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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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第一部 八話 守られる覚悟

挿絵(By みてみん)

「戻れと言った覚えはないぞ」

ガレスの声が、水路の冷たい空気を震わせた。

魔物と向き合っていたときよりも、恐ろしい顔をしている。

ミオは灰色の旅嚢を腰へ結び、抜け道の中に立っていた。

「戻ったんじゃない」

「俺の目がおかしくなったのでなければ、おまえたちはそこにいる」

「戦ってた場所までは行ってない。音が届くところで止まった」

「屁理屈を言うな」

ガレスが大剣を鞘へ戻す。

左肩から流れた血が、革鎧を黒く濡らしていた。

「俺は管理室で待てと言った。違うか?」

「でも、私たちが来なかったら――」

「結果の話はしていない!」

怒声が響く。

ミオの肩が震えた。

それでも視線は逸らさなかった。

「フィオは怪我をしてた。セナは治せなくて困ってた。あんたも押されてた!」

「だからどうした」

「だから、できることをした!」

「それが正しい判断だったと、なぜ言い切れる!」

ガレスが抜け道の入口まで近づく。

「鎧水蜥蜴がこちらへ向かっていたら? 抜け道に入られたら、おまえたちは逃げられなかった。演奏の音で別の魔物を呼び寄せた可能性もある」

「でも、実際には助かった!」

「今回はな」

その一言が、ミオの反論を止めた。

「運よく正解したことと、正しい判断をしたことは違う」

ガレスの声は、少し低くなっていた。

「冒険者が生き残るには、結果だけで判断してはいけない。十回に一回死ぬ賭けを続ければ、いずれ全員死ぬ」

「じゃあ、何もせずに見てろっていうの?」

「違う」

「あんたたちが死にそうでも、命令を守って隠れてろってこと?」

「違うと言っている!」

「何が違うの!」

ミオの声も、水路に響いた。

「戦えない。治せない。重い荷物も持てない。勝手に動けば邪魔になる。だったら、私たちは何をすればいいの?」

ガレスは答えなかった。

ミオは旅嚢の中へ手を入れ、ギターのネックを握りしめる。必要になるまで、まだ引き出さない。

「何もできない奴は、黙って守られてろってこと?」

「ミオちゃん」

ルナが背後から呼びかけた。

ミオは止まれなかった。

「私だって好きで弱いわけじゃない! 好きでここに来たわけでもない! 何かしたいって思うことまで駄目なの?」

水滴が落ちる。

人が泣いているような音が、遠くから返ってきた。

ガレスの表情から怒りが消えていく。

代わりに、ひどく疲れたような顔になった。

「何かしたいと思うことを、駄目だとは言っていない」

「同じじゃん」

「同じではない」

ガレスは傷ついた左肩を押さえた。

「おまえに死んでほしくないと言っている」

ミオは口を閉ざした。

「俺は以前、七人の仲間と旅をしていた」

ガレスは水路の暗闇へ視線を向けた。

「討伐依頼で、予定にはなかった洞窟へ入った。日が暮れる前に魔物を仕留めれば、報酬が増える。俺は危険だと思ったが、全員が行けると言った」

セナもフィオも、黙って聞いている。

初めて聞く話ではないらしい。

「途中で、最年少の術師が足を負傷した。本来なら、その時点で撤退すべきだった。だが本人は歩けると言った。足手まといになりたくなかったんだろう。俺も、その言葉を信じることにした」

