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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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第三部 二話 赤いギターの傷

礼拝所の奥に、サラはいなかった。

代わりに残されていたのは、血のついた布と、壁へ擦られた三本の線だった。

ナギが布を掴む。妹の服の一部らしい。

血は少ない。ミオは指で示した。

少し。

生きている。

断言できる根拠はない。それでも、絆創膏の包みと整えられた布は、誰かが手当てした証拠だった。

礼拝所の外では、虹色の膜が濃くなっていた。日が落ちれば道を見失う。二人はここで夜を越すことにした。

ミオは扉へ倒れた長椅子を立てかける。ナギは壁際の乾いた葉を集めた。火打石を鳴らしても音はしないが、火花は見える。やがて小さな炎が育った。

沈黙の中で、火だけが踊る。



ナギが眠ったあと、ミオは一品旅嚢からギターを取り出した。

演奏するためではない。

転落の衝撃が旅嚢の中へ影響していないか、確かめるためだった。

赤い胴を火へ向ける。下側の古い傷。金具の曇り。六本の魔銀弦。どれも変わっていない。

ミオは一本目を、ほんの少し弾いた。

音は聞こえない。

けれど、指先へ振動が残った。

それだけで、胸の奥に閉じていた場所が開いた。

挿絵(By みてみん)



中学二年の冬、ミオは一人で小さなライブハウスへ入った。

入口の黒板には、知らないバンドの名が四つ並んでいた。制服の上へ借り物のコートを着て、年齢を訊かれないよう俯いていた。

家では、弟のピアノ発表会の話をしていた。

父は仕事を早く切り上げると言った。母は花束を予約した。ミオが同じ日に初めて文化祭バンドの練習へ出ることは、二週間前に話してあった。

「送迎は運転手さんに頼んでおくわね」

母はそう言った。

忘れてはいなかった。

ただ、来るという選択肢が最初からなかった。

ライブハウスでは、客が十二人しかいなかった。音は大きすぎ、歌詞は半分も聞き取れない。それでも、ステージの女の子が傷だらけのギターを掻き鳴らした瞬間、ミオは息をする方法を思い出した。

