第一部 六話 閉ざされた街道
石の扉が閉まった瞬間、外の風が途絶えた。
残ったのは、ガレスが持つランタンの光と、水が流れる音だけだった。
通路は、大人が二人並んで歩ける程度の幅しかない。天井も低く、場所によってはガレスが身体を屈めなければならなかった。
石造りの壁は黒く濡れている。
細い亀裂から染み出した水が、水滴となって床へ落ちていた。
ひと粒落ちるたび、奇妙な音が響く。
ああ、と誰かが嘆くような音。
遠くで子供が泣いているような音。
複数の反響が重なると、水路の奥から大勢の声が近づいてくるようにも聞こえた。
「本当に、水の音なんだよね」
ルナが囁いた。
「ああ」
ガレスが答える。
「だが、話し声は控えろ。本物の声が混じっても気づけなくなる」
ルナはすぐに口を閉ざした。
一行は縦一列で進んだ。
先頭はフィオ。
その後ろにガレス、ミオ、ルナ、セナが続く。
フィオは灯りを持っていない。それでも、暗闇の中で迷う様子はなかった。
足元には浅い水が流れている。
一歩進むたび、靴の周りで小さな波紋が広がった。
借りた革靴はスニーカーより丈夫だったが、完全に水を防げるわけではない。冷たい水が染み込み、ミオの足先から少しずつ感覚を奪っていく。
「旅嚢を壁に引っかけるなよ。中身まで飛び出すことはないが、紐が切れたら面倒だ」
ガレスが振り返らずに言った。
「分かってる」
「壊れれば困るのはおまえだ」
「だから分かってるって」
ミオは腰の旅嚢へ手を添えた。
通路が狭いため、少し身体の向きを誤るだけでネックが壁へ当たりそうになる。
獣の爪でついた傷は、まだ目立っていた。
ライブでついた傷なら、思い出だと言えたかもしれない。
だが、これは違う。
死にかけた証拠だ。
見るたびに、あの牙を思い出す。
一行はしばらく無言で歩いた。
時間の感覚が失われていく。
外の景色は見えない。スマートフォンを確認しようにも、電池を消耗させたくなかった。
ただ足を前へ出し、水滴の声を聞き続ける。
やがてフィオが立ち止まった。
片手を上げ、全員へ停止を伝える。
「分かれ道だ」
前方で、通路が三つに分かれていた。
中央の道は水に沈んでいる。
右の道からは冷たい風が流れ、左の道は緩やかに上っていた。
ガレスが荷物から地図を取り出す。
「昔の地図では、中央を進むことになっている」
「でも、通れないよ」
セナがランタンをかざす。
水面は黒く、底が見えなかった。
ガレスは剣の鞘を入れて深さを測る。
腕を伸ばしても先端が底へ届かない。
「崩落で水がせき止められたか」
「右から風が来てる」
ミオが言った。
「出口につながってるんじゃない?」
「風があるからといって、出口とは限らない」
ガレスが答える。
「別の縦穴につながっているだけかもしれん」
「左は?」
「古い管理通路だと思う。途中で終わっている可能性が高い」
フィオが右の通路へ鼻を向ける。
「水の臭いが強い。泥と、苔。それから……古い獣の臭い」
「今いるの?」
「分からない。かなり薄い」
次に左の通路を調べる。
「こっちは乾いてる。何もいない」
「安全そうなのは左だな」
「でも行き止まりかもしれない」
セナが不安そうに言う。
ガレスはしばらく考え、左へ進むことを選んだ。
「行き止まりなら戻る。魔物の臭いがする道へ、確認せず入るよりはいい」
一行は左の通路へ進んだ。
床の傾斜が徐々に急になる。
水は足首より下へ流れ、やがて完全になくなった。
代わりに天井がさらに低くなる。
ガレスは深く腰を曲げなければ進めない。
ミオは旅嚢の口紐が岩へ引っかからないよう、上着の内側へ収めた。
「どれくらい続くのかな」
ルナが後ろから小声で尋ねる。
「知らない」
「その答え、今日だけで何度目だろう」
「知らないものは知らない」
「ミオちゃんは、不安じゃないの?」
「不安だよ」
ミオは前を向いたまま答えた。
「でも、口にしたって道が短くなるわけじゃないし」
「私は、口にした方が少し楽になる」
「じゃあ、好きなだけ言えば」
「うん。暗いし、狭いし、足が冷たいし、天井が落ちてきそうで怖い」
「一気に言うじゃん」
「少し楽になりました」
ルナの声が、本当にわずかに明るくなる。
ミオは呆れながらも、口元が緩むのを感じた。
しばらく進むと、通路の先に小さな部屋が現れた。
管理人が使っていた場所らしい。
壊れた棚と、石で作られた机が残っている。壁の一部には、色の薄れた絵が描かれていた。
巨大な樹。
その根は大地の下へ伸び、枝は雲よりも高いところまで広がっている。
樹の周りには、いくつもの円が浮かんでいた。
円の中には、それぞれ異なる景色が描かれている。
赤い砂漠。
白い山。
青い海。
そして、見たことのない高い建物が並ぶ街。
「これ……」
ミオは壁画へ近づいた。
最後の円に描かれた街は、輪郭がひどく曖昧だった。それでも、石や木で造られたこの世界の街には見えない。
細長い塔。
何層にも重なる窓。
空へ伸びる橋のような線。
「東京?」
