第四部 一話 雨に弦を張る都
雨琴王国の屋根には、家ごとに異なる長さの金属弦が張られている。
小雨は子守歌に、夕立は進軍曲に、暴風雨は国そのものが身を震わす不協和音になる。
ここでは雨を聞けない者が王になり、民は同じ拍で安心する。二人が壊すのは悪政だけではなく、正しいリズムへの依存だ。
雨粒が、空を奏でていた。
王都カンターレには、塔と塔の間へ無数の銀線が張られている。細い線、太い線、短い線。雨が触れるたび違う音が生まれ、街全体が巨大な琴のように鳴った。
水上列車は、その音の下を滑る。
屋根を打つ雨。車輪の水音。頭上の琴線。別々の音が重なりながら、互いを消さない。
「好きでしょ」
ルナが言う。
「まあ」
「顔に出てる」
ミオは窓へ近づいた。演奏したいとは思う。けれど、この街へ自分の音を足す前に、まず街が何を鳴らしているのか聞きたかった。
灰色の旅嚢は腰にある。赤いギターは中だ。
◇
中央駅では、黒い上着の青年が待っていた。
大きな灰色のリュック。短く濡れた黒髪。腰には短剣が一本だけ。
虹瀑群島でサラを助けた男。
「シンさん?」
ルナが呼ぶ。
「はい」
青年は答え、一礼した。
「はじめまして。という言い方でいいか分かりませんけど。新堂真、二十三歳です。日本から来ました」
ミオは彼の顔を見る。
「レイファで逃げた人」
「……はい」
「虹瀑でも逃げた」
「それも、はい」
「今度は?」
「逃げないつもりです」
つもり、という言葉を選ぶところだけは信用できる気がした。
シンは転移後のことを話した。目覚めた時には一人で、身体に〈拍間〉という技能があったこと。相手の動き出す直前を読みやすいが、数秒先が分かるわけでも、強敵に勝てるわけでもないこと。聖律院の輸送記録に、世界樹へ続く巡礼路が記されていたこと。
「二人に会う前から、聖律院を追っていました」
「どうして私たちが日本人だと分かったの」
ルナが訊く。
シンの返答が、一拍遅れた。
「服と、話していた言葉です」
嘘ではない。
ただ、全部でもない。
ミオはそう感じた。
◇
三人は駅舎の食堂で、同行条件を決めた。
食堂の天井にも細い琴線が張られていた。雨脚が強まるたび、店員は音を聞き分けて窓の水受けを開閉する。
ミオにはただの和音に聞こえる。シンも同じらしい。ルナは首を傾け、音程を真似た。
「今のは『西樋を閉じろ』だ」
店員が笑う。
「歌えるだけじゃ、雨の言葉は読めんよ」
ルナは少し悔しそうに、もう一度耳を澄ませた。
異世界へ来て、二人の音は特別な力を持った。それでも、この街では子どもでも聞き分ける音を二人とも理解できない。
能力があることと、何でもできることは違う。その当然を、雨の都は街角ごとに鳴らしていた。
「同じ宿でも部屋は別」
ルナが手帳へ書く。
「お金も別。共有で買った物は、その場で三等分。私たちの旅嚢はギター専用だから、荷物持ちとして期待しないでください」
「分かりました」
「戦う時、私たちを前へ出さない」
「それは当然です」
「当然って言う人が一番勝手に庇うんだよ」
ミオが言うと、シンは返事に詰まった。
「帰還方法の情報を共有する。どちらかが嫌だと言えば同行は終わり。これでいい?」
「はい」
三人の友情は、まだ始まっていない。
目的が同じ間だけ歩く、仮契約だった。
◇
食堂を出た時、駅前の水路で警報が鳴った。
上層から流れる水が急に増え、整備橋が傾く。作業員が一人、欄干の外へ投げ出された。
シンが走る。
落ちる工具の間を抜け、作業員の腕を掴んだ。だが彼の足元の板も割れる。
「綱!」
ミオが叫ぶ。
ルナは近くの荷運び人から綱を受け取り、橋の柱へ回す。三人では引けない。駅前の人々が加わった。
作業員とシンが引き上げられる。
水門の上では、深緑の外套を着た少女が流量計を見ていた。十七、八歳ほど。頭には王家の銀冠がある。
「閉門が遅い。第三線の音が外れていたでしょう!」
技師が怒鳴る。
少女は雨琴線を見上げた。
「聞こえません。だから水位で判断しました。閉門命令は二十分前に出しています」
周囲がざわつく。
「雨律を聞けない王女が、また水門へ口を出した」
誰かが囁いた。
少女は反論せず、濡れた記録紙を拾い集めた。
ミオには、その背中がよく分かった。
できないことを一つ見つけられた人間は、できることまで数えてもらえない。
