第12話「井戸は知っている」
広場に、煙が上がった。
私はその煙を見ないようにしていた。
見れば、書けなくなると思った。
見なければ、書けると思った。
どちらも間違いだった。
私は見なくても、書けなかった。
書けないまま、書いた。
ベルナールの声だけが、広場に通っていた。
「被刑者ジル。井戸を汚し、町を害した罪により」
被刑者。
昨日まで被疑者だった者は、一晩で別の名を与えられていた。
名前が変わると、人の扱われ方も変わる。
ジル、という名はもうほとんど呼ばれない。
木馬のおじさん、という名も、誰も呼ばない。
広場の中央には薪が積まれていた。
昨日、町民が明日のために運んだものだ。
乾いた木。
古い板。
壊れた桶の欠片。
どれも、元は生活の中にあった。
火にくべるために生まれたものではない。
それでも、重ねられると刑の場所になった。
人も同じだ。
生活の中にいた者が、言葉を重ねられると罪人になる。
ジルはその前に立っていた。
遠かった。
広場の中央にいるのに、誰より遠く見えた。
手は縛られている。
顔はよく見えない。
私は見ないようにしている。
見ないようにしているのに、見えてしまう。
肩の低さ。
足元の揺れ。
風で乱れた髪。
それだけで、人は十分に壊れて見える。
「罪を認め、粉末を井戸へ混入したこと」
ベルナールの声が続く。
「薬草売りサラより粉末を受け取ったこと」
町の後ろの方で、誰かがざわめいた。
サラはいなかった。
サラの店は閉ざされたままだ。
けれど、彼女の名はここにも来ていた。
名は、人より遠くへ引きずられる。
「自白調書により明らかである」
私は筆を持った。
処刑文を写すために。
けれど、筆先は紙の上で止まった。
自白調書。
その言葉の中に、地下室の空白が一つもない。
ジルの声が短くなっていった時間もない。
水を求めた喉もない。
サラの名を言った直後の、何をしたのか分からない目もない。
ただ、自白調書。
それだけだ。
「マティアス」
隣の役人が小さく言った。
「書け」
私は書いた。
自白調書により明らか。
嘘ではない。
また、その言葉が頭に浮かんだ。
嘘ではない。
けれど真実でもない。
ルカは母に抱かれて、広場の端にいた。
ミラは来るべきではなかった。
たぶん、本人もそう思っていた。
けれど町が動く時、町に残るほうが怖いこともある。
だから彼女は来た。
来て、見ないようにしていた。
ルカの手には、木馬があった。
直ったはずの木馬。
ジルが直した木馬。
車輪は回る。
回るのに、ルカは動かさない。
両手で抱いているだけだった。
「母さん」
ミラは答えなかった。
「おじさん、帰ってくる?」
ミラはルカの頭を抱いた。
強く。
「見ないで」
「でも」
「見ないで」
ルカは木馬を抱きしめた。
大人の腕の中で、子どもは見えないふりを覚えていく。
けれど、見ないでと言われたものほど、心に残る。
鐘が鳴った。
一度。
広場の人々が息を止めた。
二度。
誰かが祈りの言葉を呟いた。
三度。
火が入った。
私は見なかった。
見なかったから、火の形は知らない。
ただ、熱だけが来た。
煙だけが来た。
人々の沈黙だけが来た。
沈黙は、叫び声より大きいことがある。
誰も騒がなかった。
誰も笑わなかった。
誰も止めなかった。
その三つが揃うと、人は何でもできてしまう。
ベルナールは処刑文を読み続けた。
私はその声だけを書いた。
「井戸を汚し」
書く。
「町を害し」
書く。
「恐怖を招いた罪」
書く。
ジルの声は、私の紙にはない。
煙が目に入った。
そういうことにした。
涙が出た。
煙のせいにした。
広場の端で、ルカが木馬を落とした。
小さな音だった。
誰も振り向かなかった。
車輪が一度だけ回った。
それから止まった。
私はその音を聞いた。
聞いたのに、書かなかった。
ジルがこちらを見た気がした。
気がしただけかもしれない。
煙で顔は見えない。
熱で空気が揺れている。
それでも、私は見られたと思った。
最後に。
一度だけ。
責める目ではなかった。
助けを求める目でもなかった。
ただ、覚えておけ、と言われたような気がした。
私は覚えた。
覚えたのに、公文書には書かなかった。
やがて、ベルナールの声が止まった。
司祭の祈りも止まった。
鐘も止まった。
広場には、煙だけが残った。
町民はしばらく動かなかった。
終わったのかどうかを、誰かが先に決めるのを待っているようだった。
「終わった」
誰かが言った。
その一言で、人々は息を吐いた。
終わった。
終わった。
終わったのだ。
言葉が広がる。
昨日の「やっぱり」と同じように。
人は、終わったと言えた時、自分が耐えたことに意味があったような気になれる。
ミラはルカの木馬を拾った。
車輪についた土を払う。
ルカは何も言わなかった。
それが、私には怖かった。
子どもが泣かない時、大人は何かを失っている。
サラは広場に来なかった。
来なかったが、処刑が終わったことはすぐに知った。
彼女の店の扉の前を、人が通る。
