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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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第三部 三話 沈黙を守る祭

夜になると、島へ音が戻った。

最初に聞こえたのは、雨だった。

一滴が葉を打つ。次の一滴が石を打つ。長く閉じていた扉が開くように、森じゅうの音が少しずつ輪郭を取り戻した。

「ミオ!」

自分の声を聞いた瞬間、ルナは走った。

中央村の入口に、ミオとナギが立っていた。ナギは妹を見つけると、転びそうな勢いで駆ける。サラもアマラの腕から下り、兄へしがみついた。

ルナはミオの肩を掴んだ。

挿絵(By みてみん)

「怪我は?」

「ない。そっちは」

「肘だけ」

「勝手に先へ行った?」

「サラを見つけたから」

「私も足跡を見つけた」

「それで、戦えないのにナギと二人で追ったの?」

再会したら抱きしめると思っていた。

実際に口から出たのは、責める言葉だった。

「ルナだって同じでしょ」

「私は救助隊といた」

「でも危険な場所へ行った」

「置いていけないじゃん」

「こっちだってそうだった」

二人とも声を出せることに安心し、声があるせいで相手を傷つけた。

アマラが間へ入り、掌を下へ向けた。

「音が戻る夜に、最初にするのが喧嘩ですか」

呆れた声だった。



中央村では、月に一度の祭が始まった。

鐘は鳴らさない。歌もない。

家々が色硝子の灯籠を掲げ、人々は広場で手を動かす。昔の物語を手話で語り、足元へ置いた光板で踊りの拍を伝える。

食べ物の屋台にも、声で客を呼ぶ者はいなかった。

甘い水菓子には青い旗。辛い焼魚には赤い旗。値段は指の形で示す。子どもたちは背後から人を呼ばず、視界へ回って肩の高さで手を振った。

「静かな暮らしは、何もしなくていい暮らしではありません」

相手の目に入る。床の震えを邪魔しない。光を遮らない。音がある街とは違う種類の注意が必要だった。

子どもたちは二人の名を表す手話を作った。ルナは胸から外へ光を渡す形。ミオは六本の弦を払う形。


二人は、声で呼ばれない自分の名を何度も練習した。

音が戻っているのに、あえて使わない。

「沈黙を守る祭です」

アマラが説明した。

虹瀑の底には、巨大な虚蝕が眠っている。遠い昔、島々の滝音が重なり、獣を目覚めさせた。島民は無音核を育て、昼は島の内側から音を消すようになった。

「不便ではある。でも、私たちが選んだ暮らしです」

外から来た治療師は、無音を病と呼んだ。商人は鐘を売り、領主は賑やかな港を作ろうとした。そのたび島民は、沈黙が欠けた状態ではないと説明してきた。

ルナは広場を見る。

ナギとサラが、指先で物語を語っている。笑い声はある。それでも重要な場面では、皆が静かに手だけを見る。

「歌わないことも、選べるんだ」