《余響譜 02》 三人目の歩幅
シンは、英雄のように着地できなかった。
作業員と一緒に引き上げられたあと、石床へ尻餅をついた。右手の皮が剥け、黒い上着は泥水に濡れている。
「先に綱の位置を見ればよかった」
彼は自分で言った。
「能力で分からなかったの?」
ルナが傷を洗いながら訊く。
「人が動く直前は少し分かります。板が割れる時は、板に肩も重心もないので」
「不便」
ミオが言う。
「便利だと思っていた時期もあります」
シンは苦笑した。
強いが、勇者ではない。その線がはっきりしたことに、ルナは少し安心した。
◇
三人は下層街の宿を取った。
上層から落ちた雨水が、宿の壁を何本もの細い流れになって下る。部屋には湯を溜める桶がなく、壁の弁を開くと温められた雨が一分だけ流れた。
「一分で髪洗える?」
長い蜂蜜色の髪を持つルナが、弁を睨む。
「切れば」
「勝手に髪型を変えないで」
二人は宿の女将から追加の湯札を買った。シンが代金を出そうとしたが、ルナは自分で払う。
日常の小さな選択で境界を守らなければ、危機の時だけ対等にはなれない。
シンが「まとめて払います」と財布を出しかけたので、ルナは止めた。
「一部屋ずつ」
「でも、俺が年上ですし」
「年上と会計係は別です」
宿代を三つに分ける。食費も別。水上列車で使った共有費だけ、端数を調整した。
ルナにとって金の管理は、細かい性格の表れではない。誰かへ借りを作り、その人に逆らえなくなる状況を避けるためでもあった。
シンはそれ以上言わなかった。
「助かります。俺、一人だと食費の見積もりを外すので」
「何に使うんですか」
「便利そうな道具」
「ガレスと同じ種類だ」
ミオが呟いた。
◇
翌朝、駅で見た少女が宿を訪ねてきた。
「ネリス・アウレリアです」
雨琴王国第二王女は、銀冠を外し、濃緑の作業着を着ていた。
「昨日の事故について、証言をお願いします」
彼女は机へ三枚の水路図を広げた。
王都の上層には貯水湖があり、雨琴線の音で水門術師が流量を調整する。ところが一月前から、実際の水位と雨律が合わない。上層には水が余り、下層では配給が減っている。
「誰かが音の情報だけを偽っている」
ネリスは言う。
「私は雨律を聞き分けられません。だから、錆、水位、石の湿り方を測りました」
「聞こえないから、別のものを見たんですね」
ミオが言う。
ネリスは驚いた顔をした。
普段は、聞こえないのに余計なことをした、と言われるのだろう。
「調査を手伝ってほしいのです。虹瀑で無音核を取り戻した方々なら、音が正しいという前提を疑える」
依頼料は王宮から出ない。ネリス個人の研究費から払うという。
ルナは金額を確認し、危険手当を追加させた。
「王女様にも三等分は必要?」
ミオが囁く。
「依頼主は別」
シンが小さく笑った。
その笑い方に、ルナは一瞬、既視感を覚えた。初対面のはずなのに、彼はこちらのやり取りを前から知っているようだった。
◇
調査の途中、ミオは屋台で辛い串焼きを取った。
シンが何気なく言う。
「辛いの、苦手じゃないんですか」
ミオの手が止まった。
「なんで?」
「昨日、香辛料を避けてたので」
説明はつく。
けれど、昨日ミオが避けたのは香辛料ではなく、魚の目だった。
ルナも気づいたらしい。何も言わず、シンを見た。
三人目の歩幅は、少しだけ二人より先へ出ていた。
《余響譜 03》 雨を聞けない王女
ネリスは、雨の音を聞くことはできた。
幼い頃、教師たちは何度も同じ琴線を鳴らした。
「水位が上がった音です」
「違います。南門の閉鎖です」
もう一度答えれば、また違うと言われた。正解を覚えても、雨粒が変われば役に立たない。教師は努力不足と記録し、医師は集中力の問題を疑った。
弟アルトだけが、姉の前で雨律の歌を口ずさまなくなった。気遣いだったのか、罪悪感だったのか。当時のネリスには、優越を隠しているようにしか見えなかった。
窓を打つ音。軒を流れる音。水溜まりを踏む音。
聞こえないのは、雨律だった。
王族と水門術師には、琴線へ落ちた雨が言葉のように聞こえるという。北湖が満ちた。第三水門を閉じよ。南の畑へ水を送れ。
ネリスには、ただの美しい音だった。
七歳の試奏式でそれが分かった時、父王は一度だけ彼女の頭を撫でた。
「他に向くことを探せばよい」
