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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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2/21

第一部 二話 知らないアイドル

月が二つある。


一つは、ミオが知っている月とよく似ていた。

白く、丸く、夜空の高い場所に浮かんでいる。

もう一つは、その半分ほどの大きさだった。青みを帯びた細い三日月で、白い月から少し離れたところに寄り添っている。

ライブハウスの演出であるはずがない。

どれほど精巧な映像を使ったとしても、頬を撫でる夜風や、手のひらに触れる湿った土までは再現できない。

「……何、これ」

呟いても、答える者はいなかった。

ミオはギターを抱え、ふらつきながら立ち上がった。

膝から力が抜けそうになる。

最後に覚えているのは、ステージを包んだ青白い光だ。感電したのかもしれない。機材が故障して、意識を失ったのかもしれない。

それなら、ここは病院でなければおかしい。

「ナツキ!」

返事はない。

「ユイ! マコ!」

声は暗い草原へ吸い込まれていった。

代わりに、少し離れた場所から、草の擦れる音が聞こえた。

ミオは息を止めた。

誰かいる。

そう思った瞬間、安心より先に恐怖が湧いた。

ここがどこなのか分からない。相手が人間だという保証さえない。

ミオは反射的にギターのネックを握りしめた。

赤いボディーを胸の前へ抱える。

楽器を盾にするなんて、普段なら絶対にしない。けれど今は、ほかに身を守れそうなものがなかった。

「誰?」

返事はない。

「いるんでしょ」

強い口調で呼びかける。

草がもう一度揺れた。

やがて、淡い光を放つ花の向こうから、白い衣装を着た少女が姿を現した。

蜂蜜色の長い髪。

白と薄紫色の衣装。

肩を覆う短いケープと、星の形をした髪飾り。

見覚えがあった。

「星宮……ルナ?」

思わず名前が口から出た。

少女の足が止まる。

大きな琥珀色の瞳が、警戒するようにミオを見つめた。

「どうして、私の名前を知ってるんですか」

その声にも聞き覚えがあった。

テレビや店内放送から、何度も聞いたことがある。

七人組アイドルグループ・アステリア。その中でも特に人気の高いメンバーの一人。

星宮ルナ。

広告で見かける彼女は、いつも明るく笑っていた。

しかし今、ミオの前にいるルナは笑っていない。

衣装の裾は土で汚れ、片方のブーツには草が絡みついている。髪も崩れ、頬には涙の跡らしきものが残っていた。

「知ってるも何も、有名人じゃん」

ミオが答えると、ルナの表情がさらに強張った。

「私のことを知ってるってことは……スタッフさんですか?」

「違う」

「じゃあ、会場にいたファンの人?」

「それも違う。私だってライブ中だったんだから」

「ライブ?」

ルナの視線が、ミオのギターへ向く。

それから、制服のような衣装と、履き慣れた黒いスニーカーを順番に見た。

「バンドをやってるんですか?」

「一応」

「ここがどこか、知っていますか?」

「知ってたら叫びながら歩き回ってない」

「ほかに誰かいましたか?」

「誰も。そっちは?」

ルナは小さく首を横へ振った。

会話が途切れた。

二人の間を、夜風が通り抜ける。

ミオはルナを見つめた。

テレビで見るよりも小柄に見える。おそらく身長はミオとほとんど変わらない。

ただの高校生くらいの女の子だ。

衣装を脱いで街ですれ違えば、気づかないかもしれない。

「とりあえず」

ルナが慎重に口を開いた。

