第一部 四話 焚き火の向こう側
野営地へ着くころには、ミオの脚は鉛のように重くなっていた。
助けられた場所から、それほど遠くないと聞いていた。
しかし、ガレスたちの「遠くない」は、ライブと学校を往復する程度しか歩かないミオの感覚とは違った。
腰の高さまで伸びた草をかき分け、傾斜のある地面を進む。ギターが背中で揺れるたび、ストラップが肩へ食い込んだ。
セナとフィオは、ルナを乗せた担架を運びながら歩いている。
ガレスは先頭で周囲を警戒していた。大剣を背負い、荷物まで持っているのに、歩調はほとんど乱れない。
「あと、どれくらい?」
ミオが尋ねる。
「少しだ」
「さっきも聞いた」
「少しは少しだ」
ガレスは振り返りもしなかった。
ミオは言い返す気力を失い、足元へ視線を落とした。
「荷物、持とうか?」
担架の上からルナが声をかけてくる。
「怪我人が何言ってんの」
「ギターだけでも」
「絶対に嫌」
「そこまで即答しなくても」
「触らせたくないんじゃなくて、あんたは自分の足を心配して」
言ったあとで、自分の口調が強すぎたかもしれないと思った。
ルナは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さく笑った。
「ありがとう」
「何が」
「心配してくれて」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「……話しかけないで。疲れてるから」
ルナの笑い声が、夜の草原へ小さくこぼれた。
この状況で、よく笑えるものだ。
ミオには理解できなかった。
やがて、前方に橙色の明かりが見えた。
低い丘の陰に、石を積んで作られた囲いがある。中央には黒く焦げた焚き火跡があり、風を避けるための壁と、雨水をためる石槽が設置されていた。
「昔の街道の休憩所だ」
ガレスが説明する。
「今夜はここで休む」
セナとフィオが担架を下ろす。
焚き火へ薪を足したあと、ガレスはミオの肩に残った赤い擦れ跡へ目を止めた。
「その楽器、毎日そのまま運ぶつもりか」
「ほかに方法がないから」
ガレスは自分の荷物を探り、掌に収まる灰色の布袋を放った。口紐には、銀色の糸で小さな渦巻きが縫われている。
「一品旅嚢だ。最初に登録した物を、一つだけ収められる」
「これにギターが入るの?」
「何でも入るわけじゃない。登録できるのは、決めた一品だけだ。別の品を入れようとしても袋が拒むし、一度登録した物は二度と変更できない。中では湿気も衝撃もほとんど受けない」
フィオが薪の束を抱えたまま、袋を覗き込んだ。
「じゃあ、薪や食料は?」
「入らん。だから俺たちは普通の荷袋を背負っている。こいつは安く売られているが、使い勝手が悪くてな。武器を予備として隠す者もいるが、大抵の冒険者は万が一の備えに空のまま一つ持っている」
「ガレスも?」
「ああ。荷物を失ったとき、どうしても守りたい物ができたときのためにな」
半信半疑のまま、ミオは袋の口を赤いボディーへ近づけた。ギターは輪郭から淡い光へほどけ、音もなく袋の中へ吸い込まれた。袋の重さは、硬貨を数枚入れた程度しか増えない。
「……消えた」
「盗まれてないよね?」
担架から身を起こしたルナが、本気で心配そうに尋ねる。
「待って。一度登録したら変えられないって……これ、もう返せないんじゃないの」
ミオの声に、ガレスは口元だけで笑った。
「そうなるな」
「先に言ってよ。私、これを買うお金なんて」
「今はいらん。生き延びて、自分で稼げるようになってから返せ。空の旅嚢より、中身ごと道で壊されないほうがましだ」
贈り物ではなく、借りでもない。返すべき金額が残る約束だった。その言い方が、異世界へ落ちたばかりのミオにはありがたかった。いつか返すという未来を、ガレスが当然のように置いてくれたからだ。
「名前と形を思い浮かべて手を入れろ。持ち主と認められた者にしか取り出せん」
ミオが赤いギターを思い浮かべると、指先に馴染んだネックが触れた。引き寄せた瞬間、袋よりはるかに大きなギターが元の形へ戻る。傷の位置も、弦の張りも変わっていなかった。
