第三部 二話 赤いギターの傷
礼拝所の奥に、サラはいなかった。
代わりに残されていたのは、血のついた布と、壁へ擦られた三本の線だった。
ナギが布を掴む。妹の服の一部らしい。
血は少ない。ミオは指で示した。
少し。
生きている。
断言できる根拠はない。それでも、絆創膏の包みと整えられた布は、誰かが手当てした証拠だった。
礼拝所の外では、虹色の膜が濃くなっていた。日が落ちれば道を見失う。二人はここで夜を越すことにした。
ミオは扉へ倒れた長椅子を立てかける。ナギは壁際の乾いた葉を集めた。火打石を鳴らしても音はしないが、火花は見える。やがて小さな炎が育った。
沈黙の中で、火だけが踊る。
◇
ナギが眠ったあと、ミオは一品旅嚢からギターを取り出した。
演奏するためではない。
転落の衝撃が旅嚢の中へ影響していないか、確かめるためだった。
赤い胴を火へ向ける。下側の古い傷。金具の曇り。六本の魔銀弦。どれも変わっていない。
ミオは一本目を、ほんの少し弾いた。
音は聞こえない。
けれど、指先へ振動が残った。
それだけで、胸の奥に閉じていた場所が開いた。
◇
中学二年の冬、ミオは一人で小さなライブハウスへ入った。
入口の黒板には、知らないバンドの名が四つ並んでいた。制服の上へ借り物のコートを着て、年齢を訊かれないよう俯いていた。
家では、弟のピアノ発表会の話をしていた。
父は仕事を早く切り上げると言った。母は花束を予約した。ミオが同じ日に初めて文化祭バンドの練習へ出ることは、二週間前に話してあった。
「送迎は運転手さんに頼んでおくわね」
母はそう言った。
忘れてはいなかった。
ただ、来るという選択肢が最初からなかった。
ライブハウスでは、客が十二人しかいなかった。音は大きすぎ、歌詞は半分も聞き取れない。それでも、ステージの女の子が傷だらけのギターを掻き鳴らした瞬間、ミオは息をする方法を思い出した。
終演後、物販台の横に中古の赤いギターが立てられていた。
「売り物ですか」
店員は笑った。
「音は出るけど、見ての通り。誰も欲しがらないよ」
ミオは傷を撫でた。
可哀想だからではなかった。
高価な新品なら、家に頼めば買ってもらえたかもしれない。欲しいと言えば、教育に必要な物として用意されたかもしれない。
けれど、それではまた、与えられた物になる。
「これがいいです」
貯めていた小遣いでは足りなかった。店員は、残りは掃除を手伝えばいいと言った。
赤いギターは、誰かがミオに選んだ物ではない。
ミオが、自分で選んだ最初の物だった。
買った夜、父は値段を訊いた。
「そんな中古でいいのか。必要なら、もっと良い物を買うぞ」
悪意はなかった。ミオは、これが良い理由を説明できず、「これでいい」とだけ答えた。父には妥協に聞こえただろう。
母は傷を見て、客間へ置かないでと言った。
弟だけが、廊下ですれ違った時に足を止めた。
「赤、格好いいね」
「傷だらけだけど」
「そこが」
その記憶を、ミオは長いあいだ両親への寂しさと一緒に閉じ込めていた。
◇
礼拝所の火が小さくなる。
ミオは傷へ親指を置いた。
このギターがあるから自分には価値がある、と何度も思った。音で誰かを助けられるようになってからは、なおさらだった。
だが今、このギターは何も聞かせてくれない。
それでも、選んだ記憶は消えない。
ミオはギターを旅嚢へ戻した。
ナギの妹を見つけるのは、ギターの仕事ではない。自分が選んだ仕事だ。
壁の三本線をもう一度見る。
引っ掻き傷ではない。矢印だった。三本目だけ先が曲がり、滝の裏へ続く細い通路を示している。
現代靴の青年が残したのだろう。
ミオは火へ枝を足し、朝を待った。
聞こえない弦の震えが、まだ指に残っていた。
《余響譜 02》 滝裏の道
