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告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第2章 異端の町

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第9話「門の事故」

マレーヌは歩いた。


 誰かに引かれたのではない。


 押されたのでもない。


 けれど、ひとりで歩いているようにも見えなかった。


 人垣が左右に割れる。


 割れた道の先に、城門へ続く通りがあった。


 夜明け前の石畳は、薄く濡れている。


 雨は降っていない。


 人の靴についた泥と、夜露と、こぼれた水が混じっただけだ。


 それでも道は光って見えた。


 月の光ではない。


 扉に塗られた白い印が、両側の家々でぼんやり浮かんでいる。


 白い印のある扉が、マレーヌを見る。


 そう感じた。


 もちろん、扉は見ない。


 だが、扉の隙間にいる人は見る。


 少しだけ開いた窓の奥。


 戸板の影。


 燭台を消したばかりの暗がり。


 そこから町が見ていた。


 自分たちが選ばれなかったことを確認するように。


 あるいは、まだ自分たちが選ばれていないだけだと怯えるように。


 私は記録板を抱えて、列の後ろを歩いた。


 書いていない。


 書けない。


 それなのに、手放せない。


 紙を持っている者は、何かを決める側に見える。


 本当は、何も決められないのに。


「下がれ」


 ギヨームが言った。


 彼は列の先を歩いていた。


 門番らしく、前を見ている。


 だが今夜、彼が見ているのは門だけではない。


 人の足。


 人の肩。


 人の間隔。


 誰が押しているのか。


 誰が押されたふりをしているのか。


 誰が逃げ道を探しているのか。


 彼はそれを見ていた。


「詰めるな。門の前で詰めたら潰れる」


「早くしろ」


 誰かが言った。


「夜明けまでだ」


「夜明けはまだだ」


 ギヨームが返す。


「だからこそ早くしろ」


「だからこそ、勝手に動くな」


 短い言葉が、石畳の上でぶつかった。


 どちらも正しいように聞こえる。


 正しい言葉同士がぶつかる時、人は間にいる者を押す。


 マレーヌは、その間にいた。


 リアは人垣の後ろで押さえられていた。


 押さえているのはエティエンヌだった。


 彼は彼女を止めているのではない。


 町民に触れさせないよう、腕を壁にしている。


 それでもリアは前へ出ようとした。


「離して」


「離したら、君は突っ込む」


「だから離して」


「それを聞いて離せるほど、俺はいい男じゃない」


「最低」


「今はそれでいい」


 エティエンヌの声は震えていた。


 リアは彼を見上げた。


 怒っていた。


 泣いてはいなかった。


 泣いていないことが、かえって痛かった。


「母さんを連れていかれる」


「分かってる」


「分かってるなら」


「分かってるから、君まで持っていかせない」


 リアは息を呑んだ。


 その一瞬だけ、体の力が抜けた。


 エティエンヌはその隙に彼女を支え直した。


 支えるというより、自分も倒れないために掴んでいるようだった。


 ベルトランはマレーヌの少し後ろを歩いていた。


 彼の顔は硬い。


 町の代表者の顔だ。


 だが私は、彼の目が何度も横へ動くのを見た。


 白い印のある家。


 白い印のない家。


 ついて来る町民。


 ついて来ない町民。


 彼は数えている。


 また数えている。


 数えたくないのに、数えている。


「ベルトラン」


 司祭が言った。


「まだ、渡すと決まったわけではありません」


「分かっている」


 ベルトランの声は低かった。


「分かっているなら」


「では、何をする」


 司祭は黙った。


 ベルトランは前を向いた。


「門の前で、もう一度話す。相手の要求を確かめる。町民を渡すと決めたわけではない」


 その言葉を、周りの町民はどう聞いたのか。


 話す。


 確かめる。


 決めたわけではない。


 だがマレーヌが歩いている。


 歩いている姿は、言葉より早く意味を作る。


 人は、動いているものを事実だと思う。


 私もそうだった。


