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告発の年代記 〜真実を書いたはずの記録が、人を殺す証拠になっていた〜  作者: 三交代制コーヒーライター
第2章 異端の町

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第1話「町は、敵が来る前から割れていた」

私はその町へ、教会の命で送られた。


サン=ヴェール。


城壁を持つ、古い町だった。


壁の外には畑があり、壁の内側には市場があり、真ん中には鐘楼があった。


遠くから見れば、よく守られた町に見える。


石の壁。


閉じられる門。


見張り台。


祈りの声。


そういうものが並んでいると、人は安心したがる。


私も昔は、そうだった。


井戸の町で何が起きたあとでも、どこかでまだ思っていた。


壁があれば、人は守られる。


鐘があれば、人は集まれる。


名簿があれば、人は数えられる。


調書があれば、事実は残る。


そういう考え方を、私はなかなか捨てられなかった。


捨てられなかったから、書記でいられたのかもしれない。


私のような者は、町から町へ移される。


好きで旅をしていたわけではない。


命じられれば、行く。


教会の封蝋がついた紙を持たされれば、馬車に乗る。


次の町で洗礼記録を整えよ。


婚姻簿を写せ。


死者の名を照合せよ。


納められた穀物の数を書け。


司祭の報告を清書せよ。


そういう命令が、私を動かした。


文字を読める者は少ない。


文字を書ける者は、もっと少ない。


ただ自分の名を書ける者なら、まだいる。


けれど、人の名を聞き取り、古い綴りを読み、教会の帳面に同じ形で残せる者は限られていた。


だから、私の手は私のものではなかった。


教会の手だった。


町の手だった。


時には、裁きの手だった。


そう知ったのは、あの井戸の町を出てからだ。


ジルの名が、まだ耳から離れなかった。


サラの名も。


書いた名。


書けなかった名。


書いてはいけなかったかもしれない名。


それらが、馬車の揺れに合わせて、胸の奥でぶつかった。


サン=ヴェールへ着いた朝、空は低かった。


雨はまだ降っていない。


けれど屋根瓦の色が暗く、町全体が濡れる前から湿って見えた。


門番は私の通行証を見た。


厚い指で封蝋を撫で、私の顔を見て、それからもう一度紙を見た。


「書記か」


「はい」


「若いな。帳面より先に風で飛ばされそうだ」


よく言われることだった。


若いという言葉は、町によって意味が変わる。


期待になることもある。


軽侮になることもある。


この町では、疲れの混じった確認に聞こえた。


「字が読めるなら、骨の太さはどうでもいい。入れ」


門番はそう言って、通してくれた。


そのとき、私は彼の腰に大きな鍵束が下がっているのを見た。


鍵は、歩くたびに小さく鳴った。


門を閉めるための鍵。


門を開けるための鍵。


同じ金属なのに、どちらの意味にもなる。


私はその音を、しばらく忘れられなかった。


町へ入ると、市場の端に赤い糸が見えた。


一本だけではない。


布屋の軒先に何本も吊られている。


赤、茶、くすんだ青。


けれど目についたのは赤だった。


雨の前の薄暗い町で、その色だけが妙に生きていた。


その下で、若い女が布を畳んでいた。


小柄で、動きが早い。


指先が迷わない。


布を持つ手つきだけで、毎日同じことを繰り返しているのが分かった。


彼女がリアだと知るのは、少し後のことだ。


その時の私は、ただ市場の名前を控えるために足を止めただけだった。


「エティエンヌ。それ、結び目じゃなくて団子」


リアが言った。


彼女の前に、荷車を引いた青年が立っていた。


荷車の紐が裂けている。


青年はそれを赤い糸で結ぼうとしていたが、結び目は大きく歪んでいた。


エティエンヌと呼ばれた青年は、結び目を隠すように親指で押さえた。


「団子なら売れるか」


「売れない。雨でほどける団子なんて、犬でもまたぐ」


「なら、ほどけたらまた君の店に来る」


「来る口実まで下手」


「結び目よりは上手いつもりだ」


エティエンヌは笑った。


笑い方に、少しだけ無理があった。


周りを見る癖がある。


リアに向けた顔と、町民の視線を受ける顔が違う。


恋人同士だと、すぐに分かった。


恋人同士であることを、町に見せすぎないようにしていることも分かった。


リアは鼻で笑い、青年の手から紐を取った。


「手を貸して。違う、そこじゃない。荷車を押す手は強いのに、糸になると急に赤ん坊ね」


「赤ん坊は荷車を引かない」


「だから荷車だけ引いていなさい。糸は私がやる」


「雨が降るたびに?」


「晴れていても。あなたの結び目は天気に関係なく危ない」


その言い方に、エティエンヌの口元が緩んだ。


ほんの一瞬だった。


