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世界樹へ続く歌  作者: 猫病


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12/19

第二部 二話 箱に残された声

墜落船から持ち出された品は、毛布、飲み水、航路図、それから銀色の箱だった。

箱は夕食後、商隊の天幕で開けられた。中には薄い円盤と、ひび割れた共鳴石が収まっている。

「古い音声記録器だ」

ドルトが円盤を回した。

砂を擦るような音のあと、女の歌が流れた。

挿絵(By みてみん)

『夕焼け小焼けで、日が暮れて――』

ミオとルナが同時に顔を上げる。

百年以上前の異世界の夜に、日本の童謡が流れていた。

歌はところどころ欠けている。それでも旋律も言葉も知っていた。ルナの唇が無意識に続きをなぞり、ミオの指が膝の上で拍を取る。

だが、何も起こらなかった。

火の揺れ方も、周囲の呼吸も変わらない。

「響応しない」

ミオが呟く。

「録音だから?」

「分からない。でも、歌は聞こえてるのに」

童謡が終わり、女性の話し声へ変わった。

『これを聞く人が、私と同じ世界から来た人なら。私は高梨澄江。こちらではスミエ・タカナシと名乗っています』

ルナがミオの手首をつかんだ。

『私は帰る道を探しました。最果ての世界樹ユグドラシル、その樹冠に、異なる世界を結ぶ門がある。それが真実かどうか、私は確かめられませんでした』

声は老いていた。言葉を選ぶたび、長い息が混じる。

『レイファの記録塔へ、調べたことを預けます。続きは虹瀑群島の天水庭園へ。私はここで家族を持ちました。帰れなかったのか、帰らなかったのか。今でも、うまく説明できません』

音が途切れた。

ルナは箱を見たまま動かなかった。

「家族を持ったから、帰らなかったのかな」

「本人も分からないって言ってた」

「日本の家族は?」

「それも、分からない」

ルナの声が少し強くなる。

「分からないで済ませていいことなのかな」

ミオは答えなかった。

帰りを待つ家族を想像したとき、ルナの顔には具体的な人が浮かんでいる。母親と妹。食卓。狭い部屋。テレビの前。

ミオが思い浮かべた実家には、人より先に長い廊下と閉じた扉が現れた。


円盤が最後まで回り、針が同じ場所を擦り続ける。

その規則的な雑音の中へ、別の声が混じった。

『――これ、まだ動くのか』

若い男の日本語だった。

ミオが円盤を止める。

「今の、澄江さんじゃない」

もう一度、少し前へ戻す。

『二〇二六年。名前は……いや、残さない。世界樹を探している日本人が、ほかにも二人いるらしい。先に虹瀑へ向かう。音を食う霧がある。もし二人がこれを聞いたなら――』


激しい風音。

『歌うな。あの島では、音を出すほど道を失う』

記録はそこで切れた。

天幕の外で、風が幌を叩いた。

「同じ年」

ルナが言う。

「私たちと一緒に来た人かもしれない」

「どうして名前を隠したんだろう」

「分からない。でも、私たちのことを知ってる」

ミオは銀の箱へ触れた。

録音された歌は、人を強くしなかった。

けれど百七十年前の声と、名を隠した男の声は、二人の旅の向きを変えた。

音楽ではない声にも、人を動かす力がある。

その力と響応が何を違えるのか、ミオにはまだ分からなかった。



その夜、二人は記録を三度聞いた。

一度目は日本語を懐かしむため。

二度目は欠けた言葉を拾うため。

三度目は、高橋澄江という人がどんな息で話しているかを知るためだった。

声には老いがあった。日本を離れて百年以上過ごした人の声だ。それでも童謡の最初だけ、少女のように音程が上がる。

「帰りたかったのかな」

ルナが訊く。

「帰れなかったのかも」

「それ、違う?」

「帰る方法がなくて帰れないのと、方法を見つけた後に帰らないのは違う」

ミオはまだ、自分の言葉が後の自分へ向くことを知らなかった。

二人は録音に合わせて歌わなかった。知らない人の声を、自分たちの響応で上書きしたくなかった。


《余響譜 02》 風待ちの宿


青燕号の負傷者を連れた商隊は、予定より半日遅れて〈風待ちの宿〉へ着いた。

宿は一本の巨大な石柱へ巻きつくように建っていた。幾層もの回廊から色とりどりの吹き流しが谷へ伸び、風向きが変わるたび、建物全体が低く歌った。

回廊の下には雲の海がある。

沈みかけた夕日が白い雲を桃色へ染め、遠い峰だけが島のように浮かんでいた。

挿絵(By みてみん)

