第一部 二話 知らないアイドル
月が二つある。
一つは、ミオが知っている月とよく似ていた。
白く、丸く、夜空の高い場所に浮かんでいる。
もう一つは、その半分ほどの大きさだった。青みを帯びた細い三日月で、白い月から少し離れたところに寄り添っている。
ライブハウスの演出であるはずがない。
どれほど精巧な映像を使ったとしても、頬を撫でる夜風や、手のひらに触れる湿った土までは再現できない。
「……何、これ」
呟いても、答える者はいなかった。
ミオはギターを抱え、ふらつきながら立ち上がった。
膝から力が抜けそうになる。
最後に覚えているのは、ステージを包んだ青白い光だ。感電したのかもしれない。機材が故障して、意識を失ったのかもしれない。
それなら、ここは病院でなければおかしい。
「ナツキ!」
返事はない。
「ユイ! マコ!」
声は暗い草原へ吸い込まれていった。
代わりに、少し離れた場所から、草の擦れる音が聞こえた。
ミオは息を止めた。
誰かいる。
そう思った瞬間、安心より先に恐怖が湧いた。
ここがどこなのか分からない。相手が人間だという保証さえない。
ミオは反射的にギターのネックを握りしめた。
赤いボディーを胸の前へ抱える。
楽器を盾にするなんて、普段なら絶対にしない。けれど今は、ほかに身を守れそうなものがなかった。
「誰?」
返事はない。
「いるんでしょ」
強い口調で呼びかける。
草がもう一度揺れた。
やがて、淡い光を放つ花の向こうから、白い衣装を着た少女が姿を現した。
蜂蜜色の長い髪。
白と薄紫色の衣装。
肩を覆う短いケープと、星の形をした髪飾り。
見覚えがあった。
「星宮……ルナ?」
思わず名前が口から出た。
少女の足が止まる。
大きな琥珀色の瞳が、警戒するようにミオを見つめた。
「どうして、私の名前を知ってるんですか」
その声にも聞き覚えがあった。
テレビや店内放送から、何度も聞いたことがある。
七人組アイドルグループ・アステリア。その中でも特に人気の高いメンバーの一人。
星宮ルナ。
広告で見かける彼女は、いつも明るく笑っていた。
しかし今、ミオの前にいるルナは笑っていない。
衣装の裾は土で汚れ、片方のブーツには草が絡みついている。髪も崩れ、頬には涙の跡らしきものが残っていた。
「知ってるも何も、有名人じゃん」
ミオが答えると、ルナの表情がさらに強張った。
「私のことを知ってるってことは……スタッフさんですか?」
「違う」
「じゃあ、会場にいたファンの人?」
「それも違う。私だってライブ中だったんだから」
「ライブ?」
ルナの視線が、ミオのギターへ向く。
それから、制服のような衣装と、履き慣れた黒いスニーカーを順番に見た。
「バンドをやってるんですか?」
「一応」
「ここがどこか、知っていますか?」
「知ってたら叫びながら歩き回ってない」
「ほかに誰かいましたか?」
「誰も。そっちは?」
ルナは小さく首を横へ振った。
会話が途切れた。
二人の間を、夜風が通り抜ける。
ミオはルナを見つめた。
テレビで見るよりも小柄に見える。おそらく身長はミオとほとんど変わらない。
ただの高校生くらいの女の子だ。
衣装を脱いで街ですれ違えば、気づかないかもしれない。
「とりあえず」
ルナが慎重に口を開いた。
「お互いに、知っていることを話しませんか」
「知ってることなんてないけど」
「何も話さないままよりはいいと思います。私は東京のコンサート会場にいました。最後の曲を歌っている途中で、足元が光って……気づいたら、ここに」
ミオも同じだった。
場所も観客の数も違う。それでも、最後の曲を演奏している途中で光に包まれた。
「私も東京。高円寺のライブハウス」
「高円寺……」
「最後の曲の途中で、ギターが光った。その後は覚えてない」
ルナが周囲を見渡す。
「同じ光だったんでしょうか」