ガレスの右手が、左肩に残る古い傷痕へ触れた。

「帰ってきたのは四人だった」

ミオは何も言えなかった。

「死んだ三人のうち、一人は負傷した術師を守ろうとして死んだ。もう一人は、そいつを運んでいる最中に死んだ。最後の一人は、俺の判断に従って殿を務めた」

声は静かだった。

その静かさが、怒鳴られるよりも重かった。

「戦えない者が悪いんじゃない。弱い者が悪いわけでもない。できないことを隠し、できると言い張ることが、全員を危険にする」

ガレスはミオを見る。

「守られることを認めろ。それは何もするなという意味ではない。自分にできることと、できないことを知れという意味だ」

ミオは唇を噛んだ。

「……じゃあ、今回の私たちは、間違ってたの」

「命令を破ったことは間違いだ」

ガレスは迷わず答えた。

「だが、戦場へ飛び込まず、退路を確保できる位置で止まった。演奏を始める前に、周囲の状況も確認した」

「してない」

「何?」

「周りに別の魔物がいないかまでは、確認してなかった」

ルナが小さく手を上げる。

「私も、そこまで考えられていませんでした」

「……なら、なおさら褒められん」

ガレスは額を押さえた。

フィオが鼻を鳴らす。

「次は俺に聞けばいい」

「次があるみたいに言うな」

「音は役に立った」

フィオは脇腹へ巻かれた布を押さえた。

まだ痛むのか、顔をわずかに歪めている。

「歌が聞こえてから、敵の動きがよく見えた」

「私も」

セナが言った。

「急に魔力が増えたわけじゃないの。でも、それまで見えなかったものが、はっきり見えるようになった」

「見えなかったもの?」

「傷の深さ。どこから血が出ているのか。どうやって魔力を流せばいいのか」

セナは自分の杖を見つめた。

「頭の中にあった怖い気持ちが、少し遠くなった。いつもなら途中で崩れてしまう術式を、最後まで保てた」

ガレスがフィオの傷を確認する。

布には血が染みているが、量は増えていない。

「ガレスは?」

フィオが尋ねる。

「何がだ」

「音が聞こえて、変わったか」

「……分からん」

「嘘だ」

「おまえの鼻で分かる話ではない」

「剣が速くなってた」

「鎧水蜥蜴の体勢が崩れたからだ」

「いつもより踏み込みが深かった」

「おまえは倒れていただろう」

「見えてた」

二人のやり取りを聞き、ルナがミオへ顔を寄せる。

「やっぱり、私たちの音に何かあったのかな」

「偶然かもしれない」

「でも、三人とも」

「一度だけじゃ分からない」

期待するのが怖かった。

もし音楽に特別な力があるのなら、二人にも役割がある。

しかし次に演奏して何も起こらなければ、また無力な自分へ戻ってしまう。

「二人とも、手を見せて」

セナが言った。

「手?」

「魔力の流れを調べるから」

ルナが先に右手を差し出した。

セナはその手首へ指を添え、目を閉じる。

杖の先に小さな光が灯った。

しばらくして、首を傾げる。

「ほとんど感じない」

「何が?」

「魔力。普通の人より少ないくらい」

次にミオの手を取る。

同じように調べたが、結果は変わらなかった。

「ミオも同じ。術を使った形跡もない」

「じゃあ、魔法じゃない?」

ルナが尋ねる。

「少なくとも、二人が魔術を使ったわけではないと思う」

セナは自信なさそうに答えた。

「楽器が魔道具なんじゃないか」

ガレスがギターを見る。

「これは日本で買った普通のギター」

「ニホンでは普通でも、こちらで同じとは限らん」

フィオがギターへ鼻を近づける。

「前と同じ。魔力の臭いはない」

「そんなに何でも臭いで分かるの?」

ミオが尋ねる。

「分かるものは分かる」

「二人にも楽器にも魔力がないなら、どうして……」

セナは考え込んだ。

「音に合わせて、私たち自身の魔力が変化したのかもしれない」

「音を聞いた側が?」

「昔、祭りの踊りや軍楽で、集団の魔力が安定することがあるって教わったの。でも、あれは大勢で同じ動きをするから起きる現象で……二人の演奏は、それよりずっと強かった」

