第一部 三話 戦えない二人
獣が地面を蹴った。
黒い塊が、一直線にミオへ迫る。
避けなければならない。
頭では分かっていた。
それなのに脚が動かない。
裂けた口。濡れた牙。月明かりを反射する黄色い目。
それらが一瞬で大きくなる。
「ミオちゃん!」
身体を横から引かれた。
ミオはルナともつれ合いながら地面へ倒れた。
直後、頭上を黒い影が通り過ぎる。
獣の爪がギターの表面をかすめた。
硬いものを引っかく音が響く。
「あっ……!」
赤い塗装に、白い傷が走っていた。
ミオの胸に、恐怖とは別の熱が込み上げる。
「こいつ……!」
ギターのネックを両手で握る。
振り回せば、追い払えるかもしれない。
少なくとも、ルナが逃げる時間くらいは――。
「駄目!」
立ち上がろうとしたミオの腕に、ルナがしがみついた。
「離して!」
「そんなもので戦えるわけないでしょ!」
「じゃあ、どうするの!」
「逃げるの!」
二頭目の獣が、低く唸った。
ルナはミオの腕をつかんだまま走り出した。
引っ張られるように、ミオも足を動かす。
背中を見せてよかったのか。
そんな疑問は、すぐに考える余裕を失った。
草が脚へ絡みつく。
柔らかい土に靴底を取られ、まともに速度が出ない。
肩に掛けたギターが背中で跳ねるたび、身体が左右へ振られた。
ライブで何曲も続けて演奏した後だ。喉は乾き、足には疲労が残っている。
ルナも同じだった。
舞台用のブーツでは、草原を走れない。数歩進むたびに足首が傾き、転びそうになる。
「こっち!」
ミオは前方に見えた岩場を指差した。
人の背丈ほどある岩が、いくつも重なっている。
隙間へ入れば、大きな獣は追ってこられないかもしれない。
二人は方向を変えた。
背後から、獣の荒い息遣いが聞こえる。
近い。
振り返る余裕はなかった。
ルナの手が滑り、ミオの腕から離れた。
次の瞬間、後ろで短い悲鳴が上がる。
「ルナ!」
振り返る。
ルナが地面に膝をついていた。
ブーツの踵が、地面から突き出した根の間に挟まっている。
獣が迫っていた。
ミオは引き返した。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
ルナとは、ついさっき出会ったばかりだ。テレビで顔を知っていただけで、友達でも仲間でもない。
それでも、置いていくという選択肢は浮かばなかった。
「立って!」
「ブーツが……」
「脱いで!」
ミオはルナの腕を引いた。
ルナは留め具へ手を伸ばすが、震える指では外せない。
獣が跳躍するために身を沈めた。
間に合わない。
ミオはルナの前へ出た。
ギターを盾のように構える。
ごめん。
胸の中で、誰にともなく謝った。
仲間と一緒に選んだギターだった。
アルバイト代だけでは足りず、両親に頭を下げて残りを出してもらった。
初めてライブへ出た日も。
初めて自分の曲を演奏した日も。
いつも一緒だった。
壊したくない。
それでも今は、これしかない。
獣が跳んだ。
ミオは目を閉じ、ギターを突き出した。
衝撃を覚悟する。
しかし、先に聞こえたのは、風を切る鋭い音だった。
何かが獣の側面へ突き刺さる。
短い悲鳴とともに、黒い身体が空中で弾かれた。
地面へ落ちた獣の脇腹から、細い矢が伸びている。
「伏せろ!」
男の声が響いた。
誰に言われたのか考えるより先に、ミオはルナを抱えるようにして地面へ伏せた。
頭上を、銀色の刃が通り過ぎる。
重い音がした。
顔を上げると、大柄な男が二人の前に立っていた。
厚手の外套。
使い込まれた革鎧。
両手で握られた幅の広い剣。
男が剣を振り抜くと、迫っていた二頭目の獣が草の上を転がった。
血の匂いが広がる。
ミオの胃が引きつった。
男は倒れた獣へ近づき、迷うことなく剣を振り下ろした。
「右から、もう一頭!」
今度は、若い女の声だった。
少し離れた場所に、杖を持った少女が立っている。
少女が杖の先を掲げると、柔らかな白い光が周囲を照らした。
その光の中を、小柄な影が駆ける。
人間の少年に見えた。
ただし、頭には尖った獣の耳があり、腰の後ろから長い尻尾が伸びている。
少年は身体を低くしたまま草の間を走り、短剣で三頭目の鼻先を切りつけた。
獣が少年を追う。
誘導されているのだと、ミオにも分かった。
「ガレス!」
「見えてる!」
大柄な男が踏み込む。
少年を追っていた獣は、横から振るわれた剣を避けられなかった。
一度。
続けて、もう一度。