安堵したあと、ミオはもう一度ギターを収納した。笑われるほど不格好な旅を、ようやく少しだけ終えられた気がした。
「高い道具なんじゃないの」
「昔、仲間だった吟遊詩人が使っていた物だ。今は空いているから貸すだけだぞ。町へ着いたら、自分たちの報酬で同じ物を買え」
それでもミオは、灰色の袋を両手で受け取った。
「ありがとう。絶対に返す」
その夜から、赤いギターが人目に触れるのは、ミオが弾くと決めたときだけになった。
ルナは礼を言い、セナの肩を借りて石壁のそばへ移動した。
ガレスは荷物から薪を取り出した。
乾いた枝を組み、その下へ毛羽立った布のようなものを詰める。火打ち石を使うのかと思ったが、彼が取り出したのは赤い小石だった。
小石を二度打ち合わせる。
火花ではなく、小さな炎が直接生まれた。
炎は布へ移り、枝を包みながら徐々に大きくなっていく。
ミオは思わず見つめた。
「それも魔法?」
「火種石だ」
「ヒダネイシ?」
「火の魔力を蓄えた石。これくらいなら雑貨屋でも売ってる」
ガレスは当然のように答えた。
「魔力を蓄える……」
日本ではあり得ない言葉だった。
だが、ルナの足を包んだ白い光を見たあとでは、否定する方が難しい。
焚き火が安定すると、セナが鍋へ水を入れた。
乾燥させた肉、豆、細かく刻んだ根菜。それらを順番に放り込み、木べらでかき混ぜる。
湯気と一緒に、塩気のある匂いが広がった。
ミオの腹が鳴った。
思った以上に大きな音だった。
全員の視線が集まる。
「今のは違う」
「何が違うんですか?」
ルナが笑いを堪えながら尋ねる。
「ギターの音」
「そんな音も出るんですね」
「出ない」
「なら、腹の音だな」
ガレスが平然と言う。
「分かってるなら言わなくていいでしょ」
ミオは焚き火から顔を背けた。
フィオの尻尾が、楽しそうに左右へ揺れている。
しばらくして、セナが木の椀へスープをよそった。
最初の一杯をルナへ渡し、次をミオへ差し出す。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
ミオは受け取ろうとして、途中で手を止めた。
「私、お金ないけど」
「食べてから考えればいいよ」
「でも」
「腹を空かせたままだと、明日の話もできないでしょう?」
セナは押しつけるように椀を持たせた。
木の表面から、じんわりと熱が伝わってくる。
「……ありがとう」
ミオは小さな声で礼を言った。
スープは薄味だった。
肉は硬く、豆も完全には煮えていない。それでも、身体へ染み込むように温かかった。
一口飲むと、自分がどれほど喉を渇かせていたのか分かった。
隣では、ルナが両手で椀を持っている。
「おいしいです」
「そう? よかった」
セナが嬉しそうに笑う。
「本当は香草を入れたかったんだけど、昨日使い切っちゃって」
「十分おいしいです。身体が温まります」
ルナは、少し大げさなくらい丁寧に感想を伝えていた。
仕事で食事の感想を求められることも多いのだろう。
ただ、その顔はステージ上の笑顔より自然に見えた。
フィオはスープへ硬い黒パンを浸して食べている。
彼の耳が、ときどき別々の方向へ動く。
「その耳、本物なんだ」
ミオが言うと、フィオの動きが止まった。
「偽物に見えるか?」
「そういうわけじゃないけど」
「触るなよ」
「触らないって」
「人間はすぐ触りたがる」
フィオは耳を伏せ、警戒するようにミオを見た。
彼にとっては、その姿こそが当たり前なのだ。
珍しいものを見るような自分の視線が失礼だったと、遅れて気づく。
「ごめん」
ミオが謝ると、フィオは少し意外そうな顔をした。
「触らなければいい」
それだけ言い、再び黒パンを食べ始める。
食事が一段落すると、ガレスは荷物から一枚の紙を取り出した。
手描きの地図だった。
焚き火の近くへ広げ、石で四隅を押さえる。
「ここが、今いる休憩所だ」
ガレスは地図の下側を指した。
線と記号の横に文字らしきものが書かれている。
ミオには読めなかった。
