第二部 二話 箱に残された声
墜落船から持ち出された品は、毛布、飲み水、航路図、それから銀色の箱だった。
箱は夕食後、商隊の天幕で開けられた。中には薄い円盤と、ひび割れた共鳴石が収まっている。
「古い音声記録器だ」
ドルトが円盤を回した。
砂を擦るような音のあと、女の歌が流れた。
『夕焼け小焼けで、日が暮れて――』
ミオとルナが同時に顔を上げる。
百年以上前の異世界の夜に、日本の童謡が流れていた。
歌はところどころ欠けている。それでも旋律も言葉も知っていた。ルナの唇が無意識に続きをなぞり、ミオの指が膝の上で拍を取る。
だが、何も起こらなかった。
火の揺れ方も、周囲の呼吸も変わらない。
「響応しない」
ミオが呟く。
「録音だから?」
「分からない。でも、歌は聞こえてるのに」
童謡が終わり、女性の話し声へ変わった。
『これを聞く人が、私と同じ世界から来た人なら。私は高梨澄江。こちらではスミエ・タカナシと名乗っています』
ルナがミオの手首をつかんだ。
『私は帰る道を探しました。最果ての世界樹ユグドラシル、その樹冠に、異なる世界を結ぶ門がある。それが真実かどうか、私は確かめられませんでした』
声は老いていた。言葉を選ぶたび、長い息が混じる。
『レイファの記録塔へ、調べたことを預けます。続きは虹瀑群島の天水庭園へ。私はここで家族を持ちました。帰れなかったのか、帰らなかったのか。今でも、うまく説明できません』
音が途切れた。
ルナは箱を見たまま動かなかった。
「家族を持ったから、帰らなかったのかな」
「本人も分からないって言ってた」
「日本の家族は?」
「それも、分からない」
ルナの声が少し強くなる。
「分からないで済ませていいことなのかな」
ミオは答えなかった。
帰りを待つ家族を想像したとき、ルナの顔には具体的な人が浮かんでいる。母親と妹。食卓。狭い部屋。テレビの前。
ミオが思い浮かべた実家には、人より先に長い廊下と閉じた扉が現れた。
円盤が最後まで回り、針が同じ場所を擦り続ける。
その規則的な雑音の中へ、別の声が混じった。
『――これ、まだ動くのか』
若い男の日本語だった。
ミオが円盤を止める。
「今の、澄江さんじゃない」
もう一度、少し前へ戻す。
『二〇二六年。名前は……いや、残さない。世界樹を探している日本人が、ほかにも二人いるらしい。先に虹瀑へ向かう。音を食う霧がある。もし二人がこれを聞いたなら――』
激しい風音。
『歌うな。あの島では、音を出すほど道を失う』
記録はそこで切れた。
天幕の外で、風が幌を叩いた。
「同じ年」
ルナが言う。
「私たちと一緒に来た人かもしれない」
「どうして名前を隠したんだろう」
「分からない。でも、私たちのことを知ってる」
ミオは銀の箱へ触れた。
録音された歌は、人を強くしなかった。
けれど百七十年前の声と、名を隠した男の声は、二人の旅の向きを変えた。
音楽ではない声にも、人を動かす力がある。
その力と響応が何を違えるのか、ミオにはまだ分からなかった。
◇
その夜、二人は記録を三度聞いた。
一度目は日本語を懐かしむため。
二度目は欠けた言葉を拾うため。
三度目は、高橋澄江という人がどんな息で話しているかを知るためだった。
声には老いがあった。日本を離れて百年以上過ごした人の声だ。それでも童謡の最初だけ、少女のように音程が上がる。
「帰りたかったのかな」
ルナが訊く。
「帰れなかったのかも」
「それ、違う?」
「帰る方法がなくて帰れないのと、方法を見つけた後に帰らないのは違う」
ミオはまだ、自分の言葉が後の自分へ向くことを知らなかった。
二人は録音に合わせて歌わなかった。知らない人の声を、自分たちの響応で上書きしたくなかった。
《余響譜 02》 風待ちの宿
青燕号の負傷者を連れた商隊は、予定より半日遅れて〈風待ちの宿〉へ着いた。
