表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第2章 異端の町

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/27

第十話「見分けられない」

「どれが異端だ」


 兵士の問いは、二度目の方が重かった。


 一度目は、町へ落ちた。


 二度目は、人の中へ入った。


 誰も答えなかった。


 だが、誰も何もしていないわけではなかった。


 目が動いていた。


 声より先に、目が人を選び始めていた。


 マレーヌを見る目。


 白い印のない扉を見る目。


 自分の家の方を確かめる目。


 隣に立つ者の袖を見る目。


 町民は黙っているのに、町はもう喋っていた。


 古参兵は、苛立った様子を見せなかった。


 それがかえって怖かった。


 急いで怒る者は、まだこちらの言葉を待っている。


 この男は待っていないように見えた。


 答えがなければ、答えのない町として扱う。


 そういう顔だった。


「名は」


 兵士が言った。


「差し出す者の名を言え」


 ベルトランが一歩前へ出た。


「まだ決めていない」


「では、なぜ門を開けた」


「開けたのではない。事故だ」


 その言葉は、石畳に落ちてすぐ割れた。


 事故。


 便利な言葉だった。


 誰の手でもないことにできる。


 誰の声でもないことにできる。


 誰の恐怖でもないことにできる。


 だが門は開いている。


 兵は入っている。


 マレーヌは門の前に立っている。


 言葉だけが、まだ責任から逃げようとしていた。


 ギヨームが門を押さえながら言った。


「事故なら戻せる。下がれ」


 古参兵は彼を見た。


「命令は受けている」


「俺も受けてる。門を守れと」


「守れていない」


 ギヨームの顎が固くなった。


 短い言葉ほど、深く刺さることがある。


 彼は言い返さなかった。


 言い返せなかったのかもしれない。


 門は、彼の背中の後ろで開いていた。


「その女か」


 古参兵がマレーヌを見た。


 マレーヌは、目を伏せなかった。


「私は、マレーヌと申します」


 声は落ち着いていた。


「異端か」


「いいえ」


 返事は短かった。


 古参兵は少しだけ眉を動かした。


 たぶん、否定されることは珍しくなかったのだろう。


 否定されても、何も変わらない顔だった。


「町は、この女を差し出すのか」


 兵士が言った。


 町。


 誰のことだ。


 ベルトランか。


 司祭か。


 白い印を塗った家々か。


 今ここに立っている全員か。


 町は大きい。


 大きすぎる言葉は、誰の口から出ても、誰の責任でもないように聞こえる。


「町は」


 ベルトランが言いかけた。


「町は、まだ」


「まだ」


 古参兵が繰り返した。


 それだけで、ベルトランの言葉は先へ進めなくなった。


 夜明けまで。


 その時間が、また人々の背を押した。


 町民の中から、細い声がした。


「あの家です」


 誰が言ったのか、すぐには分からなかった。


 人垣の後ろ。


 白い印のついた扉の前。


 子どもを抱いた女の隣。


 誰かの指が上がっていた。


 マレーヌの家ではない。


 少し離れた、井戸裏へ続く細い路地の角。


 小さな家だった。


 扉に白い印はあった。


 ただし薄い。


 石灰を水で伸ばしすぎたのか、木目が透けている。


 その薄さが、急に意味を持たされていた。


「あの家?」


 古参兵が聞いた。


「昨日、祈りに来なかった」


 別の声が続いた。


「子どもが熱を出していたんだ」


 誰かが言い返した。


 それは弁護だったのか、言い訳だったのか。


 言った本人にも分かっていないように聞こえた。


「熱は、言い訳になる」


 また別の声。


 私は、その言い方に覚えがあった。


 ロシュフォールで聞いた言葉に似ていた。


 水を汲みに来なかった。


 夜に見た。


 たぶん。


 そうかもしれない。


 疑いは、いつも似た形をしている。


 町が違っても、口が違っても、だいたい同じ形になる。


 古参兵は指された家を見た。


 それから、マレーヌを見た。


 彼にとって、その二つに違いはなかったのかもしれない。


 異端とは、見つけるものではなく、渡されるもの。


 そんな顔に見えた。


「誰の家だ」


 兵士が言った。


 誰もすぐに答えなかった。


 名を言うことと、家を指すことは違う。


 家ならまだ、壁や扉の話にできる。


 名を言えば、人になる。


 人になれば、昨日の顔が戻ってくる。


 しばらくして、パン屋の妻が言った。


「ユーグの家です」


 声は小さかった。


 けれど、門の内側に十分届いた。


 ユーグ。


 私もその名を知っていた。


 桶職人だった。


 市場で何度か見た。


 太い腕の男で、笑うと目尻にしわが寄る。


 前の週、パン屋の末の子が荷車の下に手を挟みかけた時、抱き上げて助けたのは彼だった。


 その子は今、母親の後ろに隠れている。


 助けられたことを覚えているのかどうか、分からない。


