第十話「見分けられない」
「どれが異端だ」
兵士の問いは、二度目の方が重かった。
一度目は、町へ落ちた。
二度目は、人の中へ入った。
誰も答えなかった。
だが、誰も何もしていないわけではなかった。
目が動いていた。
声より先に、目が人を選び始めていた。
マレーヌを見る目。
白い印のない扉を見る目。
自分の家の方を確かめる目。
隣に立つ者の袖を見る目。
町民は黙っているのに、町はもう喋っていた。
古参兵は、苛立った様子を見せなかった。
それがかえって怖かった。
急いで怒る者は、まだこちらの言葉を待っている。
この男は待っていないように見えた。
答えがなければ、答えのない町として扱う。
そういう顔だった。
「名は」
兵士が言った。
「差し出す者の名を言え」
ベルトランが一歩前へ出た。
「まだ決めていない」
「では、なぜ門を開けた」
「開けたのではない。事故だ」
その言葉は、石畳に落ちてすぐ割れた。
事故。
便利な言葉だった。
誰の手でもないことにできる。
誰の声でもないことにできる。
誰の恐怖でもないことにできる。
だが門は開いている。
兵は入っている。
マレーヌは門の前に立っている。
言葉だけが、まだ責任から逃げようとしていた。
ギヨームが門を押さえながら言った。
「事故なら戻せる。下がれ」
古参兵は彼を見た。
「命令は受けている」
「俺も受けてる。門を守れと」
「守れていない」
ギヨームの顎が固くなった。
短い言葉ほど、深く刺さることがある。
彼は言い返さなかった。
言い返せなかったのかもしれない。
門は、彼の背中の後ろで開いていた。
「その女か」
古参兵がマレーヌを見た。
マレーヌは、目を伏せなかった。
「私は、マレーヌと申します」
声は落ち着いていた。
「異端か」
「いいえ」
返事は短かった。
古参兵は少しだけ眉を動かした。
たぶん、否定されることは珍しくなかったのだろう。
否定されても、何も変わらない顔だった。
「町は、この女を差し出すのか」
兵士が言った。
町。
誰のことだ。
ベルトランか。
司祭か。
白い印を塗った家々か。
今ここに立っている全員か。
町は大きい。
大きすぎる言葉は、誰の口から出ても、誰の責任でもないように聞こえる。
「町は」
ベルトランが言いかけた。
「町は、まだ」
「まだ」
古参兵が繰り返した。
それだけで、ベルトランの言葉は先へ進めなくなった。
夜明けまで。
その時間が、また人々の背を押した。
町民の中から、細い声がした。
「あの家です」
誰が言ったのか、すぐには分からなかった。
人垣の後ろ。
白い印のついた扉の前。
子どもを抱いた女の隣。
誰かの指が上がっていた。
マレーヌの家ではない。
少し離れた、井戸裏へ続く細い路地の角。
小さな家だった。
扉に白い印はあった。
ただし薄い。
石灰を水で伸ばしすぎたのか、木目が透けている。
その薄さが、急に意味を持たされていた。
「あの家?」
古参兵が聞いた。
「昨日、祈りに来なかった」
別の声が続いた。
「子どもが熱を出していたんだ」
誰かが言い返した。
それは弁護だったのか、言い訳だったのか。
言った本人にも分かっていないように聞こえた。
「熱は、言い訳になる」
また別の声。
私は、その言い方に覚えがあった。
ロシュフォールで聞いた言葉に似ていた。
水を汲みに来なかった。
夜に見た。
たぶん。
そうかもしれない。
疑いは、いつも似た形をしている。
町が違っても、口が違っても、だいたい同じ形になる。
古参兵は指された家を見た。
それから、マレーヌを見た。
彼にとって、その二つに違いはなかったのかもしれない。
異端とは、見つけるものではなく、渡されるもの。
そんな顔に見えた。
「誰の家だ」
兵士が言った。
誰もすぐに答えなかった。
名を言うことと、家を指すことは違う。
家ならまだ、壁や扉の話にできる。
名を言えば、人になる。
人になれば、昨日の顔が戻ってくる。
しばらくして、パン屋の妻が言った。
「ユーグの家です」
声は小さかった。
けれど、門の内側に十分届いた。
ユーグ。
私もその名を知っていた。
桶職人だった。
市場で何度か見た。
太い腕の男で、笑うと目尻にしわが寄る。
前の週、パン屋の末の子が荷車の下に手を挟みかけた時、抱き上げて助けたのは彼だった。
その子は今、母親の後ろに隠れている。
助けられたことを覚えているのかどうか、分からない。
覚えていてほしくなかった。
覚えていて、黙っているなら、あまりにも辛い。
「ユーグ」
古参兵が名を繰り返した。
