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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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7/19

第一部 七話 歌う理由

咆哮が水路を揺らした。

青く光る苔が、天井からぱらぱらと落ちる。

「下がれ!」

ガレスが大剣を抜いた。

狭い通路では、左右へ大きく振ることができない。彼は切っ先を前へ向け、ミオたちをかばうように立った。

フィオが弓へ矢をつがえる。

セナは杖を両手で握った。

「ミオ、ルナ!」

ガレスが暗闇から目を離さずに叫ぶ。

「来た道を戻れ! 管理室まで行け!」

「でも――」

「走れ!」

影が動いた。

青い苔の光の中から、巨大な頭が現れる。

最初に見えたのは、石のような甲殻だった。

水棲生物に似た平たい身体。六本の太い脚。頭部から背中にかけて、黒い殻が幾重にも重なっている。

口の両側から、湾曲した牙が伸びていた。

その身体は、ガレスよりも大きい。

「鎧水蜥蜴だ!」

セナが声を上げる。

「どうして旧水路に……!」

「説明はあとだ!」

ガレスが叫ぶ。

鎧水蜥蜴が突進した。

水が激しく跳ね上がる。

ガレスは正面から大剣を突き出した。切っ先が頭部の甲殻へ当たり、金属同士を打ち合わせたような音が響く。

刃は殻の表面を滑った。

傷一つついていない。

「行くよ!」

ルナがミオの手をつかんだ。

二人は来た道へ走り出した。

背後で、何かが壁へ衝突する。

石が砕ける音。

フィオの矢が放たれる音。

ガレスの怒声。

振り返りたかった。

しかし、今度こそ指示へ従わなければならない。

足元の水が跳ね、革靴の中へ入る。

青い光の中で、どこまで走っても景色が変わらない。

「こっち!」

ルナが抜け道を指差した。

一人ずつしか通れない、細い穴。

ミオはルナを先に押し込んだ。

「ミオちゃんも早く!」

「分かってる!」

腰の旅嚢を胸の前へ抱え、身体を横向きにする。

背後から、再び咆哮が響いた。

あまりの大きさに、身体が震える。

ミオは歯を食いしばり、抜け道へ入った。

石の角が上着を引っかく。

旅嚢を傷つけないよう、両腕で抱えたまま狭い通路を進む。中のギターは衝撃から守られると聞いていても、乱暴には扱えなかった。

前を行くルナのブーツが見えた。

「止まらないで!」

「足が……!」

ルナの動きが鈍る。

怪我をした右足が痛むのだろう。

フィオの言ったとおりだ。

痛くても、ルナは言わない。

「壁に手をついて。急がなくていいから」

「でも、みんなが」

「私たちが戻っても邪魔になるだけ!」

自分で口にした言葉が、胸に刺さる。

邪魔になる。

昨日から何度も突きつけられてきた現実だった。

二人はどうにか抜け道を通り、壁画のある管理室へ戻った。

ルナは石壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返している。

ミオも息を整えられない。

胸が痛い。

脚が震える。

それでも二人は安全な場所まで逃げてきた。

ガレスの指示どおりに。

「ここで、待つしかないの?」

ルナが尋ねる。

「そう言われた」

「三人は大丈夫かな」

「ガレスたちは強い」

「でも、あの剣、効いてなかった」

ミオにも見えていた。

ガレスの剣は、鎧水蜥蜴の甲殻に弾かれていた。

フィオの矢も、あの殻を貫けるとは思えない。

セナは戦うための術を持っていない。

壁の向こうから、低い衝撃音が聞こえた。

管理室の床がわずかに揺れる。

ルナが抜け道へ近づいた。

「戻らないと」

「戻ってどうするの」

「何かできるかもしれない」

「何が?」

ルナは答えられなかった。

