第一部 九話 星花の海
出口を塞いでいるのは、大小の石と、水を吸った土だった。
石の隙間から差し込む光は細い。
外が昼なのか夕方なのかも分からない。
ただ、地下にはなかった風が吹き込んでいる。
草と花の甘い匂いを含んだ風だった。
「上から崩れたようだな」
ガレスが石へ手をかける。
軽く力を加えただけで、小石がいくつも落ちた。
「不用意に動かすと、残りも崩れる」
「別の出口を探す?」
セナが尋ねる。
「地図にある出口はここだけだ。戻って別の通路を探すとなれば、さらに一日以上かかる」
ガレスは周囲を調べ、崩落した場所の左端を指した。
「ここから少しずつ広げる。上の大石には触れるな。まず下の土と小石を取り除く」
「俺がやる」
フィオが前へ出ようとする。
「おまえは休め」
「歩ける」
「走れるのか?」
「……走る必要はない」
「また傷が開けば、セナの魔力が無駄になる」
フィオの耳が後ろへ倒れた。
反論したそうだったが、脇腹の痛みを無視できないらしい。
ガレスはミオとルナを見た。
「手を貸せるか?」
昨日までなら、危ないから離れていろと言われていた。
ミオは一瞬、聞き間違いかと思った。
「私たちもやっていいの?」
「大石には触るな。持てないものを無理に持つな。疲れたら言え」
「それくらい分かってる」
「分かっていなかったから、繰り返している」
余計な一言だと思いながら、ミオは借りた手袋をはめた。
ルナも外套の袖をまくる。
「私もできます」
「足は?」
「少し痛いです」
ルナは正直に答えた。
「だから、座ってできる作業をします」
フィオが彼女の顔を見た。
「今日は笑ってないな」
「痛いときは、痛いと言うことにしたから」
「それでいい」
フィオは満足そうに尻尾を揺らした。
一行は崩れた出口の前へ集まった。
ガレスが石の状態を確認し、安全なものだけを指示する。
ミオは両手で持てる石を拾い、通路の奥へ運んだ。
一個。
二個。
三個。
最初は軽いと思っていた石も、繰り返すうちに重さを増していく。
腰が痛い。
指も痛い。
汗が額から流れ、顎を伝って落ちた。
ルナは地面へ座り、小さな石と土を木の皿へ集めていた。
その皿をセナが受け取り、後方へ運ぶ。
怪我をしているフィオは、出口近くの音と臭いを確認する役目を任された。
「もう少し右」
フィオが言う。
「そこから、風が強く来てる」
ミオは指定された場所の土を掻き出した。
指先ほどだった隙間が、少しずつ広がる。
外の光がミオの手を照らした。
「見える」
ルナが隙間へ顔を近づける。
「何が?」
「空……だと思う。まだ青い」
「夕方か?」
ガレスが尋ねる。
「たぶん。でも、ほとんど見えません」
「手を止めるな。暗くなる前に人が通れる幅まで広げる」
作業は続いた。
誰か一人が特別な力を発揮したわけではない。
ガレスでさえ、大石を一人で動かすことはできない。
安全な石を見極める者。
土を掻き出す者。
小石を運ぶ者。
上部の崩れを見張る者。
それぞれが、できることを担当した。
ミオは袖で汗を拭った。
「こういうのなら、私たちにもできるんだ」
「最初から、できないとは言っていない」
ガレスが答える。
「戦うことしか、役に立つ方法がないと思っていたのはおまえだ」
「……言い方が嫌い」
「内容が間違っているか?」
「間違ってないから、もっと嫌い」
ガレスは、ほんのわずかに笑った。
初めて見る表情だった。
「口を動かす余裕があるなら、手も動かせ」
「やっぱり嫌い」
ミオは次の石を拾った。
◇
人一人が通れる隙間ができたころ、外の光は橙色に変わっていた。
「俺が先に出る」
フィオが言う。
「怪我人だろ」
「俺が一番小さい」
ガレスは少し考え、うなずいた。
「無理はするな。危険があればすぐ戻れ」
フィオは身体を横向きにし、石の隙間へ入った。
尻尾が暗闇の向こうへ消える。
しばらくして、外から声がした。
「出られる。魔物の臭いもない」
「周囲は安全か?」
「……たぶん」
「たぶん?」
返事がない。
「フィオ!」
「早く出てきた方がいい」
声の調子が、いつもと違った。
警戒しているわけでも、焦っているわけでもない。
何かに驚いているようだった。
ガレスはセナを先に通した。
続いてルナ。
足をかばいながら、ゆっくり石の隙間を抜けていく。
ミオは旅嚢からギターを取り出して状態を確かめ、ガレスへ差し出した。
「先にこれを渡して」
「自分で持っていけ」
「狭いから、ぶつけるかもしれない」
「それなら俺が持って出る。おまえが先だ」
「絶対に落とさないでよ」
「この状況で、俺より楽器の心配か」
「大切なんだから仕方ないでしょ」
ミオは石の隙間へ身体を滑り込ませた。
肩が壁へ当たる。
湿った土の匂いが近い。
腕を伸ばし、外の地面へ手をつく。
冷たい草が指先に触れた。
身体を引き上げる。
外へ出た瞬間、風が吹いた。
地下の湿った空気を、身体から洗い流すような風だった。
ミオは目を閉じた。
草の匂い。
水の匂い。
そして、濃く甘い花の香り。
何時間ぶりか分からない空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「ミオちゃん」
ルナが少し離れた場所に立っていた。
「見て」
ミオは目を開けた。
最初に見えたのは、空だった。