名は、兵士の口に入ると別のものになる。
町で呼ばれていた時の響きが消えた。
桶を直す男。
子どもを抱き上げた男。
冬に壊れた井戸桶を直した男。
そういうものが落ちて、ただの名になった。
「根拠は」
ベルトランが言った。
その声は硬かった。
ようやく代表者の声に戻っていた。
「名を言うなら、根拠を言え」
パン屋の妻は首を振った。
「私は、ただ」
「ただ、では足りない」
「でも、見た人が」
「誰が見た」
ベルトランが問い詰めると、彼女は黙った。
人垣が揺れた。
誰かが後ろへ下がる。
下がった者の後ろで、別の者が押し出される。
目が泳ぐ。
今度は、名を言った者が見られている。
疑いは、向きを変えるのが早い。
「昨日」
帳簿係が言った。
彼は白い石灰の残る袖を握っていた。
「ユーグは、マレーヌさんの家の前にいた」
「いた」
別の男がうなずいた。
「扉を見ていた」
「扉を見るだけで異端か」
ギヨームが低く言った。
「なら町中、目をくり抜くことになる」
帳簿係は顔を赤くした。
「門番は黙っていろ」
「門を開けた連中に言われたくない」
その言葉で、空気が尖った。
兵士たちは動かない。
動かず、町民同士の言い争いを見ている。
それが一番こたえた。
外から来た者が、町の内側で人が割れていくのを待っている。
何もせずに。
待っているだけで。
門はますます広く開いていくように感じた。
「ユーグは」
小さな声がした。
パン屋の子どもだった。
母親の後ろから、半分だけ顔を出している。
「僕を持ち上げてくれた」
パン屋の妻が、その口を押さえた。
遅かった。
言葉は出てしまった。
私はその子を見た。
彼は何を言ったのか、分かっていない顔をしていた。
助けてくれた、と言っただけだ。
けれど今夜、その言葉はユーグを救うとは限らない。
助けた。
近づいた。
触れた。
子どもに手を伸ばした。
そう変わることがある。
私には、もう分かっていた。
分かってしまう自分が嫌だった。
「子どもに近づいていた」
誰かが言った。
私は、その声の方を見た。
誰なのか分からない。
分からない声ほど、遠くまで行く。
「違う」
パン屋の妻が言った。
「そういう意味じゃない」
「なら、どういう意味だ」
帳簿係が迫った。
彼も、自分が何を守ろうとしているのか分かっていない顔だった。
家か。
袖についた石灰か。
自分が刷毛を向けた夜の正しさか。
「ユーグを呼べ」
古参兵が言った。
命令の声だった。
町民が一斉にユーグの家を見た。
その家の扉は閉じている。
薄い白い印が、夜の中で弱く光っていた。
「呼べ」
兵士が繰り返した。
誰も動かない。
動けば、自分が指したことになる。
動かなければ、町全体が逆らったことになる。
そういう沈黙だった。
ベルトランが言った。
「待て。名を出したなら、町の代表として確認する」
「遅い」
古参兵は短く返した。
「夜明けは近い」
また、その言葉。
夜明け。
時間が、どんどん人を雑にしていく。
ベルトランは前へ出ようとした。
しかし兵士の槍が横に動いた。
刃ではなく、柄だった。
それだけで、代表者の足は止まる。
町の中で通じる肩書きが、門の前で止められた。
ベルトランは、自分の胸に手を当てた。
いつもの癖だ。
代表者として胸を張るための手。
だが今は、そこに何もないことを確かめる手に見えた。
「私は、この町の代表だ」
「今は違う」
古参兵は言った。
声に憎しみはなかった。
それが、言葉を余計に冷たくした。
「今は、命令の内側にいる者だ」
ベルトランの顔から血の気が引いた。
町民がそれを見た。
代表者が小さくなる瞬間を、町民が見てしまった。
私は記録板を抱えた。
今の言葉を書けば、町の代表者が折れた記録になる。
書かなければ、彼が一人の男に戻された瞬間は残らない。
また、書けない。
私は何度同じ場所に戻るのか。
「マティアス」
ベルトランが私を見た。
助けを求める目ではなかった。
見たな、という目でもない。
ただ、そこにいてくれという目だった。
私は小さくうなずいた。
それしかできなかった。
ユーグの家の扉が開いた。
内側から、男が顔を出した。
太い腕。
寝ていたのか、髪が乱れている。
だが目はすぐに覚めた。
自分の家の前ではない。
少し離れた門の前で、自分の名が呼ばれている。
その意味を、彼はまだ全部は理解していないようだった。
「何だ」
ユーグは言った。
「何があった」
誰も答えない。
それで、彼は町民の顔を見た。
パン屋の妻。
帳簿係。
ベルトラン。