ルナは手すりへ近づき、途中で足を止めた。

「落ちると思った?」

「思った」

「正直」

「ガレスに、できないことを隠すなって言われたから」

「じゃあ、手をつないで見よう」

ミオは返事を待たず、ルナの手首をつかんだ。二人で一歩ずつ進む。雲海から吹き上がる風は冷たく、足元の木板がわずかに震えた。

「海みたい」

「落ちても泳げないけど」

「今いいところだったのに」

宿の主人が熱い雲乳茶を二つ運んできた。表面へ薄い膜が張り、塩と蜂蜜の匂いがする。

「風待ちの夜は、焦った客ほど眠れん」

「明日も船、出ないんですか」

「風を急かせる金持ちは多いが、風が金を使う店はない」

主人は吹き流しを指した。赤、黄、青。長さも布も違い、同じ風を受けて別々の音を鳴らしている。

ルナは母と妹の食事について話した。母は安い食材で量を増やすのが上手く、妹は嫌いな野菜をルナの皿へ移す。学費、通院費、家賃。数字として話していた声が、オムライスの焦げ目の話になると柔らかくなった。

「仕事、嫌い?」

ミオが訊く。

「嫌いな日もある。でも、家にお金を入れた時は嬉しい。だから全部嫌だったことにしたくない」

「やめたい時も?」

「あるよ」

ルナは笑わずに答えた。

好きと苦しいは、同時にあっていい。その答えをミオは覚えた。

笑ったあと、ルナは手を離さなかった。



宿は負傷者で埋まっていた。

ミオは湯を運び、ルナは包帯を折った。演奏を頼む者はいない。二人の力を知っているのは、まだガレスたちと青燕号の一部の乗客だけだった。

夜半、救助された少年ノアが熱を出した。

母親は墜落時に腕を骨折し、別室で眠っている。ルナは少年のそばへ座り、額の布を替え続けた。


「歌って」

ノアが言った。

「眠れない?」

「船で聞いた歌。お姉ちゃん、歌えるんでしょ」

ルナは迷った。

歌えば何かが起こるかもしれない。第一部では治癒術師の集中が増した。けれど、何が条件なのか分からない。

「今日は歌わない」

「どうして?」

「私の歌が、君の身体に何をするか分からないから」

「じゃあ、お話して」

ルナは妹の話をした。

朝はなかなか起きないこと。野菜を細かく刻めば食べるくせに、形が残っていると皿の端へ避けること。ルナの出演番組を友達へ自慢するのに、家では歌の途中で寝てしまうこと。