長い地下水路を進んでいる間に、日は沈みかけていた。
西の空には、燃えるような赤と金色。
その上には薄紫色の層が重なり、さらに高い場所では夜の青へ変わっている。
白い月が、地平線の上に昇り始めていた。
青い三日月は、まだ見えない。
次に、ミオは足元を見た。
白い花が咲いている。
朝、草原で見た星花だった。
一輪だけではない。
二輪でもない。
見渡す限り。
谷の底から、遠くの丘の向こうまで。
大地のすべてを埋め尽くすように、無数の星花が咲いていた。
「何、これ……」
声が、自然に漏れた。
一行が出てきた場所は、山々に囲まれた広大な盆地の端だった。
旧水路は、岩壁の下から流れ出す細い川へつながっている。
その水が幾筋にも分かれ、星花の草原を銀色の線となって走っていた。
夕日が山の向こうへ沈む。
最後の光が消えると、最初の花が淡く輝いた。
足元の一輪。
少し離れた二輪。
川辺の花々。
光は波紋のように広がっていく。
白かった花びらが青く染まり、その一枚一枚に小さな光の点が浮かんだ。
やがて盆地全体が、青白い光に包まれた。
空には星。
大地にも星。
どこまでが夜空で、どこからが草原なのか分からない。
足元へ空が広がり、自分たちが二つの星空の間に立っているようだった。
「すごい……」
ルナは、それしか言えないようだった。
セナも言葉を失っている。
ガレスは最後に水路から出てきた。
ミオへギターを渡し、目の前の光景を見る。ミオは演奏が終わるまで旅嚢を開いたまま足元へ置いた。
「残っていたのか」
「知ってたの?」
ミオが尋ねる。
「昔、星花の谷がこの辺りにあったとは聞いていた。水の流れが変わって、枯れたと思われていた」
ガレスは川へ視線を向けた。
「旧水路の崩落で地下水がこちらへ流れたらしい」
人の訪れなくなった谷。
閉ざされた旧水路。
その奥で、星花は誰にも見られることなく咲き続けていた。
「もったいないですね」
ルナが言った。
「こんなにきれいなのに、誰も知らないなんて」
「誰も知らなくても、花は困らない」
フィオが答える。
「見られるために咲いてるわけじゃない」
ルナが彼を見る。
それから、もう一度花畑へ向き直った。
「そうだね」
その声は、少し寂しそうだった。
一行は花を踏まない場所を探し、川辺に荷物を下ろした。
今夜はここで休み、明日の朝にリーネを目指すという。
フィオとガレスの傷を考えれば、これ以上進むべきではなかった。
セナは焚き火の準備を始めた。
ルナも手伝おうとしたが、足を休ませるよう言われ、平らな岩へ座った。
ミオは少し離れた場所に立っていた。
演奏のために取り出した赤いギターを抱え、星花の海を見つめる。
演奏したいと思った。
誰かを助けるためではない。
能力が発動するか確かめるためでもない。
この景色の中で、ただ音を鳴らしてみたかった。
ミオはピックを取り出した。
「弾くの?」
ルナが尋ねる。
「嫌ならやめる」
「歌ってもいい?」
「曲、知らないでしょ」
「さっきと同じように合わせる」
「また外すかも」
「今度は外さない」
ルナは立ち上がろうとした。
「座ったままでいい」
ミオは彼女の近くへ移動した。
星花を踏まないよう、足元を確かめながら岩へ腰を下ろす。
アンプはない。
観客もいない。
照明も、巨大なスクリーンもない。
いるのは、旅の途中で出会った三人と、名前しか知らなかった少女だけ。
ミオは最初の和音を鳴らした。
今度は、戦いのための一定した進行ではない。
東京で最後に演奏していた、名前のない曲。
ブルームノイズの四人のために作った曲だった。
生音は小さい。
しかし、夜風が花を揺らす音と重なり、ひどく遠くまで届くように感じられた。
ルナはすぐには歌わなかった。
ミオの指の動きを見て、旋律を聞いている。
一度目の繰り返し。
二度目。
三度目で、ルナが小さく声を重ねた。
歌詞は知らない。
だから言葉のない歌だった。
ミオの旋律を邪魔せず、その隙間を埋めるような声。
ステージで聞く星宮ルナの歌とは違う。
整いすぎていない。
呼吸の音が混じり、ときどき音が揺れる。
それでも、ミオは嫌ではなかった。
セナが焚き火の準備を止め、こちらを見ている。
フィオは草の上へ座り、耳を二人へ向けていた。
ガレスも何も言わなかった。
誰かの身体が強くなった様子はない。
魔力が増えたわけでもない。
ただ、全員が同じ音を聞いていた。
それだけだった。
曲が終わる。
最後の音は、星花の海へ静かに溶けていった。
「きれいな曲」
ルナが言った。
「名前は?」
「ない」
「まだ決めてないの?」
「決める前に、バンドが終わったから」
ミオはギターを見下ろした。
「最後の曲だった」
「終わってないよ」
「何が」
「今、もう一度弾いたから」
ルナは星花を眺めた。
「少なくとも、この曲は終わってない」
ミオは返事をしなかった。
否定もしなかった。
空には、二つ目の月が昇り始めていた。
星花の海の向こう。
遠い丘の上に、いくつもの灯りが見える。
リーネの街だった。
元の世界へ戻る手がかりがあるかもしれない場所。
二人の本当の旅が始まる場所。
けれど今だけは、先のことを考えなくてもよい気がした。
ミオとルナは並んで座り、二つの月と、地上に広がる星空をいつまでも眺めていた。