 覚えていてほしくなかった。


 覚えていて、黙っているなら、あまりにも辛い。


「ユーグ」


 古参兵が名を繰り返した。


 名は、兵士の口に入ると別のものになる。


 町で呼ばれていた時の響きが消えた。


 桶を直す男。


 子どもを抱き上げた男。


 冬に壊れた井戸桶を直した男。


 そういうものが落ちて、ただの名になった。


「根拠は」


 ベルトランが言った。


 その声は硬かった。


 ようやく代表者の声に戻っていた。


「名を言うなら、根拠を言え」


 パン屋の妻は首を振った。


「私は、ただ」


「ただ、では足りない」


「でも、見た人が」


「誰が見た」


 ベルトランが問い詰めると、彼女は黙った。


 人垣が揺れた。


 誰かが後ろへ下がる。


 下がった者の後ろで、別の者が押し出される。


 目が泳ぐ。


 今度は、名を言った者が見られている。


 疑いは、向きを変えるのが早い。


「昨日」


 帳簿係が言った。


 彼は白い石灰の残る袖を握っていた。


「ユーグは、マレーヌさんの家の前にいた」


「いた」


 別の男がうなずいた。


「扉を見ていた」


「扉を見るだけで異端か」


 ギヨームが低く言った。


「なら町中、目をくり抜くことになる」


 帳簿係は顔を赤くした。


「門番は黙っていろ」


「門を開けた連中に言われたくない」


 その言葉で、空気が尖った。


 兵士たちは動かない。


 動かず、町民同士の言い争いを見ている。


 それが一番こたえた。


 外から来た者が、町の内側で人が割れていくのを待っている。


 何もせずに。


 待っているだけで。


 門はますます広く開いていくように感じた。


「ユーグは」


 小さな声がした。


 パン屋の子どもだった。


 母親の後ろから、半分だけ顔を出している。


「僕を持ち上げてくれた」


 パン屋の妻が、その口を押さえた。


 遅かった。


 言葉は出てしまった。


 私はその子を見た。


 彼は何を言ったのか、分かっていない顔をしていた。


 助けてくれた、と言っただけだ。


 けれど今夜、その言葉はユーグを救うとは限らない。


 助けた。


 近づいた。


 触れた。


 子どもに手を伸ばした。


 そう変わることがある。


 私には、もう分かっていた。


 分かってしまう自分が嫌だった。


「子どもに近づいていた」


 誰かが言った。


 私は、その声の方を見た。


 誰なのか分からない。


 分からない声ほど、遠くまで行く。


「違う」


 パン屋の妻が言った。


「そういう意味じゃない」


「なら、どういう意味だ」


 帳簿係が迫った。


 彼も、自分が何を守ろうとしているのか分かっていない顔だった。


 家か。


 袖についた石灰か。


 自分が刷毛を向けた夜の正しさか。


「ユーグを呼べ」


 古参兵が言った。


 命令の声だった。


 町民が一斉にユーグの家を見た。


 その家の扉は閉じている。


 薄い白い印が、夜の中で弱く光っていた。


「呼べ」


 兵士が繰り返した。


 誰も動かない。


 動けば、自分が指したことになる。


 動かなければ、町全体が逆らったことになる。


 そういう沈黙だった。


 ベルトランが言った。


「待て。名を出したなら、町の代表として確認する」


「遅い」


 古参兵は短く返した。


「夜明けは近い」


 また、その言葉。


 夜明け。


 時間が、どんどん人を雑にしていく。


 ベルトランは前へ出ようとした。


 しかし兵士の槍が横に動いた。


 刃ではなく、柄だった。


 それだけで、代表者の足は止まる。


 町の中で通じる肩書きが、門の前で止められた。


 ベルトランは、自分の胸に手を当てた。


 いつもの癖だ。


 代表者として胸を張るための手。


 だが今は、そこに何もないことを確かめる手に見えた。


「私は、この町の代表だ」


「今は違う」


 古参兵は言った。


 声に憎しみはなかった。


 それが、言葉を余計に冷たくした。


「今は、命令の内側にいる者だ」


 ベルトランの顔から血の気が引いた。


 町民がそれを見た。


 代表者が小さくなる瞬間を、町民が見てしまった。


 私は記録板を抱えた。


 今の言葉を書けば、町の代表者が折れた記録になる。


 書かなければ、彼が一人の男に戻された瞬間は残らない。


 また、書けない。


 私は何度同じ場所に戻るのか。


「マティアス」


 ベルトランが私を見た。


 助けを求める目ではなかった。


 見たな、という目でもない。


 ただ、そこにいてくれという目だった。


 私は小さくうなずいた。


 それしかできなかった。


 ユーグの家の扉が開いた。


 内側から、男が顔を出した。


 太い腕。


 寝ていたのか、髪が乱れている。


 だが目はすぐに覚めた。


 自分の家の前ではない。


 少し離れた門の前で、自分の名が呼ばれている。


 その意味を、彼はまだ全部は理解していないようだった。


「何だ」


 ユーグは言った。


「何があった」


 誰も答えない。


 それで、彼は町民の顔を見た。


 パン屋の妻。


 帳簿係。