宿は一本の巨大な石柱へ巻きつくように建っていた。幾層もの回廊から色とりどりの吹き流しが谷へ伸び、風向きが変わるたび、建物全体が低く歌った。
回廊の下には雲の海がある。
沈みかけた夕日が白い雲を桃色へ染め、遠い峰だけが島のように浮かんでいた。
ルナは手すりへ近づき、途中で足を止めた。
「落ちると思った?」
「思った」
「正直」
「ガレスに、できないことを隠すなって言われたから」
「じゃあ、手をつないで見よう」
ミオは返事を待たず、ルナの手首をつかんだ。二人で一歩ずつ進む。雲海から吹き上がる風は冷たく、足元の木板がわずかに震えた。
「海みたい」
「落ちても泳げないけど」
「今いいところだったのに」
宿の主人が熱い雲乳茶を二つ運んできた。表面へ薄い膜が張り、塩と蜂蜜の匂いがする。
「風待ちの夜は、焦った客ほど眠れん」
「明日も船、出ないんですか」
「風を急かせる金持ちは多いが、風が金を使う店はない」
主人は吹き流しを指した。赤、黄、青。長さも布も違い、同じ風を受けて別々の音を鳴らしている。
ルナは母と妹の食事について話した。母は安い食材で量を増やすのが上手く、妹は嫌いな野菜をルナの皿へ移す。学費、通院費、家賃。数字として話していた声が、オムライスの焦げ目の話になると柔らかくなった。
「仕事、嫌い?」
ミオが訊く。
「嫌いな日もある。でも、家にお金を入れた時は嬉しい。だから全部嫌だったことにしたくない」
「やめたい時も?」
「あるよ」
ルナは笑わずに答えた。
好きと苦しいは、同時にあっていい。その答えをミオは覚えた。
笑ったあと、ルナは手を離さなかった。
◇
宿は負傷者で埋まっていた。
ミオは湯を運び、ルナは包帯を折った。演奏を頼む者はいない。二人の力を知っているのは、まだガレスたちと青燕号の一部の乗客だけだった。
夜半、救助された少年ノアが熱を出した。
母親は墜落時に腕を骨折し、別室で眠っている。ルナは少年のそばへ座り、額の布を替え続けた。
「歌って」
ノアが言った。
「眠れない?」
「船で聞いた歌。お姉ちゃん、歌えるんでしょ」
ルナは迷った。
歌えば何かが起こるかもしれない。第一部では治癒術師の集中が増した。けれど、何が条件なのか分からない。
「今日は歌わない」
「どうして?」
「私の歌が、君の身体に何をするか分からないから」
「じゃあ、お話して」
ルナは妹の話をした。
朝はなかなか起きないこと。野菜を細かく刻めば食べるくせに、形が残っていると皿の端へ避けること。ルナの出演番組を友達へ自慢するのに、家では歌の途中で寝てしまうこと。
「会いたい?」
「会いたい」
今度は、笑わずに答えた。
ノアが眠ったあとも、ルナはしばらく椅子から動かなかった。
廊下で待っていたミオが、温い茶を差し出す。
「お母さんと妹、仲いいんだ」
「うん」
「そっか」
「ミオちゃんの家族は?」
雲海を渡る風が、窓枠を鳴らした。
「金には困ってない」
「そうじゃなくて」
「眠い。もう寝る」
ミオは会話を切り、先に歩いた。
客室へ戻る途中、宿の食堂から家族の笑い声が聞こえた。父親らしい男が、娘と息子へ同じ大きさの焼き菓子を分けている。
たったそれだけの光景から、ミオは目を逸らした。
ルナは追いついたが、もう尋ねなかった。
◇
明け方、宿の吹き流しが一斉に北を向いた。
見張り台の鐘が二度鳴る。
雲海の上を、一頭の雲鯨が低く飛んでいた。昨日見た群れの美しさはない。透明なひれは裂け、白い背から黒い杭が突き出している。
鯨が身をよじるたび、傷口から青い光がこぼれた。
宿の主人が呟いた。
「誘導杭だ。誰かが、空の道を壊そうとしている」
《余響譜 03》 傷ついた雲
雲鯨は宿の北側にある風受け塔へ身体を寄せた。
塔の羽根が止まり、宿から巡空隊が駆け出す。隊長イーラは腰へ命綱を結び、揺れる足場から鯨の背へ渡った。
「杭を抜けばいいの?」
ミオが尋ねる。
