表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第2章 異端の町

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/27

第13話 生きなさい

「生きなさい」


マレーヌの声は、強くなかった。


それなのに、木戸の内側まで届いた。


リアは戸を叩いた。


拳ではない。


指先だった。


大きな音は立てない。


けれど、止まりもしない。


その間で、指だけが木を叩いていた。


「開けて」


声は外へ出なかった。


喉の奥で割れて、戻った。


私は木戸の前にいた。


開けられた。


鍵はかかっていない。


押せば開く。


それを知っているから、手が動かなかった。


開ければリアは走る。


走れば、見つかる。


見つかれば、母の声が守ろうとしたものが失われる。


そう分かっているのに、閉めている自分が許せなかった。


「マティアス」


木戸の隙間から、リアの声がした。


「いるんでしょう」


私は答えなかった。


答えれば、そこにいると認めることになる。


認めれば、彼女は私に開けろと言える。


私は開けられない。


だから、黙った。


この沈黙は逃げだった。


分かっていた。


広場の方で、兵の声が重なった。


命令。


足音。


誰かが押し戻される音。


マレーヌの声は、もう近くなかった。


それでも届いた。


「リア」


木戸の内側で、息を呑む音がした。


「返事をしないで」


母は言った。


「声を出せば、あなたの場所が分かります」


リアが戸を叩く指を止めた。


止めただけだった。


泣き声はしなかった。


音を殺しているように思えた。


「よく聞いて」


マレーヌの声は、穏やかだった。


穏やかであることが、ひどかった。


こんな時に穏やかでいられる人などいない。


だからきっと、穏やかでいるしかなかったのだ。


「あなたは、私を探しに来てはいけません」


木戸の中で、布が擦れた。


リアが身じろぎしたのだと思った。


見えない。


ただ、拒んでいる気配だけが戸板越しに伝わった。


「あなたは怒るでしょう」


マレーヌは言った。


「怒っていい」


兵の一人が、広場の方で何かを叫んだ。


火の明かりが強くなる。


記録庫の屋根が崩れた音がした。


町民が一斉にそちらを見る。


その瞬間だけ、マレーヌの周りの人垣が薄くなった。


私は彼女の姿を見た。


遠い。


煙の向こう。


兵の肩越し。


白い印のついた扉と、黒く汚れた石畳の間。


マレーヌは立っていた。


両手を前で合わせている。


祈っている形ではない。


自分の手を、自分で押さえている形だった。


彼女の横には司祭がいた。


司祭は何かを言おうとしていた。


だが兵に遮られた。


司祭の口は開いたまま、言葉だけが通らない。


「リア」


マレーヌは続けた。


「あなたは、私のことを忘れなくていい」


木戸の内側で、リアが息を殺した。


「でも、私のために死なないで」


その言葉のあと、町の音が戻った。


人が押される。


水桶が倒れる。


誰かが「早くしろ」と叫ぶ。


別の誰かが「もう遅い」と言う。


マレーヌの声は、その全部の下を通ってきた。


「生きなさい」


二度目だった。


一度目より短かった。


命令ではない。


願いでもない。


残せるものを、最後に置いた声だった。


リアが木戸を押した。


私は反射的に押さえた。


内側から、彼女の力が返ってくる。


細い腕とは思えない力が、戸板越しに返ってきた。


「開けて」


今度は声になった。


小さい。


それでも、はっきりしていた。


「開けて、マティアス」


私は戸板に額をつけた。


「駄目です」


ようやく声が出た。


「お願い」


「駄目です」


「母さんが呼んでる」


「だからです」


リアが止まった。


私も止まった。


言ってから、言葉の重さに気づいた。


だからです。


母が呼んでいるから、開けない。


母が生きろと言ったから、止める。


そんな理屈を、誰が受け入れられるのか。


リアは受け入れなかった。


戸の向こうで、低く言った。


「あなたも、そっち側なの」


胸の奥が冷えた。


返せる言葉はなかった。


そっち側。


こっち側。


町はそれを作り続けた。


今、私は戸一枚を挟んで、それをしている。


「分かりません」


私は言った。


「でも、今は開けません」


リアは答えなかった。


火の音が大きくなる。


記録庫の方から、紙が舞ってきた。


黒い雪のようだった。


一枚が木戸の前に落ちた。


文字はなかった。


ただ焦げて、穴が開いている。


リアが内側から戸を叩いた。


一度だけ。


それから、音が消えた。


広場の方で、マレーヌの声が途切れた。


何が起きたのか、私は見なかった。


見られなかった。


兵の体が壁になった。


煙が流れた。


誰かが祈りの言葉を口にした。


別の誰かが、その途中で黙った。


直接の音はなかった。


刃の音も。


叫び声も。


ただ、町全体が一度だけ息を止めた。


それで分かった。


分かってしまった。


リアはまだ木戸の内側にいた。


彼女は何も言わなかった。


泣かなかった。


叫びもしなかった。


ただ、息だけを殺しているようだった。


私は戸から手を離せなかった。


開けるためではない。


閉めるためでもない。


ただ、そこにいなければならなかった。


エティエンヌの姿は見えなかった。


市場の方へ走った彼が、捕まったのか、逃げたのか、倒れたのか。


誰も言わなかった。


誰も聞かなかった。


みんな、自分が見ているものだけで足りなくなっていた。


やがて、空が白み始めた。


夜が終わる。


それだけは、誰にも止められない。


記録庫の火は、屋根を食い破っていた。


水桶の列がようやくできた頃には、守るべき棚の大半は崩れていた。


ドミニクは焼け残った紙を集めさせている。


ベルトランは煤のついた手で顔を拭い、余計に黒くした。


司祭は膝をついていた。


祈っているように見えた。


けれど声は出ていなかった。


私は木戸の前で、リアが動くのを待った。


長い時間が過ぎた。


本当は短かったのかもしれない。


朝の光が、戸の下の隙間から中へ入る。


その光の中に、赤いものが見えた。


切れた糸だった。


リアの袖から垂れている。


彼女はそれを握っていた。


強く。


ほどけないほど、強く。


夜が明けた。


マレーヌは戻らなかった。


リアだけが、そこに残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