第三部 一話 虹の降る島
虹瀑の島では、水が七色に光る代わりに音を失っていた。滝の轟音も、濡れた葉から滴る雫も、口を動かす人の声も、目には見えて耳へ届かない。美しいのに息苦しい。ミオはその静寂の中で、鳴らさないことも音楽の一部なのだと知っていく。
虹は、空に架かっていなかった。
雲海の縁から、幾筋もの色が下へ落ちていた。
飛行船が高度を下げるにつれ、それが滝だと分かる。浮島の湖から溢れた水が、底の見えない空へ注いでいる。陽光を受けた飛沫が七色にほどけ、滝そのものが長い虹になっていた。
滝の間には、緑の島々が段々に浮かぶ。蔓で結ばれた吊り橋。水車を屋根に載せた家。翼の透けた魚が飛沫の中を泳ぎ、船の脇を追い越していった。
「きれい」
ルナの口から、飾らない声が漏れた。
ミオも同じことを思った。ただ、すぐには答えられなかった。
膝の上には、係留柱で見つけた紙がある。
――音のない島では、歌うな。
――シン。
高橋澄江の記録に混ざっていた名と同じだった。レイファで見かけた黒い上着の青年が書いたのなら、彼も日本から来たことになる。
「罠だと思う?」
「罠なら、もっと親切なこと書くんじゃない」
「たとえば?」
「歌えば日本へ帰れます、とか」
ルナは紙を畳んだ。
「じゃあ、着いても歌わない。何が音のない島なのか分かるまでは」
ミオは灰色の一品旅嚢を確かめた。傷のある赤いギターは、中に収まっている。
弾かないと決めることと、持っていることは矛盾しない。
◇
虹瀑群島の玄関口、アマナ港は音で溢れていた。
船を導く鐘。荷台の車輪。露店で焼かれる水鳥肉の油。水路を跳ねる魚。呼び込みの声には独特の抑揚があり、語尾が小さく上がる。
「普通に聞こえるね」
「島の中が違うのかも」
二人は港務所で滞在札を買った。ルナは報酬袋を開け、宿代、食費、移動費、予備へ分ける。最後に小さな硬貨を一枚だけ、ガレスへ返す旅嚢代の封筒へ移した。
「それ、いつまでかかるの」
「ミオが無計画に食べなければ、少し早まる」
「今朝のパンはルナも半分食べた」
「毒見」
そんな話をしている間にも、港の音は途切れなかった。
異変を感じたのは、島の中央へ向かう水路車へ乗ってからだった。
車輪が石の溝を走る音が、少しずつ遠くなる。
速度は変わっていない。御者の鞭も鳴っている。なのに、耳へ届く前に音の輪郭が削られていく。
ルナが何か言った。
「え?」
「声、小さくなってない?」
彼女はすぐ隣にいる。それでも、薄い布越しに聞くようだった。
御者が振り返る。
「今日は境が広がってる。中央村まで行けんかもしれん」
「境?」
「無音域だよ。鐘が三度聞こえなくなったら引き返す」
一度目の鐘が鳴った。
遠い。
二度目は、叩く動きが見えただけだった。
三度目は来なかった。
御者が手綱を引く。水路車が停止する寸前、脇の芦原から少年が転げ出た。
十歳ほどだった。片方の靴をなくし、腕から血を流している。
少年は口を動かした。
声はなかった。
彼は両手で、小さな背丈を示す。次に、長い髪を作る仕草。森の方角を指し、両腕で自分を抱くようにして震えた。
「妹?」
ルナが訊く。
少年は激しく頷いた。
◇
港から来た救助隊は、音の境で腰へ色紐を結んだ。
赤は先導。青は救護。黄色は帰路を示す者。声が使えなくなった後も互いの役割が分かるようにするためだった。
少年の名はナギ。残された妹はサラ、七歳。
「お二人はここで待っていてください」
案内人のアマラが言った。短く刈った銀髪に、水滴を弾く外套を着ている。