「知らない」
「時間は?」
ミオはスカートのポケットを探った。
スマートフォンは残っていた。ケースの角に傷はあるが、画面は割れていない。
電源ボタンを押す。
ロック画面には、午後九時四十七分と表示された。最後に時計を見たときと、それほど変わっていない。
しかし画面の右上には、圏外の表示が出ていた。
ルナも衣装の内側からスマートフォンを取り出した。
「私のは九時四十八分です」
「一分違い」
「時計が止まっているんでしょうか」
ミオは画面をしばらく眺めた。
数字は九時四十九分に変わった。
「動いてる」
「私のもです」
「時間は同じってことか」
ミオは電話をかけてみた。
ナツキ。
呼び出し音さえ鳴らず、接続できないという表示が出た。
メッセージも送れない。
地図を開いても、現在地を取得できません、という文字が表示されるだけだった。
「そっちは?」
「駄目です。緊急通報もつながりません」
スマートフォンの光に照らされたルナの顔から、わずかに血の気が引いていた。
ミオは自分のバッテリー残量を確認した。六十二パーセント。
ルナは三十八パーセントだった。
「いったん電源を切った方がいい」
「でも、誰かから連絡が来るかもしれません」
「圏外なんだから来ないでしょ。ライトとして使うことになるかもしれないし、電池を残した方がいい」
「もう少しだけ待ちませんか」
「何を?」
「電波が戻るかもしれないから」
「戻らなかったら、その間ずっと電池が減る」
ルナはスマートフォンを握ったまま黙った。
正しいことを言ったつもりだった。
しかし、ルナの指が震えていることに気づき、ミオは少しだけ言いすぎたと思った。
「……好きにすれば」
それ以上は言わず、自分のスマートフォンを機内モードに切り替えた。
完全に電源を切る勇気は、ミオにもなかった。
画面が暗くなれば、日本とのつながりまで消えてしまう気がした。
「そういえば、怪我は?」
ルナに尋ねられ、ミオは身体を確認した。
腕や脚に目立った傷はない。背中と腰が痛む程度だ。
「たぶん平気。そっちは?」
「足を少し」
ルナの右膝に、浅い擦り傷があった。
血はすでに止まっている。
ミオは自分のポケットを探った。ピックが三枚と、折れたヘアピン。絆創膏はない。
ルナは衣装の小さなポーチからハンカチを取り出し、傷についた土を拭った。
「水で洗った方がいいんじゃない?」
「水を持っていません」
「私も」
ライブ中だったのだから当然だ。
財布は楽屋に置いていた。水もタオルも食べ物もない。
ミオが持っているのは、ギターとスマートフォン、ポケットに入っていたピックだけ。
ルナもスマートフォンとハンカチ、小さなイヤーモニター程度だった。
財布もなければ、身分証もない。
知らない場所に放り出された二人の荷物としては、あまりにも心細かった。
「救助を待ちましょう」
ルナが言った。
「は?」
「二人ともライブ中にいなくなったんですよね。大勢の人が見ています。警察もスタッフも、もう探しているはずです。暗い中を動くより、ここにいた方が見つけてもらいやすいと思います」
筋は通っている。
ここが日本なら。
ミオはもう一度、二つの月を見上げた。
「誰がここまで探しに来るの」
「それは……」
「あの月、どう説明するわけ?」
「何かの投影かもしれません」
「どこから?」
「分かりません。でも、月が二つある世界に来たなんて考えるよりは……」
「考えたくないだけでしょ」
ルナが口を閉ざした。
ミオ自身、そんなことを信じたいわけではなかった。
ここが異世界だなんて、本気で口にすれば頭がおかしくなったように聞こえる。
誘拐されて、知らない場所へ運ばれた。
大がかりな撮影セットの中にいる。
事故で意識を失い、夢を見ている。
どんな説明も、月が二つあることよりは現実的だ。