ルナも同じものを連想したらしい。
「似てるけど……分からない」
絵は古く、細部が欠けている。
日本の都市に見えるのは、自分たちがそう見たいからかもしれない。
「ガレス、この木は?」
「さあな」
ガレスは壁画を眺める。
「古い水路には、意味の分からん壁画が残っていることがある。建設前にここへ住んでいた人間が描いたとも、昔の水路守が信仰していたものだとも言われている」
「こんなに大きな木、本当にあるの?」
「北東の大陸には、山より大きな樹があるという話は聞いたことがある」
「そこへ行けば、何か分かるかも」
「ここから北東の大陸まで、どれほど離れていると思っている」
「知らない」
「徒歩で行ける距離ではない」
ガレスはそれ以上取り合わず、部屋の奥を調べ始めた。
ミオはもう一度、壁画を見た。
巨大な樹と、円の中に描かれた異なる世界。
胸の奥に、かすかな期待が生まれる。
ただし、それは今にも消えそうなほど弱かった。
「行き止まりだ」
フィオの声がした。
部屋の奥には扉があったが、その先は崩れた石で完全に塞がれている。
「戻るしかないか」
ガレスが言う。
「待って」
ミオは壁へ近づいた。
崩れた通路の脇から、空気が流れている気がする。
頬へ当たるほどではない。
耳を澄ましても、水滴の声が邪魔をしてよく分からなかった。
「この向こう、空洞になってない?」
「何を根拠に」
「何となく、音が違う」
ミオは崩れた壁を指で軽く叩いた。
硬い音が返る。
場所を変えて、もう一度叩く。
わずかに低い音。
ライブハウスでも、同じ場所にいるのに音の響き方が違うことがある。
客が多い日。
機材の位置が変わった日。
ステージの幕を下ろした日。
ミオはそれを耳で聞き分けていた。
「ギターを使ってもいい?」
ガレスが眉を寄せる。
「何をするつもりだ」
「音を鳴らす。この部屋の反響を確かめたい」
「魔物に気づかれる」
「一回だけ。小さく鳴らす」
ガレスはフィオを見た。
フィオが周囲の音を探り、やがてうなずく。
「近くに動く臭いはない」
「一度だけだ」
許可を得て、ミオは旅嚢へ手を入れた。赤いギターのネックを思い浮かべて引き出し、構えた。
壁画の前に立ち、弦を軽く鳴らす。
頼りない生音が、石の部屋へ広がる。
音はすぐに消えなかった。
壁と天井を何度も跳ね返り、細い余韻となって残る。
ミオは耳を澄ました。
右側の壁から戻る音だけが、わずかに遅い。
「やっぱり。あっちに空間がある」
フィオが壁へ耳を当てる。
拳で何か所か叩いた。
「空洞だ」
「だが、この石をどけるのは無理だ」
ガレスが崩れた壁を調べる。
一つ動かせば、天井まで崩れる危険があった。
フィオは部屋の隅を見回し、壊れた棚を押しのけた。
その後ろから、縦に細長い穴が現れる。
大人一人が、かろうじて通れる幅だ。
「点検用の抜け道か」
ガレスがランタンを近づける。
穴の先には、下へ続く石段があった。
「やった」
ルナが声を上げる。
「ミオちゃんのギター、役に立ったね」
「このくらい、別に」
そう答えながらも、ミオはギターのボディーを撫でた。
この世界へ来て初めて、自分の音が何かの役に立った。
ほんの小さなことだった。
それでも、胸の奥に温かなものが灯った。
「フィオ、先を見られるか?」
「行く」
フィオは身体を横向きにし、細い穴へ入った。
暗闇の中へ消えていく。
しばらくして、下の方から声が届いた。
「通れる。さっきの右の道につながってる」
「魔物は?」
「新しい臭いはない」
一行は順番に抜け道を通った。
最初にセナ。
次にルナ。
ミオは演奏を終えたギターを旅嚢へ戻し、口紐を確かめてからガレスへ先に渡した。
最後にガレスが大きな身体を押し込む。
抜け道の先は、広い水路だった。
先ほどの分岐で右へ続いていた道らしい。
天井が高く、流れる水も深い。
壁には青白い苔が生え、ランタンがなくても周囲の形がかすかに見えた。
「きれい……」
ルナが呟く。
青い光が水面に映り、揺れるたびに天井へ淡い模様を描いている。
閉ざされた地下に、もう一つの夜空があるようだった。
ミオは、しばらくその光を眺めていた。
しかしフィオは動かなかった。
耳を伏せ、暗い水路の先を見つめている。
「どうした?」
ガレスが尋ねる。
「臭いが変わった」
「さっきは何もいないと言っただろ」
「いなかった。今、来た」
低い音が響いた。
水滴の声ではない。
何か硬いものが、石の床を擦る音。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
青く光る水の向こうで、大きな影が動いた。
ミオの背中を、冷たいものが走る。
フィオが弓へ手を伸ばした。
「灯りを消せ」
ランタンの炎が消される。
青い苔の光だけが残った。
静寂の中、誰かの荒い呼吸が聞こえる。
自分のものか、ルナのものか分からない。
暗闇の奥で、二つの大きな目が開いた。
そして、水路全体を震わせる咆哮が響いた。




