第9話「門の事故」
マレーヌは歩いた。
誰かに引かれたのではない。
押されたのでもない。
けれど、ひとりで歩いているようにも見えなかった。
人垣が左右に割れる。
割れた道の先に、城門へ続く通りがあった。
夜明け前の石畳は、薄く濡れている。
雨は降っていない。
人の靴についた泥と、夜露と、こぼれた水が混じっただけだ。
それでも道は光って見えた。
月の光ではない。
扉に塗られた白い印が、両側の家々でぼんやり浮かんでいる。
白い印のある扉が、マレーヌを見る。
そう感じた。
もちろん、扉は見ない。
だが、扉の隙間にいる人は見る。
少しだけ開いた窓の奥。
戸板の影。
燭台を消したばかりの暗がり。
そこから町が見ていた。
自分たちが選ばれなかったことを確認するように。
あるいは、まだ自分たちが選ばれていないだけだと怯えるように。
私は記録板を抱えて、列の後ろを歩いた。
書いていない。
書けない。
それなのに、手放せない。
紙を持っている者は、何かを決める側に見える。
本当は、何も決められないのに。
「下がれ」
ギヨームが言った。
彼は列の先を歩いていた。
門番らしく、前を見ている。
だが今夜、彼が見ているのは門だけではない。
人の足。
人の肩。
人の間隔。
誰が押しているのか。
誰が押されたふりをしているのか。
誰が逃げ道を探しているのか。
彼はそれを見ていた。
「詰めるな。門の前で詰めたら潰れる」
「早くしろ」
誰かが言った。
「夜明けまでだ」
「夜明けはまだだ」
ギヨームが返す。
「だからこそ早くしろ」
「だからこそ、勝手に動くな」
短い言葉が、石畳の上でぶつかった。
どちらも正しいように聞こえる。
正しい言葉同士がぶつかる時、人は間にいる者を押す。
マレーヌは、その間にいた。
リアは人垣の後ろで押さえられていた。
押さえているのはエティエンヌだった。
彼は彼女を止めているのではない。
町民に触れさせないよう、腕を壁にしている。
それでもリアは前へ出ようとした。
「離して」
「離したら、君は突っ込む」
「だから離して」
「それを聞いて離せるほど、俺はいい男じゃない」
「最低」
「今はそれでいい」
エティエンヌの声は震えていた。
リアは彼を見上げた。
怒っていた。
泣いてはいなかった。
泣いていないことが、かえって痛かった。
「母さんを連れていかれる」
「分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるから、君まで持っていかせない」
リアは息を呑んだ。
その一瞬だけ、体の力が抜けた。
エティエンヌはその隙に彼女を支え直した。
支えるというより、自分も倒れないために掴んでいるようだった。
ベルトランはマレーヌの少し後ろを歩いていた。
彼の顔は硬い。
町の代表者の顔だ。
だが私は、彼の目が何度も横へ動くのを見た。
白い印のある家。
白い印のない家。
ついて来る町民。
ついて来ない町民。
彼は数えている。
また数えている。
数えたくないのに、数えている。
「ベルトラン」
司祭が言った。
「まだ、渡すと決まったわけではありません」
「分かっている」
ベルトランの声は低かった。
「分かっているなら」
「では、何をする」
司祭は黙った。
ベルトランは前を向いた。
「門の前で、もう一度話す。相手の要求を確かめる。町民を渡すと決めたわけではない」
その言葉を、周りの町民はどう聞いたのか。
話す。
確かめる。
決めたわけではない。
だがマレーヌが歩いている。
歩いている姿は、言葉より早く意味を作る。
人は、動いているものを事実だと思う。
私もそうだった。
マレーヌが門へ向かっている。
だから、もう町は彼女を渡すのだと、目が先に理解してしまう。
