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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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4/19

第一部 四話 焚き火の向こう側

野営地へ着くころには、ミオの脚は鉛のように重くなっていた。

助けられた場所から、それほど遠くないと聞いていた。

しかし、ガレスたちの「遠くない」は、ライブと学校を往復する程度しか歩かないミオの感覚とは違った。

腰の高さまで伸びた草をかき分け、傾斜のある地面を進む。ギターが背中で揺れるたび、ストラップが肩へ食い込んだ。

セナとフィオは、ルナを乗せた担架を運びながら歩いている。

ガレスは先頭で周囲を警戒していた。大剣を背負い、荷物まで持っているのに、歩調はほとんど乱れない。

「あと、どれくらい?」

ミオが尋ねる。

「少しだ」

「さっきも聞いた」

「少しは少しだ」

ガレスは振り返りもしなかった。

ミオは言い返す気力を失い、足元へ視線を落とした。

「荷物、持とうか?」

担架の上からルナが声をかけてくる。

「怪我人が何言ってんの」

「ギターだけでも」

「絶対に嫌」

「そこまで即答しなくても」

「触らせたくないんじゃなくて、あんたは自分の足を心配して」

言ったあとで、自分の口調が強すぎたかもしれないと思った。

ルナは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さく笑った。

「ありがとう」

「何が」

「心配してくれて」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

「……話しかけないで。疲れてるから」

ルナの笑い声が、夜の草原へ小さくこぼれた。

この状況で、よく笑えるものだ。

ミオには理解できなかった。

やがて、前方に橙色の明かりが見えた。

低い丘の陰に、石を積んで作られた囲いがある。中央には黒く焦げた焚き火跡があり、風を避けるための壁と、雨水をためる石槽が設置されていた。

「昔の街道の休憩所だ」

ガレスが説明する。

「今夜はここで休む」

セナとフィオが担架を下ろす。

焚き火へ薪を足したあと、ガレスはミオの肩に残った赤い擦れ跡へ目を止めた。

「その楽器、毎日そのまま運ぶつもりか」

「ほかに方法がないから」

ガレスは自分の荷物を探り、掌に収まる灰色の布袋を放った。口紐には、銀色の糸で小さな渦巻きが縫われている。

「一品旅嚢だ。最初に登録した物を、一つだけ収められる」

「これにギターが入るの?」

「何でも入るわけじゃない。登録できるのは、決めた一品だけだ。別の品を入れようとしても袋が拒むし、一度登録した物は二度と変更できない。中では湿気も衝撃もほとんど受けない」

フィオが薪の束を抱えたまま、袋を覗き込んだ。

「じゃあ、薪や食料は?」

「入らん。だから俺たちは普通の荷袋を背負っている。こいつは安く売られているが、使い勝手が悪くてな。武器を予備として隠す者もいるが、大抵の冒険者は万が一の備えに空のまま一つ持っている」

「ガレスも?」

「ああ。荷物を失ったとき、どうしても守りたい物ができたときのためにな」

半信半疑のまま、ミオは袋の口を赤いボディーへ近づけた。ギターは輪郭から淡い光へほどけ、音もなく袋の中へ吸い込まれた。袋の重さは、硬貨を数枚入れた程度しか増えない。

「……消えた」

「盗まれてないよね?」

担架から身を起こしたルナが、本気で心配そうに尋ねる。

「待って。一度登録したら変えられないって……これ、もう返せないんじゃないの」

ミオの声に、ガレスは口元だけで笑った。

「そうなるな」

「先に言ってよ。私、これを買うお金なんて」

「今はいらん。生き延びて、自分で稼げるようになってから返せ。空の旅嚢より、中身ごと道で壊されないほうがましだ」

贈り物ではなく、借りでもない。返すべき金額が残る約束だった。その言い方が、異世界へ落ちたばかりのミオにはありがたかった。いつか返すという未来を、ガレスが当然のように置いてくれたからだ。

「名前と形を思い浮かべて手を入れろ。持ち主と認められた者にしか取り出せん」

ミオが赤いギターを思い浮かべると、指先に馴染んだネックが触れた。引き寄せた瞬間、袋よりはるかに大きなギターが元の形へ戻る。傷の位置も、弦の張りも変わっていなかった。