すぐにリアは周囲を見て、布を畳む手を早めた。


エティエンヌもそれに合わせて、半歩だけ離れた。


半歩。


人は、近づくより離れる時に関係を見せることがある。


私は記録帳を開きかけた。


市場の配置を書くだけのつもりだった。


けれど、指が止まった。


赤い糸。


結び目。


サラの薬包を思い出した。


あの夜、サラは何を持って町を出たのだろう。


私は見ていない。


見ていないことは、書けない。


そう自分に言い聞かせた。


言い聞かせなければ、すぐに書いてしまいそうだった。


サラは逃げた。


サラは生きている。


サラは。


どれも、私の目が見たものではなかった。


私は市場の名だけを書いた。


サン=ヴェール市場。


東門より百二十歩。


布屋、粉屋、鍛冶屋、塩売り。


そういう文字は、まだ書けた。


人の心より、店の位置の方がずっと書きやすい。


「書記様」


声をかけられて、私は顔を上げた。


リアがこちらを見ていた。


「教会の人?」


「はい。帳面の整理に来ました」


「帳面」


彼女はその言葉を、舌先で転がすように繰り返した。


嫌っているわけではない。


怖がっているわけでもない。


ただ、紙に自分の生活が乗ることを、あまり好んでいない顔だった。


「布の税なら昨日払ったわ。銅貨は軽かったけど、役人の手は重かった」


「今日は税ではありません」


「じゃあ何を数えるの。布? 桶? うちの母のため息?」


エティエンヌが小さく咳払いをした。


たしなめるというより、周囲に聞こえるのを気にした咳だった。


リアはそれを聞いて、少しだけ声を落とした。


私は答えに詰まった。


何を数えるのか。


自分でも、いつも分かっているわけではない。


生まれた子。


死んだ者。


結婚した者。


移り住んだ者。


欠けた家。


増えた家。


教会が知りたいもの。


町が知りたいもの。


そして、あとから誰かが使いたがるもの。


「町の記録です」


私はそう答えた。


嘘ではない。


嘘ではない言葉ほど、時々ひどく不十分になる。


リアは私の記録帳を見て、それから自分の手元の赤い糸を見た。


「じゃあ書いて。エティエンヌの結び目は町を滅ぼすほど下手」


「それは困るな。町が滅びたら、君の店に来られない」


「その心配が先なの?」


「他の心配は、口に出すと君に叱られる」


エティエンヌの冗談は軽かった。


けれど最後だけ、声が柔らかくなった。


リアはすぐには返さなかった。


彼女は強い目をしている。


強い目の人間ほど、見えてしまうものが多い。


「分からないものまで書くんですね」


リアは私に言った。


さっきまでの軽口より、少し低い声だった。


その言葉に、胸が痛んだ。


ジルの調書を思い出したからだ。


分からないまま書いた。


たぶん、と書いた。


誰かが言った、と書いた。


あとで整えられた紙の上で、曖昧な言葉は硬くなった。


「分からないものは、本当は分からないまま残すべきです」


私は言った。


言ってから、自分の声が少し強くなったことに気づいた。


リアも気づいたらしい。


彼女は私を見た。


若い書記を見る目ではなかった。


この人は何かを持ってきたのか。


それとも、何かを持って逃げてきたのか。


そう測る目だった。


エティエンヌが間に入るように、荷車の取っ手を握り直した。


「リア。雨の前に戻ろう」


「分かってる。あなたより空の方が急かし方が上手」


リアは赤い糸をきつく結んだ。


きれいな結び目だった。


細いのに、ほどけにくい。


「これで雨でも持つ」


「なら、晴れても来る」


「来るなら荷物を持ってきて。口だけ持ってこないで」


「口がないと挨拶できない」


「母さんの前では、その口を半分にして」


母さん。


その一言で、エティエンヌの顔がわずかに変わった。


からかう顔が消えた。


「マレーヌさん、今日も教会へ?」


「行くって。祈りの日だから」


「休んでもいい日だ」


「休んだら、祈りより大きな声で噂される」


リアは明るく言おうとした。


けれど言い終える前に、目だけが横へ流れた。


市場の向こうで、数人の女たちがこちらを見ていた。


見ていたというより、確かめていた。


リアが誰と話しているか。


どのくらい笑ったか。


エティエンヌとどれだけ近いか。


そういうものを、買い物のついでのように見ていた。


私は、その視線を知っていた。


井戸の前にもあった。


水を汲む手より先に、人の顔を見る視線。


原因ではなく、理由にしやすい誰かを探す視線。


まだ何も起きていない。


少なくとも、この時のサン=ヴェールではそう見えた。


だが町は、何も起きていない時から、誰を見るかを決め始めていた。


教会の鐘が鳴った。


市場の声が少し低くなる。


店じまいではない。


祈りの時間だ。


