第10話「子どもは見ていた」
「今の、おじさんの声?」
ルカは、母の手を握ったまま聞いた。
役所の外廊下は、昼なのに薄暗かった。
壁が厚く、窓が小さい。
大人たちの足音だけが、よく響く。
ルカはその足音の下に、別の音を聞いた気がした。
下から来た音。
床の石の下から、ほんの少しだけ上がってきた声。
木馬のおじさんの声に似ていた。
そう思った。
だから聞いた。
「母さん。今の」
「聞こえなかったわ」
ミラは早かった。
早すぎた。
聞いてから答えたのではなく、聞く前から答えを決めていたみたいだった。
「でも」
「聞こえなかった」
ミラはルカの手を強く握った。
痛いほどではない。
けれど、離れられない強さだった。
「役所では静かにするの」
ルカは口を閉じた。
静かにする。
それは大人がよく言う言葉だった。
井戸端でも。
施療院でも。
木馬のおじさんが連れて行かれた時も。
静かにしなさい。
黙っていなさい。
見ないふりをしなさい。
ルカはそこまで言葉にできなかった。
ただ、大人が静かにしろと言う時は、だいたい何か怖いものが近くにあるのだと覚え始めていた。
「おじさん、泣いたの?」
「泣いてない」
「じゃあ、怒ったの?」
「怒ってない」
「じゃあ、何の声?」
ミラは答えなかった。
答えないまま、ルカの肩を抱き寄せた。
その抱き方は優しかった。
優しいのに、逃げ道をふさぐ抱き方だった。
役所の戸が開いた。
中から衛兵が一人出てきた。
ルカは思わず首を伸ばした。
その向こうに、地下へ続く板戸が見えた。
すぐ閉じた。
小さな隙間から、冷たい匂いだけが出てきた。
ルカは木馬を持っていなかった。
今日は家に置いてきた。
母が、役所に持って行ってはいけないと言ったからだ。
けれど指は、何かを握る形をしていた。
壊れた車輪を押さえていた時と同じ形だった。
「帰るわよ」
ミラが言った。
「おじさんは?」
「帰るの」
ルカはもう一度、床を見た。
石の下に、誰かがいる。
それは子どもにも分かった。
でも大人が誰も見ないなら、そこには誰もいないことになるらしかった。
そのころ、井戸の前ではアリスが立ち尽くしていた。
彼女は桶を持っていなかった。
井戸番なのに、水を配っていなかった。
縄は巻かれたまま。
滑車は止まったまま。
町の者たちは、井戸の水を見ていた。
飲むためではない。
誰かが近づくのを見張るためだった。
アリスは自分の両手を見ていた。
この手で水を汲んできた。
この手で縄を引いてきた。
この手で、夜明け前の影の話をした。
たぶん、と言った。
顔は見ていない、と言った。
暗かった、と言った。
そう言ったはずだった。
けれど町ではもう、別の言葉になっている。
井戸のそばで、ジルを見た。
そう言ったことになっている。
「アリス」
誰かが呼んだ。
彼女は顔を上げた。
パン屋の妻だった。
片手で腹を押さえている。
本当に痛いのか、不安でそうしているのか、もう分からなかった。
「役所で吐いたんだって」
「誰が」
「施療院の男よ」
「何を」
「決まってるじゃない」
パン屋の妻は、声を潜めた。
潜めた声ほど、周りはよく聞く。
「自分がやったって」
アリスの喉が固まった。
「そんな」
「それに、薬草売りの女の名前も出たって」
「サラさんの?」
「ほら、やっぱり薬だの粉だの言ってたじゃない」
「でも、あの人は」
アリスは言いかけた。
でも、あの人は井戸端で止めようとしていた。
でも、あの人は毒とは断定できないと言っていた。
でも、あの人はいつも子どもの咳を見ていた。
いくつも言葉はあった。
けれど、どれも弱かった。
なぜなら、町はもう強い言葉を欲しがっていたからだ。
やっぱり。
その一言は強い。
人は、やっぱりと言えた時、自分が前から正しかったような気になれる。
「やっぱり施療院の男だったんだ」
井戸端の誰かが言った。
「薬草売りも噛んでるなら、話が合う」
「あの粉だろ」
「薬にも毒にもなるって、自分で言ったんだって」
「怖いねえ。薬を売る顔で」
アリスは首を振った。
「違う。そういう意味じゃ」
「何が違うの」
問い返されて、アリスは黙った。
何が違うのか。
彼女は知っている。
知っているはずだ。
けれど、それを町に通じる言葉へ直すことができなかった。
自分の「たぶん」が硬い証言へ変わった時のように、サラの説明も硬い噂へ変わっている。
同じことが起きている。
それが分かったからこそ、アリスは怖くなった。
自分の口が、また誰かを押すかもしれない。
井戸の水面は暗かった。
そこに映る自分の顔も暗かった。
「私は」
アリスは小さく言った。
誰にも届かなかった。
「私は、顔までは見てない」
その言葉は、井戸の石に落ちた。
水までは届かなかった。
町の声は、すでに別の場所へ流れていた。
サラの店だった。
