表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/15

第4話「たぶん、という証言」

役所の奥の部屋は、井戸端より静かだった。


静かすぎる場所では、人は自分の声を疑い始める。


アリスは椅子に座っていた。


両手は膝の上。


指先だけが落ち着かず、井戸の縄を探すように動いている。


部屋には、私とベルナール書記官長がいた。


窓は開いていたが、外の声は遠い。


井戸端のざわめきは、石壁を通るうちに言葉を失い、ただの湿った音になっていた。


ベルナールは机の上に紙を置いた。


その動きは丁寧だった。


丁寧すぎて、紙のほうが人より大切に見えた。


「アリス」


彼は穏やかに言った。


「落ち着いて答えなさい。君を責めるために呼んだのではない」


アリスは小さくうなずいた。


責めるためではない。


そう言われた者は、たいてい先に自分を責め始める。


「夜明け前、井戸のそばで影を見たと言ったね」


「……はい」


「何刻ごろだ」


「まだ鐘の前です。空が少し白くなる前で」


私は筆を取った。


鐘の前。


空が白む前。


暗い。


そう書きたかった。


だが調書には、まず時刻が要る。


「夜明け前、鐘の前」


私はそう書いた。


ベルナールは続けた。


「その影は、井戸に近づいていたのか」


アリスは目を伏せた。


「近くに、いました」


「井戸の縁に?」


「縁かどうかは……」


「井戸の傍らにいた」


ベルナールが言った。


確認の声だった。


断定の声ではない。


少なくとも、その時の私はそう聞いた。


「井戸の傍らにいた、でよいね」


アリスは唇を噛んだ。


「……はい」


私は書いた。


井戸の傍らに人影あり。


人影。


まだ、人でしかなかった。


名前はなかった。


「背丈は」


「高かったように思います」


「男か」


「たぶん」


その言葉で、私の筆が止まった。


たぶん。


曖昧な言葉。


けれど、あの部屋で最も正確な言葉だった。


ベルナールは私の筆先を見た。


「書きなさい」


私は書いた。


男と思われる。


たぶん、とは書かなかった。


その違いは小さい。


小さいが、紙の上では深い。


「その男は、町の者か」


アリスは首を振った。


「分かりません。暗くて」


「見慣れた歩き方ではなかった?」


「歩き方……」


「アリス、君は井戸番だ。町の者の足音や桶の持ち方をよく知っている」


それは褒め言葉のようだった。


だが褒め言葉は、時に逃げ道をふさぐ。


アリスは困ったように眉を寄せた。


「桶は、持っていなかったと思います」


「持っていなかった」


ベルナールはそこだけをゆっくり繰り返した。


私は書いた。


桶は所持せず。


水を汲みに来た者なら、桶を持つ。


桶を持たない者が井戸へ来る。


その事実は、まだ罪ではない。


だが疑いの形をしていた。


「顔は見たか」


「いいえ」


アリスの答えは早かった。


今度は早すぎなかった。


本当だったからだ。


「服は」


「暗くて」


「色は」


「灰色、か……茶色、か」


「灰色か茶色」


ベルナールの目が、ほんの少しだけ細くなった。


ロシュフォールには、灰色や茶色の服を着る者が多い。


貧しい町では、色もまた貧しい。


だがその朝、井戸端にいた者たちは、灰色の粗末な上着を一人の男に重ねていた。


私も、重ねていた。


重ねている自分に気づき、喉が乾いた。


「施療院の男、ジルは」


ベルナールはそこで一度、言葉を切った。


切ったことで、かえってその名は部屋に長く残った。


「その時間に水を汲むことがあるのか」


アリスは顔を上げた。


「あります」


「早朝に?」


「病人が多い日は」


「今日も彼は井戸に来ていた」


「……はい」


「灰色の上着を着ていたね」


アリスは黙った。


私は筆を握りしめた。


それは、今日の話だ。


夜明け前の話ではない。


だが、問いは滑らかにつながっていた。


今日、ジルは井戸に来ていた。


ジルは早朝に水を汲むことがある。


影は男と思われる。


影は桶を持っていなかった。


影の服は灰色か茶色だった。


一つ一つは、まだ何も決めていない。


並べると、ひとつの方角を向いた。


「アリス」


ベルナールの声は低かった。


「見たのは施療院の男か」


アリスの喉が動いた。


「顔は、見ていません」


「顔ではなく、君の見たものを聞いている」


「分かりません」


「似ていたか」


その問いは短かった。


逃げ場も短かった。


アリスは膝の上で手を握った。


爪が白くなる。


「……たぶん」


私は、今度こそ筆を止めた。


ベルナールは私を見た。


「マティアス」


名前を呼ばれただけだった。


それだけで、私は書いた。


施療院の男ジルに似た人影。


たぶん、とは書かなかった。


アリスがそれに気づいた。


「今の、たぶん、です」


声は細かった。


「ええ」


ベルナールはうなずいた。


「似ていた、という証言だ」


「でも、顔は」


「顔を見たとは書いていない」


彼は紙を指で軽く叩いた。


「正確だ」


正確。


その言葉は、私の胸に入り、長く残った。


正確とは何か。


書いていない嘘は、嘘ではないのか。


若い私は、まだ答えを持たなかった。


ベルナールは、私が書いた行を指で押さえた。


「調書としては、こう整える」


彼は別紙を引き寄せ、私の前で短く書いた。


夜明け前、井戸の傍らに施療院の男ジルを見たとの証言あり。


私は息を止めた。


「書記官長」


声がかすれた。


「アリスは、顔を見ていません」


「だから、証言あり、と書く」


「ですが」


「調べるための紙だ。裁くための紙ではない」


その言葉は、理屈としては通っていた。


だからこそ、私はそれ以上言えなかった。


アリスは椅子の上で小さくなっていた。


井戸端では強い声を出せる女だった。


桶を抱えた男たちを怒鳴りつけ、喧嘩を笑いに変えられる女だった。


だが役所の奥では、彼女の声は井戸の底に落ちた石のように小さかった。


「アリス」


ベルナールは最後に言った。


「町を守るためには、見た者が見たことを言わねばならない」


アリスは目を閉じた。


「私は、見たことだけを言いました」


「その通りだ」


ベルナールは私へ視線を向けた。


「読み上げなさい」


私は調書を持ち上げた。


紙が軽く震えた。


夜明け前、鐘の前。


井戸の傍らに人影あり。


男と思われる。


桶は所持せず。


灰色または茶色の服。


施療院の男ジルに似た人影。


追記。


井戸の傍らに施療院の男ジルを見たとの証言あり。


読み終えると、部屋はさらに静かになった。


アリスは何も言わなかった。


何も言えなかったのだと思う。


ベルナールは調書を受け取り、余白に短く印を入れた。


「確認を取る」


それは、まだ逮捕ではなかった。


断罪でもなかった。


ただの確認。


そのはずだった。


だが、役所の廊下にいた衛兵が呼ばれ、調書を受け取った時、私ははじめて自分の書いた文字が足音を持つのを聞いた。


紙は歩かない。


けれど、紙を持つ者は歩く。


衛兵は役所を出ていった。


施療院の方角へ。


アリスはその背を見なかった。


私は見ていた。


見ていたのに、止めなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