人々はそれぞれ手を止めた。


帽子を取る者。


胸に手を当てる者。


口の中で祈る者。


計算を続ける者。


同じ町にいても、同じ速さで祈るわけではない。


同じ神の名を呼んでも、同じ声になるわけではない。


それは当たり前のことだった。


当たり前のことだったはずだ。


教会の中は、湿った石の匂いがした。


私は司祭に挨拶し、帳面を預かった。


古い羊皮紙。


新しい紙。


紐で束ねられた出生記録。


婚姻の写し。


洗礼名の一覧。


文字の癖が何人分も混ざっていた。


この町にも、書ける者はいる。


しかし長く続けて、同じ形で、間違いを照合しながら写せる者は少ない。


それで私は呼ばれた。


この町が特別だったからではない。


どの町も同じだったからだ。


記録は必要とされる。


だが記録する者は足りない。


足りないものは、命令で動かされる。


私はそうして、あちらこちらへ置かれた。


井戸の町にも。


このサン=ヴェールにも。


そして、そのたびに思う。


私がいなければ、残らなかった名がある。


私がいたから、傷ついた名もある。


どちらが多いのか、数えたくなかった。


祈りが始まった。


石の床に膝が触れる音が、あちこちで鳴る。


人々の声が重なった。


初めは一つの布のようだった。


薄く、広く、町全体を覆う声。


その中に、一か所だけ小さな乱れがあった。


遅れた声。


少し違う発音。


言い間違いというほどではない。


疲れていれば、誰にでも起こる。


年を取れば、誰にでも起こる。


喉が乾いていれば、誰にでも起こる。


それだけのことだった。


けれど、隣の女が顔を上げた。


その隣の女も、顔を上げた。


声の乱れは、祈りの中ではなく、人々の目の中で大きくなった。


「今、言葉が違った?」


誰かが囁いた。


囁きは、小さい。


だが教会の中では、よく届く。


石が声を返すからだ。


言われた女は、背筋を伸ばしたまま動かなかった。


白い頭布。


細い肩。


少し痩せた頬。


あとで私は、彼女がマレーヌだと知る。


リアの母だった。


「舌がもつれただけです」


マレーヌは静かに言った。


声は細かった。


けれど、逃げてはいなかった。


「祈りを違えたのではありません。年を取ると、口が先に休みたがるのです」


言い訳に聞こえないように、声を整えていた。


少しだけ笑いを添えて、場をほどこうとしていた。


しかし、整えすぎた声は、かえって周囲の耳を集めた。


人は乱れたものを疑う。


整いすぎたものも疑う。


疑うと決めたあとなら、何でも使える。


私は筆を取った。


取って、止めた。


何を書く。


マレーヌ、祈りの文言を一部誤る。


違う。


誤ったかどうか、私は確かめていない。


マレーヌ、周囲から祈りの文言を疑われる。


それも違う。


疑いを書けば、疑いが形を持つ。


形を持った疑いは、次に誰かが拾う。


拾われた疑いは、もうただの囁きではなくなる。


私は何も書かなかった。


白い余白が残った。


余白は、時に人を救う。


時に、人を消す。


そのどちらになるのか、書かなかった瞬間には分からない。


「舌は合わせられる」


低い声がした。


祈りの列の後ろに、見慣れない修道士が立っていた。


痩せた男だった。


背筋が硬い。


衣の皺までまっすぐに見える。


彼はマレーヌではなく、周囲の人々を見ていた。


まるで、その場の反応を数えているようだった。


「祈りの言葉は、教えればそろう」


彼は続けた。


「だが顔は遅れる。顔は、教えられる前のものを残す」


誰もすぐには返事をしなかった。


その言葉が何を意味するのか、皆が分かったからだ。


祈りの言葉は真似できる。


しかし顔は、遅れて本心を出す。


そういう意味に聞こえた。


つまり、マレーヌの顔には何かが出たのだと。


誰も見ていなかったものを、見たことにされた。


教会の中に、湿った沈黙が落ちた。


リアが一歩、母の方へ動きかけた。


エティエンヌが、その袖をほんの少し引いた。


止めたのではない。


今ではない、と伝える引き方だった。


リアは振り返らなかった。


ただ、布を握る手だけが白くなった。


私は修道士の名を知らなかった。


その時は、まだ。


ドミニクという名を知るのは、少し後だ。


彼がこの町へ何を運んできたのかを知るのも、少し後だ。


だが、その言葉だけは先に残った。


舌は合わせられる。


顔は遅れる。


その日から、サン=ヴェールでは、人の顔が祈りより重くなった。


私は帳面の上に、何も書かなかった。


それでも、町はもう書き始めていた。


紙ではなく、目で。


インクではなく、沈黙で。


誰が同じで、誰が違うのかを。

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