ルナが言う。

ミオは灰色の旅嚢へ触れたが、ギターを出さなかった。



祭の終わり、二人は水路の縁へ座った。

上へ流れる小滝に灯籠が乗り、星へ昇っていく。

「さっきは、ごめん」

ルナが先に言った。

「私も」

「ミオが一人で危ないことするの、嫌だった」

「ルナもするじゃん」

「だから自分にも腹が立った」

ミオは水へ指を入れた。冷たい流れが上へ引く。

「私、ギターが使えないと、何もできない気がしてた」

「できた?」

「少し。ナギと歩いただけ」

「私は人の荷物を持った」

「地味」

「ミオもね」

二人は笑った。

その時、村の外で赤い灯が三度瞬いた。

祭の合図ではない。

警報だった。

アマラが広場を走る。

「無音核の一つが、持ち出されました」

音を取り戻した夜は、急に騒がしくなったのではなかった。

島を守る静けさが、盗まれ始めていた。


《余響譜 02》 盗まれた静けさ


滝が吠えた。

昼には聞こえなかった水の塊が、何百もの岩を同時に砕くような音を立てる。家の窓が震え、吊り橋の綱が唸った。

村人たちは耳を塞いだ。

音のある暮らしに慣れていない子どもが泣く。老人が膝をつく。島から完全に音が消えていたのではない。無音核が、人の暮らす場所へ届く量を抑えていたのだ。

虹瀑の底で、黒い影が動いた。

山ほどもある虚蝕の背が、飛沫の中から浮かぶ。

「核を水門へ戻す!」

アマラが叫ぶ。

聖律院の運搬艇は、上流の係留所にいる。彼らが副核を外したことで均衡が崩れ、主核まで移動を始めていた。

ミオは旅嚢へ手を掛けた。

大勢を動かすなら、響応が使える。

だが運搬艇には聖律院の兵もいる。音は敵味方を選ばない。何より、島民自身が音の洪水に耐えられない。

「使わない」

ルナが言った。

「うん」

二人は一度も相談せず、同じ答えを選んだ。



島民は三つの組に分かれた。

水門を閉じる者。運搬艇を足止めする者。副核を運ぶ者。

声による指示は、滝音に消される。彼らは祭で使った光板を屋根へ並べた。

赤は停止。

合図を出す者にも、勝手な判断は許されない。

屋根の見張りが水位を測り、地上の者が避難路を確認し、その二つが揃って初めて青を掲げる。急ぐほど確認を省きたくなる。

ルナは光板を持ったまま、五つ数えた。雲海で決めた規則だった。

その間に一軒の屋根へ水が届き、住民が苛立って腕を振る。それでも確認前には青を出さない。

五つ目で二方向から白光が返り、ルナは青を掲げた。住民が一斉ではなく、家ごとの間隔で移動を始める。

青は進行。

白は退避。

ミオとルナは中央の見張り台へ上がった。音楽の代わりに、全体を見る役を引き受ける。

「右の水路、詰まってる!」

声では届かない。

ミオが鏡を三度返す。ルナが青と白の板を組み合わせる。下の島民が気づき、別の水門を開く。

水の流れが変わった。

運搬艇が浮き上がろうとする。だが上昇気流が乱れ、帆が開かない。

聖律院の兵が地上へ降りた。

挿絵(By みてみん)