薬草の束が軒に吊るしてある、小さな店。
乾いた葉の匂い。
煮出した根の苦み。
細かく砕いた種の甘い匂い。
昨日まで、それは町の匂いの一つだった。
今日は違った。
人々はその匂いを、疑うために嗅いでいた。
「閉まってる」
誰かが言った。
サラの店の扉は閉まっていた。
内側から閂が下ろされている。
窓の布も引かれている。
「逃げたんじゃないか」
「中にいるよ。さっき戻ったのを見た」
「役所に呼ばれたんだろ」
「だからだ。戻って隠れた」
言葉は扉の前で増えていく。
一人が言う。
別の一人が足す。
さらに別の一人が、前から知っていたような顔をする。
噂は、誰のものでもなくなると一番強い。
店の内側で、サラは扉に背をつけていた。
彼女は怒っていた。
怖がってもいた。
その二つは、体の中で同じ場所を使うらしかった。
胸が熱い。
指先が冷たい。
息が浅い。
怒鳴りたい。
泣きたい。
扉を開けて、一人ずつ間違いを正したい。
けれど扉の外には、一人ずつではなく、町がいた。
町を相手に説明する言葉を、サラはまだ持っていなかった。
「薬にも毒にもなる」
誰かが外で言った。
「そう言ったんだろ」
サラは目を閉じた。
言った。
たしかに言った。
薬は量と使い方で変わる。
それは本当だ。
本当だからこそ、削られると危ない。
本当の一部は、嘘よりも人を傷つけることがある。
サラは棚を見た。
咳止めの瓶。
腹痛用の葉。
熱冷ましの根。
小さな秤。
乳鉢。
どれも、誰かを楽にするためのものだった。
だが扉の外では、それら全部が別の名前で呼ばれ始めている。
毒。
毒売り。
毒を混ぜた女。
まだ誰も大声では言っていない。
言っていないだけだった。
サラは机の端を握った。
爪が木に当たる。
ジルの顔が浮かんだ。
地下へ連れて行かれる前に、一度だけこちらを見た顔。
責めなかった顔。
何かを頼んだ顔でもなかった。
ただ、誰かが間違いを止めてくれるならいい、とでもいうような顔だった。
「ジル」
サラは声に出さずに呼んだ。
その名前を外へ出せば、また誰かに使われる気がした。
扉の外で、足音が増えた。
誰かが戸板を指で叩いた。
一度。
二度。
まだ、叩くというより確かめる音だった。
「サラ」
男の声がした。
「いるんだろ」
サラは答えなかった。
答えれば、言葉を取られる。
答えなければ、隠れていると言われる。
どちらにしても同じ場所へ行く。
「出てきて説明しろ」
別の声。
「説明なら役所でしたんだろ」
「じゃあ、何で戻って閉じこもってる」
「やましいからだ」
やましい。
その言葉は、扉の隙間から入ってくる煙のようだった。
サラは口元を押さえた。
怒りを吐き出さないために。
恐怖を漏らさないために。
同じころ、役所の廊下でミラはルカを抱いていた。
ルカは眠っていなかった。
目を開けたまま、母の肩越しに床を見ている。
「母さん」
「なに」
「おじさん、悪い人なの」
ミラの腕に力が入った。
答えられない問いだった。
けれど子どもは、答えられない問いほどまっすぐ聞く。
「大人が調べてるの」
ミラは言った。
「調べたら分かるの」
「そうよ」
「じゃあ、どうしてみんな先に怒ってるの」
ミラは黙った。
ルカはそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、母が困ったことは分かった。
子どもは、大人が嘘をついた瞬間を全部は理解しない。
けれど、大人が答えから逃げた瞬間は覚える。
役所の床の下で、また何かが鳴った。
今度は声ではなかった。
木が軋むような、短い音。
ミラはルカの耳をふさいだ。
遅かった。
ルカは聞いていた。
聞いたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、ミラを一番怖がらせた。
外では、サラの店の前の声が大きくなっていた。
井戸端で「やっぱり」と言った者たちが、少しずつそこへ流れてくる。
アリスも、気づけば足を向けていた。
止めるためだったのか。
謝るためだったのか。
自分でも分からなかった。
ただ、井戸の前に立っていることができなかった。
サラの店の前に着いた時、誰かがもう扉を拳で叩いていた。
今度は確かめる音ではない。
開けさせる音だった。
「出てこい」
男が言った。
「薬草売り」
別の声が重なった。
「毒売り」
その言葉が出た瞬間、周りが少し静かになった。
誰もが、その言葉を待っていたのだと分かった。
言ってしまえば、次からは言いやすい。
「出てこい、毒売り」
今度は複数の声だった。
サラは扉の内側で、目を開けた。
怒りも恐怖も、同じ場所で固まっていた。
彼女は閂に手をかけた。
開けるためではない。
押さえるためだった。
外で、拳がもう一度扉を叩いた。
木が震えた。
店の中の薬瓶が、小さく鳴った。