 マレーヌが門へ向かっている。


 だから、もう町は彼女を渡すのだと、目が先に理解してしまう。


 それを否定する言葉を、私は書けなかった。


 城門が見えてきた。


 黒い大きな影だった。


 昼間なら、古い石と鉄の集まりに見える。


 今夜は、口に見えた。


 開けば飲む。


 閉じれば噛みしめる。


 その前に、町民が集まっていく。


 門の上には数人の番兵がいた。


 外の火が、その背を赤く縁取っている。


 門の外では、兵士たちがもう動き始めていた。


 焚き火の数は減っていない。


 ただ、火の周りに座る者が減っている。


 立つ者が増えている。


 それだけで、夜の形が変わる。


「開けるな」


 ギヨームが門番たちへ言った。


「誰も閂に触るな」


「だが」


 若い門番が言いかけた。


「外から使者が来ています」


「来ているから何だ」


「受け渡しを」


「誰が受け渡すと言った」


 ギヨームの声が荒くなった。


 だが、怒鳴りきらない。


 怒鳴れば、後ろの群れが動く。


 それを知っている声だった。


 若い門番は唇を噛んだ。


 彼も怖いのだ。


 外が怖い。


 内も怖い。


 上司も怖い。


 町民も怖い。


 怖いものが多すぎる時、人は一番近い命令を探す。


 彼にとって、それは夜明けまでという言葉だったのかもしれない。


 門の小扉の向こうで、槍の柄が石を叩いた。


 一度。


 二度。


 誰かが外から言った。


「サン=ヴェール」


 声は乾いていた。


 昨日の使者と同じ声かどうか、私には分からない。


 だが同じ種類の声だった。


 待つことに慣れているように聞こえる声。


 こちらが焦るのを見越しているような声。


「夜明けは近い」


 町民がざわめいた。


「開けろ」


 誰かが内側で言った。


「話すだけだ」


「開けなければ、全員だ」


「一人いる」


「一人を出せば済む」


「済むかどうか、誰が決めた」


 ギヨームが振り返った。


 その目は暗かった。


「おまえたちは、門の外の連中より先に門を開けたがっている」


 誰も答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 マレーヌは立っていた。


 門の前で。


 白い息を吐いて。


 彼女は震えていないように見えた。


 少なくとも、外からはそう見えた。


 だが手を見ると、分かる。


 指先が、外套の端を強く握っていた。


 朝の祈りへ行く時のような姿。


 けれど手だけが、夜の中にいた。


「マレーヌさん」


 ベルトランが言った。


「まだ、決めたわけではない」


 マレーヌは彼を見た。


 その目は責めていなかった。


 責めていないことが、責めるより苦しかった。


「では、なぜ私はここにいるのでしょう」


 ベルトランは答えられなかった。


 門の外で、また槍の柄が鳴った。


 今度は三度。


 若い門番が肩を震わせた。


 その時だった。


 門の内側で、誰かが押した。


 誰が最初だったのか、私は見ていない。


 見えていたはずなのに、分からなかった。


 人の群れは、最初の手を隠す。


 後ろの者が前を押し、前の者が横へ逃げ、横の者が門の柱にぶつかる。


 若い門番の腕が、閂の受け木に当たった。


 木が軋んだ。


 ギヨームが叫んだ。


「触るな!!」


 だが声より先に、体が動いた。


 町民の一人が、小扉の横の鉄輪を掴む。


 開けようとしたのか。


 倒れないために掴んだのか。


 私は分からない。


 ただ、鉄輪が引かれた。


 古い金具が鳴った。


 小扉は、少しだけ開いた。


 少しだけ。


 人ひとりが声を通す程度。


 そのはずだった。


 外から槍の柄が差し込まれた。


 誰かが息を呑む。


 内側で誰かが後ずさる。


 後ずさった背が、別の者を押す。


 押された者が、開きかけの小扉にぶつかる。


 木が嫌な音を立てた。


 閂の片端が、受けから外れた。


 門が開いた。


 大きくではない。


 だが、十分だった。


 外の冷たい空気が、町の中へ流れ込んだ。


 火の匂いが入ってきた。


 油の匂い。


 鉄の匂い。


 湿った革の匂い。


 人の息の匂い。


 ギヨームが門に飛びついた。


「戻せ!!」


