表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第1章 毒を入れた者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/16

第10話「子どもは見ていた」

「今の、おじさんの声?」


ルカは、母の手を握ったまま聞いた。


役所の外廊下は、昼なのに薄暗かった。


壁が厚く、窓が小さい。


大人たちの足音だけが、よく響く。


ルカはその足音の下に、別の音を聞いた気がした。


下から来た音。


床の石の下から、ほんの少しだけ上がってきた声。


木馬のおじさんの声に似ていた。


そう思った。


だから聞いた。


「母さん。今の」


「聞こえなかったわ」


ミラは早かった。


早すぎた。


聞いてから答えたのではなく、聞く前から答えを決めていたみたいだった。


「でも」


「聞こえなかった」


ミラはルカの手を強く握った。


痛いほどではない。


けれど、離れられない強さだった。


「役所では静かにするの」


ルカは口を閉じた。


静かにする。


それは大人がよく言う言葉だった。


井戸端でも。


施療院でも。


木馬のおじさんが連れて行かれた時も。


静かにしなさい。


黙っていなさい。


見ないふりをしなさい。


ルカはそこまで言葉にできなかった。


ただ、大人が静かにしろと言う時は、だいたい何か怖いものが近くにあるのだと覚え始めていた。


「おじさん、泣いたの?」


「泣いてない」


「じゃあ、怒ったの?」


「怒ってない」


「じゃあ、何の声?」


ミラは答えなかった。


答えないまま、ルカの肩を抱き寄せた。


その抱き方は優しかった。


優しいのに、逃げ道をふさぐ抱き方だった。


役所の戸が開いた。


中から衛兵が一人出てきた。


ルカは思わず首を伸ばした。


その向こうに、地下へ続く板戸が見えた。


すぐ閉じた。


小さな隙間から、冷たい匂いだけが出てきた。


ルカは木馬を持っていなかった。


今日は家に置いてきた。


母が、役所に持って行ってはいけないと言ったからだ。


けれど指は、何かを握る形をしていた。


壊れた車輪を押さえていた時と同じ形だった。


「帰るわよ」


ミラが言った。


「おじさんは?」


「帰るの」


ルカはもう一度、床を見た。


石の下に、誰かがいる。


それは子どもにも分かった。


でも大人が誰も見ないなら、そこには誰もいないことになるらしかった。


そのころ、井戸の前ではアリスが立ち尽くしていた。


彼女は桶を持っていなかった。


井戸番なのに、水を配っていなかった。


縄は巻かれたまま。


滑車は止まったまま。


町の者たちは、井戸の水を見ていた。


飲むためではない。


誰かが近づくのを見張るためだった。


アリスは自分の両手を見ていた。


この手で水を汲んできた。


この手で縄を引いてきた。


この手で、夜明け前の影の話をした。


たぶん、と言った。


顔は見ていない、と言った。


暗かった、と言った。


そう言ったはずだった。


けれど町ではもう、別の言葉になっている。


井戸のそばで、ジルを見た。


そう言ったことになっている。


「アリス」


誰かが呼んだ。


彼女は顔を上げた。


パン屋の妻だった。


片手で腹を押さえている。


本当に痛いのか、不安でそうしているのか、もう分からなかった。


「役所で吐いたんだって」


「誰が」


「施療院の男よ」


「何を」


「決まってるじゃない」


パン屋の妻は、声を潜めた。


潜めた声ほど、周りはよく聞く。


「自分がやったって」


アリスの喉が固まった。


「そんな」


「それに、薬草売りの女の名前も出たって」


「サラさんの?」


「ほら、やっぱり薬だの粉だの言ってたじゃない」


「でも、あの人は」


アリスは言いかけた。


でも、あの人は井戸端で止めようとしていた。


でも、あの人は毒とは断定できないと言っていた。


でも、あの人はいつも子どもの咳を見ていた。


いくつも言葉はあった。


けれど、どれも弱かった。


なぜなら、町はもう強い言葉を欲しがっていたからだ。


やっぱり。


その一言は強い。


人は、やっぱりと言えた時、自分が前から正しかったような気になれる。


「やっぱり施療院の男だったんだ」


井戸端の誰かが言った。


「薬草売りも噛んでるなら、話が合う」


「あの粉だろ」


「薬にも毒にもなるって、自分で言ったんだって」


「怖いねえ。薬を売る顔で」


アリスは首を振った。


「違う。そういう意味じゃ」


「何が違うの」


問い返されて、アリスは黙った。


何が違うのか。


彼女は知っている。


知っているはずだ。


けれど、それを町に通じる言葉へ直すことができなかった。


自分の「たぶん」が硬い証言へ変わった時のように、サラの説明も硬い噂へ変わっている。


同じことが起きている。


それが分かったからこそ、アリスは怖くなった。


自分の口が、また誰かを押すかもしれない。


井戸の水面は暗かった。


そこに映る自分の顔も暗かった。


「私は」


アリスは小さく言った。


誰にも届かなかった。


「私は、顔までは見てない」


