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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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18/19

第四部 一話 雨に弦を張る都

雨琴王国の屋根には、家ごとに異なる長さの金属弦が張られている。

小雨は子守歌に、夕立は進軍曲に、暴風雨は国そのものが身を震わす不協和音になる。

ここでは雨を聞けない者が王になり、民は同じ拍で安心する。二人が壊すのは悪政だけではなく、正しいリズムへの依存だ。

雨粒が、空を奏でていた。

王都カンターレには、塔と塔の間へ無数の銀線が張られている。細い線、太い線、短い線。雨が触れるたび違う音が生まれ、街全体が巨大な琴のように鳴った。

水上列車は、その音の下を滑る。

屋根を打つ雨。車輪の水音。頭上の琴線。別々の音が重なりながら、互いを消さない。

「好きでしょ」

ルナが言う。

「まあ」

「顔に出てる」

ミオは窓へ近づいた。演奏したいとは思う。けれど、この街へ自分の音を足す前に、まず街が何を鳴らしているのか聞きたかった。

灰色の旅嚢は腰にある。赤いギターは中だ。



中央駅では、黒い上着の青年が待っていた。

大きな灰色のリュック。短く濡れた黒髪。腰には短剣が一本だけ。

虹瀑群島でサラを助けた男。

「シンさん?」

ルナが呼ぶ。

「はい」

青年は答え、一礼した。

「はじめまして。という言い方でいいか分かりませんけど。新堂真、二十三歳です。日本から来ました」

ミオは彼の顔を見る。

「レイファで逃げた人」

「……はい」

「虹瀑でも逃げた」

「それも、はい」

「今度は?」

「逃げないつもりです」

つもり、という言葉を選ぶところだけは信用できる気がした。

シンは転移後のことを話した。目覚めた時には一人で、身体に〈拍間〉という技能があったこと。相手の動き出す直前を読みやすいが、数秒先が分かるわけでも、強敵に勝てるわけでもないこと。聖律院の輸送記録に、世界樹へ続く巡礼路が記されていたこと。

「二人に会う前から、聖律院を追っていました」

「どうして私たちが日本人だと分かったの」

ルナが訊く。

シンの返答が、一拍遅れた。

「服と、話していた言葉です」

嘘ではない。

ただ、全部でもない。

ミオはそう感じた。



三人は駅舎の食堂で、同行条件を決めた。

食堂の天井にも細い琴線が張られていた。雨脚が強まるたび、店員は音を聞き分けて窓の水受けを開閉する。

ミオにはただの和音に聞こえる。シンも同じらしい。ルナは首を傾け、音程を真似た。

「今のは『西樋を閉じろ』だ」

店員が笑う。

「歌えるだけじゃ、雨の言葉は読めんよ」

ルナは少し悔しそうに、もう一度耳を澄ませた。

異世界へ来て、二人の音は特別な力を持った。それでも、この街では子どもでも聞き分ける音を二人とも理解できない。

能力があることと、何でもできることは違う。その当然を、雨の都は街角ごとに鳴らしていた。

「同じ宿でも部屋は別」

ルナが手帳へ書く。

「お金も別。共有で買った物は、その場で三等分。私たちの旅嚢はギター専用だから、荷物持ちとして期待しないでください」

「分かりました」

「戦う時、私たちを前へ出さない」

「それは当然です」

「当然って言う人が一番勝手に庇うんだよ」

ミオが言うと、シンは返事に詰まった。

「帰還方法の情報を共有する。どちらかが嫌だと言えば同行は終わり。これでいい?」

「はい」

三人の友情は、まだ始まっていない。

目的が同じ間だけ歩く、仮契約だった。


挿絵(By みてみん)