安堵したあと、ミオはもう一度ギターを収納した。笑われるほど不格好な旅を、ようやく少しだけ終えられた気がした。

「高い道具なんじゃないの」

「昔、仲間だった吟遊詩人が使っていた物だ。今は空いているから貸すだけだぞ。町へ着いたら、自分たちの報酬で同じ物を買え」

それでもミオは、灰色の袋を両手で受け取った。

「ありがとう。絶対に返す」

その夜から、赤いギターが人目に触れるのは、ミオが弾くと決めたときだけになった。

ルナは礼を言い、セナの肩を借りて石壁のそばへ移動した。

ガレスは荷物から薪を取り出した。

乾いた枝を組み、その下へ毛羽立った布のようなものを詰める。火打ち石を使うのかと思ったが、彼が取り出したのは赤い小石だった。

小石を二度打ち合わせる。

火花ではなく、小さな炎が直接生まれた。

炎は布へ移り、枝を包みながら徐々に大きくなっていく。

ミオは思わず見つめた。

「それも魔法?」

「火種石だ」

「ヒダネイシ?」

「火の魔力を蓄えた石。これくらいなら雑貨屋でも売ってる」

ガレスは当然のように答えた。

「魔力を蓄える……」

日本ではあり得ない言葉だった。

だが、ルナの足を包んだ白い光を見たあとでは、否定する方が難しい。

焚き火が安定すると、セナが鍋へ水を入れた。

乾燥させた肉、豆、細かく刻んだ根菜。それらを順番に放り込み、木べらでかき混ぜる。

湯気と一緒に、塩気のある匂いが広がった。

ミオの腹が鳴った。

思った以上に大きな音だった。

全員の視線が集まる。

「今のは違う」

「何が違うんですか?」

ルナが笑いを堪えながら尋ねる。

「ギターの音」

「そんな音も出るんですね」

「出ない」

「なら、腹の音だな」

ガレスが平然と言う。

「分かってるなら言わなくていいでしょ」

ミオは焚き火から顔を背けた。

フィオの尻尾が、楽しそうに左右へ揺れている。

しばらくして、セナが木の椀へスープをよそった。

最初の一杯をルナへ渡し、次をミオへ差し出す。

「どうぞ。熱いから気をつけて」

ミオは受け取ろうとして、途中で手を止めた。

「私、お金ないけど」

「食べてから考えればいいよ」

「でも」

「腹を空かせたままだと、明日の話もできないでしょう?」

セナは押しつけるように椀を持たせた。

木の表面から、じんわりと熱が伝わってくる。

「……ありがとう」

ミオは小さな声で礼を言った。

スープは薄味だった。

肉は硬く、豆も完全には煮えていない。それでも、身体へ染み込むように温かかった。

一口飲むと、自分がどれほど喉を渇かせていたのか分かった。

隣では、ルナが両手で椀を持っている。

「おいしいです」

「そう? よかった」

セナが嬉しそうに笑う。

「本当は香草を入れたかったんだけど、昨日使い切っちゃって」

「十分おいしいです。身体が温まります」

ルナは、少し大げさなくらい丁寧に感想を伝えていた。

仕事で食事の感想を求められることも多いのだろう。

ただ、その顔はステージ上の笑顔より自然に見えた。

フィオはスープへ硬い黒パンを浸して食べている。

彼の耳が、ときどき別々の方向へ動く。

「その耳、本物なんだ」

ミオが言うと、フィオの動きが止まった。

「偽物に見えるか?」

「そういうわけじゃないけど」

「触るなよ」

「触らないって」

「人間はすぐ触りたがる」

フィオは耳を伏せ、警戒するようにミオを見た。

彼にとっては、その姿こそが当たり前なのだ。

珍しいものを見るような自分の視線が失礼だったと、遅れて気づく。

「ごめん」

ミオが謝ると、フィオは少し意外そうな顔をした。

「触らなければいい」

それだけ言い、再び黒パンを食べ始める。

食事が一段落すると、ガレスは荷物から一枚の紙を取り出した。

手描きの地図だった。

焚き火の近くへ広げ、石で四隅を押さえる。

「ここが、今いる休憩所だ」

ガレスは地図の下側を指した。

線と記号の横に文字らしきものが書かれている。

ミオには読めなかった。

アルファベットでも漢字でもない。細い枝を組み合わせたような文字だった。

「これ、何て書いてあるの?」

「ラフィリア南部旧街道、第四休憩所」

「読めない」

ガレスの手が止まる。

「話は通じるのに、文字が読めないのか?」