「会いたい?」

「会いたい」

今度は、笑わずに答えた。

ノアが眠ったあとも、ルナはしばらく椅子から動かなかった。

廊下で待っていたミオが、温い茶を差し出す。

「お母さんと妹、仲いいんだ」

「うん」

「そっか」

「ミオちゃんの家族は?」

雲海を渡る風が、窓枠を鳴らした。

「金には困ってない」

「そうじゃなくて」

「眠い。もう寝る」

ミオは会話を切り、先に歩いた。

客室へ戻る途中、宿の食堂から家族の笑い声が聞こえた。父親らしい男が、娘と息子へ同じ大きさの焼き菓子を分けている。

たったそれだけの光景から、ミオは目を逸らした。

ルナは追いついたが、もう尋ねなかった。



明け方、宿の吹き流しが一斉に北を向いた。

見張り台の鐘が二度鳴る。

雲海の上を、一頭の雲鯨が低く飛んでいた。昨日見た群れの美しさはない。透明なひれは裂け、白い背から黒い杭が突き出している。

鯨が身をよじるたび、傷口から青い光がこぼれた。

宿の主人が呟いた。

「誘導杭だ。誰かが、空の道を壊そうとしている」


《余響譜 03》 傷ついた雲


雲鯨は宿の北側にある風受け塔へ身体を寄せた。

塔の羽根が止まり、宿から巡空隊が駆け出す。隊長イーラは腰へ命綱を結び、揺れる足場から鯨の背へ渡った。

「杭を抜けばいいの?」

ミオが尋ねる。

「力任せに抜けば出血する。先に術式を止める」

黒い杭は低い音を発していた。耳よりも胸骨へ響く音だ。雲鯨はそのたび北へ頭を向け、逃げようとして傷を広げる。

「音で動かしてる」

ミオは腰の旅嚢へ手を置いた。

「打ち消せる?」とイーラが聞く。

「分からない。試したら、もっと暴れるかもしれない」

以前なら、役に立てる可能性だけでギターを出していた。

「やめておく。今は構造を知ってる人に任せる」

イーラは一度だけうなずいた。

術師たちが杭を止め、刃を入れて周囲の硬化した組織を切る。ルナは湯と布を運び、ミオは足場の揺れを数えて声に出した。

鯨の身体が大きく沈むたび、足場の板が跳ねた。

「三つ揺れて、一つ休む!」

ミオは音程をつけず、観察した間隔を知らせる。ルナは術師たちの名前を確認し、道具を渡す順番を整理した。

響応は起きていない。

それでもイーラは、三度目の揺れで刃を止め、休止の一拍で位置を変えた。

「音楽じゃなくても、役に立つんだ」

ルナが言う。

「別に私、音楽しか数えられないわけじゃない」

「今ちょっと驚いてたでしょ」

「うるさい」

ミオは否定したが、胸の奥では認めていた。ギターを出さない判断が、何もしないことと同じではなかった。

「次、大きいのが来る。三、二、一」

作業員が同時に腰を落とす。

挿絵(By みてみん)

それは演奏ではない。響応も起きない。ただ、ミオができる仕事だった。

杭が抜けると、雲鯨は長い声を上げた。

青い血が雲へ落ち、雨になって宿の屋根を打った。



回収された杭には、レイファ空港の工房印があった。

「技師ヴァルドの設計だ」


イーラは設計図を机へ置いた。

ヴァルドは辺境航路の主任技師だった。利用者が少ないことを理由に航路の廃止が決まり、抗議を続けていたという。

「雲鯨を都市航路へ集めて空港を止めれば、辺境航路の必要性を認めさせられる。そう考えたらしい」

「鯨を傷つけてまで?」

ルナの声が硬くなる。

「本来の杭は傷つけない。これは術式が違う」

杭の継ぎ目には、工房印とは別に、円を七本の線で割った刻印があった。

宿の主人が顔を曇らせる。

「聖律院の印だ」

「宗教?」

「昔は音楽と治療を教える院だった。今は、国々の争いを同じ律で鎮めると言っている」

同じ律。

ミオは杭の音を思い出した。雲鯨の意思とは関係なく、身体を一方向へ向ける音。

「ヴァルドが使われた可能性がある」

イーラは言った。

「だからといって、杭を置いた責任は消えない。だが、悪人を一人捕まえて終わる話でもない」

巡空隊はレイファへ急行することになった。

ドルトは商隊の荷を宿へ預け、足の速い二台だけを出す。

「二人は残ってもいい」

ミオとルナは顔を見合わせた。

「レイファの記録塔へ行く」

ミオが答える。

「危険が増えたぞ」

「だから、できることとできないことを先に決める。戦わない。勝手に演奏しない。逃げ道を確認する」

ドルトはしばらくミオを見た。

「ガレスは面倒なことを教えたな」

「教え方は最悪だったけど」

「なら、覚えているうちは役に立つ」

一行は傷ついた雲鯨を背に、山道へ出た。

黒い杭は布で包まれていたが、荷台の中でまだかすかに鳴っていた。

雲鯨はすぐには飛び立たなかった。

宿の風受け塔へ身体を預け、浅い呼吸を続けた。夜明け前、幼い雲鯨が二頭、遠くから戻ってきた。傷ついた個体の周囲を回り、翼を触れ合わせる。

ミオたちは出発を一刻遅らせた。

世界樹へ急ぐことより、飛び立てるのを見届ける方を選んだ。

白い巨体がようやく雲から離れると、宿の者たちは鐘を鳴らさず、布を振って送った。誘導杭の音を怖がらせないためだった。

音を鳴らさない別れを、二人は初めて見た。


《余響譜 04》 空に吊られた街


レイファは山頂にあるのではなかった。

三つの峰の間へ、無数の鎖と橋で吊られていた。

白い塔。風を受けて回る翼。雲へ突き出した船着き場。家々の下を雲が流れ、排水路から落ちた水が空中で細かな虹になる。

挿絵(By みてみん)

