第二部 三話 沈黙する空港
止まった、とミオは思った。
けれど、止まったのは人々の意思ではなかった。
広場を埋めた何百もの靴が、同じ角度で石床を擦った。前列が一歩退けば、その後ろも一歩退く。老人も、荷を抱えた商人も、泣いていた子どもさえ、見えない糸で引かれたように向きを変えた。
「前を、空けて」
ルナが発した言葉の最後の音が、白い塔の壁に反射する。
人の流れが二つに割れた。
倒れた子どもの周囲には、確かに空間ができた。母親が駆け込み、子どもを抱き上げる。助かった。その事実に安堵するより早く、別の悲鳴が上がった。
退路の先に、閉じた鉄柵があった。
後列の人々には見えていない。それでも全員が同じ一歩を刻む。最前列の老人の背が柵へ押しつけられ、その隣で籠を抱えた女の身体が傾いた。
「ミオ、止めて!」
言われる前に、ミオは木箱を抱え込んでいた。鳴り続けようとする板を掌で押さえ、肘まで痺れる衝撃を殺す。
「止まれ!」
今度は拍に乗せず、喉だけで叫んだ。
だが人々は、もう一歩を踏んだ。
ルナの言葉が残っている。
ミオは箱の縁を蹴った。不揃いな破裂音が広場を切り裂く。次いで、両手で違う速さの音を叩いた。右は三つ、左は二つ。整いかけた足音へ、わざと躓きを投げ込む。
列が乱れた。
老人は膝をついた。女の籠から乾いた豆が散った。けれど、二人とも潰されずに済んだ。
「自分の足で止まって!」
ルナが叫ぶ。今度は命令ではなく、願いだった。
ざわめきが戻った。怒鳴り声、泣き声、息を吸う音。ばらばらで、騒がしくて、ミオにはそれがひどくありがたかった。
◇
空港は閉鎖された。
巡空隊が広場から人を退かせ、怪我人を診療所へ運んだ。幸い、骨を折った者はいなかった。鉄柵へ押された老人は肋を痛め、籠の女は手首を捻った。それだけだった、と隊員は言った。
それだけ、という言葉がミオの胸に刺さった。
診療所を出る前、鉄柵へ押された老人が二人を呼び止めた。
「助けてもらった礼は言う。だが、あの時、わしの足はわしのものじゃなかった」
ルナが頭を下げる。
「すみません」
「謝ってほしいのか、自分でも分からん。孫は助かった。わしも生きてる。それでも、怖かった」
善い結果が、されたことの恐怖を消すわけではない。
隣の寝台では、手首を捻った女が散った豆を拾い集めていた。ミオは手伝おうとしたが、女は一瞬だけ身を引いた。
広場で音を叩いた手を、覚えている。
ミオは近づかず、床へ落ちた最後の一粒だけを女の見える場所へ置いた。
子どもを救うためだった。混乱を止めるためだった。そう説明すれば、誰も二人を責めなかった。むしろ、隊長は礼まで言った。
「あのままなら、もっと多くが踏まれていた」
正しい評価だった。
それでも、ミオの掌には、何百人もの足を一つにしてしまった感触が残っている。
港務塔の小部屋で事情を聞かれたあと、二人は長椅子に並んだ。窓の外では、飛行船の帆が畳まれていく。風を受けるものがなくなった空港は、妙に静かだった。
「あれ、私の声だった」
ルナが言った。
「うん」
「みんな、私を見てた」
「見てた」
「怖かった」
ルナはそこで黙った。握り合わせた指の爪が白い。
ミオは続きを急かさなかった。
「……でも、少しだけ」
ルナは唇を噛んだ。
「少しだけ、気持ちよかった」
窓枠が風に鳴った。
「言った通りに動いてくれた。怒鳴らなくても、笑ってお願いしなくても、誰も私を無視できなかった」
告白した途端、ルナは自分の両腕を抱いた。
「最低だよね」
「最低なのは、そう思ったことを隠して、また同じことする方でしょ」
ミオは自分の掌を見る。
「私だって、音が届いた時は嬉しかった。できるって思った。だから止めるのが遅れた」
「一秒くらいだよ」
「一秒あれば、人は倒れる」
慰め合えば、その場は楽になる。けれど、二人が欲しいのは免罪ではなかった。
「次は、始める前に止め方を決めよう」
ミオが言う。
「次も使うの?」
