第12話 名前が、消える
私は記録庫へ走った。
煙はもう細くなかった。
役所の裏へ回る角を曲がった瞬間、熱が顔に当たった。
火は中にいた。
外からはまだ壁が立っている。
戸も、窓も、形を保っている。
けれど隙間という隙間から、煙が押し出されていた。
戸口には人が集まっていた。
水桶を持つ者。
布で口を押さえる者。
何かを命じる者。
命じられても動けない者。
「開けろ」
誰かが叫んだ。
「開けたら火が出る」
別の声が返した。
「閉めていても燃える」
その声が誰のものか分からないまま、戸板の奥で何かが落ちた。
棚だ。
私は音で分かった。
記録庫の棚は古い。
冬になると木が縮み、少し傾く。
何度も直すよう頼んだ。
そのたびに、来月だと言われた。
来月は、火の中には来ない。
私は戸へ向かった。
腕を掴まれた。
兵だった。
「どこへ行く」
「中に記録があります」
「だから?」
「出します」
兵は私の顔を見た。
灰色の目だった。
怒ってはいない。
呆れてもいない。
ただ、仕事をしている目だった。
「紙を抱いて死にたいのか」
私は答えられなかった。
死にたいわけではない。
紙を守りたいだけでもない。
あの中には、洗礼の名がある。
婚姻の名がある。
亡くなった者の名がある。
まだ生きている者の名もある。
紙しか知らない人がいる。
紙にしか戻れない人がいる。
「離してください」
「駄目だ」
「私は書記です」
「今は違う」
兵は短く言った。
同じ言葉を、さっきベルトランにも言っていた。
代表者でもない。
書記でもない。
火の前では、役目が剥がされる。
残るのは、入る者と、止める者だけだった。
「水を」
ベルトランの声がした。
彼は外套を脱ぎ、顔を煤で汚していた。
「水を運べ。列を作れ」
町民が動いた。
少しだけ。
けれど、列にはならなかった。
誰もどこへ立てばいいのか分からない。
誰も誰の隣へ立てば安全なのか分からない。
ベルトランは苛立った。
「私はこの町の代表者だ。命じている」
兵が振り返った。
「今は、こちらの命令が先だ」
「火を消さなければ、記録が失われる」
「失われて困るものを選べ」
その言葉で、ベルトランが止まった。
選べ。
火の中でも、その言葉は町に戻ってくる。
誰を。
何を。
どの名を。
どの紙を。
ベルトランの喉が動いた。
「洗礼簿だ」
私は言った。
自分でも驚くほど早かった。
「奥の右棚。上から二段目。洗礼簿を」
「婚姻簿は」
誰かが聞いた。
「死者名簿は」
「土地台帳は」
「税の控えは」
声が重なった。
火が戸の奥で鳴った。
ばち、と乾いた音がする。
紙の音だった。
私は兵の腕を振りほどこうとした。
できなかった。
「行かせてください」
「駄目だ」
「私でないと棚の場所が分かりません」
「なら、言え」
「言っている間に燃えます」
「入ればお前も燃える」
そこで、ドミニクが現れた。
彼は走っていなかった。
人を押し分けることもなかった。
煙の濃い場所の少し外に立ち、戸口を見た。
火ではない。
人でもない。
残るものを見ていた。
「洗礼簿は何冊ある」
私は彼を見た。
「答えよ」
「三冊です」
「現年のものは」
「右棚の上から二段目です」
「古いものは」
「下段の箱です」
「異端の疑いを受けた家の記録は、どれで確認できる」
ベルトランが声を荒げた。
「今は火を」
ドミニクはそちらを見なかった。
「火は消す者がいる。私は残る記録を尋ねている」
「残らなければ、尋ねても無駄だ」
「だから尋ねている」
その声は大きくなかった。
けれど、人を押した。
水桶を持った若い男が戸へ近づいた。
熱に耐えきれず、すぐ後ろへ下がる。
桶の水が石畳へこぼれた。
白い石灰の跡が、水で薄く流れた。
昨夜の印だった。
救いの印が、泥のように足元を滑らせている。
「布を濡らせ」
ベルトランが叫んだ。
「口を覆え。二人で入れ」
「誰が入る」
町民の声が返る。
誰も名乗らなかった。
名乗らないことを責められる者もいなかった。
火は公平ではない。
だが、火の前で怖がることだけは、誰にでも起きた。
私は記録板を地面へ置いた。
兵が眉を動かした。
「何をする」
「両手を空けます」
「入るなと言った」
「戸のところまでです」
嘘だった。
兵も分かっていた。
だから腕を掴む手に力を込めた。
その時、記録庫の脇窓が内側から割れた。
火が息をした。
赤いものが一瞬だけ外へ伸びる。
町民が悲鳴を上げて退いた。
熱で目が乾いた。
煙が喉に入った。
私は咳き込んだ。
その向こうで、紙片が舞った。
黒い端を持った紙。
半分だけ燃えた紙。
洗礼名の一部か、土地の境界か、誰かの死んだ日か。
風に煽られて、私の足元へ落ちた。
拾った。
熱かった。
文字はまだ読めた。
マレ。
そこまでだった。
マレーヌか。
マルタンか。
マレックか。
分からない。
分からないまま、黒い端が崩れた。
指の上で、名前が粉になった。
「水を持ってこい」
「遅い」
「奥へ回れ」
「裏口は塞がってる」
声が飛び交う。
その中で、別の声が聞こえた。
遠かった。
火の向こうではない。
教会の裏の方だ。
女の声。
細く、けれど折れない声。
「リア」
私は振り向いた。
煙で目が痛む。
誰もその声に反応していない。
聞こえたのは私だけかもしれない。
いや、違う。
ベルトランも顔を上げた。
司祭も、広場の方で足を止めた。
木戸の向こうで、リアも聞いたはずだ。
「リア」
もう一度。
マレーヌの声だった。
火とは別の場所から届いている。
人垣の奥。
兵の並ぶ方。
町が目をそらしている方。
私は走ろうとした。
今度は、兵が止めなかった。
止めるべき場所が多すぎたのだ。
記録庫の戸が鳴る。
水桶が倒れる。
誰かが泣く。
誰かが祈る。
ドミニクはまだ戸口を見ていた。
「残った紙を集めよ」
彼は言った。
「燃えたものではなく、残ったものだ」
私はその声を背中で聞いた。
火は記録を食っている。
町は人を差し出している。
その二つが同じ朝に起きていた。
木戸の方から、小さな音がした。
内側から叩く音。
一度。
二度。
三度。
リアが出ようとしている。
マレーヌの声が、もう一度届いた。
「そこにいなさい」
町のざわめきが、一瞬だけ薄くなった。
その隙間に、母の声が入った。
「生きなさい」
リアの返事は聞こえなかった。
聞こえなかったのに、町のどこかで何かが裂けた気がした。
記録庫の屋根から、火が上がった。
赤い光が、白く塗られた扉を照らした。
白はもう、清く見えなかった。
ただ、燃えるものをよく見せる色だった。




