第二部 四話 白い翼の夜
帰路の途中で、左舷の風帆が裂けた。
戦闘で受けた矢が、帆布の奥まで届いていたらしい。巡空艇は大きく傾き、雲海へ腹を擦った。
「不時着する!」
イーラの声と同時に、全員が床の綱を掴んだ。
白い飛沫が窓を覆う。船体が一度跳ね、二度目に深く沈み、やがて柔らかなものへ抱かれるように止まった。
そこは、厚い魔力雲の上だった。
修理には夜明けまでかかるという。
隊員たちは交代で帆を縫い、見張りを立てた。ミオとルナは邪魔にならないよう船を降りた。命綱の届く範囲だけ歩く。
頭上には星があった。
足元にも星があった。
雲の薄いところから下界の光が透け、空の星座を逆さに映している。白い雲は波のようにうねり、遠くを渡る雲鯨の翼が月光を返した。
息を呑むほど美しいのに、誰も歌わなかった。
ミオは旅嚢を膝へ置いたまま、留め具に触れなかった。
「出さないの?」
ルナが訊く。
「今日はいい」
「こんな景色なのに」
「だから。音を足さなくても、もう十分ある」
雲の流れる音。帆を縫う針。遠くで隊員が湯を沸かす金属音。
ルナは隣へ座った。
隊員が、二人分の薄いスープを運んできた。底に豆が三粒ずつ沈んでいる。
「配給不足の街から持ってきた食事だ。残すなよ」
ルナは自分の一粒をミオの椀へ移そうとした。
「同じ数」
「ミオ、今日ほとんど食べてない」
「ルナも」
二人は譲り合うのをやめ、それぞれ三粒食べた。誰かを支えることを、自分の分を減らす行為と同じにしない。小さすぎる練習だった。
◇
「怖かった」
長い沈黙のあと、ミオが言った。
「戦いが?」
「私の音が、あの人たちを強くしたこと」
敵が軽々と甲板から飛び降りた瞬間が、何度も蘇る。
「味方を助けたいって思って弾いた。でも音は、こっちと向こうを見分けなかった。たぶん音には、そんな区別ないんだよ」
「私たちが区別しないといけない」
「できるかな」
「できない時もあると思う」
ルナは珍しく、励ます形へ言葉を整えなかった。
「私も言わなきゃいけないことがある」
「広場のこと?」
「うん」
ルナは膝へ額を寄せた。
「怖かったのに、嬉しかった。みんなが私の声だけ聞いて、私の言葉通りに動いた時。ステージでも、あんな感じはなかった。お客さんは笑ってくれるけど、私が笑わなかったら離れていくかもしれない。だからずっと、好きでいてもらえる顔を作ってた」
「ルナが悪いって話にしたい?」
「違う」
「じゃあ、その顔やめて」
ルナが顔を上げる。泣いてはいない。ただ、困っていた。
「気持ちよかったって思った自分も連れていくしかない。置いてったら、見えないところで勝手に大きくなる」
「ミオって、ときどき怖いこと言うね」
「ギターしか友達いなかった時期が長いから」
冗談のように言ったが、ルナは笑わなかった。
「それ、いつかちゃんと聞いてもいい?」
ミオは足元の星を見る。
「いつかね」
拒絶ではなかった。まだ扉の前に立つことを許しただけだった。
◇
二人は昨夜の紙を広げた。風で飛ばないよう、四隅へ工具を置く。
「目的は、具体的に」
ミオが書く。
「『みんなを助ける』じゃ広すぎたね」
「誰を、どこまで動かすか。本人たちが望んでるか」
「止める条件は、敵に届いた時だけじゃ足りない。味方が自分で考えなくなった時も」
「同じ曲を繰り返さない」
「録音では起きない」
「私たちが喧嘩してる時は?」
「やらない」
二人は同時に答え、少しだけ笑った。
紙の一番下へ、ルナが付け足す。
さらにミオが書く。
――演奏しない代案を一つ以上、先に試す。
ルナは横へ小さく書き足した。