「そっちこそ、どうして日本語を話せるの」

「ニホン語など話していない。大陸共通語だ」

ミオとルナは顔を見合わせた。

ミオには、ガレスたちの言葉が日本語に聞こえていた。

口の動きと声も、自然に一致している。

「私たちの言葉も、共通語に聞こえていますか?」

ルナが尋ねた。

「少なくとも、言っていることは分かる」

「でも、文字は分からない……」

ルナがスマートフォンのメモ画面を開き、日本語で短い文章を入力した。

――私の名前は星宮ルナです。

それをガレスへ見せる。

「読めますか?」

「いや」

セナとフィオも画面をのぞき込んだ。

「すごくきれいな板ですね」

セナは文字より、光る画面へ興味を示していた。

「ガラスの中に文字が浮かんでる」

「魔道具じゃないのか」

フィオが鼻先を近づける。

「魔力の臭いはしない」

「これはスマートフォンといって……」

ルナは説明しかけ、言葉に詰まった。

通信網も電気も知らない相手へ、どう説明すればよいのか分からない。

「遠くの人と話したり、写真を撮ったりできる道具です。ただ、ここでは使えません」

「遠話石に似てるな」

ガレスが言う。

「遠話石?」

「魔力を通して声を届ける道具だ。都市間で使われる。こんなに薄くはないが」

この世界にも、遠くの人と話す手段はある。

しかし、それはスマートフォンとは違う。

似ている部分があるからこそ、ここが日本ではないという事実が際立った。

ガレスが地図へ視線を戻す。

「北東にトーサ村がある。俺たちはそこへ向かう途中だったが、依頼の都合で明日から東へ進む」

「依頼って?」

「リーネの街へ運ぶ薬草を採取する。採取地は東の湿地だ」

「リーネは大きな街ですか?」

ルナが尋ねる。

「この地方では一番大きい。神殿も役所もある」

「外国や、別の大陸について調べられますか?」

「トーサ村よりは、情報が集まるだろう」

「そこへ連れていってもらえませんか」

ルナは迷いなく頭を下げた。

「お願いします。私たちだけでは、ここで生きていけません」

ミオは思わずルナを見た。

あまりにもはっきりと、自分たちの弱さを認めたからだ。

ガレスはすぐには答えなかった。

「俺たちは、リーネへ直接向かうわけじゃない。薬草を採るために湿地へ寄り、その後で旧水路を通る。順調でも五日はかかる」

「それでもお願いします」

「道中では魔物と戦うことになる」

「分かっています」

「いや、分かっていない」

ガレスの声が低くなる。

「おまえたちは棘犬を前に、逃げることすらまともにできなかった。武器もない。野営の経験もない。長く歩くための服も靴もない」

ミオは椀を握りしめた。

事実だった。

反論できる言葉がない。

「二人が増えれば、その分だけ食料も水も必要になる。戦闘になれば守らなければならん。俺たちにとっては負担だ」

「なら、何かする」

ミオは顔を上げた。

「料理でも、荷物運びでも。やり方を教えてくれれば覚える」

「昨日までギターを背負って歩くだけで息を切らしていた奴が、何を運ぶ」

「慣れれば平気」

「慣れる前に倒れる」

「やってみなきゃ分からないでしょ」

「できないことを、できると言うな」

焚き火の薪が、乾いた音を立てた。

ミオは唇を噛んだ。

「じゃあ、ここに置いていくわけ?」

「話を最後まで聞け」

ガレスは地図を畳んだ。

「同行させる。ただし、条件がある」

「条件?」

「俺の指示には必ず従え。戦いになったら、言われた場所から動くな。危険や怪我を隠すな。荷物は持てる分だけ持て。持てないなら正直に言え」

ガレスはミオをまっすぐ見た。

「そして、守られることを恥じるな」

ミオは返事をしなかった。

「余計な意地を張る奴から死ぬ。おまえが勝手に動けば、助けるために誰かが危険を冒す。それを忘れるな」

「……分かった」

「聞こえん」

「分かりました」

無理やり言葉を押し出す。

納得したわけではない。

ただ、彼らに置いていかれれば生きていけない。

「私は条件に従います」

ルナが答えた。

「リーネまで、よろしくお願いします」

彼女は深く頭を下げる。

ミオも少し遅れて頭を下げた。

「お願いします」

ガレスは短くうなずいた。

「今夜は休め。話は明日の朝に続ける」

挿絵(By みてみん)