それを否定する言葉を、私は書けなかった。
城門が見えてきた。
黒い大きな影だった。
昼間なら、古い石と鉄の集まりに見える。
今夜は、口に見えた。
開けば飲む。
閉じれば噛みしめる。
その前に、町民が集まっていく。
門の上には数人の番兵がいた。
外の火が、その背を赤く縁取っている。
門の外では、兵士たちがもう動き始めていた。
焚き火の数は減っていない。
ただ、火の周りに座る者が減っている。
立つ者が増えている。
それだけで、夜の形が変わる。
「開けるな」
ギヨームが門番たちへ言った。
「誰も閂に触るな」
「だが」
若い門番が言いかけた。
「外から使者が来ています」
「来ているから何だ」
「受け渡しを」
「誰が受け渡すと言った」
ギヨームの声が荒くなった。
だが、怒鳴りきらない。
怒鳴れば、後ろの群れが動く。
それを知っている声だった。
若い門番は唇を噛んだ。
彼も怖いのだ。
外が怖い。
内も怖い。
上司も怖い。
町民も怖い。
怖いものが多すぎる時、人は一番近い命令を探す。
彼にとって、それは夜明けまでという言葉だったのかもしれない。
門の小扉の向こうで、槍の柄が石を叩いた。
一度。
二度。
誰かが外から言った。
「サン=ヴェール」
声は乾いていた。
昨日の使者と同じ声かどうか、私には分からない。
だが同じ種類の声だった。
待つことに慣れているように聞こえる声。
こちらが焦るのを見越しているような声。
「夜明けは近い」
町民がざわめいた。
「開けろ」
誰かが内側で言った。
「話すだけだ」
「開けなければ、全員だ」
「一人いる」
「一人を出せば済む」
「済むかどうか、誰が決めた」
ギヨームが振り返った。
その目は暗かった。
「おまえたちは、門の外の連中より先に門を開けたがっている」
誰も答えなかった。
答えないことが、答えだった。
マレーヌは立っていた。
門の前で。
白い息を吐いて。
彼女は震えていないように見えた。
少なくとも、外からはそう見えた。
だが手を見ると、分かる。
指先が、外套の端を強く握っていた。
朝の祈りへ行く時のような姿。
けれど手だけが、夜の中にいた。
「マレーヌさん」
ベルトランが言った。
「まだ、決めたわけではない」
マレーヌは彼を見た。
その目は責めていなかった。
責めていないことが、責めるより苦しかった。
「では、なぜ私はここにいるのでしょう」
ベルトランは答えられなかった。
門の外で、また槍の柄が鳴った。
今度は三度。
若い門番が肩を震わせた。
その時だった。
門の内側で、誰かが押した。
誰が最初だったのか、私は見ていない。
見えていたはずなのに、分からなかった。
人の群れは、最初の手を隠す。
後ろの者が前を押し、前の者が横へ逃げ、横の者が門の柱にぶつかる。
若い門番の腕が、閂の受け木に当たった。
木が軋んだ。
ギヨームが叫んだ。
「触るな!!」
だが声より先に、体が動いた。
町民の一人が、小扉の横の鉄輪を掴む。
開けようとしたのか。
倒れないために掴んだのか。
私は分からない。
ただ、鉄輪が引かれた。
古い金具が鳴った。
小扉は、少しだけ開いた。
少しだけ。
人ひとりが声を通す程度。
そのはずだった。
外から槍の柄が差し込まれた。
誰かが息を呑む。
内側で誰かが後ずさる。
後ずさった背が、別の者を押す。
押された者が、開きかけの小扉にぶつかる。
木が嫌な音を立てた。
閂の片端が、受けから外れた。
門が開いた。
大きくではない。
だが、十分だった。
外の冷たい空気が、町の中へ流れ込んだ。
火の匂いが入ってきた。
油の匂い。
鉄の匂い。
湿った革の匂い。
人の息の匂い。
ギヨームが門に飛びついた。
