第2話「槍が多すぎる」
最初に気づいたのは、ギヨームだった。
城門番のギヨーム。
大きな手をした男だ。
手の甲には古い傷があり、爪の間にはいつも土と鉄粉が残っていた。
彼は字を読まない。
読めないのではない。
読める字が少ない。
門に貼られる命令札のうち、閉門、開門、通行可、通行不可。
そのくらいは読める。
自分の名も書ける。
ギヨーム。
ただし、最後の綴りは時々揺れた。
それでも門を守るには足りていた。
少なくとも、彼はそう思っていた。
門には、紙より早く分かるものがある。
荷車の音。
馬の息。
人の歩幅。
金属の擦れる音。
雨の前の匂い。
逃げてくる者の目。
攻めてくる者の沈黙。
ギヨームは、それらを読む。
私が文字を読むように。
彼は遠くを読む。
その日、昼前に鐘楼の影が短くなったころ、ギヨームは城壁の上に立っていた。
私は教会の帳面を抱え、彼の後を追って階段を上った。
石段は狭く、湿っていた。
記録板が胸に当たり、息が切れる。
上へ出た瞬間、風が顔を叩いた。
町の中で聞こえる声が、急に小さくなる。
市場。
教会。
布屋の軒先。
さっきまで近かったものが、壁の上からは箱の中の物のように見えた。
人は高い場所に立つと、守っている気になる。
だが高い場所は、遠くから来るものを先に見せるだけだ。
止める力をくれるわけではない。
ギヨームは目を細めていた。
「巡礼じゃない」
彼は言った。
私は壁の外を見た。
畑の向こうに、土煙が上がっている。
細い。
けれど長い。
道に沿って、灰色の帯のように伸びていた。
その中に、白い点がいくつもある。
旗か。
衣か。
それとも、槍の先に結ばれた布か。
遠すぎて、私には分からなかった。
「槍が多すぎる」
ギヨームの声は低かった。
叫ばない。
叫ぶ必要がない距離だからだ。
まだ遠い。
まだ門まで来ていない。
まだ町民は市場で値切っている。
まだリアは布を畳んでいるかもしれない。
まだマレーヌは家で頭布を直しているかもしれない。
まだ、という言葉が多い時ほど、町は危ない。
「教会からは、使節団と聞いています」
私は言った。
教会から届いた連絡には、そうあった。
北から修道士を含む使節が来る。
町の信仰状態を確認する。
異端の噂について問いただす。
その筆頭に、教会直属の査問使がいる。
そうも書かれていた。
査問使。
修道士でありながら、町の司祭より先に問いを置ける者。
教会の奥で決められた命令を、町の門前まで運んでくる者。
使節と呼ばれてはいた。
けれど、先頭に修道士がいるだけで、後ろに続く者たちは祈りではなく槍を運んでいた。
文面は整っていた。
封蝋も正しかった。
だから私は、そのまま受け取った。
正しい形の紙は、人を安心させる。
中身が何を運んでいるかを見る前に。
「使節は、あんなに黙って歩かない。歌うか、祈るか、せめて馬を叱る」
ギヨームが言った。
私はもう一度、土煙を見た。
確かに、音がない。
距離のせいではない。
隊列の中で、歌がない。
祈りの声がない。
荷車を急かす声もない。
馬を叱る声もない。
あれほどの人数が動いているのに、人のざわめきがこちらへ届かない。
代わりに、金属の重なりだけが時々光った。
白。
赤。
鈍い鉄。
それが畑の緑の上を、ゆっくり進んでいた。
「門を閉めますか」
私は尋ねた。
ギヨームはすぐに答えなかった。
彼の手が、腰の鍵束に触れた。
鍵は鳴らなかった。
握られていたからだ。
「閉めるだけなら、俺の腕一本で済む」
彼は言った。
「開ける時も、俺の腕一本だ。だから困る」
それは答えではなかった。
しかし、彼の中では答えに近いものだったのだと思う。
閉めればよい。
そう言える者は、門の上には立たない。
門を閉める時、外に残る者がいる。
門を開ける時、内へ入る者がいる。
鍵は、壁のこちら側だけを守る道具ではない。
こちらとあちらの間で、誰を人として扱うかを決める金属でもある。
ギヨームはそれを知っていた。
だから黙った。
私は記録板を開いた。
城壁外、北道に隊列。
推定、三十。
いや。
四十か。
もっといるかもしれない。
槍、多数。
白外套、赤十字。
