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告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

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第5話「水桶が落ちる」

ジルは、水を捨てられなかった。


井戸の水が苦いと聞いても、施療院には水が要る。


咳をする者がいる。


熱を出す者がいる。


薬草を煮る鍋がある。


血のついた布を洗う桶がある。


苦いからといって、水を空にすることはできなかった。


だから彼は、井戸から少し離れた場所で立っていた。


片方の桶には、施療院から戻す途中だった洗い水が半分だけ残っていた。


もう片方は空だった。


汲むべきか。


汲まないべきか。


その迷いだけで、彼の肩はさらに低く見えた。


町民はもう列を作っていなかった。


井戸のまわりに、輪を作っていた。


水を求める輪ではない。


何かを見張る輪だった。


私はその輪の外側に立っていた。


役所から戻った衛兵が、二人いた。


一人は調書を持っている。


もう一人は、腰の短剣に手を置いていた。


抜いてはいない。


だが、手を置いているだけで、短剣は言葉になる。


「ジル」


衛兵の一人が呼んだ。


ジルは顔を上げた。


「はい」


返事は静かだった。


静かすぎた。


怒った者は、自分の潔白を叫ぶ。


怖がった者は、言葉を探す。


ジルは、そのどちらでもなかった。


ただ、呼ばれることに慣れているように見えた。


「役所で確認したいことがある」


衛兵はそう言った。


確認。


その言葉は、まだ柔らかかった。


柔らかい布で、腕を縛ることもできる。


「今ですか」


ジルは桶を見た。


「施療院の水を」


「その水の話だ」


衛兵の言葉で、輪の中の空気が少し動いた。


町民の目が桶に集まる。


片方には、濁った水が少しあるだけなのに。


人は、疑いを入れる器を探していた。


「私はまだ汲んでいません」


ジルは言った。


「井戸の水が苦いと聞いたので、どうすればよいか待っていました」


その説明は筋が通っていた。


筋が通りすぎて、誰もすぐには受け取れなかった。


「待っていた?」


町民の一人が言った。


「何を」


「指示を」


「誰の」


ジルは口を閉じた。


施療院に指示をくれる者など、いつもいなかった。


町は施療院に病人を運ぶ。


だが施療院が困った時、町はすぐには見ない。


サラが前へ出ようとした。


「待ってください。施療院には本当に水が」


「サラ」


ミラの声だった。


サラは振り返る。


ミラはルカを抱き寄せていた。


「今は、やめて」


その声には、頼みと恐怖が混じっていた。


サラは唇を噛んだ。


ルカは母の腕の中からジルを見ている。


小さな木馬を抱いて。


「母さん」


「黙って」


「木馬のおじさん、怒られてるの?」


「黙って」


ミラは今度、ルカの口に手を当てた。


乱暴ではない。


むしろ、必死に優しかった。


優しく口をふさぐことも、沈黙を作る。


ジルはそれを見て、ほんの少しだけ目を伏せた。


「私は、水を運んでいるだけです」


彼は言った。


「いつも通りに。施療院の者に持っていくために」


「夜明け前にもか」


衛兵が問う。


ジルは首を横に振った。


「今日は、今が初めてです」


「いつもは」


「病人が多い日は、早く来ます」


「桶を持って」


「はい」


「今朝、夜明け前に井戸の傍らでお前を見たという証言がある」


町民が息をのんだ。


証言。


その言葉は、水より冷たく井戸端へ落ちた。


ジルの手が動いた。


桶の取っ手を握り直しただけだった。


震えてはいなかった。


少なくとも、私はそう見た。


「それは、私ではありません」


「確認は役所で行う」


「ここで話せます」


「役所で行う」


同じ言葉が繰り返されると、それは命令に近くなる。


ジルは周囲を見た。


助けを求める目ではなかった。


ただ、誰かが何かを誤解しているなら、その誤解を解ける場所を探している目だった。


けれど町民たちは、もうそれぞれの顔を固めていた。


あの顔は、私が後に何度も見ることになる。


自分はまだ決めていない、と思いながら、決めた者の顔だ。


「井戸に何か入ったんだ」


誰かが言った。


