第2話「小さい町では、声が逃げない」
アリスは、水を吐き出せなかった。
井戸番が、井戸の水を吐き出すわけにはいかない。
それは彼女が十六のころ、母から最初に教えられたことだった。
「井戸番が水を疑ったら、町は朝から喧嘩になるよ」
だからアリスは、苦味を喉の奥へ押し込んだ。
舌の根に、鉄と灰を混ぜたような味が残る。
桶の底には何もなかった。
水は透明だった。
透明なものは、町では強い。
濁っていれば捨てられる。虫が浮いていれば笑って済む。泥が混じれば、雨のせいにできる。
けれど透明な水が苦い時、人は理由を探せない。
理由を探せない者は、顔を探す。
「アリス? どうかしたのかい」
桶を抱えた女が覗き込んだ。
アリスは笑った。
笑ったつもりだった。
「なんでもない。朝一番の水は冷たいから、ちょっと驚いただけ」
「なら早くしておくれ。うちは煮込みをかけないと」
「はいはい。桶は一つずつだよ」
いつもの言葉を返すと、少しだけ胸が楽になった。
いつもの言葉には、いつもの朝を連れてくる力がある。
そのはずだった。
私は井戸から少し離れた場所で、役所へ持っていく帳簿を抱えていた。
若い私には、アリスの笑いが崩れていることまでは分からなかった。
ただ、彼女が桶の底を二度見たことだけは覚えている。
それを記録しなかったことも。
「マティアスさん」
振り返ると、サラがいた。
薬草売りのサラは、深緑の上着を着て、肩から薬包の入った鞄を下げている。
町の者は彼女を便利に頼り、同じ口で少し恐れていた。
薬草を知る者は、毒草も知る。
それだけの理由で。
「頼んでいた写し、できていますか」
「ええ。施療院の受け取り分です。後で届けます」
「助かります。ルカの咳がまた悪くなっているので」
サラはそう言って、井戸の列を見た。
「今朝は人が多いですね」
「晴れが続きましたから」
「水が少し重い匂いをしています」
私は顔を上げた。
「匂い?」
「気のせいかもしれません。革をなめす灰汁の匂いが混じる日がありますから」
彼女は声を低くした。
「オーレンの工房、昨日遅くまで流していました」
井戸の向こう、坂の下に皮なめし場があった。
獣皮を洗い、灰汁に漬け、干す場所だ。
ロシュフォールの財布の一つ。
誰も好きではない臭いを出し、誰もなくなっては困ると言う仕事である。
風が変わると、その臭いは井戸のあたりまで上がってきた。
湿った獣皮。
灰。
古い水路の底をさらったような、黒いにおい。
「役所に言ったほうがいいでしょうか」
私がそう言うと、サラは少し困った顔をした。
「まだ、言い方を選んだほうがいいです」
「なぜ」
「確かでないことを、町は確かな敵に変えたがります」
その言葉を、私は聞いた。
聞いたのに、まだ意味を知らなかった。
サラは小さな薬包を一つ取り出し、井戸端にいたミラへ渡した。
「湯に溶かして、半分だけ。ルカには濃すぎると眠れなくなります」
ミラは薬包を受け取ったが、礼の声は小さかった。
「……ありがとう」
「咳は昨夜も?」
「少し。朝方に」
ミラはそう答えながら、井戸の列の奥を見た。
ジルが来ていた。
空の水桶を二つ持っている。
施療院の者たちの水を汲むためだった。
彼は列の最後に並んだ。
誰かが話をやめた。
その沈黙は、鐘よりはっきり聞こえた。
ジルは何も言わない。
慣れているのだろう。
肩を少し落とし、桶の取っ手を両手で持ったまま、石畳の継ぎ目を見ていた。
ルカが母の袖を引いた。
「母さん、木馬のおじさん」
ミラは息子の肩を抱き寄せた。
「見ないの」
「どうして?」
「いいから」
ルカは黙った。
けれど、木馬を抱く腕に力を入れた。
私はジルを見た。
前の日、木馬を直した男。
同じ手で、今は水桶を握っている。
あの手は、まだ何の罪にも触れていなかった。
少なくとも、私はそう思っていた。
「おい、早くしろよ」
列の前で男が言った。
「仕事に遅れる」
アリスが言い返した。
「順番、順番! 水を汲む前に喧嘩を汲むんじゃないよ」
笑いが起きた。
しかし、すぐ消えた。
女の一人が、汲んだばかりの水に口をつけたからだ。
彼女は眉をひそめた。
「……アリス」
井戸端の声が一段低くなった。
「これ、変な味がしないかい」
アリスの手が止まった。
桶から落ちた水が、石の上に細く流れた。
誰かが柄杓を取り、口に含んだ。
「苦い」
その一言は、小さかった。
小さかったが、町には十分だった。
列がざわめく。
「うちの桶もか?」
「昨日の残りは何ともなかったぞ」
「子どもに飲ませたのに」
ミラの顔から色が引いた。
薬包を握る手が震えている。
サラが一歩前へ出た。
「待ってください。まず、今日の水は煮沸を。飲んだ量が少ないなら、慌てて吐かせないで」
サラはすぐには答えなかった。
彼女はアリスの桶をのぞき、水の匂いをかぎ、指先に一滴だけ取った。
「まだ断定できません」
その答えは、正しかった。
正しすぎた。
「分からないってことか」
「じゃあ、どうすればいい」
サラの顔がこわばる。
私はその時、何か言うべきだったのかもしれない。
これは調査が必要だ。
原因を確かめるべきだ。
井戸を一時閉じ、別の水場から運ぶべきだ。
言葉はいくつも浮かんだ。
だが私は、役所へ走ることを選んだ。
正しい手続きを呼ぶために。
それが最善だと信じて。
役所の扉を開けると、ベルナール書記官長はすでに顔を上げていた。
町のざわめきは、石壁を越えて届いていたのだ。
彼は暗いえんじ色の上着を着て、机の上の紙を整えていた。
「井戸か」
私は息を整えた。
「水に苦味があるようです。サラは、まだ原因は分からないと」
「サラが?」
その一言に、わずかな重みがあった。
「はい」
「誰が最初に気づいた」
「井戸番のアリスです」
「井戸を使った者は」
私は答えようとして、口を閉じた。
町の誰もが来ていた。
水は誰にでも必要だからだ。
それなのに、私の頭には一人の姿が浮かんでいた。
列の最後で、桶を二つ持っていた男。
沈黙を連れてくる男。
ジル。
ベルナールは、私の沈黙を見た。
「マティアス」
声は穏やかだった。
「騒ぎの時ほど、順に書きなさい。最初に気づいた者。井戸を使った者。水を持ち帰った者」
私はうなずいた。
うなずいてしまった。
その日、公文書の最初の欄にはこう書かれた。
井戸水に異味あり。
原因不明。
使用者を確認すること。
当時の私は、その三行がどれほど危うい橋だったのか知らなかった。
原因不明。
その下に名を書く時、紙はまだ誰も責めていない。
だが、町の目は違う。
そして小さい町では、一度見られた者の名は、もう遠くへ逃げられない。