「無音域では合図を知らない者から迷います」
「この子、私たちから離れない」
ルナの袖を、ナギが掴んでいた。
救助隊へ渡そうとすると、首を振る。芦原から出た時、最初に意味を汲み取ったのがルナだったからだろう。
ミオはアマラの腰にある白い板を指した。簡単な絵と手振りが描かれている。
「今から覚えます。足手まといになったら、すぐ戻る」
アマラは眉を寄せた。
「戦えますか」
「二人とも、まったく」
「堂々と言うことではありません」
「嘘をつくよりいい」
結局、二人は最後尾へ加わった。ナギはミオとルナの間を歩く。
出発前、アマラは六つの手振りを教えた。
止まれ。戻れ。危険。怪我。見えない。分からない。
「最後が大事です。分かったふりをする旅人が、一番見つけにくい場所まで行きます」
ミオは思わずルナを見た。
「何」
「大丈夫って言う人にも必要そう」
「ミオにもね」
二人は、分からないという合図だけ何度も練習した。両掌を上へ向け、首を振る。声を失った時、知ったかぶりまで失えるとは限らない。
森へ入ると、世界から順番に音が消えた。
まず水音。
次に鳥。
自分たちの足音。
最後に、自分の呼吸。
ミオは喉へ手を当てた。声を出している感触はある。骨にも振動が伝わる。それなのに、何も聞こえない。
ルナの顔から、いつもの笑みが消えた。
少し先で、アマラが拳を上げる。停止の合図。
地面に、幼い靴跡があった。
その横に、別の足跡がある。
革靴ではない。均一な波型の底。日本で見慣れた、運動靴の跡だった。
ミオとルナが同時に顔を上げる。
その瞬間、虹色の光が森を横切った。
地面が揺れる。
音はない。
叫ぶ間もなく、足元の水膜が割れた。
ミオはナギの腕を掴み、ルナはアマラへ手を伸ばした。
二人の指先は、ほんの少し届かなかった。
白い飛沫が壁になり、世界を二つに分けた。
《余響譜 02》 声の届かない森
落ちたはずなのに、衝撃はなかった。
ミオは湿った苔の上に横たわっていた。
口を開き、自分の名を言う。
喉は震えた。音だけが存在しない。
すぐそばで、ナギが身体を起こした。額に泥をつけているが、大きな怪我はない。
ルナはいなかった。
アマラも、救助隊もいない。
ミオは立ち上がり、落ちてきたはずの場所を見上げた。頭上に崖はない。虹色の膜が木々の間をゆっくり流れ、向こう側の景色を歪めている。
ナギがルナの名を口にしたらしい。
ミオは首を振り、白い板で覚えた合図を作った。
待つ。
探す。
戻る。
どれを選ぶべきか。
目的はサラの救助だ。けれど、ルナを置いて先へ行くこともできない。
ナギは地面を指した。
小さな靴跡が、森の奥へ続いている。その隣には、波型の靴跡。
サラは一人ではない。
ミオは色紐を木へ結んだ。戻る道を残しながら、足跡を追う。
◇
音がないと、距離が分からなかった。
時間も曖昧になった。
鳥の声で朝と夕を測れず、足音で歩いた長さも数えられない。ミオは十歩ごとに指を折ったが、ナギを振り返るたび数を忘れた。
ナギは最初、何度訊いても平気だと首を振った。やがて片足を引きずり始める。靴を脱がせると、裸足で走った方の踵が裂けていた。
ミオは自分の布を細く裂き、巻いた。次に「痛い」の合図を先に自分へ向け、転落で打った膝を示した。
ナギはようやく、自分の踵を指した。
無音の森で最初に共有できたのは、勇気ではなく痛みだった。
背後から枝が落ちても気づけない。ナギが転んでも、振り返るまで分からない。ミオは十歩ごとに後ろを見た。
やがてナギが、ミオの旅嚢を指した。
