第一部 五話 閉ざされた街道
翌朝、ミオは鳥の声で目を覚ました。
正確には、鳥だと思った。
高く澄んだ鳴き声が、草原の向こうから何度も響いている。
毛布から顔を出すと、朝日に染まった空を三羽の生き物が飛んでいた。
鳥に似ているが、翼は半透明だった。羽ばたくたび、薄い膜が朝日を受けて七色に輝く。
その一羽が大きく旋回する。
長い尾から、光の粒がこぼれ落ちた。
「……きれい」
隣から、ルナの声がした。
いつから起きていたのか、毛布にくるまったまま空を見上げている。
「鳥かな」
「ガラスみたいな翼ですね」
「飛びにくそう」
「最初に出てくる感想がそれ?」
ルナが小さく笑った。
昨日の夜、魔物に襲われた。
魔法を見た。
月が二つある空の下で眠った。
それでも朝は来る。
目の前に広がっている景色があまりに穏やかで、すべてが悪い夢だったように思えた。
「朝食にするぞ」
ガレスの声が、短い安らぎを打ち切った。
朝食は黒パンと、干した果実だった。
干し果実は赤黒く、見た目はあまりよくない。しかし口へ入れると、強い酸味のあとに蜂蜜のような甘さが広がった。
「これ、おいしいです」
ルナが目を輝かせる。
「マルカの実。食べすぎると腹を壊す」
セナが注意する。
すでに二個目へ手を伸ばしていたミオは、何もなかったふりをして引っ込めた。
食事が終わると、出発の準備が始まった。
ルナの足首は、まだ少し腫れている。
セナが治癒術をかけ直し、布を巻いて固定した。
「歩けそう?」
「はい。昨日よりずっと楽です」
「痛くなったらすぐに言ってね。絶対に我慢しないで」
「分かりました」
返事をするルナへ、フィオが疑わしそうな目を向ける。
「こいつは我慢する」
「どうして分かるの?」
「昨日からずっと、痛い臭いがしてた」
ルナが困ったように笑う。
「痛みにも臭いがあるの?」
「汗と呼吸で分かる」
「じゃあ、嘘をついても分かっちゃうんだ」
「だいたいは」
フィオの耳が、ぴくりと動いた。
「おまえ、笑ってないのに笑うんだな」
ルナの笑顔が止まった。
「え?」
「痛いのに笑う。怖いのに笑う。変なの」
「フィオ」
セナがたしなめる。
「そういう言い方は失礼だよ」
「間違ってない」
「間違ってなくても、言っていいことと悪いことがあるの」
フィオは納得していない顔で尻尾を振った。
ルナはしばらく黙っていたが、やがて笑顔を消した。
「ごめんなさい。次からは、痛いときに痛いと言います」
「俺に謝るな」
「分かりました」
今度は笑わずに答えた。
フィオは満足したように荷物を背負う。
ミオは二人のやり取りを見ながら、自分にはできないと思った。
ルナの笑顔が不自然だとは感じていた。
けれど、面と向かって指摘するほどの理由も勇気もなかった。
フィオには、相手から嫌われることへの迷いがないらしい。
「これを履け」
ガレスが、ミオの足元へ一足の靴を置いた。
革製の編み上げ靴だった。傷だらけだが、底は厚く、ミオのスニーカーより丈夫そうだ。
「誰の?」
「予備だ。少し大きいだろうが、布を詰めれば使える」
「私のスニーカーじゃ駄目?」
「今日の道を見てから同じことを言えるなら、好きにしろ」
ミオは靴を持ち上げた。
乾燥させた草と革の匂いがする。
「ルナの分は?」
「セナの予備がある。舞台靴よりはましだ」
「舞台衣装だって分かるんだ」
「その格好で畑仕事をするとは思えん」
ルナにはセナの予備の靴と、茶色い外套が貸された。
華やかな衣装の上から地味な外套を羽織ると、少しだけ旅人らしく見える。
ミオも、制服のシャツの上へ薄手の革の上着を借りた。
袖が長い。
肩も余る。
鏡がなくても、似合っていないのは分かった。
「ちょっと格好よくなったよ」
ルナが言う。