翌年、弟が完璧に雨律を聞き分けた。
宮廷は祝宴を開いた。
それからネリスは、弟の隣に並ぶ娘ではなく、弟を支える姉として扱われた。
◇
「第三貯水路の壁、ここだけ苔が薄い」
ミオが言った。
ネリスは頷く。
「本来の水位まで届いていない証拠です」
三人は音響記録ではなく、石壁を調べた。錆の高さ。苔の色。水棲虫の卵。どれも下層への流量が公表値より少ないと示している。
シンは水門番の動きを観察し、不自然な交代時間を書き留めた。ルナは配給所で住民へ話を聞く。
特別な能力より、地味な証拠が積み上がっていく。
「あなたは、どうして私を信じたのですか」
休憩中、ネリスはミオへ訊いた。
「信じたわけじゃない。数字が合ってたから」
「では、どうして笑わなかったのですか」
「何が」
「雨を聞けないと話した時です」
ミオは返答に困った。
「できないことがあるの、普通だから」
「あなたには、人を強くする音楽がある」
「それ以外は普通。剣も魔法も使えない」
「それでも、その一つがある」
ネリスの言葉に、羨望の棘があった。
ミオは気づかないふりをしなかった。
「あるから面倒なこともあるよ。使わないと見捨てたって言われる。使えば誰かの考えまで揃えるかもしれない」
「贅沢な悩みだと思います」
「そうかも」
傷ついたが、否定はしなかった。
ネリスも、言いすぎたと謝らなかった。
二人はまだ、似た傷を理由に仲良くなれるほど互いを知らなかった。
◇
夕方、ネリスは調査結果を父王へ提出した。
王は報告書を読み、弟王子の名を署名欄へ加えた。
「公表はアルトの治水計画として行う」
「調べたのは私です」
「民は、雨律を聞けぬ者の判断では不安になる」
「事実は、誰の耳にも関係ありません」
「王家には関係がある」
父王は声を荒らげなかった。だからこそ、決定が変わらないことが分かった。
弟のアルトは隣で俯いていた。
反対しなかった。
ネリスは弟を憎みたいと思った。
その方が、父から選ばれなかった痛みを向けやすい。
だがアルトの握った拳が震えているのを見てしまった。
彼もまた、姉の成果を受け取る役から降りられずにいる。
謁見室を出ると、ミオが壁にもたれて待っていた。
「聞いてた?」
「扉が薄い」
「弟を嫌いになれたら楽なのに」
「分かる」
ミオの返事が早すぎて、ネリスは顔を上げた。
その意味を訊く前に、下層街の警報鐘が鳴った。
また一つ、水門が閉じた。
《余響譜 04》 雨の聖女
下層第三水門の歯車には、細い銀片が挟まっていた。
雨琴線と同じ材質だが、本来そこにある物ではない。銀片が振動すると、水門術師には「閉じた」という偽の雨律が聞こえる。実際には半開きのまま、水だけが別の貯水槽へ流れていた。
「誰かが水を盗んでる」
ミオが言う。
ネリスは銀片を証拠袋へ入れた。
その時、歯車が逆回転した。
整備台にいた技師が巻き込まれかける。仲間が停止梃子を押すが、雨で手が滑る。
「右の二人、梃子! 左は歯止め!」
ルナが叫んだ。
声は届いている。だが水門の轟音で、技師たちは互いの位置を把握できない。
ミオと目が合う。
目的。技師の救助。
範囲。この水門の足場。
止める条件。技師以外へ広がるか、動きが本人の判断を越えた時。
ミオは旅嚢から赤いギターを取り出し、共鳴箱を足場へ固定した。
短い四拍。
ルナは命令を繰り返さず、名前と担当だけを呼ぶ。
「エイル、右。ボザ、歯止め。ナム、負傷者」
技師たちは、自分たちの訓練を取り戻した。
梃子が押し戻され、歯車が止まる。
ミオはすぐ弦を押さえた。
演奏は二十秒にも満たなかった。
◇
「雨の聖女だ」
誰かが言った。
技師の一人がルナの前へ跪く。
「あなたの声が、我々を救った」
「違います。皆さんが自分で動いたんです」
「聖女様が力をくださった」
否定するほど、感謝は熱を帯びた。
ミオも弾いていたはずなのに、人々はルナを見た。声には顔があり、言葉がある。祈りを向ける相手として分かりやすい。
ルナは困った笑顔を作った。
その瞬間、歓声が上がる。
彼らが求める聖女の顔になってしまった。
◇
噂は一日で下層街へ広がった。
最初に来たのは、熱を出した子どもの父親だった。
「触れてくださるだけでいい」
「私は治せません」
「信じる心が足りないと?」
「違います。できないんです」