その言葉は、井戸の石に落ちた。


水までは届かなかった。


町の声は、すでに別の場所へ流れていた。


サラの店だった。


薬草の束が軒に吊るしてある、小さな店。


乾いた葉の匂い。


煮出した根の苦み。


細かく砕いた種の甘い匂い。


昨日まで、それは町の匂いの一つだった。


今日は違った。


人々はその匂いを、疑うために嗅いでいた。


「閉まってる」


誰かが言った。


サラの店の扉は閉まっていた。


内側から閂が下ろされている。


窓の布も引かれている。


「逃げたんじゃないか」


「中にいるよ。さっき戻ったのを見た」


「役所に呼ばれたんだろ」


「だからだ。戻って隠れた」


言葉は扉の前で増えていく。


一人が言う。


別の一人が足す。


さらに別の一人が、前から知っていたような顔をする。


噂は、誰のものでもなくなると一番強い。


店の内側で、サラは扉に背をつけていた。


彼女は怒っていた。


怖がってもいた。


その二つは、体の中で同じ場所を使うらしかった。


胸が熱い。


指先が冷たい。


息が浅い。


怒鳴りたい。


泣きたい。


扉を開けて、一人ずつ間違いを正したい。


けれど扉の外には、一人ずつではなく、町がいた。


町を相手に説明する言葉を、サラはまだ持っていなかった。


「薬にも毒にもなる」


誰かが外で言った。


「そう言ったんだろ」


サラは目を閉じた。


言った。


たしかに言った。


薬は量と使い方で変わる。


それは本当だ。


本当だからこそ、削られると危ない。


本当の一部は、嘘よりも人を傷つけることがある。


サラは棚を見た。


咳止めの瓶。


腹痛用の葉。


熱冷ましの根。


小さな秤。


乳鉢。


どれも、誰かを楽にするためのものだった。


だが扉の外では、それら全部が別の名前で呼ばれ始めている。


毒。


毒売り。


毒を混ぜた女。


まだ誰も大声では言っていない。


言っていないだけだった。


サラは机の端を握った。


爪が木に当たる。


ジルの顔が浮かんだ。


地下へ連れて行かれる前に、一度だけこちらを見た顔。


責めなかった顔。


何かを頼んだ顔でもなかった。


ただ、誰かが間違いを止めてくれるならいい、とでもいうような顔だった。


「ジル」


サラは声に出さずに呼んだ。


その名前を外へ出せば、また誰かに使われる気がした。


扉の外で、足音が増えた。


誰かが戸板を指で叩いた。


一度。


二度。


まだ、叩くというより確かめる音だった。


「サラ」


男の声がした。


「いるんだろ」


サラは答えなかった。


答えれば、言葉を取られる。


答えなければ、隠れていると言われる。


どちらにしても同じ場所へ行く。


「出てきて説明しろ」


別の声。


「説明なら役所でしたんだろ」


「じゃあ、何で戻って閉じこもってる」


「やましいからだ」


やましい。


その言葉は、扉の隙間から入ってくる煙のようだった。


サラは口元を押さえた。


怒りを吐き出さないために。


恐怖を漏らさないために。


同じころ、役所の廊下でミラはルカを抱いていた。


ルカは眠っていなかった。


目を開けたまま、母の肩越しに床を見ている。


「母さん」


「なに」


「おじさん、悪い人なの」


ミラの腕に力が入った。


答えられない問いだった。


けれど子どもは、答えられない問いほどまっすぐ聞く。


「大人が調べてるの」


ミラは言った。


「調べたら分かるの」


「そうよ」


「じゃあ、どうしてみんな先に怒ってるの」


ミラは黙った。


ルカはそれ以上聞かなかった。


聞かなくても、母が困ったことは分かった。


子どもは、大人が嘘をついた瞬間を全部は理解しない。


けれど、大人が答えから逃げた瞬間は覚える。


役所の床の下で、また何かが鳴った。


今度は声ではなかった。


木が軋むような、短い音。


ミラはルカの耳をふさいだ。


遅かった。


ルカは聞いていた。


聞いたまま、何も言わなかった。


その沈黙が、ミラを一番怖がらせた。


外では、サラの店の前の声が大きくなっていた。


井戸端で「やっぱり」と言った者たちが、少しずつそこへ流れてくる。


アリスも、気づけば足を向けていた。


止めるためだったのか。


謝るためだったのか。


自分でも分からなかった。


ただ、井戸の前に立っていることができなかった。


サラの店の前に着いた時、誰かがもう扉を拳で叩いていた。


今度は確かめる音ではない。


開けさせる音だった。


「出てこい」


男が言った。


「薬草売り」


別の声が重なった。


「毒売り」


その言葉が出た瞬間、周りが少し静かになった。


誰もが、その言葉を待っていたのだと分かった。


言ってしまえば、次からは言いやすい。


「出てこい、毒売り」


今度は複数の声だった。


サラは扉の内側で、目を開けた。


怒りも恐怖も、同じ場所で固まっていた。


彼女は閂に手をかけた。


開けるためではない。


押さえるためだった。


外で、拳がもう一度扉を叩いた。


木が震えた。


店の中の薬瓶が、小さく鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