第一部 一話 星花の草原
朝倉ミオの声は、誰にも届いていなかった。
少なくとも、ミオにはそう思えた。
地下にある小さなライブハウスは、ひどく蒸し暑かった。
黒く塗られた天井。無数の傷が刻まれた床。汗と埃と、機材が熱を持ったときに生じる独特の匂い。
収容人数は百人ほど。その半分も埋まっていない。
最前列にいる数人だけが、演奏に合わせて身体を揺らしていた。後方では、次に出演するバンドの客が壁にもたれ、スマートフォンを眺めている。
それでもミオは、赤いエレキギターを抱き、ありったけの声で歌った。
家族の席は用意しなかった。
父は今夜、弟を連れて取引先の食事会へ出ている。母から届いたのは「帰りは運転手を呼びなさい」という一文だけだった。ライブの日時は先月伝えてある。忘れたのか、覚えていて来ないのか、ミオにはどちらでも同じだった。
腕の中の赤いギターだけは、家族に選ばれたものではない。塗装の剥げた中古品を、自分で欲しいと言い、自分の金で手に入れた。
喉はすでに焼けつくように痛い。
左手の指先も、弦を押さえるたびに悲鳴を上げていた。
けれど、この手を止めてしまったら、本当にすべてが終わってしまう気がした。
「ミオ、次!」
背後から、ドラムのナツキが叫ぶ。
ミオは短くうなずき、ギターのネックを握り直した。
高校二年の春、四人で結成したガールズバンド――ブルームノイズ。
誰が言い出した名前だったのか、今ではもう覚えていない。
最初は、ただ楽しかった。
放課後の音楽室に忍び込み、教師に追い出されるまで演奏した。アルバイト代を貯めて機材を買った。初めて作った曲を、四人で何度も書き直した。
いつか大きなステージに立とう。
その言葉を、本気で信じていた。
しかし、高校三年の夏を前に、四人の進路は分かれた。
ナツキは受験に専念する。
ベースのユイは家族と一緒に引っ越す。
キーボードのマコは、音楽そのものをやめると言った。
誰も悪くない。
だからこそ、ミオには怒ることさえできなかった。
今夜の合同ライブが終われば、ブルームノイズは活動を休止する。
休止。
皆はそう呼んでいた。
けれど、二度と四人で演奏する日は来ないのだろうと、ミオは分かっていた。
「――まだ、終われない!」
マイクへ叩きつけた言葉は、自分で書いた歌詞の一節だった。
客席の何人かが顔を上げた。
ミオは右手を振り下ろす。
アンプから放たれた音が、狭い空間を震わせた。
もっと。
もっと大きな音を出せば、何かが変わる気がした。
離れていこうとする三人を引き止められるかもしれない。
スマートフォンを見ている客が、こちらを向いてくれるかもしれない。
自分たちがここにいたことを、誰かの記憶に残せるかもしれない。
そんなはずはないと分かっている。
それでもミオは、歌うことしかできなかった。
◇
同じころ。
星宮ルナの前には、光の海が広がっていた。
数万人を収容するドーム会場。そのすべての座席が、白と薄紫色のペンライトで埋め尽くされている。
ステージを走るたび、光の波がルナを追いかけた。
巨大なスクリーンには、ルナの笑顔が映っていた。
完璧な笑顔だった。
口角の上げ方も、目を細めるタイミングも、カメラへ顔を向ける角度も、すべて身体が覚えている。
「みんな、まだまだ声を出せるよね!」
ルナが呼びかける。
会場を揺らす歓声が返ってきた。
隣では、アイドルグループ・アステリアの仲間たちが笑っている。
七人で何百回も練習した振り付け。
誰がどの位置へ動くのか。どの歌詞でカメラを見るのか。どこで観客を煽るのか。
間違えるはずがなかった。
今夜は、アステリアにとって過去最大の単独公演だった。
この日のために、全員が一年近く準備してきた。
嬉しくないはずがない。
実際、嬉しかった。
夢に見た場所だった。
それなのにルナは、ステージの中央で、自分だけが透明になったような感覚を覚えていた。
歓声は聞こえている。
ペンライトも見えている。
けれど、そのすべてが分厚いガラスの向こう側にあるようだった。
『ルナ、表情が少し硬い』
耳につけた小型受信機から、スタッフの声が聞こえる。
ルナはすぐに笑顔を深くした。
客席へ向かって、大きく手を振る。
歓声がさらに強くなる。
誰も、ルナの笑顔が作り物だとは気づかない。
そうでなければならなかった。
星宮ルナは、いつも明るい。
星宮ルナは、ファンを不安にさせない。
星宮ルナは、皆に夢を見せる女の子だ。
それが自分に与えられた役割だった。
だったら、その役割を果たすことが自分の幸せなのだろう。
そう思っていた。
ステージが暗転する。
わずかな暗闇の間に、ルナたちは最後の曲の位置へ移動した。