「使わないって決めるのも、使い方を知ってからにしたい」
ルナは長く考え、頷いた。
◇
夕刻、配給倉庫の管理官が偽札を机へ並べた。
本物の受取札には、港務局の風車印が浅く刻まれている。偽物にも同じ印があった。ただし裏側に、三本の線を円で囲んだ小さな焼き印が加えられていた。
「聖律院」
巡空隊長イーラが低く言った。
ミオは昼間、雲鯨に刺さっていた誘導杭で見た印を思い出した。
「食料を盗む組織なの?」
「表向きは、争いをなくすための研究院だ。各地の歌、行進、祈りを集めている。辺境では救護もする。だが、ここ数年は手段を選ばなくなった」
偽札で食料を抜き、配給不足を起こす。混乱した街へ救援物資を持ち込み、代わりに研究設備を置く。それが彼らのやり方だという。
捕らえた倉庫番は、旧採掘場へ箱を運んだと白状した。
「雲鯨を狂わせた装置も、そこにあるかもしれない」
イーラは地図の端を指した。レイファのさらに下、廃船が吹き溜まる雲の谷。
「明朝、巡空隊を出す。君たちは街に残れ」
「行きます」
ミオは即答した。
「戦えない者を連れていく場所ではない」
「戦いに行くんじゃない。あの装置が音で動くなら、私たちに分かることがある」
イーラの視線がルナへ移る。
ルナはすぐには答えなかった。昼の広場を思い出しているのだろう。それでも、椅子から立った。
イーラは二人へ、巡空隊の信号布を渡した。
「現場では演奏より先にこれを使え。赤は停止、白は退避、青は集合。声も音も届かない時のために、空の者は光と布を覚える」
ルナは布を一枚ずつ確かめた。力を使う前の方法が増えるほど、使わない選択が現実になる。
「行きます。ただし、私たちの声を命令には使いません」
「現場でそんな約束が守れるか」
「守れなかったら、止めます」
ミオが言う。
「誰に責められても」
窓の外で、空港最後の誘導灯が消えた。
白い街は、雲海の上で沈黙した。
《余響譜 02》 雲の墓場
廃船は、死んだ鳥のように雲へ刺さっていた。
帆柱だけを残した貨物船。腹を割られ、肋骨めいた骨組みを晒す客船。船名の読めなくなった小艇が、白い雲の層から斜めに突き出している。
巡空艇は、その墓場を縫うように降下した。
「足元の白を地面だと思うな」
イーラが言う。
雲は魔力を帯びて人の体重をしばらく支えるが、薄い場所では一息で抜け落ちる。隊員たちは長い探り棒で進路を確かめ、腰の命綱を船体へ結んだ。
ミオは灰色の旅嚢を胸元へ引き寄せた。ギターは中にある。こんな場所で裸のまま背負えば、転ぶより先に笑われるだろうし、何より壊れる。
「出すのは合図してから」
ルナが小声で言った。
「分かってる」
二人は昨夜、紙へ三つの項目を書いた。
何のために鳴らすのか。
どこまで届かせるのか。
何が起きたら止めるのか。
まだ規則と呼べるほど立派ではない。ただ、怖さを忘れないための杭だった。
◇
旧採掘場は、座礁した鉱石船の下に隠されていた。
岩棚へ降りると、低い唸りが靴底を震わせた。坑道の奥で、青白い輪がゆっくり回っている。輪の中心には雲鯨から抜いたものと同じ誘導杭が何十本も束ねられ、周囲の風を吸い込んでいた。
「あれで航路を曲げていたのか」
イーラが歯を食いしばる。
装置の周囲に積まれた箱には、レイファの配給印があった。
隊員が証拠を押さえようと踏み出した時、廃船の甲板から矢が落ちた。
「伏せろ!」
矢は岩へ刺さり、緑の煙を吐いた。
仮面をつけた者たちが、船腹の穴から現れる。胸には三本線の円。聖律院の傭兵だった。
巡空隊が盾を組む。イーラの短槍が風をまとい、一人目の足元を払った。だが相手は高所にいる。煙で視界を削られ、隊員たちは散開できない。
「退路まで七十歩!」
ルナが叫んだ。
返事はばらばらだった。煙の中で互いの位置を見失っている。
ミオは旅嚢の留め具へ手を掛けた。
「目的」
「みんなを出口まで動かす」
「範囲」
「この坑道の中だけ」
「止める条件」
ルナは仮面の傭兵を見た。