終演後、物販台の横に中古の赤いギターが立てられていた。


「売り物ですか」

店員は笑った。

「音は出るけど、見ての通り。誰も欲しがらないよ」

ミオは傷を撫でた。

可哀想だからではなかった。

高価な新品なら、家に頼めば買ってもらえたかもしれない。欲しいと言えば、教育に必要な物として用意されたかもしれない。

けれど、それではまた、与えられた物になる。

「これがいいです」

貯めていた小遣いでは足りなかった。店員は、残りは掃除を手伝えばいいと言った。

赤いギターは、誰かがミオに選んだ物ではない。

ミオが、自分で選んだ最初の物だった。

買った夜、父は値段を訊いた。

「そんな中古でいいのか。必要なら、もっと良い物を買うぞ」

悪意はなかった。ミオは、これが良い理由を説明できず、「これでいい」とだけ答えた。父には妥協に聞こえただろう。

母は傷を見て、客間へ置かないでと言った。

弟だけが、廊下ですれ違った時に足を止めた。

「赤、格好いいね」

「傷だらけだけど」

「そこが」

その記憶を、ミオは長いあいだ両親への寂しさと一緒に閉じ込めていた。



礼拝所の火が小さくなる。

ミオは傷へ親指を置いた。

このギターがあるから自分には価値がある、と何度も思った。音で誰かを助けられるようになってからは、なおさらだった。

だが今、このギターは何も聞かせてくれない。

それでも、選んだ記憶は消えない。

ミオはギターを旅嚢へ戻した。

ナギの妹を見つけるのは、ギターの仕事ではない。自分が選んだ仕事だ。

壁の三本線をもう一度見る。

引っ掻き傷ではない。矢印だった。三本目だけ先が曲がり、滝の裏へ続く細い通路を示している。

現代靴の青年が残したのだろう。

ミオは火へ枝を足し、朝を待った。

聞こえない弦の震えが、まだ指に残っていた。


《余響譜 02》 滝裏の道


黒い脚は、少女の背後ではなく、水膜の向こう側にあった。

透明な滝を隔て、蜘蛛に似た獣が岩壁を這っている。胴体には口だけがあり、開閉するたび周囲の光が歪んだ。

虚蝕。

アマラが全員へ伏せる合図を送る。

サラは水膜のこちら側にいる。足首を負傷し、立てないらしい。彼女の口が動いた。

助けて。

音がなくても、そう見えた。

ルナは飛び出しかけた。アマラに腕を掴まれる。

虚蝕は音を食べる。正確には、振動が集まる場所へ寄る。大勢で走れば滝の裏へ入ってくると、アマラは板へ書いた。

戦える隊員は三人。ただし虚蝕を刺激すれば、負傷者を守れない。

ルナは周囲を見た。

水膜。上へ流れる水。壁に埋め込まれた古い鏡。鏡は、島民が無音でも合図を送るためのものらしい。

滝の向こうへ夕日が差している。

ルナはアマラから白布を借り、鏡の前でゆっくり振った。

光が水膜を抜け、反対側の岩へ走る。

虚蝕の脚が、光を追った。

音ではない。振動もない。

ルナは別の鏡へ移り、光をさらに遠くへ送る。隊員の一人が意図を理解し、奥の鏡を動かした。

挿絵(By みてみん)

