦しめるほどのものなら、もっと大きくあるべきではないか。
井戸の水をあれほど苦くするなら、匂いも、色も、何か違って見えるべきではないか。
私は紙包みに顔を近づけた。
ベルナールが眉を上げる。
「何をしている」
「匂いを」
粉には、乾いた草と、少しだけ甘い根の匂いがした。
井戸の水を口に含んだ時の、舌の奥に残る金気のような苦みとは違う。
違う気がした。
気がした、だけだった。
気がするものは、公文書に書けない。
私は筆を握り直した。
「ジルに確認する」
ベルナールは言った。
「サラも残れ」
サラの顔から、血の気が引いた。
「私は、患者の薬を」
「残れ」
同じ言葉が返る。
施療院の老人が、布団の中で小さく咳をした。
サラはそちらを見た。
一瞬だけ、薬草売りではなく、ただの人の顔になった。
助けたい者がいる。
けれど助けるための手が、今は自分を疑うために使われている。
「サラさん」
戸口の外から声がした。
ミラだった。
ルカの手を握っている。
ルカは中を覗こうとして、母に引き戻された。
「木馬のおじさん、どこ?」
その問いに、誰も答えなかった。
答えない大人たちの顔を見て、ルカは口を閉じた。
子どもは、言葉より先に沈黙を覚える。
サラはルカを見て、それから私を見た。
何か言いたそうだった。
言えば、また書かれる。
それを彼女も分かってしまったのだと思う。
「施療院の物を荒らさないでください」
結局、サラはそれだけを言った。
ベルナールは答えなかった。
衛兵が紙包みを新しい布に包み直す。
その動きだけは丁寧だった。
人より物のほうが、丁寧に扱われる時がある。
役所へ戻る廊下で、私は調書板を胸に抱えた。
白い粉。
咳止め。
毒物の疑い。
サラの名。
言葉が順に並ぶ。
順に並ぶと、関係があるように見える。
ただ並べただけなのに。
奥の部屋の扉が開いた。
ジルが椅子に座っていた。
腕は縛られていない。
まだ。
それなのに、彼はもう自由には見えなかった。
ベルナールが紙包みを机に置く。
「お前の寝床の下にあった」
ジルは紙包みを見た。
「咳止めの粉です」
声はすぐに出た。
嘘を探す間はなかった。
「サラから受け取ったのか」
「はい。患者のために」
「井戸に入れたのか」
ジルは顔を上げた。
「入れていません」
「なら、なぜ隠した」
「隠していません」
「寝床の下にあった」
「失くさないように置いただけです」
「隠していたのと、どう違う」
ジルは答えられなかった。
答えられない問いだった。
貧しい者のしまい方を、役所の言葉で測れば、たいてい隠したことになる。
私はそれを書かなかった。
書けなかった。
「粉末は、サラより受領」
ベルナールが言う。
私は書く。
「井戸への混入は否認」
私は書く。
「毒物の疑いについて、本人は薬用と弁明」
弁明。
私はその言葉を書いたあとで、指が冷たくなった。
説明、と書けばよかった。
けれどもう、弁明と書いた。
弁明は、疑われた者の言葉だ。
ジルはまだ罪を認めていない。
それでも紙の上で、彼はもう疑われる場所に立っている。
部屋の隅で、サラが息を吸った。
「その粉では、井戸の水はあんな味にはなりません」
私は顔を上げた。
ベルナールも、ゆっくりとサラを見た。
「なぜ言い切れる」
「匂いが違います。苦みも違う。あれは」
サラはそこで言葉を切った。
言い切るには、調べなければならない。
調べるには、時間が要る。
だが町は、時間より答えを欲しがっている。
「あれは?」
ベルナールが促す。
サラは黙った。
黙れば、負ける。
言えば、捕まる。
そういう場所に、彼女は立たされていた。
「不明、か」
ベルナールが言った。
サラは小さく頷いた。
「では、分かっているものから調べる」
分かっているもの。
紙包み。
ジル。
サラ。
名前のあるものは、扱いやすい。
井戸の底や、古い土や、流れてくる何かよりも、ずっと。
その日の調書は、長くなった。
けれど長い調書ほど、抜け落ちたものが見えにくくなる。
私は役所の記録棚へ、古い薬物台帳を取りに行かされた。
棚の奥は暗かった。
蝋燭を近づけると、紙の縁が黄ばんで見えた。
薬草の名。
粉の名。
過去の病。
町で使われたものの記録。
私は目的の台帳を抜き取ろうとした。
その時、隣の筒が転がった。
古い町図だった。
床に落ち、紐がほどける。
紙が半分だけ開いた。
井戸の印が見えた。
その下に、細い黒い線があった。
井戸から、町の外れへ伸びている。
さらにその先。
皮なめし場のほうへ。
私は台帳を持つ手を止めた。
廊下の向こうでは、まだベルナールの声がしている。
「もう一度聞く。粉を、井戸に入れたのか」
ジルの声は聞こえなかった。
私は古い町図の線を見つめた。
黒く、細く、ほとんど消えかけた線。
それは、誰かの名前ではなかった。
だからこそ、まだ誰にも疑われていなかった。