「お互いに、知っていることを話しませんか」

「知ってることなんてないけど」

「何も話さないままよりはいいと思います。私は東京のコンサート会場にいました。最後の曲を歌っている途中で、足元が光って……気づいたら、ここに」

ミオも同じだった。

場所も観客の数も違う。それでも、最後の曲を演奏している途中で光に包まれた。

「私も東京。高円寺のライブハウス」

「高円寺……」

「最後の曲の途中で、ギターが光った。その後は覚えてない」

ルナが周囲を見渡す。

「同じ光だったんでしょうか」

「知らない」

「時間は?」

ミオはスカートのポケットを探った。

スマートフォンは残っていた。ケースの角に傷はあるが、画面は割れていない。

電源ボタンを押す。

ロック画面には、午後九時四十七分と表示された。最後に時計を見たときと、それほど変わっていない。

しかし画面の右上には、圏外の表示が出ていた。

ルナも衣装の内側からスマートフォンを取り出した。

「私のは九時四十八分です」

「一分違い」

「時計が止まっているんでしょうか」

ミオは画面をしばらく眺めた。

数字は九時四十九分に変わった。

「動いてる」

「私のもです」

「時間は同じってことか」

ミオは電話をかけてみた。

ナツキ。

呼び出し音さえ鳴らず、接続できないという表示が出た。

メッセージも送れない。

地図を開いても、現在地を取得できません、という文字が表示されるだけだった。

「そっちは?」

「駄目です。緊急通報もつながりません」

スマートフォンの光に照らされたルナの顔から、わずかに血の気が引いていた。

ミオは自分のバッテリー残量を確認した。六十二パーセント。

ルナは三十八パーセントだった。

「いったん電源を切った方がいい」

「でも、誰かから連絡が来るかもしれません」

「圏外なんだから来ないでしょ。ライトとして使うことになるかもしれないし、電池を残した方がいい」

「もう少しだけ待ちませんか」

「何を?」

「電波が戻るかもしれないから」

「戻らなかったら、その間ずっと電池が減る」

ルナはスマートフォンを握ったまま黙った。

正しいことを言ったつもりだった。

しかし、ルナの指が震えていることに気づき、ミオは少しだけ言いすぎたと思った。

「……好きにすれば」

それ以上は言わず、自分のスマートフォンを機内モードに切り替えた。

完全に電源を切る勇気は、ミオにもなかった。

画面が暗くなれば、日本とのつながりまで消えてしまう気がした。

「そういえば、怪我は?」

ルナに尋ねられ、ミオは身体を確認した。

腕や脚に目立った傷はない。背中と腰が痛む程度だ。

「たぶん平気。そっちは?」

「足を少し」

ルナの右膝に、浅い擦り傷があった。

血はすでに止まっている。

ミオは自分のポケットを探った。ピックが三枚と、折れたヘアピン。絆創膏はない。

ルナは衣装の小さなポーチからハンカチを取り出し、傷についた土を拭った。

「水で洗った方がいいんじゃない?」

「水を持っていません」

「私も」

ライブ中だったのだから当然だ。

財布は楽屋に置いていた。水もタオルも食べ物もない。

ミオが持っているのは、ギターとスマートフォン、ポケットに入っていたピックだけ。

ルナもスマートフォンとハンカチ、小さなイヤーモニター程度だった。

財布もなければ、身分証もない。

知らない場所に放り出された二人の荷物としては、あまりにも心細かった。

「救助を待ちましょう」

ルナが言った。

「は?」

「二人ともライブ中にいなくなったんですよね。大勢の人が見ています。警察もスタッフも、もう探しているはずです。暗い中を動くより、ここにいた方が見つけてもらいやすいと思います」