食堂を出た時、駅前の水路で警報が鳴った。

上層から流れる水が急に増え、整備橋が傾く。作業員が一人、欄干の外へ投げ出された。

シンが走る。

落ちる工具の間を抜け、作業員の腕を掴んだ。だが彼の足元の板も割れる。

「綱!」

ミオが叫ぶ。

ルナは近くの荷運び人から綱を受け取り、橋の柱へ回す。三人では引けない。駅前の人々が加わった。

作業員とシンが引き上げられる。

水門の上では、深緑の外套を着た少女が流量計を見ていた。十七、八歳ほど。頭には王家の銀冠がある。

「閉門が遅い。第三線の音が外れていたでしょう!」

技師が怒鳴る。

少女は雨琴線を見上げた。

「聞こえません。だから水位で判断しました。閉門命令は二十分前に出しています」

周囲がざわつく。

「雨律を聞けない王女が、また水門へ口を出した」

誰かが囁いた。

少女は反論せず、濡れた記録紙を拾い集めた。

ミオには、その背中がよく分かった。

できないことを一つ見つけられた人間は、できることまで数えてもらえない。


《余響譜 02》 三人目の歩幅


シンは、英雄のように着地できなかった。

作業員と一緒に引き上げられたあと、石床へ尻餅をついた。右手の皮が剥け、黒い上着は泥水に濡れている。

「先に綱の位置を見ればよかった」

彼は自分で言った。

「能力で分からなかったの?」

ルナが傷を洗いながら訊く。

「人が動く直前は少し分かります。板が割れる時は、板に肩も重心もないので」

「不便」

ミオが言う。

「便利だと思っていた時期もあります」

シンは苦笑した。

強いが、勇者ではない。その線がはっきりしたことに、ルナは少し安心した。



三人は下層街の宿を取った。

上層から落ちた雨水が、宿の壁を何本もの細い流れになって下る。部屋には湯を溜める桶がなく、壁の弁を開くと温められた雨が一分だけ流れた。

「一分で髪洗える?」

長い蜂蜜色の髪を持つルナが、弁を睨む。

「切れば」

「勝手に髪型を変えないで」

二人は宿の女将から追加の湯札を買った。シンが代金を出そうとしたが、ルナは自分で払う。

日常の小さな選択で境界を守らなければ、危機の時だけ対等にはなれない。

シンが「まとめて払います」と財布を出しかけたので、ルナは止めた。

「一部屋ずつ」

「でも、俺が年上ですし」

「年上と会計係は別です」

宿代を三つに分ける。食費も別。水上列車で使った共有費だけ、端数を調整した。

ルナにとって金の管理は、細かい性格の表れではない。誰かへ借りを作り、その人に逆らえなくなる状況を避けるためでもあった。

シンはそれ以上言わなかった。

「助かります。俺、一人だと食費の見積もりを外すので」

「何に使うんですか」

「便利そうな道具」

「ガレスと同じ種類だ」


ミオが呟いた。



翌朝、駅で見た少女が宿を訪ねてきた。

「ネリス・アウレリアです」

雨琴王国第二王女は、銀冠を外し、濃緑の作業着を着ていた。

「昨日の事故について、証言をお願いします」

彼女は机へ三枚の水路図を広げた。

挿絵(By みてみん)

王都の上層には貯水湖があり、雨琴線の音で水門術師が流量を調整する。ところが一月前から、実際の水位と雨律が合わない。上層には水が余り、下層では配給が減っている。

「誰かが音の情報だけを偽っている」

ネリスは言う。

「私は雨律を聞き分けられません。だから、錆、水位、石の湿り方を測りました」

「聞こえないから、別のものを見たんですね」

ミオが言う。

ネリスは驚いた顔をした。

普段は、聞こえないのに余計なことをした、と言われるのだろう。

「調査を手伝ってほしいのです。虹瀑で無音核を取り戻した方々なら、音が正しいという前提を疑える」

依頼料は王宮から出ない。ネリス個人の研究費から払うという。

ルナは金額を確認し、危険手当を追加させた。

「王女様にも三等分は必要?」

ミオが囁く。

「依頼主は別」

シンが小さく笑った。

その笑い方に、ルナは一瞬、既視感を覚えた。初対面のはずなのに、彼はこちらのやり取りを前から知っているようだった。



調査の途中、ミオは屋台で辛い串焼きを取った。

シンが何気なく言う。

「辛いの、苦手じゃないんですか」

ミオの手が止まった。

「なんで?」

「昨日、香辛料を避けてたので」

説明はつく。

けれど、昨日ミオが避けたのは香辛料ではなく、魚の目だった。

ルナも気づいたらしい。何も言わず、シンを見た。

三人目の歩幅は、少しだけ二人より先へ出ていた。


《余響譜 03》 雨を聞けない王女


ネリスは、雨の音を聞くことはできた。

幼い頃、教師たちは何度も同じ琴線を鳴らした。

「水位が上がった音です」

「違います。南門の閉鎖です」

もう一度答えれば、また違うと言われた。正解を覚えても、雨粒が変われば役に立たない。教師は努力不足と記録し、医師は集中力の問題を疑った。

弟アルトだけが、姉の前で雨律の歌を口ずさまなくなった。気遣いだったのか、罪悪感だったのか。当時のネリスには、優越を隠しているようにしか見えなかった。

窓を打つ音。軒を流れる音。水溜まりを踏む音。

聞こえないのは、雨律だった。

王族と水門術師には、琴線へ落ちた雨が言葉のように聞こえるという。北湖が満ちた。第三水門を閉じよ。南の畑へ水を送れ。

ネリスには、ただの美しい音だった。

七歳の試奏式でそれが分かった時、父王は一度だけ彼女の頭を撫でた。

「他に向くことを探せばよい」

翌年、弟が完璧に雨律を聞き分けた。

宮廷は祝宴を開いた。

それからネリスは、弟の隣に並ぶ娘ではなく、弟を支える姉として扱われた。



挿絵(By みてみん)