「ルナ、大丈夫?」
隣に立ったリーダーのカナデが、マイクに入らない声で尋ねた。
「うん。大丈夫」
ルナは反射的に答えた。
今夜は母と妹も、自宅の小さなテレビで中継を見ている。妹は明日、学校で姉の話をすると昨日からはしゃいでいた。母は遅番を代わってもらう代わりに、来週の日曜日を丸ごと働くと言っていた。
二人が見ているなら、なおさら疲れた顔はできない。
カナデが何かを言おうとしたとき、最後の曲のイントロが始まった。
スポットライトが一斉に点灯する。
ルナは笑った。
結局、自分が何を歌いたいのかは分からない。
それでも、求められた歌なら歌える。
皆が望む星宮ルナでいることならできる。
だから今夜も、最後まで笑っていよう。
たとえ、その笑顔の内側に何もなくても。
◇
「これが最後の曲です」
ミオは乱れた呼吸を整えながら言った。
客席から、まばらな拍手が返ってくる。
曲名は告げなかった。
この曲には、まだ名前がなかった。
ブルームノイズの四人で演奏するために、ミオが初めて一人で作詞と作曲をした曲だ。
完成したのは三日前。
メンバーに聞かせたとき、ナツキは「いい曲だね」と言った。
ユイも、マコも同じように褒めた。
それだけだった。
誰も、これならバンドを続けたいとは言ってくれなかった。
当たり前だ。
一曲で他人の人生を変えられるはずがない。
ミオは目を閉じ、弦の上に指を置いた。
静かなアルペジオが流れ始める。
今までの曲とは違い、この曲に激しい叫びはない。
過ぎていく季節と、離れていく友人と、それでも消えない思い出について歌った曲だった。
もう一度、四人で笑いたい。
だが、それを口にすれば三人を困らせる。
だからミオは、言葉にできない気持ちを歌にした。
客席ではなく、背後にいる三人へ届けるように。
◇
ドームを満たす何万人もの観客が、同じ旋律に合わせてペンライトを振っていた。
アステリアの最後の曲は、別れと再会を歌ったバラードだった。
ルナは一人ずつ歌い継がれる歌詞を聞きながら、自分の出番を待った。
自分たちが歌う曲を、ルナが作ったことはない。
歌詞も、旋律も、衣装も、立ち位置も、誰かが用意してくれる。
だから失敗しないように覚え、求められた以上の形で届けてきた。
それを偽物だと思ったことはない。
この歌に救われたと言ってくれる人もいる。
ルナ自身、歌うことが嫌いなわけではなかった。
ただ、ときどき考えてしまう。
もし誰も見ていなかったら。
スタッフも、メンバーも、ファンもいない場所に一人だけ取り残されたら。
自分はそれでも歌うのだろうか。
ルナの順番が来た。
カメラの赤いランプが点灯する。
巨大スクリーンに、自分の顔が映る。
ルナは息を吸い込んだ。
◇
ミオが最後の歌詞を口にする。
◇
ルナが最後の歌詞を歌う。
◇
二人の声が、それぞれの場所で重なった。
その瞬間。
ミオのギターの弦が、ひとりでに震えた。
「え……?」
弦の隙間から、青白い光があふれ出す。
照明の演出ではない。
ミオが右手を離しても、弦は激しく振動し続けた。
アンプから、演奏した覚えのない低い音が鳴る。
「ミオ!」
背後でナツキが叫んだ。
ミオは振り返ろうとした。
しかしその前に、青白い光がステージを飲み込んだ。
◇
ルナの足元で、白い床に亀裂のような光が走った。
幾重もの円と、見たことのない文字。
巨大な模様がステージ全体へ広がっていく。
観客の歓声が悲鳴へ変わった。
『ルナ、そこから離れて!』
スタッフの声が耳元で響く。
ルナは動こうとした。
けれど足に力が入らない。
カナデがこちらへ手を伸ばしている。
ルナも必死に手を伸ばした。
二人の指先が触れる寸前、光が視界を白く塗り潰した。
◇
音が消えた。
歓声も、演奏も、仲間の声もない。
ミオは、冷たい場所に横たわっていた。
鼻先をくすぐったのは、ライブハウスの埃っぽい空気ではない。
湿った土と、名前も知らない花の匂いだった。
身体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走る。
「いった……」
声は出た。
喉は痛い。
腕も脚も動く。
背中には、ギターのストラップが掛かったままだった。
ミオは震える手で、周囲の草をつかんだ。
遠くで虫の鳴く声がする。
風が草原を渡り、無数の葉を揺らしていた。
どうして、草の上にいるのだろう。
ライブハウスはどこへ行った。
ナツキたちは。
ミオはゆっくり顔を上げた。
夜だった。
見渡す限り建物はなく、腰の高さまである草が続いている。見たことのない青い花が、ところどころで淡い光を放っていた。
そして――。
空には、月が二つ浮かんでいた。