 彼は叫んだ。


「戻せ、押すな!」


 だが、もう外の手が門にかかっていた。


 白い外套。


 赤い十字。


 鉄兜。


 槍先。


 それらが一つずつ、町の内側へ入ってきた。


 兵士たちは走らなかった。


 走らないことが、余計に怖かった。


 急いでいない。


 慌てていない。


 開くのを待っていた者の足取りだった。


 古参兵らしい男が最初に入った。


 顔は疲れていた。


 だが目は周囲をすぐに測った。


 門の幅。


 人の数。


 逃げる路地。


 白い印のある扉。


 白い印のない扉。


 彼は、その違いを知らないように見えた。


 少なくとも、知っている顔ではなかった。


 だからこそ、町民は焦った。


「この家は白い」


 誰かが叫んだ。


「うちは塗ってある」


「従っています」


「印を見ろ」


 町民たちは自分の扉を指した。


 手を上げる者もいた。


 袖についた石灰を見せる者もいた。


 白い点。


 白い十字。


 白い扉。


 彼らはそれを、兵士が読めると思っていた。


 兵士は見た。


 見ただけだった。


「退け」


 古参兵が言った。


 声は低い。


「命令は受けている」


「印がある」


 パン屋の妻が叫んだ。


「うちは、印が」


「退け」


 同じ言葉だった。


 同じ声の強さ。


 印を見た後も、何も変わらない。


 そのことが、町民の顔を変えた。


 白い印は、町の中では人を分けた。


 門の外から来た者には、ただの白い汚れだった。


「話が違う」


 帳簿係が言った。


 誰に言ったのか分からなかった。


 ドミニクにか。


 ベルトランにか。


 自分たちにか。


 神にか。


「従う者は守られると」


 古参兵は彼を見た。


「誰に従った」


 帳簿係は口を開けた。


 答えられなかった。


 その問いは、剣より鋭かった。


 町民は教会に従ったつもりだった。


 町に従ったつもりだった。


 自分の家族に従ったつもりだった。


 恐怖に従ったとは、誰も言いたくなかった。


 ギヨームはまだ門を押さえていた。


 肩で木を押し返している。


 だが兵士の数が増える。


 一人。


 二人。


 三人。


 門は、もう町のものではなくなっていく。


「閉めろ」


 ギヨームが言った。


 誰に向けたのか分からない。


 部下にか。


 自分にか。


 町にか。


「閉めろ。まだ、閉められる」


 だが彼の声に、もう自信はなかった。


 門は開く前から、少しずつ町の中で開いていた。


 白い印を塗った時。


 名簿を求めた時。


 マレーヌの名が出た時。


 誰かが石を拾った時。


 誰かが、誰か、と言った時。


 そのたびに、門は少しずつ開いていた。


 今、木と鉄がそれに追いついただけだった。


 マレーヌは兵士の前に立っていた。


 町民が彼女の背から少し離れる。


 誰が離れたのか。


 そう見えるほど、皆が少しずつ下がった。


 少しずつ。


 自分は押していないという距離を作るように。


 リアが叫んだ。


「母さん!!」


 声が人垣にぶつかった。


 エティエンヌが彼女を止めきれず、前へ押し出される。


 ギヨームが振り返る。


 ベルトランが何かを言おうとする。


 司祭が十字を切りかけて、手を止める。


 私は、まだ何も書いていない。


 古参兵がマレーヌを見た。


 それから町民を見た。


 最後に、門の外にいる別の兵へ目を向けた。


 彼は尋ねた。


「どれが異端だ」


 その問いが、門の内側へ落ちた。


 町民はマレーヌを見た。


 マレーヌは、町民を見なかった。


 リアだけを見ていた。


 私はその時、ようやく分かった。


 一人を差し出せば助かるという話は、最初から嘘だった。


 嘘というより、誰も確かめていない願いだった。


 願いを紙に書き、扉に塗り、口で繰り返せば、約束に見える。


 けれど約束ではなかった。


 門の前で、兵士はもう一度言った。


「どれが異端だ」


 誰も答えなかった。


 答えられない沈黙ではない。


 答えれば、自分たちが何をしたのか分かってしまう沈黙だった。

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