「第三貯水路の壁、ここだけ苔が薄い」

ミオが言った。

ネリスは頷く。

「本来の水位まで届いていない証拠です」

三人は音響記録ではなく、石壁を調べた。錆の高さ。苔の色。水棲虫の卵。どれも下層への流量が公表値より少ないと示している。

シンは水門番の動きを観察し、不自然な交代時間を書き留めた。ルナは配給所で住民へ話を聞く。

特別な能力より、地味な証拠が積み上がっていく。

「あなたは、どうして私を信じたのですか」

休憩中、ネリスはミオへ訊いた。

「信じたわけじゃない。数字が合ってたから」

「では、どうして笑わなかったのですか」

「何が」

「雨を聞けないと話した時です」

ミオは返答に困った。

「できないことがあるの、普通だから」


「あなたには、人を強くする音楽がある」

「それ以外は普通。剣も魔法も使えない」

「それでも、その一つがある」

ネリスの言葉に、羨望の棘があった。

ミオは気づかないふりをしなかった。

「あるから面倒なこともあるよ。使わないと見捨てたって言われる。使えば誰かの考えまで揃えるかもしれない」

「贅沢な悩みだと思います」

「そうかも」

傷ついたが、否定はしなかった。

ネリスも、言いすぎたと謝らなかった。

二人はまだ、似た傷を理由に仲良くなれるほど互いを知らなかった。



夕方、ネリスは調査結果を父王へ提出した。

王は報告書を読み、弟王子の名を署名欄へ加えた。

「公表はアルトの治水計画として行う」

「調べたのは私です」

「民は、雨律を聞けぬ者の判断では不安になる」

「事実は、誰の耳にも関係ありません」

「王家には関係がある」

父王は声を荒らげなかった。だからこそ、決定が変わらないことが分かった。

弟のアルトは隣で俯いていた。

反対しなかった。

ネリスは弟を憎みたいと思った。

その方が、父から選ばれなかった痛みを向けやすい。

だがアルトの握った拳が震えているのを見てしまった。

彼もまた、姉の成果を受け取る役から降りられずにいる。

謁見室を出ると、ミオが壁にもたれて待っていた。

「聞いてた?」

「扉が薄い」

「弟を嫌いになれたら楽なのに」

「分かる」

ミオの返事が早すぎて、ネリスは顔を上げた。

その意味を訊く前に、下層街の警報鐘が鳴った。

また一つ、水門が閉じた。


《余響譜 04》 雨の聖女


下層第三水門の歯車には、細い銀片が挟まっていた。

雨琴線と同じ材質だが、本来そこにある物ではない。銀片が振動すると、水門術師には「閉じた」という偽の雨律が聞こえる。実際には半開きのまま、水だけが別の貯水槽へ流れていた。

「誰かが水を盗んでる」

ミオが言う。

ネリスは銀片を証拠袋へ入れた。

その時、歯車が逆回転した。

整備台にいた技師が巻き込まれかける。仲間が停止梃子を押すが、雨で手が滑る。

「右の二人、梃子! 左は歯止め!」

ルナが叫んだ。

声は届いている。だが水門の轟音で、技師たちは互いの位置を把握できない。

ミオと目が合う。

目的。技師の救助。

範囲。この水門の足場。

止める条件。技師以外へ広がるか、動きが本人の判断を越えた時。

ミオは旅嚢から赤いギターを取り出し、共鳴箱を足場へ固定した。

短い四拍。

ルナは命令を繰り返さず、名前と担当だけを呼ぶ。

「エイル、右。ボザ、歯止め。ナム、負傷者」

技師たちは、自分たちの訓練を取り戻した。

梃子が押し戻され、歯車が止まる。

ミオはすぐ弦を押さえた。

演奏は二十秒にも満たなかった。

挿絵(By みてみん)