修道士らしき者、確認できず。
そこまで書いて、手が止まった。
何人と書けばよいのか分からない。
三十と書けば、三十人になる。
四十と書けば、四十人になる。
だが実際の数は、紙の上の数字とは違う速度で近づいていた。
「待て。書くな」
ギヨームが言った。
私は顔を上げた。
「まだ数えるな」
「なぜですか」
「帳面に乗せると、来ちまう気がする」
子どものような言い方だった。
だが私は笑えなかった。
井戸の町で、誰かが同じようなことを思っていたからだ。
水の苦味を確かめなければ、まだ井戸は汚れていない。
ジルの名を書かなければ、まだ犯人はいない。
煙を見なければ、まだ刑は終わっていない。
人は、見ないことで事実を遅らせようとする。
遅らせても、止まらない。
ただ、少しだけ呼吸ができる。
私は筆を下ろした。
その時、町の中で鐘が鳴った。
祈りの鐘ではない。
呼び集める鐘だった。
ギヨームの顔が固くなる。
「もう誰かが見たな」
「町の代表へ知らせます」
「走れ。転ぶな。帳面まで割るな」
私は階段を下りた。
下りる方が怖い。
上る時は、まだ何も知らない。
下りる時は、見たものを持って戻る。
町の中へ。
まだ知らない顔の中へ。
広場には、人が集まり始めていた。
市場の声は消えていた。
代わりに、布を抱えたままの女、粉袋を肩にかけた男、子どもの手を強く握る母親がいた。
皆、同じ方向を見ようとしていた。
城壁の方ではない。
教会の前だ。
そこに、ドミニク修道士が立っていた。
昨日、祈りの列で「顔は遅れる」と言った男。
痩せた体。
硬い背筋。
白く細い指。
その指に、巻物が握られていた。
彼の後ろには兵がいた。
町の中に、すでに数人入っていた。
使節の先触れとして入れた者たちだ。
彼らは槍を立てていた。
槍先は高い。
高いものは、話している者の言葉を大きく見せる。
兵たちは怒っていなかった。
そこが怖かった。
怒った兵なら、まだ人の顔をしている。
怒りには熱がある。
熱があれば、上がり下がりがある。
だが彼らの顔には熱がなかった。
命令を待つ顔だった。
命令が来れば動く。
来なければ動かない。
それだけの顔。
町の代表ベルトランが、教会前の石段に立った。
五十を越えた男だ。
大柄ではない。
だが胸を張る癖があり、その癖だけで少し大きく見える。
濃い外套の前を押さえる手が、かすかに震えていた。
本人は隠している。
見慣れた町民なら、気づかないかもしれない。
しかし私は、手を見る癖がついていた。
人は顔より先に、手で本当のことを言う。
ドミニクが巻物を開いた。
紙の擦れる音がした。
巻物の端には、教会の封蝋が残っていた。
町の司祭が一歩、前へ出かけた。
だが封蝋を見た瞬間、その足が止まった。
彼は胸の前で手を組み直した。
祈るためではない。
口を挟まないために、自分の手を押さえたように見えた。
広場が静かになる。
その静けさは、祈りの静けさではなかった。
誰かが正しい言葉を言うのを待つ静けさだった。
正しい言葉。
町はそれを求めていた。
安心できる言葉。
外に見えたものは巡礼である。
使節である。
手続きである。
町がこれまで通り町でいられる。
そう言ってくれる言葉を。
ドミニクは、それを言わなかった。
「サン=ヴェールの信徒に告げる」
声は大きくなかった。
だがよく通った。
声を張る者より、張らずに通す者の方が怖い時がある。
自分の言葉が届くと知っているからだ。
「この町には、異端の疑いがある」
広場の奥で、誰かが息を吸った。
ひとりではない。
いくつもの小さな息が、石畳の上でこすれた。
異端。
その言葉は、毒に似ている。
瓶に入っているうちは、まだ扱える。
だが一度こぼれると、どこまで広がったのか誰にも分からなくなる。
「正しき信徒を守るため、誤れる者を差し出せ」
ドミニクは、そこで一度だけ広場を見渡した。
「これは勧めではない。猶予である」
ドミニクは巻物から目を上げた。
そして、一言ずつ置くように言った。
「異端者を差し出せ。従う者は守られる」
誰もすぐには声を出さなかった。
恐怖は、最初に叫ぶとは限らない。
