第11話「赤い糸が切れる」
リアは走った。
石畳を蹴る音が、夜明け前の町に細く跳ねた。
エティエンヌがその半歩後ろにつく。
私はさらに遅れていた。
記録板を抱えて走るのは、思っていたより難しい。
木の角が肋に当たる。
息が上がる。
けれど、止まれば見失う。
教会の鐘楼は、すぐそこに見えていた。
近い。
近いのに、遠かった。
広場には人がまだ残っていた。
マレーヌの家から流れてきた者。
門の方を見に行った者。
ユーグの家の前で足を止めた者。
誰も一つの場所にいないのに、町全体が一つの大きな人垣になっている。
教会の表扉も塞がれていた。
祈りに来たのではない。
逃げ込もうとした者。
司祭に答えを求める者。
鐘を鳴らせと叫ぶ者。
鳴らすなと叫ぶ者。
その声が、石の壁に当たって潰れていた。
「通して」
リアが叫んだ。
声は通った。
だが、人は動かなかった。
動けなかったのかもしれない。
誰かのために道を開ければ、自分の場所がなくなる。
そんな顔をしていた。
「通してって言ってる」
「中へ入ってどうする」
誰かが言った。
「教会なら助かると思ってるのか」
リアは答えなかった。
エティエンヌが先に動いた。
「裏へ」
彼はリアの手首を取った。
「こっち」
「母さんは」
「今は走って」
「母さんはって聞いてる」
「聞こえてる」
「だったら」
「答えたら、君は止まる」
リアが彼を睨んだ。
エティエンヌはその目を受けたまま、引いた。
強くではない。
けれど、ためらわなかった。
教会の脇には、荷車が二台倒れかけていた。
昼なら野菜や布を積む車だ。
今は、逃げようとした荷が半分落ちている。
車輪の間には、樽の蓋が挟まっていた。
その一台に、赤い糸が結ばれていた。
市場で荷を見分けるための糸。
古い糸だった。
何度も結び直され、少し色が褪せている。
私はそれを知っていた。
リアが何度か、エティエンヌの荷車に結んでいた糸だ。
目印だと言っていた。
冗談のつもりで。
でも、彼がその糸をほどかないことも、私は見ていた。
リアは荷車の横を抜けようとした。
その時、糸が彼女の袖に引っかかった。
小さな音だった。
裂ける音ではない。
止まる音。
布が引かれ、リアの体が後ろへ揺れた。
「何」
彼女は振り向いた。
赤い糸が、袖口の縫い目に絡んでいる。
エティエンヌがすぐに膝をついた。
「待って。ほどける」
「早く」
「分かってる」
彼の指は器用だった。
荷の縄なら、目を閉じてもほどける男だ。
けれど、赤い糸は濡れていた。
夜露か。
誰かの手の汗か。
それとも、石畳に落ちた水を吸ったのか。
細い糸は、強く引くほど締まった。
広場の方で、兵の声がした。
「女はどこへ行った」
リアの肩が跳ねた。
エティエンヌの指が止まる。
「続けて」
リアが言った。
「ほどいて」
「リア」
「切らないで」
その言葉は、命令ではなかった。
お願いでもなかった。
もっと裸の声だった。
エティエンヌは一瞬だけ、彼女を見た。
それから腰の小刀を抜いた。
「切らないでって言った」
「ごめん」
「謝るならやめて」
「やめたら、君が捕まる」
「捕まってもいい」
「よくない」
彼は短く言った。
刃が赤い糸に触れた。
糸は抵抗しなかった。
音もほとんどなかった。
ただ、ふっと力が抜けた。
リアの袖が自由になる。
切れた糸の片方は荷車に残り、もう片方は彼女の袖口に垂れた。
リアはそれを見た。
息を吸った。
怒鳴ると思った。
泣くと思った。
どちらでもなかった。
彼女は、エティエンヌの頬を叩いた。
乾いた音がした。
周りの声が一瞬だけ遠のいた。
「最低」
「うん」
「返して」
「あとで」
「あとなんてないかもしれない」
「だから今は走って」
エティエンヌの声は震えていた。
軽口はなかった。
彼は頬を押さえもしなかった。
叩かれた顔のまま、リアの背を押した。
教会の裏へ続く細い通路がある。
墓地へ出るための道だ。
昼間なら、子どもが近道に使う。
今夜は、誰かの足で泥が崩れ、壁際に置かれていた古い桶が転がっていた。
リアは一歩進み、すぐに振り向いた。
「一緒に来て」
「行く」
「嘘」
「嘘じゃない」
「顔が嘘」
「君はこんな時までよく見てる」
「見たくて見てるんじゃない」
「分かってる」
エティエンヌは笑おうとした。
失敗した。
広場の方で、甲冑が鳴った。
近い。
人垣の中から兵が二人、こちらへ回ってくるのが見えた。
一人は槍を持っている。
もう一人は松明を持っていた。
松明の火はまだ小さい。けれど、夜明け前の薄い青の中では、十分すぎるほど目立った。
「女がこっちへ来た」
誰かが言った。
町民の声だった。
誰かは分からない。
分からないことが、もう町の形になっていた。