「嘘」
「本当です。バンドの衣装みたい」
「アイドルに衣装を褒められても、営業にしか聞こえない」
「今は仕事じゃないよ」
ルナの言葉に、ミオは返事ができなかった。
今は仕事ではない。
それなら、ルナは何者なのだろう。
星宮ルナは芸名なのか。本名なのか。
笑顔や丁寧な話し方まで、全部仕事のために作られたものなのか。
「出発するぞ」
ガレスに促され、一行は野営地を後にした。
◇
朝の草原は、夜とはまるで違って見えた。
腰まで伸びた草は銀色がかった緑色で、風が吹くたび大きな波を作る。
ところどころに、昨夜光っていた青い花が咲いている。
朝になると花びらは白くなり、中心だけが淡い青色を残していた。
「星花だ」
セナが教えてくれた。
「星花?」
「夜になると光るでしょう? 昔はこの辺り一面に咲いていたんだって」
「今は違うの?」
「水の流れが変わって、ずいぶん減ったらしいよ」
セナは一輪の花へ触れた。
「リーネの街では、旅立つ人に星花を渡す習慣があるの。離れていても、同じ星の下にいるっていう意味で」
「素敵ですね」
ルナが腰を屈める。
しかし花を摘まず、見るだけに留めた。
ミオも足を止めたかったが、先を行くガレスとの距離が開いていることに気づき、歩き続けた。
午前中、一行は東の湿地へ入った。
足元は柔らかく、油断すると靴が泥へ沈む。
フィオが先導し、水の浅い場所を選んで進む。
目的の薬草は、水面に浮かぶ丸い葉の下に生えていた。
セナが採取方法を二人へ教える。
「根元から抜かないで、上から三節目を切るの。根を残しておけば、また生えるから」
「これで合ってる?」
ミオは借りた小刀で茎を切った。
「うん。でも葉の裏を見て。赤い斑点があるものは毒を持ってるから触らないでね」
「先に言ってよ!」
「今言ったよ」
「切ったあとに!」
ミオは慌てて葉を裏返す。
幸い、赤い斑点はなかった。
ルナはミオより慎重だった。
一枚ずつ葉の裏を確認し、形を崩さないよう籠へ入れていく。
「意外と上手だな」
フィオが言う。
「こういう作業は得意なの」
「アイドルって、薬草も採るんだ」
ミオが尋ねる。
「採らないよ。衣装の細かい飾りを直したり、ファンの人に渡すカードを書いたりするから、手先を使うことには慣れてるだけ」
「全部スタッフがやるんだと思ってた」
「全部やってもらえるほど偉くないです」
ルナは少しだけ意地悪そうに笑った。
ミオは、自分がまた勝手な想像をしていたことに気づく。
昼過ぎには、必要な量の薬草が集まった。
薬草の籠と水袋を分けて持ち、一行はリーネへ続く旧街道を目指した。
ミオも小さな籠を一つ持った。
重くはない。
それでも、誰かの役に立つ荷物を持っているという事実が嬉しかった。
◇
異変に最初に気づいたのは、フィオだった。
彼の耳が前方へ向き、鼻が風の臭いを探る。
「止まれ」
一行が足を止める。
「何かいる」
フィオは地面へ膝をついた。
街道の土に残された跡を調べる。
ミオには、大小の穴が無数に開いているようにしか見えない。
「何の足跡?」
セナが尋ねる。
「岩角獣。かなり多い」
「群れか?」
「百じゃ足りない」
ガレスの顔が険しくなる。
彼は道の先にある小高い丘へ登った。
腹ばいになり、草の間から向こう側を確認する。
「まずいな」
ガレスが低く呟いた。
ミオも見ようと丘へ近づいた。
「私も――」
「来るな」
ガレスの声が飛ぶ。
「見るだけ」
「離れていろ」
「状況が分からないまま待ってろっていうの?」
「そうだ」
命令口調が、ミオの神経を逆撫でした。
自分だけ何も知らないまま守られる。
昨夜から、ずっとそればかりだ。
ミオは姿勢を低くし、ガレスの後ろへ進んだ。
丘の頂上から、街道の先が見えた。