「敵の動きまで揃ったら」
ミオは頷き、旅嚢から赤いギターを取り出した。共鳴箱を腰へ固定し、弦を一度だけ弾く。
乾いた音が、岩壁を渡った。
歌ではない。四拍のうち一拍を空けた、退却のための短い型。ルナは隊員の名を呼び、位置を確かめる言葉だけを載せた。
「イーラ、右に二歩。カノ、後ろの人を支えて。出口は私の声の方」
巡空隊の呼吸が戻る。
盾が上がる。負傷者が中央へ移る。誰かを強くするというより、各自が持つ訓練を取り戻していく。
いける、とミオが思った。
その瞬間、甲板から二人の傭兵が跳んだ。
着地が異様に軽い。
矢を番える指も、剣を抜く速さも、さっきまでとは違っていた。
彼らにも届いている。
「ミオ!」
ルナの声に、ミオは演奏を切った。
音が途絶える。
切った音の余韻だけが、坑道を一周して戻ってきた。
味方の一人が、持ち上げかけた盾を落とす。別の隊員は息の速さを戻せず、壁へ肩を打った。
響応が消えたから弱くなったのではない。急に高い場所から下ろされ、自分の身体の重さを思い出せないのだ。
「四つ吸って、六つ吐いて!」
ルナは歌わず、呼吸だけを伝えた。
ミオもギターを旅嚢へ収める前に、全員が自分の足で立てるのを待った。止める責任は、音を切る一動作で終わらない。
巡空隊の盾がわずかに下がった。傭兵の剣先も鈍る。
「なぜ止めた!」
隊員の一人が怒鳴る。
「続ければ向こうも強くなる!」
「こっちは押されてるんだぞ!」
責める声が胸へ刺さる。正しいのかは分からない。続けていれば、もっと早く退けたかもしれない。
それでもミオは弦を押さえた。
「これは、私たちの戦いじゃない」
「だから助けろと言ってる!」
「違う。あなたたちの力を、敵ごと勝手に変える権利が私にはない」
イーラが盾の陰から振り返った。
「もう鳴らすな」
隊員が息を呑む。
「ここからは訓練通りだ。二列。煙を避け、装置を盾に取れ」
命令が飛ぶ。
今度の動きは揃っていなかった。一人が遅れ、別の一人が支える。盾の角度にも癖がある。けれど巡空隊は、自分たちの判断で前へ出た。
イーラの槍が装置の支柱を打つ。青い輪が傾き、吸い込まれていた風が逆巻いた。傭兵たちの外套が煽られる。
「今だ!」
隊員が一斉に踏み込む。
それは共鳴ほど美しい動きではなかった。
だからこそ、誰が何を選んだのかが見えた。
◇
戦いは長く続かなかった。
装置を失った傭兵は、廃船に隠していた滑空翼で逃げた。二人を捕らえ、残りは雲の谷へ消えた。
巡空隊には切り傷と打撲が出たが、全員が帰還艇まで歩いた。
先ほど怒鳴った隊員が、ミオの前へ来る。
彼は負傷した仲間の肩を見た。
「俺たちは、音がなくても戦えると証明したかったわけじゃない。ただ死にたくなかった」
「分かってる」
「君も、正しさを証明したかったんじゃないのか」
ミオは答えに詰まった。
敵も強くなるから止めた。それは事実だ。同時に、広場で失敗した自分が、今度は正しく止められる人間だと示したかったのかもしれない。
「少し、そうだったかも」
隊員は頷いた。互いに美しい理由だけで動いていなかった。
「俺は、止めるべきじゃないと思った」
「うん」
「今も、正しかったかは分からない」
「私も」
隊員は拍子抜けした顔をし、それから苦く笑った。
「分からないまま止めたのか」
「止めなかった結果も、分からなかったから」
謝罪も和解もなかった。ただ彼は、赤いギターを旅嚢へ収めるミオの手元を見ていた。
イーラたちは壊れた装置から記録板を外した。そこにはレイファ周辺の風路と、雲鯨の群れを狭い航路へ追い込む計算が刻まれていた。
余白に、聖律院の教義が一行だけある。
――すべての歩みが一つなら、誰も争わない。
ルナはその文を読み、昼の広場で自分を見つめた何百もの顔を思い出した。
「争わないことと、選べないことは、同じじゃないよ」
風が廃船の空洞を抜けた。
返事のような音はしなかった。
ただ雲の墓場に、たくさんの異なる笛音が鳴った。