巡回隊が迎える。剣がぶつかる音は滝に呑まれた。

ミオは戦いを見ないようにしたかった。それでも目を逸らせば、退避の合図を出せない。

兵の一人が巡回隊の背後へ回る。

ミオは赤い板を振った。

隊員が合図を見て身を伏せる。剣が頭上を通り過ぎた。

強くしたわけではない。

選ぶための情報を渡しただけだ。



主核は水門の手前で止まっていた。

黒い球体は大人三人ほどの大きさがあり、水の中へ半分沈んでいる。副核が揃わなければ、元の場所へ戻らない。

サラが一つを抱え、ナギと走る。

もう一つはアマラが運ぶ。

最後の一つを、聖律院の調査員が運搬艇へ引き上げようとしていた。

黒い上着の青年が、その綱を切った。

シンだった。

調査員が短剣を抜く。シンは一歩早く身をずらした。英雄のような速さではない。相手の肩が動く、そのわずかな前を読んでいる。

しかし二人目が背後から迫る。

「後ろ!」

ルナの声は届かない。

ミオが鏡を向ける。夕日がシンの足元で弾けた。

彼は光を見て転がった。刃を避け、落ちた副核を両腕で押す。

副核が水路へ滑った。

島民たちが受け取り、主核へ嵌め込む。

一つ、二つ、三つ。

黒い球体がゆっくり沈んだ。

滝の轟音が薄くなる。

目覚めかけた巨大な虚蝕が、飛沫の底へ戻っていく。

聖律院の運搬艇は、残った風で逃げた。

シンも追おうとした。

「待って!」

今度はルナの声が届いた。

彼は振り返る。

目が合った。

一瞬だけ、青年の表情に安堵が浮かぶ。

その直後、水門の石壁が崩れた。

ミオとルナの足元が裂ける。

二人は同じ穴へ落ちた。

再び、すべての音が消えた。


《余響譜 03》 二人分の沈黙


暗闇の中で、ルナの手を見つけた。

ミオは指を絡め、二度握る。

いる。

ルナが二度返した。

落ちた先は、滝裏の古い水路だった。水は膝ほど。上の穴は崩れた石で塞がれている。無音域の中心に近いらしく、呼吸も水音も聞こえない。

二人は身体を確かめ合った。ミオは左膝を打った。ルナは掌を切っている。歩けないほどではない。

ミオは旅嚢からギターを出さず、外側の布紐だけをほどいた。ルナの掌へ巻く。

袋を開けばギターしか出ない。一品旅嚢は薬箱にはならない。それでも袋を身体へ結ぶための紐は、ただの紐だった。

ルナはギターを失う危険があると首を振る。ミオは旅嚢本体を手で持つと示した。

便利な魔法道具の一部を、魔法ではない使い方で分けた。

出口を探す。

言葉を使わず、視線と指で決めた。



水路は二つに分かれていた。

右には弱い風。左には虹色の光。

ミオは右を指した。風があれば外へ続く。

ルナは左を指した。島の道標では、虹光が避難路を示す。

二人とも譲らなかった。

声があれば、理由を並べて相手を説得できる。今はできない。

ミオは苛立ち、右へ一歩進んだ。ルナが腕を掴む。

昼なら喧嘩になっていた。

けれど、ルナはやがて手を離し、自分の胸を指した。次に左の道を指す。怖い、と顔が言っている。

ミオも右の暗闇を見た。

自分だって、確信があるわけではない。

二人は石を一つずつ投げた。

音は聞こえない。右の石は闇へ消えた。左の石は水流に乗り、わずかに上へ浮いた。

この島の水は、出口へ向かって上る。

ルナの道が正しい。

ミオは両手を上げ、降参を示した。

ルナは勝ち誇らなかった。代わりにミオの肩へ手を置き、一緒に左へ進んだ。



狭い場所で休んだ時、天井の水膜へ映像が浮かんだ。

無音核に蓄えられた記憶らしい。


誰かの家の食卓。母親と、小さな女の子。二人がテレビ画面の中のルナを見ている。

ルナの日本。

映像はすぐ消えた。

ルナは水膜へ両手を伸ばした。届かない。

挿絵(By みてみん)