父親は肩を落とした。怒鳴られるより、その落胆を見る方が苦しかった。
次は商売がうまくいく歌を求める女。次は息子を兵役から帰してほしい老夫婦。一つ断るたび、ルナは自分が冷たい人間になったように感じた。
日本でも同じだった。握手の時間を延ばせない。個人的な連絡先を渡せない。病室へ一人だけ会いに行けない。境界を守る仕事は、いつも相手の落胆と一緒だった。
だから笑顔で断る癖がついた。今、その笑顔が聖女の証として受け取られてしまう。
宿の前に花と果物が置かれた。病気の子を治してほしいという手紙。行方不明の夫を探してほしいという願い。水を増やしてほしいという嘆願。
「できないことは、できないって言わないと」
ミオが言う。
「分かってる」
ルナは花を整理しながら答えた。
「でも、助けられた人が嬉しいのも本当だよ」
「ルナが嬉しいのも?」
手が止まる。
「……うん」
必要とされることは、重い。
同時に、甘かった。
家へ給料を入れた時、母が安心した顔をする。妹が新しい靴を履く。その瞬間だけ、疲れは意味のあるものになる。
聖女と呼ばれることも、よく似ていた。
「喜んじゃ駄目なのかな」
「駄目とは言ってない。誰がその気持ちを利用してるか、見た方がいい」
花束の紐に、小さな印があった。
三本の線を囲む円。
聖律院だった。
《余響譜 05》 正しい拍の暴動
配給所へ来た人々は、最初から暴れるつもりではなかった。
ルナが前日に断った、熱病の子どもの父親も列にいた。彼は水壺を二つ持ち、前の老人へ日除け布を貸していた。
ミオはその姿を覚えていた。
後に群衆の一人として石を投げても、その人のすべてが暴徒だったことにはならない。人工音は、元からある怒りと焦りの向きを揃える。何もない場所へ悪意を作るのではなく、人の中の一部分だけを大きくする。
だから厄介だった。
水壺を抱え、順番を待っていた。
上層の貯水庫には水がある。下層へ届かないのは王宮が隠しているからだ。そんな噂が流れても、列はまだ保たれていた。
音が鳴るまでは。
どこからともなく、低い三拍が響いた。
雨琴線の音に似ている。けれど、雨粒では作れないほど正確だった。
一拍。
二拍。
三拍。
人々が同時に王宮の方角を向いた。
「水を返せ」
誰かが叫ぶ。
言葉は次々と移り、群衆が歩き始めた。
レイファの広場で見た動きだった。
「人工の響応?」
ルナが息を呑む。
「同じじゃない。気持ちを強くしてるんじゃなくて、合図を頭へ押し込んでる」
ミオは音源を探した。
屋根の雨樋に、小さな銀筒が取りつけられている。聖律院の装置だ。
◇
三人は演奏しなかった。
シンが屋根へ上り、銀筒を外す。ミオとルナは列から押し出された子どもと老人を横道へ逃がした。
装置が一つ止まっても、別の通りから三拍が聞こえる。
「聖女様、歌って!」
群衆の端にいた女が、ルナの腕を掴んだ。
「あなたの声なら皆が従う!」
「従わせたくないんです」
「では、私たちを見捨てるの?」
言葉が刺さる。
ルナの口元が、仕事用の笑顔を作りかけた。
ミオが間へ入る。
「この人に、あなたの望む顔をさせないで」
「聖女様に何を――」
「聖女じゃない。十七歳の、普通の人」
女の手が緩む。
ルナは自分で腕を引いた。
◇
シンが最後の銀筒を見つけたのは、時計塔だった。
梯子の途中で兵に追いつかれる。シンは肩の動きを読み、剣を避ける。だが狭い足場では、避ける先がない。
「ルナさん、右手を二回上げて!」
シンが叫んだ。
ルナは反射的に従った。
右手を二回。
下の群衆の一部が、同じ動きを返す。視線が一瞬そちらへ集まり、シンは兵の脇を抜けた。
銀筒を外す。
三拍が止まった。
人々の足がばらばらになり、やがて止まる。
事故は避けられた。
だがミオは、シンを見ていた。
「今の合図、どこで知ったの」
「人目を引ける動きだと思って」
「違う。アステリアの昔の配信で、ルナが客席へ返事を求める時にやってた合図」
ルナも顔を上げる。
「あれ、短期間しか使ってない」
雨が三人の間へ落ちる。
シンは答えなかった。
答えないことが、答えになった。
その時、王都全域で警報が鳴った。
ネリスの予測していた上層水門が、限界水位を越えた。
真実を問いただす前に、街を救わなければならなかった。
だから疑いは、解けないまま三人の間へ残った。