エティエンヌはリアの肩を押した。
「入って」
通路の途中、石壁に小さな木戸があった。
教会の古い物置へ続く戸だ。
昔、祭壇の壊れた燭台や、使わなくなった布を入れていた場所だと聞いたことがある。
鍵はかかっていなかった。
エティエンヌが体で戸を押す。
木が湿った音を立てて開いた。
中は暗い。
古い蝋と埃の匂いがした。
「嫌」
リアが言った。
「ここに入ったら、母さんの声が聞こえない」
「聞こえたら出たくなる」
「出る」
「出さない」
「あなたに決められたくない」
「うん」
「うんじゃない」
「怒っていい。あとで全部聞く」
「だから、あとなんて」
「作る」
エティエンヌはそう言った。
強い声ではなかった。
強く言える人間の声ではなかった。
それでも、その一語だけは逃げなかった。
作る。
リアは口を閉じた。
兵の足音が近づいてくる。
松明の光が石壁に揺れた。
私は通路の入口で立ち止まっていた。
進めば、彼らの隠れ場所を知った者になる。
戻れば、兵の前に出ることになる。
どちらにいても、私は見たことになる。
エティエンヌが私を見た。
一瞬だけだった。
その目は、何かを頼んでいた。
言葉にはしなかった。
言葉にすれば、記録になってしまうからだ。
私は記録板を抱え直した。
まだ、何も書いていない。
リアが木戸の中へ押し込まれた。
彼女は抵抗した。
肘でエティエンヌの胸を押した。
足を踏んだ。
それでも、声を大きくはしなかった。
大きくすれば見つかると分かっていた。
悔しいほど分かっていた。
「エティエンヌ」
彼女が低く言った。
「置いていったら許さない」
「許さなくていい」
「本当に許さない」
「その方がいい」
「よくない」
「君が怒ってるなら、生きてる」
リアの息が止まった。
エティエンヌは戸に手をかけた。
「リア」
「何」
「走って」
「もう入ってる」
「それでも」
彼は戸を閉めた。
完全には閉めなかった。
指一本分だけ隙間を残す。
そこから空気が通る。
声も、少しは通る。
だが、人の体は通らない。
エティエンヌは地面に垂れた赤い糸を見た。
リアの袖の方ではない。
荷車に残った方だ。
彼はそれを掴み、通路の反対側へ引いた。
糸は短かった。
役には立たない。
それでも彼は、まるで道を作るように引いた。
「こっちだ」
彼が叫んだ。
兵の足音が止まる。
「女はこっちへ逃げた」
彼は走り出した。
教会の裏ではない。
墓地へ向かう道でもない。
市場の方へ戻る道だった。
松明を持った兵がそちらへ向きを変えた。
槍の兵も続く。
町民が道を開けた。
誰も、エティエンヌを止めなかった。
止めれば、彼を助けることになるからか。
あるいは、彼が囮だと気づかないふりをしたかったからか。
私は分からない。
ただ、道は開いた。
エティエンヌの背中が人の間へ消えていく。
彼は一度だけ、振り返りそうになった。
肩が動いた。
けれど、振り返らなかった。
そのまま走った。
リアは戸の内側で何かを言った。
声にはならなかった。
口だけが動いたのかもしれない。
私には聞こえなかった。
聞こえなかったことを、私は覚えている。
広場の方で、また別の声が上がった。
「火だ」
最初は誰かの叫びだと思った。
次に、匂いが来た。
煙。
湿った木が焦げる匂い。
薪の匂いではない。
食事の火でもない。
紙が焼ける時の、軽くて嫌な匂いが混じっていた。
私は顔を上げた。
教会の東側。
役所の裏。
記録庫の屋根のあたりから、細い煙が上がっていた。
一筋ではなかった。
屋根瓦の隙間から、いくつも薄く漏れている。
風がそれを低く押した。
煙は町の上へ広がらず、通りへ降りてきた。
人々がそちらを見た。
マレーヌの家を見ていた目。
ユーグの家を見ていた目。
リアを探していた目。
その全部が、煙へ移った。
私は走り出した。
記録板が腕の中で跳ねる。
木戸の隙間から、リアの目がこちらを見ていた。
暗くて、はっきりとは見えない。
それでも、赤い糸だけは見えた。
袖口に残った短い赤。
切れたまま、ほどけずに垂れている。
私は何も言わなかった。
言えば、彼女の場所を知らせる。
言わなければ、彼女を置いていく。
どちらも正しくなかった。
どちらかを選ぶ時間もなかった。
記録庫の方で、誰かが戸を叩いている。
開けろ、と叫ぶ声。
水を持ってこい、と叫ぶ声。
紙を出せ、と叫ぶ声。
同じ場所へ、別々の命令が殺到していた。
私は走った。
後ろで、木戸が小さく鳴った。
リアが内側から触れたのだと思った。
開けようとしたのか。
押さえたのか。
分からない。
分からないまま、私は煙の方へ向かった。
赤い糸は切れた。
今度は、名前が燃えようとしていた。