――「今すぐ」と言われた時ほど、五つ数える。
「五つで足りる?」
「十だと怒られる」
「怒られてもいい規則じゃなかった?」
危険の中で紙を読む余裕はない。それでも言葉にしておけば、身体が思い出す可能性がある。
――終わったあと、使われた側の話を聞く。
「私たちだけで成功だったって決めないため」
ミオは頷いた。
規則を書けば安全になるわけではない。それでも、自分たちの力を運命や奇跡と呼んで済ませるよりはましだった。
◇
夜明け前、雲鯨の群れが近くを通った。
大きな白い翼が、星を一つずつ隠していく。傷を治療した幼い雲鯨も群れの端にいた。こちらを覚えているのか、艇の上を一度だけ旋回した。
翼が起こした風で、紙がめくれる。
ミオが押さえ、ルナが笑った。
演奏しなくても、忘れたくない夜はある。
むしろ音にしなかったからこそ、白い翼の一枚一枚まで胸に残るのかもしれなかった。
東の空が淡くほどける。
修復された風帆が、最初の朝日を受けて開いた。
《余響譜 02》 雲海を越える歌
壊れた誘導装置を止めても、雲鯨は元の航路へ戻らなかった。
長いあいだ不自然な風へ追われた群れは、レイファの上空を危険な場所として覚えていた。主要航路を横切る群れを避けるため、空港は閉じたままだった。
「歌で呼び戻せないか」
帰還したミオたちへ、市参事ヴァルドはそう頼んだ。
以前なら、ミオは旅嚢へ手を伸ばしたかもしれない。
だがルナは先に首を振った。
「私たちの声へ従わせたら、誘導杭と同じです」
ヴァルドは疲れた顔で窓の外を見た。閉ざされた港には、運べない荷が積み上がっている。
「では、辺境の者たちは冬を越せない」
「呼ぶんじゃなくて、帰り道を思い出してもらう方法は?」
ミオが訊いた。
答えを持っていたのは、風鐘職人の老婆だった。
雲鯨は季節ごとに違う谷を通る。昔は各集落が、土地ごとに異なる風鐘を鳴らした。雲鯨は一つの命令音ではなく、谷から谷へ続く音の差を辿ったという。
「便利な航路ができてから、皆、同じ鐘に替えちまった」
老婆は倉庫から、錆びた鐘をいくつも引き出した。
「同じ音の方が管理しやすいってね」
それは聖律院の言葉に、どこか似ていた。
◇
六つの集落へ、六つの鐘を戻すことになった。
最初の集落では、鐘楼そのものが薪置き場になっていた。
老人たちは昔の鳴らし方を覚えていたが、若者は「雲鯨のために仕事を止めるのか」と反発した。二つ目の谷では銀鐘が祭礼用に削られ、以前より半音高くなっていた。三つ目では鐘を鳴らす綱が、子どもの遊具になっていた。
失われた伝統を戻すだけでは足りない。今そこで暮らす人が、続けられる形へ作り直す必要があった。
ルナは各集落の仕事時間を聞き、当番を一人へ固定しなかった。ミオは変わってしまった鐘の音を測り、古い譜面の方を書き換えた。
「昔と同じじゃなくなる」
老婆が言う。
「今の鐘で帰れる道にします」
保存することと、変えずに凍らせることも同じではなかった。
低い谷には重い銅鐘。風の速い尾根には薄い銀鐘。湿った岸壁では、穴の空いた木鐘が鳴る。
問題は、長年使われていない鐘を、どの間隔で鳴らすかだった。
ミオは古い航路図へ時刻を書き込み、風速を測った。ルナは各集落の代表と話し、誰が鐘を鳴らすのかを決めた。
「私たちが全部やるんじゃないんだね」
「その方が、来年も続くから」
港務局は最初、統一した合図を求めた。ミオは断った。
「ずれていい。ずれが道になる」
ヴァルドは苦い顔をしたが、最後には署名した。
彼は記者たちの前で、配給不足と誘導杭を隠していた責任を認めた。辺境航路の欠乏も公表した。