「夜明け前に誰かがいた」


「桶を持ってなかったって」


「水を汲むふりじゃないなら、何しに来た」


声は一つずつでは弱かった。


重なると、強くなる。


ジルはその声を浴びても、怒鳴らなかった。


それが、また町民を苛立たせた。


「何とか言えよ」


「言っています」


「聞こえない」


「私は、やっていません」


その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


まっすぐな言葉は、曲がった場では折れやすい。


衛兵が一歩近づいた。


「桶を置け」


ジルは桶を見た。


片方だけ水の残った桶。


施療院へ持っていくはずだった桶。


彼はゆっくりと下ろそうとした。


その時、輪の外から誰かが押した。


誰が押したのか、私は見ていない。


押した者も、押すつもりはなかったのかもしれない。


人垣が少し揺れ、ジルの肘に当たった。


桶が石畳に落ちた。


湿った音がした。


半分だけ残っていた水が、石畳の目地へ細く広がった。


町民は一斉に足を引いた。


まるで水ではなく、毒そのものがこぼれたかのように。


もう一つの桶も倒れた。


井戸端に、水の音と空の音が続けて転がった。


ルカが小さく声を上げた。


「木馬みたい」


その言葉は、誰にも届かなかった。


私には届いた。


壊れた木馬の車輪が石の上を転がった音と、桶が倒れる音は、少し似ていた。


だが木馬は直った。


桶は、もうただの桶ではなくなっていた。


「触るな」


誰かが言った。


「何がついているか分からない」


「井戸の水ではありません」


ジルは言った。


「施療院から戻した洗い水です。見れば分かります」


「見えないものだから怖いんだろ」


それは、誰かの本音だった。


見えないもの。


味だけがあるもの。


形のない不安。


町はそれを、ジルの桶に入れた。


衛兵がジルの腕を取った。


強くはなかった。


しかし、離すつもりのない手だった。


「役所へ」


ジルは抵抗しなかった。


抵抗しなかったことも、後に疑いの一つとして語られた。


やましいから黙ったのだ。


諦めが早すぎたのだ。


本当に無実なら叫ぶはずだ。


人は、何をしても理由を作る。


私は記録板を持っていた。


白い板。


まだ清潔な紙。


そこに私は、こう書いた。


施療院の男ジル、役所にて確認のため同行。


同行。


連行ではない。


拘束ではない。


その時の紙は、まだ優しい言葉を選んでいた。


紙だけが。


だが、衛兵が私の板を横から見た。


「違う」


短く言った。


「被疑者として連行、と書け」


私は筆を止めた。


同行という字は、まだ乾いていなかった。


乾いていない字は、消しやすい。


消してしまえば、最初からなかったことにできる。


私は線を引いた。


施療院の男ジル、井戸水混入の件につき被疑者として役所へ連行。


その一文になった瞬間、ジルの背中は町民の前から、罪人の背中へ変えられた。


ジルが歩き出す。


ルカが母の手を振りほどこうとした。


「おじさん」


ミラは抱きしめるように止めた。


「だめ」


「木馬のおじさん」


「だめ」


ジルは一度だけ振り返った。


ルカを見る。


それから、ミラを見る。


ミラは目をそらした。


ジルは責めなかった。


責めないまま、役所の方へ歩いた。


私はその後ろを歩いた。


衛兵の足音。


町民の沈黙。


空の桶が石の上でわずかに揺れる音。


そのすべてが、私の耳に残っている。


役所の奥の部屋に着くと、衛兵は扉を開けた。


廊下の向こうで、別の衛兵が小声で言った。


「施療院の寝床も見ておけ。粉でも瓶でも、残っていれば分かる」


ジルの肩が、ほんの少しだけ動いた。


昨日まで、私はその部屋をただの聴取室だと思っていた。


椅子があり、机があり、紙がある。


人が話し、私が書く場所。


ジルは部屋の前で一度だけ足を止めた。


「施療院には、水を」


最後まで言えなかった。


衛兵が背中を押したからではない。


誰も答えなかったからだ。


答えのない言葉は、途中で落ちる。


ジルは部屋に入った。


扉が閉まる。


重い音ではなかった。


けれどその音は、井戸の底に石を落とした時のように、私の中で長く沈んでいった。

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