ミオは苛立ちをぶつけるように続ける。

「あんたは戦える? 私は戦えない。戻ったら、三人が私たちまで守らなきゃいけなくなる」

「でも」

「ガレスの言うとおりだよ。何もできない奴が前に出ても、邪魔になるだけ」

言葉にするたび、自分自身が傷ついた。

ミオは腰の灰色の一品旅嚢を握った。ギターはその中に収まっている。

水路の空洞を見つけた。

一度は役に立ったと思った。

それでも、仲間が命懸けで戦っている今、旅嚢の中の楽器には何もできない。

武器にもならない。

怪我も治せない。

あの巨大な魔物を止めることもできない。

何もできない。

また衝撃が響いた。

今度は、先ほどより近い。

ルナが耳を澄ませる。

「声が聞こえた」

「水の音じゃない?」

「違う。セナさんの声」

二人は息を止めた。

水滴の泣き声。

何かが石を砕く音。

その間に、確かに人の叫び声が混じった。

ミオとルナは、同時に抜け道を見た。

「戻る」

ルナが言った。

「戦えないのに?」

「戦うためじゃない」

「じゃあ何をするの」

「分からない」

ルナの声は震えていた。

「でも、ここで三人の声を聞きながら待っているなんて、できない」

「行っても何も変わらないかもしれない」

「それでも行く」

「また迷惑をかける」

「なら、迷惑にならない場所まで戻る。私たちにできることを探す」

そんな都合のよい方法があるはずはない。

そう言おうとしたとき、壁の向こうでガレスが叫んだ。

「フィオ、三つ数えたら右へ跳べ!」

返事はなかった。咆哮と水音が言葉の後半を潰している。

続いて、矢が甲殻へ弾かれる音。大剣が石床を擦る音。セナの短い悲鳴。三人がそれぞれ動いているのに、互いの拍が合っていない。

ミオには、それが分かった。演奏中にイヤーモニターが切れ、ドラムもベースも別々の曲を走り始めたときと同じだった。

「戦うことはできない。でも、合図なら届けられる」

「合図?」

「ガレスの声が聞こえてない。三つ数える。ルナは、私より大きな声で繰り返して」

歌うのではない。応援でもない。三人が同時に動くための、ただのカウントだった。

二人は抜け道へ戻った。



水路へ近づくにつれ、戦いの音が大きくなる。

フィオの声。

ガレスの足音。

鎧水蜥蜴の咆哮。

二人は出口まで行かなかった。

水路を見通せる、抜け道の中ほどで止まる。

壁の隙間から、戦いの一部が見えた。

ガレスの左肩から血が流れている。

大剣で牙を受け止めているが、鎧水蜥蜴の力に押され、靴が石の床を滑っていた。

フィオは壁際に倒れていた。

脇腹を押さえ、立ち上がろうとしている。

そのそばで、セナが必死に杖を構えていた。

「フィオ、動かないで!」

「ガレスを、援護しないと」

「その傷じゃ無理!」

セナの杖から白い光が生まれる。

しかし光は弱く、傷口の表面を覆うだけだった。

「止まらない……」

セナの声が震える。

「どうして、血が止まらないの……」

昨夜、彼女が話したことを思い出す。

仲間を治せなかった。

また誰かを治せなかったら怖い。

同じことが、今起きようとしている。

ガレスの左肩から血が流れている。その怒声は水路へ散り、フィオにもセナにも届いていなかった。

「聞いて!」

ルナが叫んだ。歌声ではない。ライブ会場の端まで指示を通す、芯のある地声だった。

「三つで右! いち、に――」

「さん!」

ミオが重ねる。フィオが反応し、右へ転がった。その直後、さっきまで彼のいた場所へ牙が突き刺さる。

「届いた」

だが、次の咆哮で二人の声も消えた。

ミオは腰の一品旅嚢へ手を入れた。ギターで戦うつもりではない。練習中、メンバー全員へテンポを伝えるため、弦を掌で殺して刻んでいた音を思い出したのだ。

赤いギターを取り出し、すべての弦へ軽く手を触れる。音程のない、硬い刻みを鳴らす。

一、二、三、四。

挿絵(By みてみん)