最初は、人の口を閉じる。
その閉じた口の内側で、言葉が形を変える。
異端者。
従う者。
守られる者。
守られない者。
まだ誰の名も出ていない。
なのに、広場の人々はもう周りを見始めていた。
隣にいる者。
昨日、祈りで遅れた者。
市場で人と目を合わせなかった者。
よそから来た者。
声の低い者。
声の高い者。
笑った者。
笑わなかった者。
何でもよかった。
名がない恐怖は、名を探す。
私は胸の前で記録板を抱えた。
書けなかった。
異端者を差し出せ。
そう書くだけなら簡単だ。
しかしその文字が、次に何を連れてくるのかを、私はもう少し知っていた。
ベルトランが一歩前へ出た。
「この町の者は、私の隣人だ。同じ教会で洗礼を受けている」
声は震えていなかった。
手は震えていた。
「疑いがあるなら、町の代表である私に示せ。名を求めるなら、まず罪を示せ」
ドミニクは表情を変えなかった。
「町の代表者としての言葉か」
「そうだ」
「では、教会の査問使として答える」
ドミニクは封蝋の残る巻物を、少しだけ掲げた。
「教会は町の外にも内にもある。門の内側だけを、町の言葉で閉じることはできない」
ベルトランの肩がわずかに動いた。
司祭は何かを言おうとして、唇だけを動かした。
声にはならなかった。
「根拠は、町の中にある」
「答えになっていない。町は謎かけで人を渡さない」
「町は、自らを清める機会を与えられている」
機会。
私はその言葉に、嫌な冷たさを感じた。
命令ではなく、機会。
罰ではなく、救い。
差し出せという言葉が、まるで町のための配慮であるかのように包まれていた。
ベルトランの口元が歪んだ。
怒りだ。
しかし彼は怒鳴らなかった。
怒鳴れば、相手の言葉より自分の感情が目立つ。
町民は、怒った代表より、静かな巻物を信じるかもしれない。
彼はそれを分かっていた。
「町民の名を、町民の手で売らせる気か」
ドミニクは少し首を傾けた。
「売るのではない」
「では、何だ」
「救われる者と、救われることを拒む者を分けるだけだ」
その言葉が、広場に落ちた。
分ける。
人を分ける。
町を分ける。
祈りの声を分ける。
扉を分ける。
食卓を分ける。
まだ何も起きていないのに、町はもう二つに裂かれ始めていた。
リアが広場の端にいた。
布を抱えたまま、立ち尽くしている。
エティエンヌは少し離れた場所から彼女を見ていた。
近づけない。
近づけば、その関係も誰かの目に拾われる。
マレーヌの姿は見えなかった。
それが、かえって目立った。
昨日まで、祈りに来たことが疑われた。
今日は、広場にいないことが疑われる。
人は、いることでも疑われる。
いないことでも疑われる。
ドミニクは巻物を閉じた。
紙の端が、乾いた音を立てた。
「日没までに、町の代表者は名簿を整えよ。名のない疑いは、町全体の疑いとなる」
名簿。
その言葉で、何人かがこちらを見た。
私を。
書記を。
文字を読める者を。
文字を書ける者を。
教会の命令で町から町へ運ばれる、私の手を。
私はその視線の中で、記録板を強く抱えた。
名簿は、人を忘れないためにある。
そう思っていた。
生まれた者の名。
洗礼を受けた者の名。
結ばれた者の名。
死んだ者の名。
町にいた証。
神の前にいた証。
だが、その日、サン=ヴェールで名簿は別の顔を持った。
誰を差し出すか。
誰を残すか。
誰を守られる者にし、誰を拒む者にするか。
名簿は、まだ卓上に置かれていない。
それなのに、もう重かった。
ベルトランが私を見た。
その目には命令があった。
頼みもあった。
怒りもあった。
どれか一つなら、私は楽だった。
「書記」
彼が言った。
私は返事をした。
声が、自分のものではないように聞こえた。
「はい」
「帳面を持って来い。洗礼簿も、住民名簿もだ」
広場に、また小さな息が広がった。
誰も、異端者の名を言っていない。
だが町はもう、名を探す場所へ歩き出していた。
私は教会の奥へ向かった。
昨日、何も書かなかった余白を思い出しながら。
今度は、空白では済まない。
名簿が要る。
名が要る。
そして名は、いつも人より軽く運ばれる。