その横顔を見て、ミオの胸に醜い感情が生まれた。

羨ましい。

帰りを待つ人がいることが。

戻らなければ困る人がいることが。

ミオの家でも、自分が消えれば騒ぎになるだろう。父は捜索へ金を出し、母は世間体を気にして眠れないかもしれない。弟は姉がいなくなった事実に怯える。

それでも、あの食卓のように名前を呼んでくれる光景を想像できなかった。

ミオはルナから目を逸らした。

ルナが気づく。問いかける目。

ミオは首を振った。

まだ言えない。

ルナは追及しなかった。

ただミオの手を取り、自分の胸へ当てた。速い鼓動が掌へ届く。

次に、ルナは日本の映像を指す。そしてミオを指す。両腕を左右へ引かれ、苦しむ仕草をした。

帰りたい。

でも、ミオを一人にしたくない。

その二つが同時にある。

ミオは理解した。

どちらかを嘘にしなくていい、と言いたかった。

言葉はない。

だから、ルナの二本の指を、離れたまま自分の掌へ載せた。

違う方向を向く二本。

それでも、同じ掌にある。

ルナの目から涙が落ちた。

ミオは拭わなかった。笑わせようともしなかった。

二人はしばらく、泣くことを邪魔しない距離で座った。



上向きの水を辿ると、夜明け前に外へ出た。

虹瀑の裏側だった。

世界最大の滝が、二人の前から空の底へ落ちていく。音はまだない。朝日だけが飛沫を何千色にも分けていた。

美しいと思う気持ちは、同じだった。

帰りたい場所は、同じでなくなるかもしれない。

その可能性を、二人は初めて沈黙の中で認めた。


《余響譜 04》 虹瀑の向こう


無音核が元の水門へ戻ると、島の昼は再び静かになった。

鐘は鳴らない。滝は光だけを落とす。

以前のミオなら、それを欠けた世界だと思ったかもしれない。

今は違った。

聞こえない場所にも、木の根を伝う震えがある。光板で語る物語がある。肩へ預けられる重さがある。

音がないことは、何もないことではなかった。



出発の朝、ナギとサラが二人を広場へ呼んだ。

中央には、薄い木の板を何層も重ねた床が作られていた。島の人々が掌や裸足で振動を感じるための舞台だという。

アマラがミオの一品旅嚢を指す。

「今なら、弾いても虚蝕を起こさない範囲に調整できます」

「響応は使わない」

「望むところです。私たちは強くしてほしいわけではありません」

ミオは赤いギターを取り出した。

共鳴箱を床へ接触させる。弦の振動が木の層を伝うよう、職人が留め具を作ってくれた。

ルナは歌う前に、集まった人々を見た。

笑顔を作らなかった。

緊張している顔のまま、一礼した。

ミオが弾く。

響応を起こさない、弱い音。

ルナが歌う。

挿絵(By みてみん)

誰かを一つの目的へ向けるためではない。ただ、ここで会い、別れることを覚えておくための歌だった。

島民は床へ手を置いた。

聞こえる者も、聞こえない者もいる。感じる振動も、それぞれ違う。

ナギは速い部分で笑い、サラは低い音へ首を傾げた。負傷していた母親は子どもと掌を重ねる。アマラは目を閉じず、ミオの指とルナの呼吸をじっと見ていた。

一曲が終わる。

サラが舞台へ上がり、赤いギターを指した。触っていいかという合図。

ミオは少し迷い、弦ではなく胴の端へ少女の指を導いた。共鳴箱へ残る最後の振動が、木と金属を通って伝わる。

サラは目を見開いた。次にナギを呼び、同じ場所へ手を重ねる。二人が感じたものは、ミオには分からない。

音楽を渡すとは、自分と同じように聞かせることではなかった。

拍手はなかった。

代わりに、人々が床を一度ずつ叩いた。

ばらばらの振動が、ミオの靴底へ返ってきた。

それは、どんな揃った拍手より嬉しかった。



聖律院の調査員が落とした記録板には、雨琴王国の名があった。


無音核の研究施設が王都にあり、その地下を通る古い巡礼路が世界樹へ続いている。

高橋澄江の記録とも一致した。

二人は島の北端から水上列車へ乗ることにした。滝から生まれる河を走り、空中の水路を越えて雨琴王国へ向かう列車だ。

駅へ向かう途中、対岸の吊り橋に黒い上着が見えた。

「シン!」

ルナが呼ぶ。

青年は足を止めた。

今度は逃げなかった。

ただ、二人の方へ来ることもしなかった。

彼は記録板の写しを橋の中央へ置き、自分は反対側へ退いた。聖律院の運搬艇を追うつもりらしい。

「話くらいしていけばいいのに」

ミオが紙を拾う。

写しの端に、日本語で短く書かれていた。

――雨琴で待つ。今度は話す。

「信用できると思う?」

ルナが訊く。

「信用してほしい人の動きじゃない」

「でも、サラを助けた」

「それと、隠してることがあるのは別」

ルナは頷いた。

一つの善意で、すべてを信用しない。

一つの嘘で、すべてを悪意にもしない。

それも、この島で覚えた、違うものを同時に持つ方法だった。



水上列車が動き出す。

窓の外で、虹の滝が一本ずつ後ろへ流れた。

ミオのギターは旅嚢の中にある。ルナは報酬袋を数え、島で買った光板を丁寧に包んだ。

「次は雨の国だって」

「ギター、濡らしたくない」

「旅嚢に入れとけば濡れないでしょ」

「出す時がある」

「出さない選択も覚えたばっかりなのに?」

「弾かないって決めるためにも、弾ける状態にはしておく」

ルナは呆れたように笑う。

列車は最大の虹瀑をくぐった。

一瞬、すべての音が消える。

ミオとルナは顔を見合わせた。

もう慌てなかった。

音が戻るまでの短い沈黙を、二人はそのまま受け取った。

滝の向こうには、雨に弦を張った王国が待っていた。



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