戦いは、それで終わった。
ほんの数秒だった。
ミオとルナが逃げることしかできなかった獣を、男たちはあっさり倒してしまった。
静けさが戻る。
ミオは地面に両手をついたまま、動けなかった。
身体の震えが止まらない。
ライブ前に緊張したときとは違う。
今、自分は死にかけた。
その事実が、遅れて身体へ押し寄せてくる。
「怪我は?」
杖を持った少女が駆け寄ってきた。
年齢はミオたちと大きく変わらないように見える。肩まである栗色の髪を後ろで束ね、白い上着の上から薄い革の胸当てを着けていた。
「どこか噛まれた? 爪は?」
「わ、私は……」
ミオは自分の腕を見た。
血はついていない。
肩も脚も動く。
「大丈夫、だと思う」
「あなたは?」
少女がルナへ向き直る。
「右足を少し……でも、魔物にやられたわけではありません」
「見せて」
少女はその場に膝をつき、ルナのブーツを慎重に脱がせた。
足首が赤く腫れている。
「ひねってる。折れてはいないと思うけど、動かさないで」
少女が杖を傷へ近づける。
先端に取り付けられた透明な石から、淡い光が流れ出した。
光はルナの足首を包み、肌へ染み込むように消えていく。
ミオは息を呑んだ。
手品でも、映像でもない。
光は確かに少女の杖から出ていた。
ルナも目を見開いている。
「どう?」
少女に尋ねられ、ルナは恐る恐る足首を動かした。
「痛みが……少し軽くなりました」
「よかった。でも完全には治せてないから、無理に歩かないでね」
「今のは……何ですか?」
「何って、治癒術だけど」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、術を見るのは初めて?」
ミオとルナは顔を見合わせた。
どう答えればよいか分からない。
「セナ。そいつらから離れろ」
低い声が飛んできた。
ガレスと呼ばれた男が、剣についた血を草で拭いながら近づいてくる。
間近で見ると、三十代半ばほどだった。短い褐色の髪と無精ひげ。左の眉から頬にかけて、古い傷痕が走っている。
「でも、怪我をしています」
「何者か分からん」
「魔物に襲われていた人ですよ」
「だからといって、信用できるとは限らん」
ガレスの視線が、ミオの服装とギターを調べる。
次に、ルナのステージ衣装へ向いた。
「どこの人間だ」
ミオは返答に迷った。
「東京」
「トーキョー?」
「日本にある街」
「ニホンという国は知らんな」
「そんなわけ……」
言い返そうとして、ミオは口を閉じた。
魔法を使う少女。
獣の耳を持つ少年。
骨の生えた犬のような魔物。
そして二つの月。
一つずつなら、何かの間違いだと思えたかもしれない。
しかし、すべてを偶然で片づけることはできなかった。
獣耳の少年が、草の中から矢を拾い上げて戻ってくる。
頭についている耳が、周囲の音を探すように動いた。
飾りではない。
「ほかの臭いはない」
少年が言った。
「この二人だけ。近くに馬も荷物もない」
「フィオ。本当に誰もいなかったか?」
「何度も言わせるな」
フィオは不機嫌そうに答えると、ミオたちを見た。
金色の瞳。
人間とは違い、瞳孔が縦に細い。
「こいつら、変な臭いがする」
「変な臭いって何よ」
反射的に言い返すと、フィオの鼻が小さく動いた。
「汗。煙。鉄。それから、知らない臭い」
ライブ直後なのだから、汗の臭いは仕方がない。
鉄と煙は、ライブハウスや機材の臭いだろうか。
ミオは何か言い返そうとしたが、ルナに袖を引かれた。
「助けていただいて、ありがとうございます」
ルナが座ったまま、三人へ深く頭を下げた。
「私たちは、気づいたらここにいました。自分たちでも、何が起きたのか分かりません」
先ほどまで震えていたとは思えないほど、落ち着いた声だった。
テレビで何度も見た、星宮ルナの声。
ミオは横目で彼女を見る。
ルナの顔には、きれいな笑顔が浮かんでいた。
「私は星宮ルナと申します。こちらは朝倉ミオさんです」
「なんであんたが私まで紹介するの」
「話が進まないから」
笑顔のまま、小声で返された。
ガレスはしばらく二人を見つめていた。
「言葉は通じるようだな」
「はい」
「だが、服装も名前も聞いたことがない。身分を証明できるものは?」
ミオはスマートフォンを取り出しかけた。
こんなものを見せてよいのか分からず、途中で手を止める。
ルナも同じことを考えたらしい。
「ありません」
「金は?」
「持っていません」
「旅の荷物は」