ギヨーム。
私。
最後に、パン屋の子どもを見た。
子どもはまた母親の後ろに隠れた。
ユーグの顔が変わった。
そこに、ようやく恐怖が来た。
「俺か」
彼は言った。
誰も答えなかった。
誰も答えない時、人は自分で答えに辿り着く。
それは残酷だ。
答えを言われるより、もっと残酷なことがある。
「俺なのか」
ユーグはもう一度言った。
「昨日、あの子を助けた」
その声は、怒りではなかった。
まだ説明すれば戻れると思っている声だった。
「荷車の車輪に手を挟みそうだった。だから持ち上げた。それだけだ」
「誰も」
パン屋の妻が言った。
「そんな意味では」
「では、どんな意味だ」
ユーグの声が大きくなった。
「俺の名を出す意味は何だ」
パン屋の妻は泣き出した。
泣いたことで、何かが決まってしまったように見えた。
泣く者は、責められにくい。
泣かない者は、強く見える。
強く見える者は、疑われやすい。
ユーグは強く見えた。
太い腕で、扉の前に立っていた。
自分の名が町に投げられたことに、まだ耐えようとしていた。
その強さが、今夜は彼を不利にした。
古参兵がユーグへ顎を向けた。
「来い」
「なぜだ」
「確かめる」
「何を」
「異端かどうかを」
ユーグは笑った。
短い笑いだった。
笑うしかなかったのだと思う。
「見て分からないのか」
古参兵は答えなかった。
ユーグは町民を見た。
「おまえたちは、俺を見て分からないのか」
誰も答えなかった。
その沈黙が、私の中で長く残った。
見分けられないのは、兵だけではない。
町も、もう人を見分けられなくなっている。
親切と接近。
祈りの遅れと不信。
沈黙と隠し事。
強さと反抗。
弱さと潔白。
何もかもが、別の名前で呼ばれ始めていた。
「待て」
リアが叫んだ。
人垣が振り向く。
彼女はマレーヌの方へ行こうとしていたはずだ。
だが今、目の前で別の名が選ばれようとしている。
母だけを見ていればいいはずがない。
それでも、母を見ないわけにもいかない。
その裂け方が、彼女の顔に出ていた。
「違う人を出したら、母さんが戻るの?」
誰も答えなかった。
「戻らないでしょう」
リアは言った。
声が震えていた。
「だったら、何をしてるの!」
エティエンヌが彼女の腕を掴んだ。
「リア、だめだ」
「だめなのは全部よ!」
「分かってる」
「分かってるって言わないで」
リアは彼を振り払おうとした。
だが、兵士が動いた。
門の内側に入った兵が、町民を押し分け始める。
押し分けると言っても、乱暴に殴ったわけではない。
槍の柄で空間を作る。
腕で肩をずらす。
人の流れを変える。
それだけで、町民は散った。
町民は、自分たちが作った壁では兵を止められないことを知った。
その時、マレーヌがリアを見た。
ほんの一瞬だった。
声は出さない。
口だけが動いた。
生きなさい。
そう読めた気がした。
だが私は、見間違えたかもしれない。
リアが同じものを見たのかは分からない。
ただ彼女の顔から、怒りの色が少し抜けた。
その代わり、もっと深い怖さが入った。
エティエンヌが囁いた。
「教会へ」
「母さんが」
「今は鐘の下へ」
「嫌」
「嫌でも」
「嫌だって」
「リア」
彼の声が変わった。
冗談も、受け流しもなかった。
「走って」
リアは彼を見た。
この時の顔を、私は忘れられない。
誰かを置いていく顔だった。
置いていきたくないのに、足を動かすしかないと知ってしまった顔だった。
兵士の一人がこちらを見た。
若い兵だった。
ギヨームから聞いた若い兵と同じかどうか、私には分からない。
ただ、若かった。
彼の目はリアを見て、それからエティエンヌを見た。
追うべきか迷っているように見えた。
その迷いの間に、エティエンヌがリアの背を押した。
「行け」
リアは一歩、後ろへ下がった。
それから走った。
教会の方へ。
石畳を蹴る音が、門の騒ぎの中で細く響いた。
エティエンヌもすぐに続いた。
だが彼は、完全には背を向けなかった。
一度だけ、マレーヌの方を見た。
それからユーグを見た。
最後に、私を見た。
その目は、そう訴えているように見えた。
書けるなら、書いてくれ。
そう見えた。
私は記録板を握った。
まだ何も書けない。
けれど、見ていた。
見てしまった。
兵士がユーグの家へ向かう。
町民が道を空ける。
マレーヌは門の前に残される。
白い印は、どの扉にも同じように薄く光っている。
それなのに、誰も同じには扱われない。
異端は見分けられなかった。
だから町は、見分けたふりを始めた。




