第4話「たぶん、という証言」
役所の奥の部屋は、井戸端より静かだった。
静かすぎる場所では、人は自分の声を疑い始める。
アリスは椅子に座っていた。
両手は膝の上。
指先だけが落ち着かず、井戸の縄を探すように動いている。
部屋には、私とベルナール書記官長がいた。
窓は開いていたが、外の声は遠い。
井戸端のざわめきは、石壁を通るうちに言葉を失い、ただの湿った音になっていた。
ベルナールは机の上に紙を置いた。
その動きは丁寧だった。
丁寧すぎて、紙のほうが人より大切に見えた。
「アリス」
彼は穏やかに言った。
「落ち着いて答えなさい。君を責めるために呼んだのではない」
アリスは小さくうなずいた。
責めるためではない。
そう言われた者は、たいてい先に自分を責め始める。
「夜明け前、井戸のそばで影を見たと言ったね」
「……はい」
「何刻ごろだ」
「まだ鐘の前です。空が少し白くなる前で」
私は筆を取った。
鐘の前。
空が白む前。
暗い。
そう書きたかった。
だが調書には、まず時刻が要る。
「夜明け前、鐘の前」
私はそう書いた。
ベルナールは続けた。
「その影は、井戸に近づいていたのか」
アリスは目を伏せた。
「近くに、いました」
「井戸の縁に?」
「縁かどうかは……」
「井戸の傍らにいた」
ベルナールが言った。
確認の声だった。
断定の声ではない。
少なくとも、その時の私はそう聞いた。
「井戸の傍らにいた、でよいね」
アリスは唇を噛んだ。
「……はい」
私は書いた。
井戸の傍らに人影あり。
人影。
まだ、人でしかなかった。
名前はなかった。
「背丈は」
「高かったように思います」
「男か」
「たぶん」
その言葉で、私の筆が止まった。
たぶん。
曖昧な言葉。
けれど、あの部屋で最も正確な言葉だった。
ベルナールは私の筆先を見た。
「書きなさい」
私は書いた。
男と思われる。
たぶん、とは書かなかった。
その違いは小さい。
小さいが、紙の上では深い。
「その男は、町の者か」
アリスは首を振った。
「分かりません。暗くて」
「見慣れた歩き方ではなかった?」
「歩き方……」
「アリス、君は井戸番だ。町の者の足音や桶の持ち方をよく知っている」
それは褒め言葉のようだった。
だが褒め言葉は、時に逃げ道をふさぐ。
アリスは困ったように眉を寄せた。
「桶は、持っていなかったと思います」
「持っていなかった」
ベルナールはそこだけをゆっくり繰り返した。
私は書いた。
桶は所持せず。
水を汲みに来た者なら、桶を持つ。
桶を持たない者が井戸へ来る。
その事実は、まだ罪ではない。
だが疑いの形をしていた。
「顔は見たか」
「いいえ」
アリスの答えは早かった。
今度は早すぎなかった。
本当だったからだ。
「服は」
「暗くて」
「色は」
「灰色、か……茶色、か」
「灰色か茶色」
ベルナールの目が、ほんの少しだけ細くなった。
ロシュフォールには、灰色や茶色の服を着る者が多い。
貧しい町では、色もまた貧しい。
だがその朝、井戸端にいた者たちは、灰色の粗末な上着を一人の男に重ねていた。
私も、重ねていた。
重ねている自分に気づき、喉が乾いた。
「施療院の男、ジルは」
ベルナールはそこで一度、言葉を切った。
切ったことで、かえってその名は部屋に長く残った。
「その時間に水を汲むことがあるのか」
アリスは顔を上げた。
「あります」
「早朝に?」
「病人が多い日は」
「今日も彼は井戸に来ていた」
「……はい」
「灰色の上着を着ていたね」
アリスは黙った。
私は筆を握りしめた。
それは、今日の話だ。
夜明け前の話ではない。
だが、問いは滑らかにつながっていた。
今日、ジルは井戸に来ていた。
ジルは早朝に水を汲むことがある。
影は男と思われる。
影は桶を持っていなかった。
影の服は灰色か茶色だった。
一つ一つは、まだ何も決めていない。
並べると、ひとつの方角を向いた。
「アリス」
ベルナールの声は低かった。
「見たのは施療院の男か」
アリスの喉が動いた。
「顔は、見ていません」
「顔ではなく、君の見たものを聞いている」
「分かりません」
「似ていたか」
その問いは短かった。
逃げ場も短かった。
アリスは膝の上で手を握った。
爪が白くなる。
「……たぶん」
私は、今度こそ筆を止めた。
ベルナールは私を見た。
「マティアス」
名前を呼ばれただけだった。
それだけで、私は書いた。
施療院の男ジルに似た人影。
たぶん、とは書かなかった。
アリスがそれに気づいた。
「今の、たぶん、です」
声は細かった。
「ええ」
ベルナールはうなずいた。
「似ていた、という証言だ」
「でも、顔は」
「顔を見たとは書いていない」
彼は紙を指で軽く叩いた。
「正確だ」
正確。
その言葉は、私の胸に入り、長く残った。
正確とは何か。
書いていない嘘は、嘘ではないのか。
若い私は、まだ答えを持たなかった。
ベルナールは、私が書いた行を指で押さえた。
「調書としては、こう整える」
彼は別紙を引き寄せ、私の前で短く書いた。
夜明け前、井戸の傍らに施療院の男ジルを見たとの証言あり。
私は息を止めた。
「書記官長」
声がかすれた。
「アリスは、顔を見ていません」
「だから、証言あり、と書く」
「ですが」
「調べるための紙だ。裁くための紙ではない」
その言葉は、理屈としては通っていた。
だからこそ、私はそれ以上言えなかった。
アリスは椅子の上で小さくなっていた。
井戸端では強い声を出せる女だった。
桶を抱えた男たちを怒鳴りつけ、喧嘩を笑いに変えられる女だった。
だが役所の奥では、彼女の声は井戸の底に落ちた石のように小さかった。
「アリス」
ベルナールは最後に言った。
「町を守るためには、見た者が見たことを言わねばならない」
アリスは目を閉じた。
「私は、見たことだけを言いました」
「その通りだ」
ベルナールは私へ視線を向けた。
「読み上げなさい」
私は調書を持ち上げた。
紙が軽く震えた。
夜明け前、鐘の前。
井戸の傍らに人影あり。
男と思われる。
桶は所持せず。
灰色または茶色の服。
施療院の男ジルに似た人影。
追記。
井戸の傍らに施療院の男ジルを見たとの証言あり。
読み終えると、部屋はさらに静かになった。
アリスは何も言わなかった。
何も言えなかったのだと思う。
ベルナールは調書を受け取り、余白に短く印を入れた。
「確認を取る」
それは、まだ逮捕ではなかった。
断罪でもなかった。
ただの確認。
そのはずだった。
だが、役所の廊下にいた衛兵が呼ばれ、調書を受け取った時、私ははじめて自分の書いた文字が足音を持つのを聞いた。
紙は歩かない。
けれど、紙を持つ者は歩く。
衛兵は役所を出ていった。
施療院の方角へ。
アリスはその背を見なかった。
私は見ていた。
見ていたのに、止めなかった。