黒い脚は、少女の背後ではなく、水膜の向こう側にあった。
透明な滝を隔て、蜘蛛に似た獣が岩壁を這っている。胴体には口だけがあり、開閉するたび周囲の光が歪んだ。
虚蝕。
アマラが全員へ伏せる合図を送る。
サラは水膜のこちら側にいる。足首を負傷し、立てないらしい。彼女の口が動いた。
助けて。
音がなくても、そう見えた。
ルナは飛び出しかけた。アマラに腕を掴まれる。
虚蝕は音を食べる。正確には、振動が集まる場所へ寄る。大勢で走れば滝の裏へ入ってくると、アマラは板へ書いた。
戦える隊員は三人。ただし虚蝕を刺激すれば、負傷者を守れない。
ルナは周囲を見た。
水膜。上へ流れる水。壁に埋め込まれた古い鏡。鏡は、島民が無音でも合図を送るためのものらしい。
滝の向こうへ夕日が差している。
ルナはアマラから白布を借り、鏡の前でゆっくり振った。
光が水膜を抜け、反対側の岩へ走る。
虚蝕の脚が、光を追った。
音ではない。振動もない。
ルナは別の鏡へ移り、光をさらに遠くへ送る。隊員の一人が意図を理解し、奥の鏡を動かした。
光の点が、獣を少しずつサラから引き離す。
アマラが走った。
ルナは鏡を支える腕の震えを止められなかった。
ステージなら、震えは衣装や振付で隠せた。ここでは、光点が壁の上で揺れるたび虚蝕の脚も向きを変える。怖さがそのまま危険になる。
先ほどの子どもが、ルナの肘へ両手を添えた。
力はほとんど増えない。それでも鏡の揺れが少し収まった。
ルナは自分だけで平静になるのを諦め、支えられたまま光を送った。
サラを抱え、戻る。
あと三歩というところで、雲が太陽を隠した。
光が消える。
虚蝕が振り返る。
ルナは白布を捨て、鏡を両手で傾けた。残った空の明るさを集める。弱い。足りない。
子どもが、ルナの袖を引いた。
先ほど泣いていた子だった。首から下げていた金属板を外し、鏡へかざす。
負傷した母親も、磨かれた水筒を向けた。隊員たちが剣の腹を使う。
一つでは足りない光が、いくつも重なった。
虚蝕の口がそちらへ向く。
アマラが滝の裏へ滑り込んだ。サラを抱えたまま、ルナの足元まで転がる。
全員が息を止める。
聞こえない息だった。
黒い脚は水膜を撫で、やがて光を追って離れていった。
◇
サラの傷は、すでに手当てされていた。
足首には異世界の布が巻かれ、その下へ日本製の絆創膏が貼られている。
アマラが、誰が助けたのかと身振りで訊く。
サラは短い黒髪を示し、大きな荷物を背負う仕草をした。次に、両手で短剣を構える。
シンだ。
彼は虚蝕を別方向へ引きつけ、サラをこの通路へ隠したらしい。
なぜ戻らなかったのか。
サラは滝の奥を指し、走る二本の指を作った。
追っていった。
「何を」
ルナの声は、自分にも聞こえない。
サラは胸の前で、三本の線を円で囲んだ。
聖律院。
ルナはレイファの配給札を思い出した。
彼らは、この島にも来ている。
◇
帰路、負傷した母親が何度もルナへ頭を下げた。
ルナは笑い返しかけ、やめた。
代わりに肩を竦め、怖かったと顔で示す。母親も泣き笑いのような表情になった。
役に立ったのは、ルナ一人ではない。
鏡を使うことを思いついただけだ。光を足したのは皆だった。サラを抱えたのはアマラで、道を守ったのは隊員たちだった。
それなのに、嬉しさは減らなかった。
一人で全部を背負わなくても、自分のしたことはなくならない。
滝の向こうに、夜の虹が浮かんだ。
音のない光は、誰の命令も待たず、それぞれの水滴で色を作っていた。
《余響譜 03》 拍のない足跡
シンは、音のない場所が嫌いではなかった。
会社では常に誰かの声がした。
上司の指示。電話。隣の席のキーボード。飲み会へ行くかと訊かれ、断る理由を探す自分の声。