アルファベットでも漢字でもない。細い枝を組み合わせたような文字だった。
「これ、何て書いてあるの?」
「ラフィリア南部旧街道、第四休憩所」
「読めない」
ガレスの手が止まる。
「話は通じるのに、文字が読めないのか?」
「そっちこそ、どうして日本語を話せるの」
「ニホン語など話していない。大陸共通語だ」
ミオとルナは顔を見合わせた。
ミオには、ガレスたちの言葉が日本語に聞こえていた。
口の動きと声も、自然に一致している。
「私たちの言葉も、共通語に聞こえていますか?」
ルナが尋ねた。
「少なくとも、言っていることは分かる」
「でも、文字は分からない……」
ルナがスマートフォンのメモ画面を開き、日本語で短い文章を入力した。
――私の名前は星宮ルナです。
それをガレスへ見せる。
「読めますか?」
「いや」
セナとフィオも画面をのぞき込んだ。
「すごくきれいな板ですね」
セナは文字より、光る画面へ興味を示していた。
「ガラスの中に文字が浮かんでる」
「魔道具じゃないのか」
フィオが鼻先を近づける。
「魔力の臭いはしない」
「これはスマートフォンといって……」
ルナは説明しかけ、言葉に詰まった。
通信網も電気も知らない相手へ、どう説明すればよいのか分からない。
「遠くの人と話したり、写真を撮ったりできる道具です。ただ、ここでは使えません」
「遠話石に似てるな」
ガレスが言う。
「遠話石?」
「魔力を通して声を届ける道具だ。都市間で使われる。こんなに薄くはないが」
この世界にも、遠くの人と話す手段はある。
しかし、それはスマートフォンとは違う。
似ている部分があるからこそ、ここが日本ではないという事実が際立った。
ガレスが地図へ視線を戻す。
「北東にトーサ村がある。俺たちはそこへ向かう途中だったが、依頼の都合で明日から東へ進む」
「依頼って?」
「リーネの街へ運ぶ薬草を採取する。採取地は東の湿地だ」
「リーネは大きな街ですか?」
ルナが尋ねる。
「この地方では一番大きい。神殿も役所もある」
「外国や、別の大陸について調べられますか?」
「トーサ村よりは、情報が集まるだろう」
「そこへ連れていってもらえませんか」
ルナは迷いなく頭を下げた。
「お願いします。私たちだけでは、ここで生きていけません」
ミオは思わずルナを見た。
あまりにもはっきりと、自分たちの弱さを認めたからだ。
ガレスはすぐには答えなかった。
「俺たちは、リーネへ直接向かうわけじゃない。薬草を採るために湿地へ寄り、その後で旧水路を通る。順調でも五日はかかる」
「それでもお願いします」
「道中では魔物と戦うことになる」
「分かっています」
「いや、分かっていない」
ガレスの声が低くなる。
「おまえたちは棘犬を前に、逃げることすらまともにできなかった。武器もない。野営の経験もない。長く歩くための服も靴もない」
ミオは椀を握りしめた。
事実だった。
反論できる言葉がない。
「二人が増えれば、その分だけ食料も水も必要になる。戦闘になれば守らなければならん。俺たちにとっては負担だ」
「なら、何かする」
ミオは顔を上げた。
「料理でも、荷物運びでも。やり方を教えてくれれば覚える」
「昨日までギターを背負って歩くだけで息を切らしていた奴が、何を運ぶ」
「慣れれば平気」
「慣れる前に倒れる」
「やってみなきゃ分からないでしょ」
「できないことを、できると言うな」
焚き火の薪が、乾いた音を立てた。
ミオは唇を噛んだ。
「じゃあ、ここに置いていくわけ?」
「話を最後まで聞け」
ガレスは地図を畳んだ。
「同行させる。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺の指示には必ず従え。戦いになったら、言われた場所から動くな。危険や怪我を隠すな。荷物は持てる分だけ持て。持てないなら正直に言え」
ガレスはミオをまっすぐ見た。
「そして、守られることを恥じるな」
ミオは返事をしなかった。
「余計な意地を張る奴から死ぬ。おまえが勝手に動けば、助けるために誰かが危険を冒す。それを忘れるな」