足音が一つ。
二つ。
三つ。
誰も扉を叩かなかった。
その静けさが、昨日の怒号よりも重かった。
サラは扉の内側で座っていた。
膝の上に、調合帳を置いている。
開いていない。
文字を見ることができなかった。
「ジル」
今度は声に出た。
小さく。
「あなたは、私の名を言ったのね」
責める言葉ではなかった。
信じられない、という言葉でもなかった。
ただ、傷ついた事実を触るような声だった。
サラは知っていた。
ジルが本心で言ったのではないことを。
知っているから、余計に苦しかった。
許す相手がいない。
責める相手も、もういない。
ただ、自分の名だけが調書に残った。
そして町に残った。
町に残った名は、町に残った人間より長く憎まれる。
サラはそれを知っていた。
夜が深くなるまで、彼女は灯りをつけなかった。
店の中で、薬草の束だけが薄く揺れている。
外を通る足音は、処刑の後から少し変わっていた。
昨日のように扉を叩く者はいない。
怒鳴る者もいない。
けれど誰も、店の前で足を止めない。
止めないことが、いちばんはっきりした知らせだった。
次に町が怖がる時、自分の名が呼ばれる。
サラは棚から、小さな袋を二つ取った。
熱冷ましの根。
咳止めの葉。
それから調合帳。
全部は持てない。
全部を持てば、逃げる者の荷になる。
少しだけ持てば、旅をする薬草売りの荷になる。
彼女は扉を開けなかった。
裏口のかんぬきを、音を立てないように上げた。
町の外れへ続く細い道は暗かった。
井戸の方は見なかった。
役所の方も見なかった。
見れば足が止まると思った。
サラは外套の前を合わせ、袋を胸に抱いた。
「ジル」
今度も声に出した。
けれど、町に聞かせるためではなかった。
自分がまだ、誰かの名を正しく呼べるか確かめるためだった。
それから彼女は、ロシュフォールを出た。
逃げたのではない。
そう書くこともできる。
だが、あの夜のサラに残されていた道は、それしかなかった。
私はその姿を見ていない。
見ていないことは、公文書には書けない。
けれど翌朝、サラの店は開かなかった。
薬草の匂いだけが、戸口に残っていた。
処刑の翌朝、アリスは井戸の前に立った。
空は白かった。
雨は降らなかった。
広場の煙の匂いは、まだどこかに残っていた。
町は静かだった。
昨日より静かだった。
終わったからだ。
そう、みんな思っていた。
アリスは縄を握った。
手が震えている。
滑車が鳴る。
桶が下りる。
水面に当たる音がする。
いつもと同じ音だった。
いつもと同じ朝のはずだった。
桶を引き上げる。
水が揺れる。
澄んでいる。
見た目は、ずっと澄んでいる。
アリスは椀に少しだけ汲んだ。
周りに人はいない。
誰も見ていない。
見ていないことにしているだけかもしれない。
彼女は椀を口元へ運んだ。
ほんの一口。
水が舌に触れた瞬間、アリスの顔から血の気が引いた。
苦かった。
水は、まだ苦かった。
彼女は椀を落とさなかった。
落とせば音がする。
音がすれば、人が来る。
人が来れば、聞かれる。
どうだった、と。
アリスは椀を両手で持ったまま、井戸を見た。
井戸は何も言わない。
何も言わないまま、全部知っている。
その日、町は井戸水の味について話さなかった。
誰も「まだ苦い」とは言わなかった。
一人が黙れば、ただの沈黙だ。
二人が黙れば、気まずさだ。
町全体が黙れば、それは新しい記録になる。
書かれない記録。
誰も署名しない調書。
それが、処刑の翌朝に作られた。
私は役所で、公文書を仕上げた。
井戸毒入れ事件、被告ジル、刑執行済み。
町の混乱は鎮静。
主犯は裁かれた。
そう書いた。
そう書くしかなかった。
その紙には、水の味のことを書かなかった。
アリスの顔色のことも。
ルカが木馬を動かさなくなったことも。
サラの店が開かなかったことも。
古い地図の線のことも。
何も書かなかった。
書かなかったことは、なかったことになる。
私はそれを、もう知っていた。
知っていて、書かなかった。
その夜、私は公文書とは別の紙を出した。
誰にも見せるつもりのない紙だった。
帳簿でもない。
調書でもない。
役所の印を押す場所もない。
ただの紙。
私はしばらく、筆を持ったまま座っていた。
何を書けばよいのか分からなかった。
真実、と書くには、私は弱すぎた。
告発、と書くには、私は遅すぎた。
懺悔、と書くには、ジルが戻らない。
だから私は、見たことから書くことにした。
公文書に書かなかったこと。
書けなかったこと。
書かないことで消したこと。
その最初の一文を、私はこう書いた。
水は、最初から苦かった。
筆を置いた時、手が震えていた。
年老いた今でも、その震えを覚えている。
公式記録には、事件は解決したと残っている。
毒を入れた者は裁かれたと残っている。
町は守られたと残っている。
だが、私の古い日記の最初には、別のことが書いてある。
翌朝、井戸の水はまだ苦かった。
けれど町は、もう味の話をしなかった。




