第1話「水は、最初から苦かった」
公文書には、嘘を書いてはならない。
私はそう教わった。
けれど、嘘でない言葉だけを選んで、人を殺すことはできる。
老いた指で紐をほどくと、革表紙の帳面が乾いた音を立てた。五十年近く開かなかった私の日記である。
机の右には、町役所の公文書。
左には、私が隠していた私文書。
どちらも同じ事件を記している。
ロシュフォール井戸毒入れ事件。
公文書には、こうある。
施療院の男ジル、井戸に毒物を投じ、町民を害した罪により処刑。
処刑後、町は平穏を取り戻した。
文字は整っていた。
若い私の字だ。
まっすぐで、読みやすく、余白も乱れていない。
その整い方が、今では吐き気を誘う。
私は左の帳面を開いた。
最初の頁には、震えた字で一文だけが書かれている。
水は、最初から苦かった。
それが、私が公の紙に書けなかった最初の真実だった。
あの日、ジルはまだ罪人ではなかった。
町の者は彼を避けていたが、罪人とは呼んでいなかった。
少なくとも、まだ。
ロシュフォールの朝は、いつも石の色をしていた。
丘の斜面にしがみつくような小さな町で、屋根は低く、路地は細い。井戸のそばで誰かが咳をすれば、夕方には施療院までその咳の音色が伝わる。
誰かが笑えば、誰と笑ったかまで知られる。
誰かが黙れば、その沈黙にも名前がつく。
私はそのころ、町役所に入って三年目の書記だった。
文字が人を救うと、本気で信じていた。
「人は忘れる。怒ればなおさらだ。だから紙が要る」
司祭は、私にそう言った。
「紙に残せば、神の前で言葉は逃げられない」
私はその教えを疑わなかった。
紙に残るものが正しければ、人は正しく裁かれる。記録があれば、弱い者も守られる。
若い私は、そう信じていた。
その朝、私は施療院の庭を通った。
役所へ行くには遠回りだったが、薬草売りのサラに頼まれた帳簿の写しを届ける用があった。
施療院の庭は、いつも湿っていた。洗った布が低い紐に干され、薬草を煮る苦い匂いが壁に染みついている。
そこで、子どもが泣きそうな顔をしていた。
ルカという名の男の子だった。
七つか八つ。細い首に青灰色の布を巻き、小さな木馬を両手で抱えている。木馬の片方の車輪が外れていた。
「車輪、取れちゃった……父さんなら直せたのに」
父親は、もういなかった。
私はその事実を知っていたが、声をかけられなかった。
先に動いたのは、ジルだった。
彼は施療院の壁際に座っていた。粗末な灰色の上着を着て、肩を少し落としている。背は高いが、いつも自分の影を小さくしようとしている男だった。
「見せてごらん」
ジルは近づきすぎなかった。
低くしゃがみ、ルカが逃げられる距離を残して、手を差し出した。
「折れてはいない。外れただけだ」
ルカは木馬を渡そうとした。
その瞬間、施療院の戸口からミラが飛び出してきた。
ルカの母親である。
「ルカ、そこから動かないで」
声は鋭かった。
けれど、彼女は悪い母ではなかった。
子を守る者は、恐怖を正しさと間違えやすい。
ミラはショールを握りしめ、ジルを見た。
「お願いだから」
ジルは手を止めた。
その顔には、怒りではなく、慣れた痛みがあった。
「大丈夫です。返したら、すぐ離れます」
彼は木馬を受け取ると、懐から小さな木工ナイフと布切れを出した。
荒れた指だった。
爪の間には薬草の土が残り、関節は骨ばっている。だが動きは丁寧だった。
車輪の軸を確かめ、布で木屑を払い、細い楔を削って差し込む。
私はその手元を見ていた。
記録する者の癖で、手を見ていた。
乱暴な手ではなかった。
何かを奪う手でも、隠す手でもない。
壊れたものを、壊れた以上には傷つけないように触れる手だった。
「……直った!」
ルカの顔が明るくなった。
「本当に走る!」
木馬は石畳の上を小さく転がった。
からから、と乾いた音がした。
それは、あの町で聞いた最後の軽い音だったかもしれない。
ジルは少しだけ笑った。
「石の上で強く押すなよ。木馬にも足があるんだ」
「ありがとう、おじさん!」
ルカは笑ったまま言った。
ミラはすぐに息子の肩を引いた。
「ルカ、礼を言ったなら戻りなさい」
「でも」
「戻りなさい」
二度目の声は震えていた。
ルカは木馬を抱え、母の後ろに隠れるように下がった。
ジルは立たなかった。
しゃがんだまま、ミラに頭を下げた。
「いいんです。子どもの笑った顔を見られただけで」
ミラは何も答えなかった。
ただ、息子を抱く腕に力を込めた。
私は、その場面を公文書に残さなかった。
木馬のことも。
ジルが距離を取ってしゃがんだことも。
ミラが悪人ではなく、ただ怖がっていたことも。
ルカが笑ったことも。
当時の私は、それらを事件ではないと思った。
書く必要がないと思った。
紙は大切なことを書くものだと信じていたくせに、何が大切なのかを何も分かっていなかった。
施療院を出ると、町の井戸にはもう人が集まっていた。
井戸番のアリスが、桶を一つずつ引き上げている。
赤茶の三つ編みを揺らし、彼女はいつもの調子で町民をさばいていた。
「桶は一つずつ! 急かすと井戸より先に口喧嘩が湧くよ」
笑いが起きた。
誰かが文句を言い、誰かがそれをからかう。
小さい町の朝だった。
何もかもが、いつもと同じに見えた。
皮なめし場のほうから、湿った獣皮と灰の混じった臭いが流れてきた。
私は顔をしかめたが、誰も気にしなかった。
ロシュフォールでは、あの臭いも朝の一部だった。
アリスが桶を引き上げた。
水面が朝の光を受けて揺れる。
彼女は柄杓で少しすくい、口に含んだ。
次の瞬間、眉が寄った。
「……何、この味」
その声は小さかった。
だが、小さい町では、誰の声も遠くへ逃げない。
私は振り返った。
アリスは桶の底を見ていた。
井戸の水は、透明だった。
透明なまま、何かが変わっていた。
後に町は、その日を「毒が入れられた日」と呼ぶ。
けれど、私の日記には違う言葉で残っている。
水は、最初から苦かった。
そして町は、水ではなく、人を見ることを選んだ。