「同じことを、もう一度できるか?」

ガレスが尋ねた。

ミオは答えに迷った。

「分からない」

「正直でよろしい」

「馬鹿にしてる?」

「少しは学んだと思っている」

ガレスは荷物を下ろした。

「ここで休む。フィオの傷と、俺の肩を治療する。水量が落ち着くまで先へは進めん」

セナが慌てて治療道具を準備する。

ルナも立ち上がった。

「私に手伝えることはありますか?」

「清潔な布を押さえていて。術を使う前に、傷を洗うから」

「はい」

ルナはすぐにセナのそばへ座った。

ミオも何かしなければと思ったが、何をすればよいか分からない。

ガレスが顎で荷物を示す。

「水袋を出せ」

「どれ?」

「青い紐のものだ」

ミオは荷物を探り、水袋を取り出した。

「これ?」

「それだ。セナへ渡せ」

言われたとおりにする。

次に包帯。

火種石。

煮沸用の小鍋。

一つずつ指示を受け、必要な道具を準備する。

誰にでもできる作業だった。

それでも、何もせずに立っているよりはよかった。



治療が終わるころには、全員が疲れ切っていた。

ガレスの肩の傷は深くなかった。

フィオの脇腹も、セナが術を安定させたことで出血を止められた。

ただし、すぐに走り回れる状態ではない。

一行は壁画のある管理室へ戻り、そこで夜を越すことになった。

食事は、干し肉を入れた薄い粥だった。

誰も多くを話さなかった。

ミオは壁に背を預け、旅嚢からギターを取り出して膝へ置く。

向かいにはルナが座っている。

「さっきの、もう一回やってみる?」

ルナが小声で尋ねた。

「今?」

「戦っていないときにも、何か起きるか確かめられるかも」

「みんな疲れてる。音を出したら迷惑でしょ」

「小さくなら?」

「今日はやめとこう」

ミオは弦へ触れた。

指先が赤くなっている。

アンプなしのエレキギターは音量が小さい。その分、無意識に強く弦を弾いていたらしい。

「怖い?」

ルナが尋ねる。

「何が」

「次は何も起きなかったら」

ミオは顔を上げた。

ルナは笑っていなかった。

ただ、ミオの中にあるものを見抜いたような目をしている。

「あんたは怖くないの」

「怖いよ」

「なら聞かないで」

「同じだって分かった方が、私は少し楽になるから」

「……変なの」

「それ、フィオにも言われた」

ルナが小さく笑った。

ミオも、わずかに口元を緩める。

「次に演奏するときは」

ミオは言った。

「勝手に始める前に、ガレスたちと決めよう」

「うん」

「どこにいるか。逃げ道があるか。音を出して大丈夫か」

「うん」

「あと、私が弾く曲くらい先に決める」

「さっきは必死に合わせたんだからね」

「途中、一回外してた」

「気づいてたの?」

「ギターボーカルを舐めないで」

「次は絶対に外しません」

ルナは悔しそうに唇を尖らせた。

ステージでは見せないであろう表情だった。

少し離れた場所で、ガレスが目を閉じたまま言う。

「反省会は結構だが、明日にしろ。眠れるうちに眠れ」

「起きてたの?」

「おまえたちがうるさいからな」

「小声だったでしょ」

「地下では、小声でもよく響く」

それきり、ガレスは何も言わなかった。

ミオは毛布へ身体を横たえた。

壁画の巨大な樹が、青い苔の光に照らされている。

異なる景色を内包する、いくつもの円。

そのうちの一つが、本当に日本を描いたものなのかは分からない。

音楽に何が起きたのかも分からない。

分からないことばかりだ。

けれど今夜、ミオの音は誰かへ届いた。

それだけは、夢でも思い違いでもなかった。

目を閉じる。

遠くで水が流れている。

泣き声に似た水滴の音は、もう昨夜ほど恐ろしく聞こえなかった。



翌朝。

水量が落ち着いたのを確認し、一行は再び旧水路を進んだ。

鎧水蜥蜴の姿はない。

流された先で逃げたのか、どこかに潜んでいるのかは分からなかった。

ガレスたちは警戒を続けながら、ゆっくり進む。

数時間後、フィオが足を止めた。

「風が来てる」

前方には、崩れた石と土砂が積み重なっていた。

完全に道を塞いでいるように見える。

しかし石の隙間から、細い光が差し込んでいた。

ミオの頬を、冷たく新鮮な風が撫でる。

湿った地下の臭いとは違う。

草と、かすかに甘い花の香り。

「外?」

ルナが光へ近づく。

「ああ」

ガレスが崩れた石を調べる。

「向こうに空間がある」

出口は、あと少し先だった。


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