光の点が、獣を少しずつサラから引き離す。

アマラが走った。

ルナは鏡を支える腕の震えを止められなかった。

ステージなら、震えは衣装や振付で隠せた。ここでは、光点が壁の上で揺れるたび虚蝕の脚も向きを変える。怖さがそのまま危険になる。

先ほどの子どもが、ルナの肘へ両手を添えた。

力はほとんど増えない。それでも鏡の揺れが少し収まった。

ルナは自分だけで平静になるのを諦め、支えられたまま光を送った。

サラを抱え、戻る。

あと三歩というところで、雲が太陽を隠した。

光が消える。

虚蝕が振り返る。

ルナは白布を捨て、鏡を両手で傾けた。残った空の明るさを集める。弱い。足りない。

子どもが、ルナの袖を引いた。


先ほど泣いていた子だった。首から下げていた金属板を外し、鏡へかざす。

負傷した母親も、磨かれた水筒を向けた。隊員たちが剣の腹を使う。

一つでは足りない光が、いくつも重なった。

虚蝕の口がそちらへ向く。

アマラが滝の裏へ滑り込んだ。サラを抱えたまま、ルナの足元まで転がる。

全員が息を止める。

聞こえない息だった。

黒い脚は水膜を撫で、やがて光を追って離れていった。



サラの傷は、すでに手当てされていた。

足首には異世界の布が巻かれ、その下へ日本製の絆創膏が貼られている。

アマラが、誰が助けたのかと身振りで訊く。

サラは短い黒髪を示し、大きな荷物を背負う仕草をした。次に、両手で短剣を構える。

シンだ。

彼は虚蝕を別方向へ引きつけ、サラをこの通路へ隠したらしい。

なぜ戻らなかったのか。

サラは滝の奥を指し、走る二本の指を作った。

追っていった。

「何を」

ルナの声は、自分にも聞こえない。

サラは胸の前で、三本の線を円で囲んだ。

聖律院。

ルナはレイファの配給札を思い出した。

彼らは、この島にも来ている。



帰路、負傷した母親が何度もルナへ頭を下げた。

ルナは笑い返しかけ、やめた。

代わりに肩を竦め、怖かったと顔で示す。母親も泣き笑いのような表情になった。

役に立ったのは、ルナ一人ではない。

鏡を使うことを思いついただけだ。光を足したのは皆だった。サラを抱えたのはアマラで、道を守ったのは隊員たちだった。

それなのに、嬉しさは減らなかった。

一人で全部を背負わなくても、自分のしたことはなくならない。

滝の向こうに、夜の虹が浮かんだ。

音のない光は、誰の命令も待たず、それぞれの水滴で色を作っていた。


《余響譜 03》 拍のない足跡


シンは、音のない場所が嫌いではなかった。

会社では常に誰かの声がした。

上司の指示。電話。隣の席のキーボード。飲み会へ行くかと訊かれ、断る理由を探す自分の声。

家へ帰れば動画を流した。静かだと、自分が何も選ばず一日を終えたことに気づいてしまうからだ。

けれど虹瀑群島の無音は、逃げられる静けさではなかった。

短剣を抜いても音がしない。足を踏み外しても、石が落ちた方向を耳で追えない。呼吸を整えるには、胸の動きを数えるしかない。

シンの〈拍間〉は、相手の音を聞く力ではない。

肩が沈み、重心が移り、次の動作へ入るまでの間を読む。一般の冒険者より少し早く反応できる。それだけだ。

規則的に動く獣には強い。

虚蝕には、ほとんど通用しなかった。

脚が八本あるのに、使う順番がない。口が開く前触れもない。こちらが地面を踏んだ振動へ、突然向きを変える。

シンは腕に二本目の裂傷を受けた。

挿絵(By みてみん)


数時間前、シンは森でサラを見つけた。

少女は足を挫き、倒れた木の下へ隠れていた。黒い脚が近くを探っている。

シンはリュックから日本製の絆創膏を出した。

残りは四枚だった。

異世界へ来た当初、擦り傷へ一枚使ったことを後悔した。今は、サラの足へ二枚貼ることを迷う自分が嫌だった。

日本へ帰れば、薬局でいくらでも買える。帰れなければ、この四枚が最後だ。

物の価値が、値段ではなく残数で決まる世界だった。

シンは二枚使った。残り二枚という数字を覚え、少女の足へ布を巻く。善人だからではない。迷った末に使うと決めた、その事実だけだった。

異世界へ迷い込んだ時、会社帰りだった。鞄にはノートパソコン、充電器、折り畳み傘、胃薬、絆創膏。役に立った物もあれば、ただ重いだけの物もある。

少女を背負って逃げるには、虚蝕を遠ざける必要があった。

シンは石を投げ、地面へ振動を作った。獣が追う。〈拍間〉で脚の隙間を抜け、滝裏の避難路まで走った。

だが途中で、聖律院の外套を見つけた。

三人の調査員が、黒い球体を箱へ収めている。島の無音核だった。

一つだけではない。小さな副核をいくつも外し、運搬艇へ積んでいた。

シンはサラを安全な場所へ隠し、彼らを追った。


正義感だけではない。

聖律院の記録に、世界樹の名があった。日本へ帰る方法へ近づくため、情報が必要だった。

そして彼は、レイファで二人を見てしまった。

ミオとルナ。

画面の中で知っていた二人。



ルナの所属するアステリアを、シンは三年前から応援していた。

最初は、仕事帰りに偶然見た配信だった。笑顔のルナを見ている間だけ、誰とも話さず過ごした一日が少しましに思えた。

ミオのバンドも知っていた。関連動画に流れてきた小さなライブ配信で、赤いギターの音だけが妙に記憶へ残った。

異世界で本人たちを見つけた時、声を掛けるべきだった。

同じ日本人だと伝え、知っていることも話すべきだった。

だが、怖くなった。

ルナにとって、自分は何千人もいるファンの一人だ。しかも彼女は十七歳で、自分は二十三歳。異世界で頼れる年長者を演じながら、以前から知っていたことを隠せば、それは親切ではなく欺瞞になる。

そう分かっていたから、余計に近づけなかった。

係留柱へ警告だけ残した。

逃げたのだ。



聖律院の調査員は、滝上の水門へ向かっていた。

シンは岩陰から記録板を盗み見た。

無音核を雨琴王国へ搬送する。

目的は〈響応遮断域の人工生成〉。

抵抗する都市から音を奪い、その後、聖律院が管理する一つの音だけを戻す。戦わずに群衆を統制するための研究だった。

すべての者を同じ拍へ。

レイファで見た二人の力を、彼らはすでに追っている。

シンは記録板の写しを取り、外套の内側へ入れた。

背後で、虹色の膜が揺れた。

虚蝕が戻ってきた。

聖律院の調査員たちは運搬艇へ走る。シンも別方向へ飛んだ。

今度こそ、二人へ会わなければならない。

知っていることを隠したままでも、伝えなければ人が傷つく。

けれど、最初の一言を何にすればいいのかだけは、まだ決められなかった。


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