電気もアンプもない小さな音が、なぜか石壁の奥まで真っ直ぐ走った。水面に等間隔の波紋が生まれる。

「フィオさん、次の四つ目で射って!」

ルナが拍へ言葉を載せる。

歌ではない。決められた歌詞も旋律もない。右、伏せて、待って、今。ガレスが出した指示を、ルナが短く整えて届ける。ミオはただ同じ速さを保った。

ばらばらだった三人の足音が、少しずつ刻みへ重なった。

そのとき、ミオの指が一本だけ弦から浮いた。

低い音が一つ、拍の底で鳴った。

ルナの「今!」が偶然同じ高さへ重なる。

水路を流れる水が、わずかに震えた。

ルナの声が石壁を伝う。

水路を流れる水が、わずかに震えた。

青い光が波紋に揺れる。

魔法のような光は生まれない。

何かが爆発することもない。

それでも、セナが顔を上げた。

「歌……?」

彼女の乱れていた呼吸が、旋律に合わせてゆっくり整っていく。

白い光が一度消えた。

セナは目を閉じ、もう一度杖を握り直す。

「大丈夫」

自分へ言い聞かせるように呟く。

「今度は、ちゃんと見る」

杖の先に、再び白い光が生まれた。

先ほどより大きくなったわけではない。

だが、光は揺れていなかった。

細い糸のように伸び、フィオの傷口へ正確に重なっていく。

「血が……」

フィオが脇腹を見る。

止まらなかった出血が、少しずつ弱くなっていた。

セナは治癒を続けたまま叫ぶ。

「フィオ、今なら動ける!」

フィオが立ち上がる。

傷は消えていない。

それでも足取りは先ほどより確かだった。

彼は弓を拾い、鎧水蜥蜴を観察する。

耳が動く。

目が細くなる。

「ガレス! 左前脚の付け根!」

フィオが矢を放つ。

甲殻ではなく、脚の関節へ突き刺さった。

鎧水蜥蜴の身体が傾く。

ガレスは牙を受け流し、横へ回り込んだ。

「もう一度だ!」

フィオが二本目の矢を放つ。

同じ場所へ当たった。

魔物の左前脚から力が抜ける。

ガレスが大剣を両手で握り直した。

ミオは演奏を続ける。

指先が痛い。

水路の冷気で、弦を押さえる指が思うように動かない。

それでも止めなかった。

ルナの声が隣にある。

一人で演奏しているときとは違う。

自分の音がルナの声を支え、ルナの声が次の音を連れてくる。

ガレスが大剣を振り下ろした。

狙ったのは、フィオが射抜いた脚ではない。

体勢を崩した鎧水蜥蜴の右側。

強烈な一撃を受け、魔物の巨体が横へ押し流される。

六本の脚が水底を引っかく。

しかし踏ん張れない。

魔物は流れの深い中央へ落ちた。

「セナ!」

「分かってる!」

セナが杖を水面へ向けた。

白い光が、水路に残された古い術式へ流れ込む。

壁に刻まれていた線が淡く輝いた。

上流の水門が開く。

轟音とともに、大量の水が流れ込んできた。

鎧水蜥蜴の身体が押し流される。

魔物は牙を鳴らし、壁へ脚を立てようとした。

傷ついた前脚では耐えられない。

やがて青い光の向こうへ消えていった。

咆哮が遠ざかる。

水門が閉じると、水路には荒い呼吸だけが残った。

ミオは最後の和音を鳴らした。

余韻が石壁を巡り、ゆっくり消えていく。

ルナの声も止まった。

二人は、その場から動けなかった。

「今の……」

ルナが息を切らしながら言う。

「私たちが、やったの?」

「違う」

ミオは水路の三人を見た。

「倒したのは、あの人たち」

自分たちは剣を振っていない。

矢も放っていない。

傷を治したわけでも、水門を開いたわけでもない。

それでも、演奏を始めてから何かが変わった。

セナの光。

フィオの矢。

ガレスの一撃。

三人が突然、別人になったわけではない。

彼らがもともと持っていた力を、迷わず使えるようになった。

ガレスが、抜け道へ顔を向ける。

ミオたちを見つけると、その表情が険しくなった。

「おまえたち」

低い声が響いた。

助かったことを喜んでいる顔ではない。

明らかに怒っていた。

「戻れと言った覚えはないぞ」

ミオとルナは顔を見合わせた。

どうやら、無事に終わったからといって、すべて許されるわけではないらしい。


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