「力任せに抜けば出血する。先に術式を止める」
黒い杭は低い音を発していた。耳よりも胸骨へ響く音だ。雲鯨はそのたび北へ頭を向け、逃げようとして傷を広げる。
「音で動かしてる」
ミオは腰の旅嚢へ手を置いた。
「打ち消せる?」とイーラが聞く。
「分からない。試したら、もっと暴れるかもしれない」
以前なら、役に立てる可能性だけでギターを出していた。
「やめておく。今は構造を知ってる人に任せる」
イーラは一度だけうなずいた。
術師たちが杭を止め、刃を入れて周囲の硬化した組織を切る。ルナは湯と布を運び、ミオは足場の揺れを数えて声に出した。
鯨の身体が大きく沈むたび、足場の板が跳ねた。
「三つ揺れて、一つ休む!」
ミオは音程をつけず、観察した間隔を知らせる。ルナは術師たちの名前を確認し、道具を渡す順番を整理した。
響応は起きていない。
それでもイーラは、三度目の揺れで刃を止め、休止の一拍で位置を変えた。
「音楽じゃなくても、役に立つんだ」
ルナが言う。
「別に私、音楽しか数えられないわけじゃない」
「今ちょっと驚いてたでしょ」
「うるさい」
ミオは否定したが、胸の奥では認めていた。ギターを出さない判断が、何もしないことと同じではなかった。
「次、大きいのが来る。三、二、一」
作業員が同時に腰を落とす。
それは演奏ではない。響応も起きない。ただ、ミオができる仕事だった。
杭が抜けると、雲鯨は長い声を上げた。
青い血が雲へ落ち、雨になって宿の屋根を打った。
◇
回収された杭には、レイファ空港の工房印があった。
「技師ヴァルドの設計だ」
イーラは設計図を机へ置いた。
ヴァルドは辺境航路の主任技師だった。利用者が少ないことを理由に航路の廃止が決まり、抗議を続けていたという。
「雲鯨を都市航路へ集めて空港を止めれば、辺境航路の必要性を認めさせられる。そう考えたらしい」
「鯨を傷つけてまで?」
ルナの声が硬くなる。
「本来の杭は傷つけない。これは術式が違う」
杭の継ぎ目には、工房印とは別に、円を七本の線で割った刻印があった。
宿の主人が顔を曇らせる。
「聖律院の印だ」
「宗教?」
「昔は音楽と治療を教える院だった。今は、国々の争いを同じ律で鎮めると言っている」
同じ律。
ミオは杭の音を思い出した。雲鯨の意思とは関係なく、身体を一方向へ向ける音。
「ヴァルドが使われた可能性がある」
イーラは言った。
「だからといって、杭を置いた責任は消えない。だが、悪人を一人捕まえて終わる話でもない」
巡空隊はレイファへ急行することになった。
ドルトは商隊の荷を宿へ預け、足の速い二台だけを出す。
「二人は残ってもいい」
ミオとルナは顔を見合わせた。
「レイファの記録塔へ行く」
ミオが答える。
「危険が増えたぞ」
「だから、できることとできないことを先に決める。戦わない。勝手に演奏しない。逃げ道を確認する」
ドルトはしばらくミオを見た。
「ガレスは面倒なことを教えたな」
「教え方は最悪だったけど」
「なら、覚えているうちは役に立つ」
一行は傷ついた雲鯨を背に、山道へ出た。
黒い杭は布で包まれていたが、荷台の中でまだかすかに鳴っていた。
雲鯨はすぐには飛び立たなかった。
宿の風受け塔へ身体を預け、浅い呼吸を続けた。夜明け前、幼い雲鯨が二頭、遠くから戻ってきた。傷ついた個体の周囲を回り、翼を触れ合わせる。
ミオたちは出発を一刻遅らせた。
世界樹へ急ぐことより、飛び立てるのを見届ける方を選んだ。
白い巨体がようやく雲から離れると、宿の者たちは鐘を鳴らさず、布を振って送った。誘導杭の音を怖がらせないためだった。
音を鳴らさない別れを、二人は初めて見た。
《余響譜 04》 空に吊られた街
レイファは山頂にあるのではなかった。
三つの峰の間へ、無数の鎖と橋で吊られていた。
白い塔。風を受けて回る翼。雲へ突き出した船着き場。家々の下を雲が流れ、排水路から落ちた水が空中で細かな虹になる。