ギターを弾けば誰かに届くと思っているのだろう。
ミオの手も、無意識に留め具へ掛かっていた。
赤いギターを出す。弦を鳴らす。音で位置を知らせる。
いつもなら、そうする。
けれど、この森では自分にさえ聞こえない。響応が起きるかどうかも分からない。シンの警告もある。
ミオは手を離した。
代わりに枯れ枝を拾い、地面へ簡単な地図を描く。自分とナギ。ルナとアマラ。サラ。全員を丸で示し、ここから二人で靴跡を追う。危険なら戻る。
ナギは理解し、頷いた。
音楽がなくても、伝わることはある。
その当たり前が、ミオには少し悔しかった。
◇
森の木は、幹の内側へ水を流していた。
透明な樹皮の中を、銀色の雫が昇っていく。葉へ達した水は虹色の霧になり、空へ吸われる。この島では、滝も水も上下を忘れているらしい。
ナギは何度も立ち止まり、木の根へ手を当てた。
振動を読んでいる。
ミオも真似をした。
何も聞こえない。ただ掌の奥へ、ごく小さな震えが届く。一定ではない。二度続き、間を置き、また一度。
ナギが妹を呼ぶ合図を、根へ送っていた。
音は消えても、震えまでなくなったわけではない。
ミオは急に、中学生の頃を思い出した。
自宅の防音室。両親が弟の発表会へ出かけた午後。新品のピアノも、高価な音響機器もあったが、どれも自分のために選ばれたものではなかった。
父は「好きに使えばいい」と言った。
母は「恵まれているんだから」と言った。
それで寂しいと言うのは、わがままだと思った。
ミオは壁へ背を預け、安いイヤホンで知らないバンドの音を聴いた。床を伝う低音だけが、誰かがここにいると教えてくれた。
今、ナギの小さな掌が、同じように木の根を叩いている。
ミオも隣へ手を置き、違う間隔で返した。
ナギが顔を上げる。
意味はない。ただ、ここにいるという震えだった。
◇
靴跡は、古い礼拝所で途切れた。
屋根の半分が蔓に覆われ、壁には七本の滝を模した彫刻がある。扉のそばへ、細長い紙片が落ちていた。
透明な包装。青い文字。
日本製の絆創膏の包みだった。
ミオは拾い上げる。
誰かがここで傷の手当てをした。古いものではない。濡れてもおらず、土もほとんどついていない。
シン。
あの青年がサラと一緒なら、なぜ港へ連れ帰らなかったのか。
礼拝所の床に、もう一つ跡があった。
何か重いものを引きずった跡。それを囲むように、細い脚の足跡が無数にある。
ナギの顔が強張る。
ミオは彼の肩を掴み、走り出そうとする身体を止めた。
大丈夫とは言えなかった。
口にしても聞こえないからではない。
大丈夫だと分かっていないからだ。
代わりに、自分を指し、ナギを指す。二本の指を並べる。
一緒に行く。
ナギは震えながら、同じ形を返した。
二人は音のない礼拝所へ入った。
《余響譜 03》 笑わない顔で
ルナは水の中で目を開けた。
そう思ったのは、辺り一面が淡い青に揺れていたからだ。
実際には、滝の裏側にできた空洞だった。薄い水膜が天井を覆い、その上を光が流れている。
アマラが傍らで膝をついていた。唇が動く。声はしない。
ルナは身体を確かめた。右肘に擦り傷。足は動く。
周囲には救助隊員が三人と、島の住民らしい母子がいた。母親は足首を負傷している。五歳ほどの子どもが、その服へしがみついて泣いていた。
泣き声は聞こえない。
それでも、肩が震えている。
ルナは反射的に笑った。
大丈夫だよ。
怖くないよ。
ステージでも撮影現場でも、誰かが不安そうにすればそういう顔を作ってきた。口角を上げ、目尻を少し下げる。相手が安心できる角度を身体が覚えている。