「混乱を恐れて黙った。結果として、もっと大きな混乱を招いた」
許されるかどうかは、市民が決めることだった。
少なくとも彼は、決定を一つの部屋へ閉じ込めるのをやめた。
◇
鐘を鳴らす日、ミオとルナはレイファで最も高い係留塔へ上った。
眼下には、青い帆を畳んだ船が並ぶ。さらに向こう、雲海の切れ目を雲鯨の群れがゆっくり進んでいた。
最初の鐘が鳴る。
低く、丸い音。
少し遅れて、別の谷から細い鐘が返る。三つ目は風に流され、予定より二拍遅れた。
「ずれた」
ルナが言う。
「それでいい」
ミオは旅嚢から赤いギターを取り出した。
今日の目的は、雲鯨を従わせることではない。
散らばった鐘を、人間たちが聞き失わないよう支えること。届く範囲は塔と港。誰かの足が勝手に揃えば、すぐに止める。
ミオは鐘と鐘の隙間だけに音を置いた。
主旋律にはならない。道標の間を結ぶ、細い糸のような音だった。
ルナも言葉を使わなかった。母音だけを風へ溶かし、遠い鐘の余韻を受け渡す。
六つの土地が、六つの音で応える。
雲鯨の先頭が翼を傾けた。
一頭が続き、また一頭が続く。それは命令に揃えられた動きではなかった。幼い個体は遅れ、親が戻る。老いた個体は大きく迂回する。
ばらばらのまま、群れは古い谷へ向きを変えた。
港で歓声が上がる。
ミオは演奏を長引かせなかった。最後の鐘が鳴り終わる前に弦を押さえる。
残った音だけで、雲鯨は進んでいった。
塔の下で、若い鐘守が予定より遅れたことを謝った。
「子どもが綱へ触ってしまって」
「群れ、戻ったよ」
ミオが空を指す。
「でも、正確じゃなかった」
「正確な一つの音で追い込まれたから、違う音を辿って帰ったんでしょ」
雲鯨の幼体が大きく遅れ、親が旋回して迎えに行く。群れ自身も、楽譜通りには動いていなかった。
◇
三日後、空路が再開した。
最初の輸送船には食料と薬が積まれた。辺境の集落へ向かう青い帆が開くと、港に集まった人々は拍手ではなく、それぞれの鐘を一度ずつ鳴らした。
高橋澄江の記録にあった虹瀑群島へは、再開した東航路を使える。
ミオとルナは乗船札を受け取り、係留橋を歩いた。
「借金、増えたね」
ルナが旅費帳を開く。
「ガレスの旅嚢代に、空路代」
「働けば返せる」
「そう言う人ほど帳簿つけないんだから」
いつもの言い合いが戻った。
その時、対岸の桟橋を歩く人影が目に入った。
黒い上着。短い黒髪。肩には、この世界の革袋ではない、灰色の化学繊維のリュックサック。
「待って!」
ミオが走る。
人影は振り返った。
二十代前半ほどの青年だった。驚いたように目を見開く。その顔を確かめる前に、荷運びの翼獣が二人の間を横切った。
翼が退いた時、青年はいなかった。
「今の人……」
「日本人かもしれない」
二人は桟橋の先まで探した。船倉、売店、階段。どこにも姿はない。
代わりに、係留柱の根元へ折り畳まれた紙が挟まっていた。
こちらの紙に、見慣れた文字が鉛筆で書かれている。
――音のない島では、歌うな。
その下に、小さく一文字。
――シン。
ルナが紙を持つ手に力を込める。
「追う?」
ミオは、虹色の光が立つ東の空を見た。
「追う。けど、言われた通りにはしない」
「歌うの?」
「分からない。分からないまま歌わないってこと」
飛行船の汽笛が鳴った。
二人は乗り込む。赤いギターは灰色の旅嚢の中にある。力は、使わなければ存在しないものにはならない。使えば、正しいものになるわけでもない。
だから二人は、答えではなく問いを持って旅を続ける。
青い帆が風を孕んだ。
六つの鐘が、それぞれ違う間隔で船を送った。
雲海の彼方には、音のない島が待っていた。