美しい、と口にするより先に、ミオは石畳の隙間から雲が見えることへ気づいた。
「下、見ないほうがいい」
「言うのが遅い!」
ルナがミオの腕へしがみつく。
だが街の人々に、空を眺める余裕はなかった。
空港閉鎖から三日。食料を積んだ船が入れず、広場には配給を待つ列ができている。住民用と足止めされた旅人用で窓口が分けられ、互いの列から怒声が飛んだ。
「旅人ばかり多く受け取っている!」
「金を払っているのに、なぜ住民の残りなんだ!」
配給係の声は風と怒鳴り声に消えた。
ルナが列を見つめる。
「手伝えるかも」
「歌うの?」
「歌わない。案内するだけ」
ルナは配給係から規則を聞き、木箱の上へ立った。
「小さなお子さんと怪我をしている方は、青い旗の列へお願いします! 住民の方は左、旅人の方は右です。受取量は同じです!」
声が広場を通った。
姿勢。息を吸う間。遠くの人へ顔を向ける順番。すべてが舞台で身につけた技術だった。
ルナは笑っていた。
人々の表情が少しずつ緩み、列が動き始める。
「さすがだね」
配給係が感心する。
「こういうの、慣れてるので」
誰も、ルナ自身が疲れていないかは尋ねなかった。
昼を過ぎても、彼女は箱の上に立っていた。
ミオは水を持っていく。
「休んだら」
「列がなくなったら」
「なくならないよ。船が止まってるんだから」
「じゃあ、次の人が来るまで」
「次の人も来ない」
ルナは笑顔を崩さなかった。
「私がやったほうが早いから」
ミオはその言葉を知っていた。
自分が弾いたほうがいい。自分の音が必要だ。誰かに任せて失敗するくらいなら、自分が続ける。
「それ、終わらないやつだよ」
ミオはルナの手から案内板を取った。
「文字、読めないでしょ」
「色は分かる。青は怪我人、左が住民、右が旅人。同じ量」
「声が届かない」
「届かなかったら、近くの人に繰り返してもらう」
ミオは箱へ上がり、最前列の男へ言った。
「後ろへ伝えて。青い旗は子どもと怪我人。左が住民、右が旅人」
男が後ろへ伝える。声は次の人、その次の人へ渡った。整ってはいない。途中で言葉も少し変わった。それでも列は動いた。
ルナは箱から下りた。
「私じゃなくても、できたんだ」
「何その残念そうな顔」
「残念じゃない」
そう答えた声には、安心と、わずかな寂しさが混じっていた。
◇
昼の配給が終わると、ルナは帳簿係を手伝った。
袋の数と札の数が合わない。係員は疲労で同じ列を二度数え、旅人用の箱へ住民用の札を入れていた。
「一度、全部止めましょう」
「止めれば外が怒る」
「間違ったまま続けた方が、あとで倍怒ります」
ルナは箱を空にし、色別に並べ直した。日本の仕事で、握手会の列、衣装の点数、移動時間を管理してきた経験だった。魔法ではない。アイドルだから身についた、目立たない技術だ。
ミオは水桶を運びながら、その手際を見ていた。
「ステージ以外でも働くんだ」
「失礼。ミオより帳簿には強いよ」
「私は音符なら数えられる」
「硬貨を音符で払わないでね」
笑った直後、倉庫の奥で札の束が見つかった。本来なら使い終えた印を刻むはずの札。どれにも印がなく、同じ番号が三枚ずつある。
夕方、配給倉庫から偽造された受取札が見つかった。
誰かが食料を横流ししているという噂が、広場を走った。
動き始めていた列が崩れ、人々が倉庫の扉へ押し寄せる。
「下がってください!」
ルナの声はもう届かなかった。
押された子どもが転ぶ。
ミオは木箱を両手で叩いた。
一度、二度、三度、四度。
水路でガレスたちへ届けたのと同じ、音程のない拍だった。
ルナがその拍へ言葉を載せる。
「止まって。下がって。前を、空けて」
広場の足音が、一瞬だけそろった。
全員が同じ方向へ身体を向けた。
あまりにも、きれいに。
ミオの背中を冷たいものが走った。