「……分かった」
「聞こえん」
「分かりました」
無理やり言葉を押し出す。
納得したわけではない。
ただ、彼らに置いていかれれば生きていけない。
「私は条件に従います」
ルナが答えた。
「リーネまで、よろしくお願いします」
彼女は深く頭を下げる。
ミオも少し遅れて頭を下げた。
「お願いします」
ガレスは短くうなずいた。
「今夜は休め。話は明日の朝に続ける」
◇
ミオは、なかなか眠れなかった。
ガレスたちは交代で見張りをするという。
石壁の内側には毛布が敷かれ、ミオとルナには一番風の当たらない場所が譲られた。
ルナは隣で目を閉じている。
眠っているのかどうかは分からない。
ミオは毛布から抜け出し、焚き火の方を見た。
見張りをしているのはフィオだった。
石壁の上に座り、暗い草原を眺めている。獣の耳だけが、周囲の音を追って動いていた。
焚き火の反対側から、小さく鼻をすする音が聞こえた。
セナだった。
膝を抱えて座り、杖を胸元へ抱いている。
その横に、いつの間にかルナがいた。
やはり眠っていなかったらしい。
「足、痛みますか?」
セナが尋ねる。
「少しだけ。それより、セナさんは?」
「煙が目に入っただけ」
泣いていた人がよく使う言い訳だった。
ルナは追及しなかった。
ただ、セナの隣へ腰を下ろす。
「さっきは、ありがとうございました」
「大したことしてないよ。痛みを少し抑えただけ」
「私にとっては、大したことです」
「本当なら、もう歩けるくらいまで治せたらよかったんだけど」
セナは杖を握った。
「私、治癒術師なのに、治すのが下手なの」
「そんなことは」
「あるよ。ガレスたちと組む前、別のパーティーにいたの。そこで仲間が怪我をした。でも、私の力じゃ血を止めきれなかった」
セナの声が震える。
「その人は助かった。でも、右腕が動かなくなった。もっと上手な治癒術師が一緒だったら、今も冒険者を続けられたかもしれない」
ルナは何も言わずに聞いていた。
「だから勉強してる。練習もしてる。でも、魔力の量は生まれつき決まってるから」
「それでも、やめなかったんですね」
「やめた方がいいのかもしれない」
「どうして?」
「また誰かを治せなかったら怖いから」
ルナは焚き火を見つめた。
橙色の光が、その横顔を照らしている。
「怖くても、セナさんは今日、私を治してくれました」
「足を少し楽にしただけだよ」
「少しじゃありません。何も分からない場所で、知らない生き物に襲われて……私、本当に怖かったんです」
ルナの声から、作られた明るさが消えていた。
「セナさんの光を見たとき、助かったんだって思えました。それだけで、すごく安心しました」
「でも」
「できなかったことより、できたことを喜んでもいいと思います」
セナは黙った。
ルナが柔らかく微笑む。
「少なくとも、私はセナさんがいてくれてよかったです」
きれいな言葉だった。
アイドルとして、何度も誰かを励ましてきたのだろう。
それでも今の言葉は、用意された台詞には聞こえなかった。
セナの目から、再び涙がこぼれた。
「ありがとう」
「はい」
「ルナも、帰れるといいね」
ルナの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……はい」
答えるまでのわずかな間に、ミオは気づいた。
ルナはセナへ向けた言葉を、自分自身にも言い聞かせていたのだ。
できなかったことより、できたことを喜んでいい。
何もできないと感じているのは、セナだけではない。
ミオも。
おそらく、ルナも同じだった。
ミオは声をかけず、毛布へ戻った。
仰向けになり、旅嚢から取り出したギターを胸の上へ抱える。弾くためではない。傷が増えていないことを確かめるためだった。
指先で弦を一本だけ弾いた。
小さく、乾いた音。
誰にも聞こえないほどの音だった。
この世界で、歌やギターに何ができるのだろう。
答えは見つからない。
ただ、焚き火の向こうでは、少しだけ泣いたセナと、笑顔を作るのをやめたルナが、二人で静かに夜空を見上げていた。