茶色い大地を、巨大な獣の群れが埋め尽くしている。
一頭一頭は牛ほどの大きさだった。灰色の分厚い皮膚と、岩のような角を持っている。
百どころではない。
数え切れないほどの獣が街道を横切り、東から西へ移動している。
地面が低く震えていた。
「すご……」
「下がれ!」
ガレスがミオの肩をつかむ。
強く引かれ、ミオは丘の斜面を転がり落ちた。
「痛っ!」
籠の中から薬草がこぼれる。
「何すんの!」
「動くなと言ったはずだ!」
ガレスが声を荒らげた。
「見るくらいいいでしょ!」
「群れの外側に、見張りの個体がいる。気づかれれば、ここまで突っ込んでくる」
「そんなの知らない!」
「知らないから、指示に従えと言っている!」
ガレスの怒声に、ミオは言葉を失った。
「おまえが死ぬだけなら、好きにしろ」
彼はミオを睨んだ。
「だが、おまえを助けようとした誰かも死ぬ」
その言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
「ガレス、言いすぎだよ」
セナが間に入る。
「甘やかせば、次も同じことをする」
「でも」
「いい」
ミオは立ち上がった。
泥のついた薬草を拾い、籠へ戻す。
「もう勝手に動かない。これでいいんでしょ」
ガレスは何も答えなかった。
ルナが近づこうとしたが、ミオは背中を向けた。
「それで、どうする?」
声だけをガレスへ向ける。
「この群れ、いついなくなるの」
「岩角獣の渡りなら、早くても七日。長ければ半月だ」
「迂回路は?」
「北へ向かえばある。十日は余計にかかる」
ガレスが食料袋を確認する。
「薬草を傷めず運ぶことも考えると、無理だな」
「戻るの?」
セナが不安そうに尋ねる。
「戻っても依頼は失敗だ。違約金を払うことになる」
「もう一つ、道がある」
フィオが言った。
全員の視線が集まる。
「あそこ」
彼が指した先には、草に覆われた石造りの入口があった。
半分ほど地面へ埋まり、内部には暗闇が広がっている。
「泣き石の旧水路か」
ガレスが顔をしかめる。
「通れるの?」
セナが尋ねる。
「昔はリーネまで続いていた。だが、何年も使われていない」
「どうして?」
「崩落と魔物だ」
ガレスはしばらく考えた。
岩角獣の群れ。
食料の残量。
薬草を届ける期限。
そして、ミオとルナ。
すべてを順番に見比べる。
「旧水路を使う」
ガレスは決断した。
「中で夜を越すことになる。明るいうちに準備するぞ」
石造りの入口を塞いでいた蔦を切り払う。
湿った冷気が、暗闇の奥から流れてきた。
その風に混じり、人の泣き声のような音が聞こえる。
細く。
長く。
誰かが助けを求めるように。
「今の、何?」
ルナがガレスのそばへ寄る。
「水滴の音だ。壁の鉱石に当たると、ああ聞こえる」
「だから、泣き石?」
「そうだ」
ガレスが火種石で灯したランタンを掲げる。
光は数メートル先までしか届かない。
その向こうには、出口の見えない闇が続いていた。
ミオは腰に結んだ灰色の旅嚢を握った。中には赤いギターが眠っている。
広い草原にいる間でさえ、魔物から逃げられなかった。
こんな狭い場所で襲われたら、今度こそ何もできない。
「怖い?」
隣でルナが尋ねた。
「別に」
「私は怖い」
ルナは笑っていなかった。
ただ、正直にそう言った。
ミオはしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……私も」
二人はガレスたちの後に続き、泣き石の旧水路へ足を踏み入れた。
最後尾のフィオが、入口に簡単な印を残す。
外から差し込む光が、少しずつ細くなる。
やがて石の扉が閉じられ、草原も、二つの月も、完全に見えなくなった。