家へ帰れば動画を流した。静かだと、自分が何も選ばず一日を終えたことに気づいてしまうからだ。
けれど虹瀑群島の無音は、逃げられる静けさではなかった。
短剣を抜いても音がしない。足を踏み外しても、石が落ちた方向を耳で追えない。呼吸を整えるには、胸の動きを数えるしかない。
シンの〈拍間〉は、相手の音を聞く力ではない。
肩が沈み、重心が移り、次の動作へ入るまでの間を読む。一般の冒険者より少し早く反応できる。それだけだ。
規則的に動く獣には強い。
虚蝕には、ほとんど通用しなかった。
脚が八本あるのに、使う順番がない。口が開く前触れもない。こちらが地面を踏んだ振動へ、突然向きを変える。
シンは腕に二本目の裂傷を受けた。
◇
数時間前、シンは森でサラを見つけた。
少女は足を挫き、倒れた木の下へ隠れていた。黒い脚が近くを探っている。
シンはリュックから日本製の絆創膏を出した。
残りは四枚だった。
異世界へ来た当初、擦り傷へ一枚使ったことを後悔した。今は、サラの足へ二枚貼ることを迷う自分が嫌だった。
日本へ帰れば、薬局でいくらでも買える。帰れなければ、この四枚が最後だ。
物の価値が、値段ではなく残数で決まる世界だった。
シンは二枚使った。残り二枚という数字を覚え、少女の足へ布を巻く。善人だからではない。迷った末に使うと決めた、その事実だけだった。
異世界へ迷い込んだ時、会社帰りだった。鞄にはノートパソコン、充電器、折り畳み傘、胃薬、絆創膏。役に立った物もあれば、ただ重いだけの物もある。
少女を背負って逃げるには、虚蝕を遠ざける必要があった。
シンは石を投げ、地面へ振動を作った。獣が追う。〈拍間〉で脚の隙間を抜け、滝裏の避難路まで走った。
だが途中で、聖律院の外套を見つけた。
三人の調査員が、黒い球体を箱へ収めている。島の無音核だった。
一つだけではない。小さな副核をいくつも外し、運搬艇へ積んでいた。
シンはサラを安全な場所へ隠し、彼らを追った。
正義感だけではない。
聖律院の記録に、世界樹の名があった。日本へ帰る方法へ近づくため、情報が必要だった。
そして彼は、レイファで二人を見てしまった。
ミオとルナ。
画面の中で知っていた二人。
◇
ルナの所属するアステリアを、シンは三年前から応援していた。
最初は、仕事帰りに偶然見た配信だった。笑顔のルナを見ている間だけ、誰とも話さず過ごした一日が少しましに思えた。
ミオのバンドも知っていた。関連動画に流れてきた小さなライブ配信で、赤いギターの音だけが妙に記憶へ残った。
異世界で本人たちを見つけた時、声を掛けるべきだった。
同じ日本人だと伝え、知っていることも話すべきだった。
だが、怖くなった。
ルナにとって、自分は何千人もいるファンの一人だ。しかも彼女は十七歳で、自分は二十三歳。異世界で頼れる年長者を演じながら、以前から知っていたことを隠せば、それは親切ではなく欺瞞になる。
そう分かっていたから、余計に近づけなかった。
係留柱へ警告だけ残した。
逃げたのだ。
◇
聖律院の調査員は、滝上の水門へ向かっていた。
シンは岩陰から記録板を盗み見た。
無音核を雨琴王国へ搬送する。
目的は〈響応遮断域の人工生成〉。
抵抗する都市から音を奪い、その後、聖律院が管理する一つの音だけを戻す。戦わずに群衆を統制するための研究だった。
すべての者を同じ拍へ。
レイファで見た二人の力を、彼らはすでに追っている。
シンは記録板の写しを取り、外套の内側へ入れた。
背後で、虹色の膜が揺れた。
虚蝕が戻ってきた。
聖律院の調査員たちは運搬艇へ走る。シンも別方向へ飛んだ。
今度こそ、二人へ会わなければならない。
知っていることを隠したままでも、伝えなければ人が傷つく。
けれど、最初の一言を何にすればいいのかだけは、まだ決められなかった。