子どもは、さらに強く母へしがみついた。
ルナの笑顔が怖かったのだ。
こんな場所で、何も怖くない顔をしている人間は、確かに不自然だった。
ルナは笑うのをやめた。
自分の胸へ手を置き、震えてみせる。怖い。次に子どもを指し、同じ仕草をする。
私も怖い。あなたも怖い。
子どもが泣きながら、わずかに頷いた。
ルナはその場へ座り、無理に触れず、同じ高さで待った。
やがて子どもの方から、小さな手が伸びた。
◇
アマラは白い板へ炭筆で地図を描いた。
落下地点は本来の道から東へ外れている。中央村へ戻る道と、サラの靴跡を追う道は途中まで同じらしい。
ミオとナギの姿はない。
ルナは探しに行く合図をした。
アマラは負傷者を指す。次に、ルナの武器がない腰を指した。
戦えない。置いていけない。
正しい。
それでも、胸の中で焦りが膨らんだ。ミオは今、一人かもしれない。ナギを守りながら、何かに襲われているかもしれない。
自分がここに残って何ができるのか。
歌えない。声も届かない。怪我を治せない。剣も持てない。
役に立たなければ、ただ守られるだけになる。
その感覚は、ルナがずっと避けてきたものだった。
母が体調を崩した朝、仕事を休もうかと言えば、「平気だから行って」と笑われた。妹の給食費の封筒が薄いのを見つけた時、ルナは黙って自分の交通費から補った。
働ける自分なら、家にいていい。
笑える自分なら、心配を増やさずに済む。
そう信じてきた。
目の前で、負傷した母親が立ち上がろうとして崩れた。
ルナは駆け寄り、その腕を自分の肩へ回した。
母親の体重は、想像より重かった。
十歩で肩が痺れ、二十歩で腰が痛んだ。ルナがよろめくと、先ほどの子どもが母親の荷袋を持った。隊員も反対側から腕を支える。
一人で半分を持つつもりが、五人で少しずつ持つ形になった。
母親は申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
ルナは笑顔ではなく、困った顔をそのまま返した。重い。でも置いていかない。二つの意味を肩を竦めて示す。
助けられる人が小さくなる救助は、どこか間違っている。ルナは日本で、母へお金を渡すたび礼を言わせていた自分を思い出した。
治せない。
でも、重さを半分持つことはできる。
それは華やかでも、特別でもなかった。
アマラがルナを見て、頷いた。
◇
一行は滝の裏を進んだ。
水膜の向こうを、巨大な魚の影が泳いでいく。頭上へ昇った水が一瞬だけ途切れると、遠くの浮島が逆さに見えた。
絶景だった。
けれどルナは、景色より隣の母親の足元を見た。一歩ごとに休み、呼吸を合わせる。歌を使わずに誰かと歩調を揃えるのは、思ったより難しい。
途中、壁へ古い絵が刻まれていた。
中央に、黒い円。
周囲で人々が口を閉じ、鐘へ布を巻き、楽器を箱へ収めている。その外側には、脚の多い獣が描かれていた。
ルナが絵を指すと、アマラは地面へ文字を書いた。
虚蝕。
音を食べるもの。
次にアマラは、黒い円を指して書く。
無音核。
守る。
ルナは眉を寄せた。
無音域は島を襲った異常だと思っていた。
けれど、島民は自分たちで沈黙を作っている。
何から、何を守るために。
その時、先頭の隊員が拳を上げた。
停止。
水膜の向こうに、小さな人影がいた。
長い髪。濡れた白い服。七歳ほどの少女。
サラだ。
少女はルナたちを見つけ、口を開いた。
同時に、その背後で黒い脚が一本、岩陰から伸びた。
次いで二本、三本。
音のない世界で、何かが目を覚ました。