「戻せ!!」
彼は叫んだ。
「戻せ、押すな!」
だが、もう外の手が門にかかっていた。
白い外套。
赤い十字。
鉄兜。
槍先。
それらが一つずつ、町の内側へ入ってきた。
兵士たちは走らなかった。
走らないことが、余計に怖かった。
急いでいない。
慌てていない。
開くのを待っていた者の足取りだった。
古参兵らしい男が最初に入った。
顔は疲れていた。
だが目は周囲をすぐに測った。
門の幅。
人の数。
逃げる路地。
白い印のある扉。
白い印のない扉。
彼は、その違いを知らないように見えた。
少なくとも、知っている顔ではなかった。
だからこそ、町民は焦った。
「この家は白い」
誰かが叫んだ。
「うちは塗ってある」
「従っています」
「印を見ろ」
町民たちは自分の扉を指した。
手を上げる者もいた。
袖についた石灰を見せる者もいた。
白い点。
白い十字。
白い扉。
彼らはそれを、兵士が読めると思っていた。
兵士は見た。
見ただけだった。
「退け」
古参兵が言った。
声は低い。
「命令は受けている」
「印がある」
パン屋の妻が叫んだ。
「うちは、印が」
「退け」
同じ言葉だった。
同じ声の強さ。
印を見た後も、何も変わらない。
そのことが、町民の顔を変えた。
白い印は、町の中では人を分けた。
門の外から来た者には、ただの白い汚れだった。
「話が違う」
帳簿係が言った。
誰に言ったのか分からなかった。
ドミニクにか。
ベルトランにか。
自分たちにか。
神にか。
「従う者は守られると」
古参兵は彼を見た。
「誰に従った」
帳簿係は口を開けた。
答えられなかった。
その問いは、剣より鋭かった。
町民は教会に従ったつもりだった。
町に従ったつもりだった。
自分の家族に従ったつもりだった。
恐怖に従ったとは、誰も言いたくなかった。
ギヨームはまだ門を押さえていた。
肩で木を押し返している。
だが兵士の数が増える。
一人。
二人。
三人。
門は、もう町のものではなくなっていく。
「閉めろ」
ギヨームが言った。
誰に向けたのか分からない。
部下にか。
自分にか。
町にか。
「閉めろ。まだ、閉められる」
だが彼の声に、もう自信はなかった。
門は開く前から、少しずつ町の中で開いていた。
白い印を塗った時。
名簿を求めた時。
マレーヌの名が出た時。
誰かが石を拾った時。
誰かが、誰か、と言った時。
そのたびに、門は少しずつ開いていた。
今、木と鉄がそれに追いついただけだった。
マレーヌは兵士の前に立っていた。
町民が彼女の背から少し離れる。
誰が離れたのか。
そう見えるほど、皆が少しずつ下がった。
少しずつ。
自分は押していないという距離を作るように。
リアが叫んだ。
「母さん!!」
声が人垣にぶつかった。
エティエンヌが彼女を止めきれず、前へ押し出される。
ギヨームが振り返る。
ベルトランが何かを言おうとする。
司祭が十字を切りかけて、手を止める。
私は、まだ何も書いていない。
古参兵がマレーヌを見た。
それから町民を見た。
最後に、門の外にいる別の兵へ目を向けた。
彼は尋ねた。
「どれが異端だ」
その問いが、門の内側へ落ちた。
町民はマレーヌを見た。
マレーヌは、町民を見なかった。
リアだけを見ていた。
私はその時、ようやく分かった。
一人を差し出せば助かるという話は、最初から嘘だった。
嘘というより、誰も確かめていない願いだった。
願いを紙に書き、扉に塗り、口で繰り返せば、約束に見える。
けれど約束ではなかった。
門の前で、兵士はもう一度言った。
「どれが異端だ」
誰も答えなかった。
答えられない沈黙ではない。
答えれば、自分たちが何をしたのか分かってしまう沈黙だった。