だが、草原には人の手で作られた痕跡が何もない。
電線も、道路も、建物の明かりも見えなかった。
「私は動く」
ミオは言った。
「どこへ行くんですか?」
「高い場所を探す。街の明かりが見えるかもしれない」
「暗いのに危険です」
「ここで朝まで待って、安全だって保証もない」
「二人とも知らない場所なんですよ。動かない方が――」
「じゃあ、あんたはここにいれば」
口にした瞬間、ルナの表情が変わった。
怒ったのでも、泣いたのでもない。
ただ、見捨てられることを恐れるような顔だった。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、ルナはテレビで見慣れた笑顔を浮かべていた。
「そうですね。朝倉さんがそうしたいなら」
不自然なほど整った笑顔だった。
名前を教えた覚えはない。
ミオは眉を寄せた。
「なんで私の名前を知ってるの」
ルナはミオの胸元を指差した。
衣装の白いシャツに、ライブハウスのスタッフパスがぶら下がっていた。
出演者名の欄に、手書きで「朝倉ミオ」と記されている。
「ああ……」
「ミオさん、と呼んでもいいですか?」
「別に。さんもいらない」
「じゃあ、ミオちゃん」
「いきなりちゃん付け?」
「嫌でしたか?」
「……もういい」
ルナの笑顔が、今度は少しだけ自然になった。
ミオはため息をつき、ギターの位置を直した。
「一人で待つのが怖いなら、ついてくれば」
「怖いとは言っていません」
「じゃあ、ここにいる?」
「一緒に行きます」
「怖いんじゃん」
「安全のためです」
ルナは少し頬を膨らませた。
その表情は、ステージで見る星宮ルナよりもずっと年相応に見えた。
二人は並んで歩き始めた。
明確な目的地はない。
草が低くなっている方向を選び、足元を確かめながら進む。
スマートフォンのライトは使わなかった。二つの月と発光する花のおかげで、近くの地面ならかろうじて見える。
ルナのブーツは、草原を歩くためのものではなかった。
何度も踵を取られ、そのたびに歩みが遅くなる。
「脱いだら?」
「裸足の方が危ないと思います」
「じゃあ、ゆっくり歩いて。転ばれたら困る」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいって」
「ごめ――分かりました」
背後で、何かが鳴いた。
二人は同時に足を止めた。
犬の声に似ていた。
しかし、犬よりも低く、湿った音だった。
「今の、聞こえた?」
ミオが囁く。
ルナがうなずく。
草の中で、何かが動いている。
一つではない。
右側で草が揺れ、続いて左側でも揺れた。
何かが二人を囲むように移動している。
「野犬……でしょうか」
「知らない」
ミオはギターを身体の前へ回した。
こんな使い方をしたくない。
だが、ほかに持っているものがない。
暗がりの中に、二つの光が浮かんだ。
低い位置に並ぶ、濁った黄色の光。
目だった。
ゆっくりと、それが草の中から姿を現す。
大きさは中型犬ほど。
身体は黒い毛に覆われているが、背中からは骨のような突起が何本も伸びていた。口は耳元まで裂け、隙間なく並んだ牙の間から粘ついた唾液が落ちている。
犬ではない。
少なくとも、ミオの知っている世界の生き物ではなかった。
その後ろに、もう一対の目が浮かぶ。
さらに、もう一対。
ルナがミオの袖をつかんだ。
「ミオちゃん」
「大声を出さないで」
「どうしますか」
ミオにも分からなかった。
逃げるべきか。
背中を見せずに離れるべきか。
目を合わせてはいけないのか。
野生動物への対処法など、何一つ知らない。
先頭の獣が、前脚を一歩踏み出した。
喉の奥から、濁った唸り声が漏れる。
ミオはギターのネックを握った。
指の震えが止まらない。
それでも、ルナの前へ半歩だけ出た。
獣が地面を蹴った。