「雨の聖女だ」

誰かが言った。

技師の一人がルナの前へ跪く。

「あなたの声が、我々を救った」

「違います。皆さんが自分で動いたんです」

「聖女様が力をくださった」

否定するほど、感謝は熱を帯びた。


ミオも弾いていたはずなのに、人々はルナを見た。声には顔があり、言葉がある。祈りを向ける相手として分かりやすい。

ルナは困った笑顔を作った。

その瞬間、歓声が上がる。

彼らが求める聖女の顔になってしまった。



噂は一日で下層街へ広がった。

最初に来たのは、熱を出した子どもの父親だった。

「触れてくださるだけでいい」

「私は治せません」

「信じる心が足りないと?」

「違います。できないんです」

父親は肩を落とした。怒鳴られるより、その落胆を見る方が苦しかった。

次は商売がうまくいく歌を求める女。次は息子を兵役から帰してほしい老夫婦。一つ断るたび、ルナは自分が冷たい人間になったように感じた。

日本でも同じだった。握手の時間を延ばせない。個人的な連絡先を渡せない。病室へ一人だけ会いに行けない。境界を守る仕事は、いつも相手の落胆と一緒だった。

だから笑顔で断る癖がついた。今、その笑顔が聖女の証として受け取られてしまう。

宿の前に花と果物が置かれた。病気の子を治してほしいという手紙。行方不明の夫を探してほしいという願い。水を増やしてほしいという嘆願。

「できないことは、できないって言わないと」

ミオが言う。

「分かってる」

ルナは花を整理しながら答えた。

「でも、助けられた人が嬉しいのも本当だよ」

「ルナが嬉しいのも?」

手が止まる。

「……うん」

必要とされることは、重い。

同時に、甘かった。

家へ給料を入れた時、母が安心した顔をする。妹が新しい靴を履く。その瞬間だけ、疲れは意味のあるものになる。

聖女と呼ばれることも、よく似ていた。

「喜んじゃ駄目なのかな」

「駄目とは言ってない。誰がその気持ちを利用してるか、見た方がいい」

花束の紐に、小さな印があった。

三本の線を囲む円。

聖律院だった。


《余響譜 05》 正しい拍の暴動


配給所へ来た人々は、最初から暴れるつもりではなかった。

ルナが前日に断った、熱病の子どもの父親も列にいた。彼は水壺を二つ持ち、前の老人へ日除け布を貸していた。

ミオはその姿を覚えていた。

後に群衆の一人として石を投げても、その人のすべてが暴徒だったことにはならない。人工音は、元からある怒りと焦りの向きを揃える。何もない場所へ悪意を作るのではなく、人の中の一部分だけを大きくする。

だから厄介だった。

水壺を抱え、順番を待っていた。

上層の貯水庫には水がある。下層へ届かないのは王宮が隠しているからだ。そんな噂が流れても、列はまだ保たれていた。

音が鳴るまでは。

どこからともなく、低い三拍が響いた。

雨琴線の音に似ている。けれど、雨粒では作れないほど正確だった。

一拍。

二拍。

三拍。

人々が同時に王宮の方角を向いた。

「水を返せ」

誰かが叫ぶ。

言葉は次々と移り、群衆が歩き始めた。

レイファの広場で見た動きだった。

「人工の響応?」

ルナが息を呑む。

「同じじゃない。気持ちを強くしてるんじゃなくて、合図を頭へ押し込んでる」

ミオは音源を探した。

屋根の雨樋に、小さな銀筒が取りつけられている。聖律院の装置だ。



三人は演奏しなかった。

シンが屋根へ上り、銀筒を外す。ミオとルナは列から押し出された子どもと老人を横道へ逃がした。

装置が一つ止まっても、別の通りから三拍が聞こえる。

「聖女様、歌って!」

群衆の端にいた女が、ルナの腕を掴んだ。

挿絵(By みてみん)

「あなたの声なら皆が従う!」

「従わせたくないんです」


「では、私たちを見捨てるの?」

言葉が刺さる。

ルナの口元が、仕事用の笑顔を作りかけた。

ミオが間へ入る。

「この人に、あなたの望む顔をさせないで」

「聖女様に何を――」

「聖女じゃない。十七歳の、普通の人」

女の手が緩む。

ルナは自分で腕を引いた。



シンが最後の銀筒を見つけたのは、時計塔だった。

梯子の途中で兵に追いつかれる。シンは肩の動きを読み、剣を避ける。だが狭い足場では、避ける先がない。

「ルナさん、右手を二回上げて!」

シンが叫んだ。

ルナは反射的に従った。

右手を二回。

下の群衆の一部が、同じ動きを返す。視線が一瞬そちらへ集まり、シンは兵の脇を抜けた。

銀筒を外す。

三拍が止まった。

人々の足がばらばらになり、やがて止まる。

事故は避けられた。

だがミオは、シンを見ていた。

「今の合図、どこで知ったの」

「人目を引ける動きだと思って」

「違う。アステリアの昔の配信で、ルナが客席へ返事を求める時にやってた合図」

ルナも顔を上げる。

「あれ、短期間しか使ってない」

雨が三人の間へ落ちる。

シンは答えなかった。

答えないことが、答えになった。

その時、王都全域で警報が鳴った。

ネリスの予測していた上層水門が、限界水位を越えた。

真実を問いただす前に、街を救わなければならなかった。

だから疑いは、解けないまま三人の間へ残った。


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