美しい、と口にするより先に、ミオは石畳の隙間から雲が見えることへ気づいた。

「下、見ないほうがいい」

「言うのが遅い!」

ルナがミオの腕へしがみつく。

だが街の人々に、空を眺める余裕はなかった。

空港閉鎖から三日。食料を積んだ船が入れず、広場には配給を待つ列ができている。住民用と足止めされた旅人用で窓口が分けられ、互いの列から怒声が飛んだ。

「旅人ばかり多く受け取っている!」

「金を払っているのに、なぜ住民の残りなんだ!」

配給係の声は風と怒鳴り声に消えた。

ルナが列を見つめる。

「手伝えるかも」

「歌うの?」

「歌わない。案内するだけ」

ルナは配給係から規則を聞き、木箱の上へ立った。

「小さなお子さんと怪我をしている方は、青い旗の列へお願いします! 住民の方は左、旅人の方は右です。受取量は同じです!」

声が広場を通った。

姿勢。息を吸う間。遠くの人へ顔を向ける順番。すべてが舞台で身につけた技術だった。

ルナは笑っていた。

人々の表情が少しずつ緩み、列が動き始める。

「さすがだね」

配給係が感心する。

「こういうの、慣れてるので」

誰も、ルナ自身が疲れていないかは尋ねなかった。

昼を過ぎても、彼女は箱の上に立っていた。

ミオは水を持っていく。

「休んだら」

「列がなくなったら」

「なくならないよ。船が止まってるんだから」

「じゃあ、次の人が来るまで」

「次の人も来ない」

ルナは笑顔を崩さなかった。

「私がやったほうが早いから」

ミオはその言葉を知っていた。

自分が弾いたほうがいい。自分の音が必要だ。誰かに任せて失敗するくらいなら、自分が続ける。

「それ、終わらないやつだよ」


ミオはルナの手から案内板を取った。

「文字、読めないでしょ」

「色は分かる。青は怪我人、左が住民、右が旅人。同じ量」

「声が届かない」

「届かなかったら、近くの人に繰り返してもらう」

ミオは箱へ上がり、最前列の男へ言った。

「後ろへ伝えて。青い旗は子どもと怪我人。左が住民、右が旅人」

男が後ろへ伝える。声は次の人、その次の人へ渡った。整ってはいない。途中で言葉も少し変わった。それでも列は動いた。

ルナは箱から下りた。

「私じゃなくても、できたんだ」

「何その残念そうな顔」

「残念じゃない」

そう答えた声には、安心と、わずかな寂しさが混じっていた。



昼の配給が終わると、ルナは帳簿係を手伝った。

袋の数と札の数が合わない。係員は疲労で同じ列を二度数え、旅人用の箱へ住民用の札を入れていた。

「一度、全部止めましょう」

「止めれば外が怒る」

「間違ったまま続けた方が、あとで倍怒ります」

ルナは箱を空にし、色別に並べ直した。日本の仕事で、握手会の列、衣装の点数、移動時間を管理してきた経験だった。魔法ではない。アイドルだから身についた、目立たない技術だ。

ミオは水桶を運びながら、その手際を見ていた。

「ステージ以外でも働くんだ」

「失礼。ミオより帳簿には強いよ」

「私は音符なら数えられる」

「硬貨を音符で払わないでね」

笑った直後、倉庫の奥で札の束が見つかった。本来なら使い終えた印を刻むはずの札。どれにも印がなく、同じ番号が三枚ずつある。

夕方、配給倉庫から偽造された受取札が見つかった。

誰かが食料を横流ししているという噂が、広場を走った。

動き始めていた列が崩れ、人々が倉庫の扉へ押し寄せる。

「下がってください!」

ルナの声はもう届かなかった。

押された子どもが転ぶ。

ミオは木箱を両手で叩いた。

一度、二度、三度、四度。

水路でガレスたちへ届けたのと同じ、音程のない拍だった。

ルナがその拍へ言葉を載せる。

「止まって。下がって。前を、空けて」

広場の足音が、一瞬だけそろった。

全員が同じ方向へ身体を向けた。

あまりにも、きれいに。

ミオの背中を冷たいものが走った。


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