第3話「町は水ではなく人を見る」
水の味は、すぐに町じゅうへ回った。
水そのものより速かった。
井戸端で誰かが「苦い」と言った時、まだそれは味の話だった。
だが二人目が顔をしかめ、三人目が桶の中を覗き、四人目が「子どもに飲ませた」と叫んだ時、苦味はもう味ではなくなっていた。
不安になった。
不安は、いつも形を欲しがる。
「昨日の夜は何ともなかった」
「うちの煮込みは朝一番の水だよ」
「飲んだのか」
「少しだけ」
「吐いたほうがいいのか」
声が重なり、井戸の石縁にぶつかって戻ってくる。
水を飲んだ男が、腹を押さえてしゃがみ込んだ。
別の女は、口元を布で押さえている。
本当に水のせいだったのか。
怖さがそう見せたのか。
誰にも分からなかった。
分からないことが、さらに怖かった。
アリスは縄を握ったまま動けずにいた。
井戸番である彼女が一番落ち着いていなければならない。
誰よりもそう思っている顔だった。
だからこそ、彼女の頬から血の気が引いていることが、町民には余計に怖かった。
「アリス、昨日の水は?」
「変じゃなかったよ」
「本当かい」
「本当だよ」
アリスの返事は早すぎた。
早すぎる返事は、疑いを遠ざけるためのものなのに、時に疑いを呼ぶ。
私は役所から戻ってきたばかりだった。
ベルナール書記官長の指示で、井戸を使った者の名を確認するためである。
手には白い記録板。
腰には予備の紙束。
役所のものを持つと、人は少しだけ偉く見える。
そして、少しだけ遠くなる。
私が井戸端に戻ると、町民の視線が集まった。
「役所は何て?」
「井戸を閉じるのか」
「水はどこから持ってくる」
私は答えられなかった。
「まず、今朝井戸を使った方の名を確認します」
それは正しい手順だった。
正しいだけの、頼りない手順だった。
「名を?」
男の一人が眉を上げる。
「水の味が変なのに、名前を書くのか」
「誰がどの水を持ち帰ったかを確認するためです」
そう言いながら、私自身にもその言葉が薄く聞こえた。
誰がどの水を持ち帰ったか。
誰がどの水に触れたか。
誰が井戸に近づいたか。
似ているようで、少しずつ違う。
その違いは、紙に書くときほど失われやすい。
サラが私の横に来た。
「まず、飲んだ量を聞いてください。体調が悪い人がいたら施療院へ」
「毒かどうかは」
私が小声で問うと、サラは首を横に振った。
「まだ言えません」
「言えない?」
「言わないのではなく、分からないんです。井戸の水だけで決められることではありません」
その答えは、また正しかった。
だが井戸端には、正しさを待つ余裕がなかった。
「分からないってさ」
誰かが呟いた。
「薬草売りでも分からないのか」
「じゃあ、何を飲んだんだ」
「何か入ったんだろ」
それは、初めて出た言葉だった。
何か。
誰かではなく、まだ何か。
私はその言葉を書き留めようとして、手を止めた。
公文書に「何か」とは書けない。
だが、あの日の町では「何か」がいちばん正確だった。
水に何かがあった。
町の空気にも、何かが混じり始めていた。
「井戸に落ちるものなんて限られてる」
皮なめし場の職人見習いが言った。
「葉っぱか、虫か、鼠か」
「鼠なら見えるだろ」
「じゃあ粉か」
「誰が入れるんだよ」
その言葉に、井戸端が一瞬だけ静まった。
誰が。
原因はその瞬間、名を持とうとした。
「夜明け前に来る者は限られてる」
誰かが言った。
「施療院の水汲みは早いだろ」
「町の外れの者は、人目を避ける」
「一人で来る者もいる」
名はまだ出ていない。
だが言葉は、もう一人の形をなぞっていた。
アリスが縄を握る手に力を入れた。
サラは唇を結んだ。
私は記録板を持ち直した。
「まだ誰かが入れたと決まったわけではありません」
若い私にしては、勇気のある言葉だったと思う。
だが勇気は、遅いと弱く聞こえる。
「じゃあ、勝手に苦くなったっていうのか」
「井戸が自分で苦くなったのか」
「昨日の夜、誰か見なかったのか」
声は次々に枝分かれしていく。
私はそれを追うだけで精一杯だった。
名を書き取る。
飲んだ量を書く。
症状を書く。
空欄を残す。
空欄は、後から誰かの都合のいい言葉で埋められる。
そのことを、私はまだ知らなかった。
「ミラ、ルカは?」
サラが声をかけた。
ミラは息子を抱き寄せていた。
ルカは木馬を胸に押し当て、井戸端の大人たちを見ている。
「朝はまだ飲ませてない。昨日の残りを少し」
「咳は」
「ある。でも、いつもの咳」
ミラの声は固かった。
いつもの咳。
いつもの、という言葉にすがっている声だった。
ルカは母の腕の中から、列の端を見た。
「母さん」
「黙って」
「木馬のおじさんも、水を持っていくの?」
その問いは、子どもらしいものだった。
ジルは少し離れた場所にいた。
桶はまだ空のまま。
誰も、彼に順番を譲ろうとはしなかった。
いや、譲らないのではない。
彼の存在を、そこにあるものとして扱いたくなかったのだ。
町の外に置いた者が、町の井戸に並ぶ。
それだけで、人は少し不安になる。
「施療院の人たちの分です」
ジルは小さく言った。
誰に向けた言葉か分からないほど、小さかった。
「病人に飲ませるのか」
誰かが言った。
その声は責めているわけではなかった。
けれど責めていない声が、もっと人を追い詰めることもある。
ジルは桶の取っ手を握ったまま、答えられなかった。
サラが前へ出ようとした。
私はそれを止めなかった。
止める理由がなかった。
だが、その時だった。
「夜明け前」
アリスが言った。
声が、井戸の底から上がってきたようだった。
町民たちが一斉に彼女を見た。
アリスは自分が何を言ったのか、言ってから気づいた顔をした。
「夜明け前に、井戸のそばで……」
言葉が切れる。
私は記録板を見下ろした。
筆先が紙に触れている。
まだ何も書いていない。
何も書いていないのに、もう取り返しがつかない気がした。
「誰かを見たのか」
町民の一人が言った。
アリスは唇を湿らせた。
「影を」
それだけだった。
影。
人ではない。
名前でもない。
それなのに、町はその言葉を人の形にしようとしていた。
ジルはまだ、何もしていなかった。
サラもまだ、何も言っていなかった。
私はまだ、何も書いていなかった。
けれど井戸端の全員が、同じ方向を見ていた。
列の端。
空の桶を二つ持つ男を。