「これだけです」
ルナがハンカチとスマートフォンの入ったポーチを示す。
ガレスの眉間に深い皺が寄った。
「着替えも、食料も、水もない。武器もなし。そんな格好で夜のラフィリア平原を歩いていたのか」
「ラフィリア……」
ミオが聞き返す。
初めて聞く地名だった。
「近くに駅は?」
「エキ?」
「街はありますか」
ルナが言い直す。
「北東へ半日ほど行けば、トーサ村がある。俺たちはそこから来た」
「東京までは?」
「そのトーキョーとやらを知っている者はいない」
「海を渡った別の国かもしれません」
「この大陸に、ニホンという国はない」
「別の大陸なら?」
「少なくとも、俺は聞いたことがない」
ルナの笑顔が消えた。
ガレスは嘘をついているようには見えない。
ミオは空を見上げた。
二つの月は、何事もなかったように浮かんでいる。
「ガレス」
セナが遠慮がちに口を挟む。
「この人たちを置いていくんですか?」
「村まで連れて帰る余裕はない」
「でも、このままだとまた棘犬に襲われます」
「俺たちは依頼の途中だ」
「野営地までは同じ方向です。今夜だけでも」
ガレスは返事をしなかった。
フィオが尻尾を揺らしながら言う。
「置いていけば死ぬ」
「分かっている」
「分かってるなら、悩む必要ないだろ」
「簡単に言うな。怪しい人間を連れて歩けば、俺たちまで危険になる」
ガレスは大きく息を吐いた。
それから、ミオたちへ向き直る。
「立てるか?」
「私は」
ミオは立ち上がった。
膝はまだ震えているが、歩けないほどではない。
ルナも立とうとしたが、右足へ体重をかけた瞬間、顔を歪めた。
「駄目。まだ歩かないで」
セナが慌てて支える。
ガレスは背負っていた荷物を下ろし、中から折り畳まれた棒と厚い布を取り出した。
「簡易担架を作る。今夜の野営地までは連れていく」
「本当ですか?」
「夜が明けたら事情を聞く。それまでは勝手なことをするな。武器や怪しい道具を隠し持っているなら、今のうちに出せ」
ミオは背中のギターを押さえた。
「これは武器じゃない」
「さっき盾にしていただろう」
「楽器。音を出すもの」
「それが?」
「ギター」
「ギタァ?」
ガレスが怪訝な顔をする。
どうやら、この世界に同じ名前の楽器はないらしい。
「見たことのない形だな」
「触らないで」
ガレスが伸ばしかけた手を、ミオは反射的に避けた。
彼の目が細くなる。
険悪な空気を感じたルナが、二人の間へ声を差し込む。
「ミオちゃんにとって、とても大切なものなんです。危険な道具ではありません」
「それは俺が判断する」
「だったら、私が音を出す」
ミオはピックを取り出した。
ギターを構え、弦を一度鳴らす。
乾いた小さな音がした。
アンプにつながっていないエレキギターの音は、驚くほど頼りない。
ライブハウスを震わせていた轟音とは似ても似つかない。
草原を渡る風に、すぐかき消されてしまう。
ガレスはしばらくギターを眺めたあと、興味を失ったように視線を外した。
「確かに、武器には向かんな」
「……分かってる」
ミオはピックを握りしめた。
自分で言うのと、他人から言われるのでは違う。
ギターは敵を倒せない。
腹を満たせない。
雨風から身を守ることもできない。
電気もアンプもない場所では、満足な音さえ出せない。
この世界で生きるために必要なものを、ミオは何一つ持っていなかった。
「行くぞ」
ガレスが荷物を持ち上げる。
セナとフィオが慣れた手つきで簡易担架を組み立て始めた。
ルナは何度も礼を言いながら、担架へ腰を下ろした。
ミオはその隣に立ったまま、動かなかった。
「どうしたの?」
ルナに尋ねられる。
「別に」
「一緒に行かないの?」
ミオは暗い草原を振り返った。
あの向こうにライブハウスがあるとは、もう思えなかった。
ナツキも、ユイも、マコもいない。
この世界には、家族もいない。
電話も通じない。
知っているものは、傷ついたギターと、今夜初めて言葉を交わしたアイドルだけだった。
「行く」
ミオは答えた。
それ以外に、選べる道はなかった。
一行は草原を歩き始めた。
セナの杖が放つ光の輪の中に、五人分の影が揺れている。
ミオは最後尾を歩きながら、何度も後ろを振り返った。
追ってくる者はいない。
空間が裂けて、元の世界へ戻れることもない。
ただ二つの月だけが、どこまでも一行を追いかけてきた。
ここは日本ではない。
その言葉を、ミオはまだ声に出せなかった。