 ベルトラン。


 ギヨーム。


 私。


 最後に、パン屋の子どもを見た。


 子どもはまた母親の後ろに隠れた。


 ユーグの顔が変わった。


 そこに、ようやく恐怖が来た。


「俺か」


 彼は言った。


 誰も答えなかった。


 誰も答えない時、人は自分で答えに辿り着く。


 それは残酷だ。


 答えを言われるより、もっと残酷なことがある。


「俺なのか」


 ユーグはもう一度言った。


「昨日、あの子を助けた」


 その声は、怒りではなかった。


 まだ説明すれば戻れると思っている声だった。


「荷車の車輪に手を挟みそうだった。だから持ち上げた。それだけだ」


「誰も」


 パン屋の妻が言った。


「そんな意味では」


「では、どんな意味だ」


 ユーグの声が大きくなった。


「俺の名を出す意味は何だ」


 パン屋の妻は泣き出した。


 泣いたことで、何かが決まってしまったように見えた。


 泣く者は、責められにくい。


 泣かない者は、強く見える。


 強く見える者は、疑われやすい。


 ユーグは強く見えた。


 太い腕で、扉の前に立っていた。


 自分の名が町に投げられたことに、まだ耐えようとしていた。


 その強さが、今夜は彼を不利にした。


 古参兵がユーグへ顎を向けた。


「来い」


「なぜだ」


「確かめる」


「何を」


「異端かどうかを」


 ユーグは笑った。


 短い笑いだった。


 笑うしかなかったのだと思う。


「見て分からないのか」


 古参兵は答えなかった。


 ユーグは町民を見た。


「おまえたちは、俺を見て分からないのか」


 誰も答えなかった。


 その沈黙が、私の中で長く残った。


 見分けられないのは、兵だけではない。


 町も、もう人を見分けられなくなっている。


 親切と接近。


 祈りの遅れと不信。


 沈黙と隠し事。


 強さと反抗。


 弱さと潔白。


 何もかもが、別の名前で呼ばれ始めていた。


「待て」


 リアが叫んだ。


 人垣が振り向く。


 彼女はマレーヌの方へ行こうとしていたはずだ。


 だが今、目の前で別の名が選ばれようとしている。


 母だけを見ていればいいはずがない。


 それでも、母を見ないわけにもいかない。


 その裂け方が、彼女の顔に出ていた。


「違う人を出したら、母さんが戻るの?」


 誰も答えなかった。


「戻らないでしょう」


 リアは言った。


 声が震えていた。


「だったら、何をしてるの!」


 エティエンヌが彼女の腕を掴んだ。


「リア、だめだ」


「だめなのは全部よ!」


「分かってる」


「分かってるって言わないで」


 リアは彼を振り払おうとした。


 だが、兵士が動いた。


 門の内側に入った兵が、町民を押し分け始める。


 押し分けると言っても、乱暴に殴ったわけではない。


 槍の柄で空間を作る。


 腕で肩をずらす。


 人の流れを変える。


 それだけで、町民は散った。


 町民は、自分たちが作った壁では兵を止められないことを知った。


 その時、マレーヌがリアを見た。


 ほんの一瞬だった。


 声は出さない。


 口だけが動いた。


 生きなさい。


 そう読めた気がした。


 だが私は、見間違えたかもしれない。


 リアが同じものを見たのかは分からない。


 ただ彼女の顔から、怒りの色が少し抜けた。


 その代わり、もっと深い怖さが入った。


 エティエンヌが囁いた。


「教会へ」


「母さんが」


「今は鐘の下へ」


「嫌」


「嫌でも」


「嫌だって」


「リア」


 彼の声が変わった。


 冗談も、受け流しもなかった。


「走って」


 リアは彼を見た。


 この時の顔を、私は忘れられない。


 誰かを置いていく顔だった。


 置いていきたくないのに、足を動かすしかないと知ってしまった顔だった。


 兵士の一人がこちらを見た。


 若い兵だった。


 ギヨームから聞いた若い兵と同じかどうか、私には分からない。


 ただ、若かった。


 彼の目はリアを見て、それからエティエンヌを見た。


 追うべきか迷っているように見えた。


 その迷いの間に、エティエンヌがリアの背を押した。


「行け」


 リアは一歩、後ろへ下がった。


 それから走った。


 教会の方へ。


 石畳を蹴る音が、門の騒ぎの中で細く響いた。


 エティエンヌもすぐに続いた。


 だが彼は、完全には背を向けなかった。


 一度だけ、マレーヌの方を見た。


 それからユーグを見た。


 最後に、私を見た。


 その目は、そう訴えているように見えた。


 書けるなら、書いてくれ。


 そう見えた。


 私は記録板を握った。


 まだ何も書けない。


 けれど、見ていた。


 見てしまった。


 兵士がユーグの家へ向かう。


 町民が道を空ける。


 マレーヌは門の前に残される。


 白い印は、どの扉にも同じように薄く光っている。


 それなのに、誰も同じには扱われない。


 異端は見分けられなかった。


 だから町は、見分けたふりを始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