筋は通っている。

ここが日本なら。

ミオはもう一度、二つの月を見上げた。

「誰がここまで探しに来るの」

「それは……」

「あの月、どう説明するわけ?」

「何かの投影かもしれません」

「どこから?」

「分かりません。でも、月が二つある世界に来たなんて考えるよりは……」

「考えたくないだけでしょ」

ルナが口を閉ざした。

ミオ自身、そんなことを信じたいわけではなかった。

ここが異世界だなんて、本気で口にすれば頭がおかしくなったように聞こえる。

誘拐されて、知らない場所へ運ばれた。

大がかりな撮影セットの中にいる。

事故で意識を失い、夢を見ている。

どんな説明も、月が二つあることよりは現実的だ。

だが、草原には人の手で作られた痕跡が何もない。

電線も、道路も、建物の明かりも見えなかった。

「私は動く」

ミオは言った。

「どこへ行くんですか?」

「高い場所を探す。街の明かりが見えるかもしれない」

「暗いのに危険です」

「ここで朝まで待って、安全だって保証もない」

「二人とも知らない場所なんですよ。動かない方が――」

「じゃあ、あんたはここにいれば」

口にした瞬間、ルナの表情が変わった。

怒ったのでも、泣いたのでもない。

ただ、見捨てられることを恐れるような顔だった。

ほんの一瞬だった。

次の瞬間には、ルナはテレビで見慣れた笑顔を浮かべていた。

「そうですね。朝倉さんがそうしたいなら」

不自然なほど整った笑顔だった。

名前を教えた覚えはない。

ミオは眉を寄せた。

「なんで私の名前を知ってるの」

ルナはミオの胸元を指差した。

衣装の白いシャツに、ライブハウスのスタッフパスがぶら下がっていた。

出演者名の欄に、手書きで「朝倉ミオ」と記されている。

「ああ……」

「ミオさん、と呼んでもいいですか?」

「別に。さんもいらない」

「じゃあ、ミオちゃん」

「いきなりちゃん付け?」

「嫌でしたか?」

「……もういい」

ルナの笑顔が、今度は少しだけ自然になった。

ミオはため息をつき、ギターの位置を直した。

「一人で待つのが怖いなら、ついてくれば」

「怖いとは言っていません」

「じゃあ、ここにいる?」

「一緒に行きます」

「怖いんじゃん」

「安全のためです」

ルナは少し頬を膨らませた。

その表情は、ステージで見る星宮ルナよりもずっと年相応に見えた。

二人は並んで歩き始めた。

明確な目的地はない。

草が低くなっている方向を選び、足元を確かめながら進む。

スマートフォンのライトは使わなかった。二つの月と発光する花のおかげで、近くの地面ならかろうじて見える。

ルナのブーツは、草原を歩くためのものではなかった。

何度も踵を取られ、そのたびに歩みが遅くなる。

「脱いだら?」

「裸足の方が危ないと思います」

「じゃあ、ゆっくり歩いて。転ばれたら困る」

「ごめんなさい」

「謝らなくていいって」

「ごめ――分かりました」

背後で、何かが鳴いた。

二人は同時に足を止めた。

犬の声に似ていた。

しかし、犬よりも低く、湿った音だった。

「今の、聞こえた?」

ミオが囁く。

ルナがうなずく。

草の中で、何かが動いている。

一つではない。

右側で草が揺れ、続いて左側でも揺れた。

何かが二人を囲むように移動している。

「野犬……でしょうか」

「知らない」

ミオはギターを身体の前へ回した。

こんな使い方をしたくない。

だが、ほかに持っているものがない。

暗がりの中に、二つの光が浮かんだ。

低い位置に並ぶ、濁った黄色の光。

目だった。

ゆっくりと、それが草の中から姿を現す。

大きさは中型犬ほど。

身体は黒い毛に覆われているが、背中からは骨のような突起が何本も伸びていた。口は耳元まで裂け、隙間なく並んだ牙の間から粘ついた唾液が落ちている。

犬ではない。

少なくとも、ミオの知っている世界の生き物ではなかった。

その後ろに、もう一対の目が浮かぶ。

さらに、もう一対。

ルナがミオの袖をつかんだ。

「ミオちゃん」

「大声を出さないで」

「どうしますか」

ミオにも分からなかった。

逃げるべきか。

背中を見せずに離れるべきか。

目を合わせてはいけないのか。

野生動物への対処法など、何一つ知らない。

先頭の獣が、前脚を一歩踏み出した。

喉の奥から、濁った唸り声が漏れる。

ミオはギターのネックを握った。

指の震えが止まらない。

それでも、ルナの前へ半歩だけ出た。

獣が地面を蹴った。

挿絵(By みてみん)

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