ミオは、なかなか眠れなかった。

ガレスたちは交代で見張りをするという。

石壁の内側には毛布が敷かれ、ミオとルナには一番風の当たらない場所が譲られた。

ルナは隣で目を閉じている。

眠っているのかどうかは分からない。

ミオは毛布から抜け出し、焚き火の方を見た。

見張りをしているのはフィオだった。

石壁の上に座り、暗い草原を眺めている。獣の耳だけが、周囲の音を追って動いていた。

焚き火の反対側から、小さく鼻をすする音が聞こえた。

セナだった。

膝を抱えて座り、杖を胸元へ抱いている。

その横に、いつの間にかルナがいた。

やはり眠っていなかったらしい。

「足、痛みますか?」

セナが尋ねる。

「少しだけ。それより、セナさんは?」

「煙が目に入っただけ」

泣いていた人がよく使う言い訳だった。

ルナは追及しなかった。

ただ、セナの隣へ腰を下ろす。

「さっきは、ありがとうございました」

「大したことしてないよ。痛みを少し抑えただけ」

「私にとっては、大したことです」

「本当なら、もう歩けるくらいまで治せたらよかったんだけど」

セナは杖を握った。

「私、治癒術師なのに、治すのが下手なの」

「そんなことは」

「あるよ。ガレスたちと組む前、別のパーティーにいたの。そこで仲間が怪我をした。でも、私の力じゃ血を止めきれなかった」

セナの声が震える。

「その人は助かった。でも、右腕が動かなくなった。もっと上手な治癒術師が一緒だったら、今も冒険者を続けられたかもしれない」

ルナは何も言わずに聞いていた。

「だから勉強してる。練習もしてる。でも、魔力の量は生まれつき決まってるから」

「それでも、やめなかったんですね」

「やめた方がいいのかもしれない」

「どうして?」

「また誰かを治せなかったら怖いから」

ルナは焚き火を見つめた。

橙色の光が、その横顔を照らしている。

「怖くても、セナさんは今日、私を治してくれました」

「足を少し楽にしただけだよ」

「少しじゃありません。何も分からない場所で、知らない生き物に襲われて……私、本当に怖かったんです」

ルナの声から、作られた明るさが消えていた。

「セナさんの光を見たとき、助かったんだって思えました。それだけで、すごく安心しました」

「でも」

「できなかったことより、できたことを喜んでもいいと思います」

セナは黙った。

ルナが柔らかく微笑む。

「少なくとも、私はセナさんがいてくれてよかったです」

きれいな言葉だった。

アイドルとして、何度も誰かを励ましてきたのだろう。

それでも今の言葉は、用意された台詞には聞こえなかった。

セナの目から、再び涙がこぼれた。

「ありがとう」

「はい」

「ルナも、帰れるといいね」

ルナの笑顔が、一瞬だけ止まった。

「……はい」

答えるまでのわずかな間に、ミオは気づいた。

ルナはセナへ向けた言葉を、自分自身にも言い聞かせていたのだ。

できなかったことより、できたことを喜んでいい。

何もできないと感じているのは、セナだけではない。

ミオも。

おそらく、ルナも同じだった。

ミオは声をかけず、毛布へ戻った。

仰向けになり、旅嚢から取り出したギターを胸の上へ抱える。弾くためではない。傷が増えていないことを確かめるためだった。

指先で弦を一本だけ弾いた。

小さく、乾いた音。

誰にも聞こえないほどの音だった。

この世界で、歌やギターに何ができるのだろう。

答えは見つからない。

ただ、焚き火の向こうでは、少しだけ泣いたセナと、笑顔を作るのをやめたルナが、二人で静かに夜空を見上げていた。


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